第4章 国府動乱 (3)影を掴む

 高向大足が初夏に下総国に赴任して以来、三回目となる郡司たちの宴が開かれていた。参加者はほとんど大領と少領の身内であり、その中には大私部勝も含まれていた。

 大領を中心としてその隣に妻の大刀自おおとじと息子の徳麻呂、壁づたいに少領家や大領と近しい者たちが並ぶ。

 末席に近い場所で料理をつついていた勝は、葛飾大刀自かつしかのおおとじが相変わらずやや豊満気味の体を豪華な装飾品で着飾っているのを見て、内心で冷笑した。自分から見て世話になっている叔母ではあるが、ちょっと分不相応な服飾なのだから仕方ない。

「しばらく会ってなかったな、勝。医学舎にこもりっぱなしか?」

 目の前に胡座をかいて座ったのは大領の息子、つまり勝の従兄である徳麻呂だ。

「数ヵ月したら最終試験だからさ。君こそ軍団で派手にやってるってね。兵士たちに恐れられてるんだろうな」

「ナメられるのが一番困るからな」

 医人と武人という全く異なる道を歩んできた二人だが、子供の頃から兄弟のように育ってきており、気心の知れた仲なのだった。筆頭医人である勝の父親も宴席に出ていて、今は少領たちと酒を交わしているようだ。

「そうそう、お前、賎民の女に指導してるんだってな。国守の思い付きってやつ?」

「いや、本人が願い出たらしいけど、僕にはいい迷惑だよ。何かにつけて反抗的だし、脱走もしたんだ」

 勝は日頃の気苦労や今までの不愉快な出来事を酒のつまみに従兄に語ってやった。

「相当生意気な小娘じゃないか」

「早く年末の試験に及第して、平城の都に旅立ちたいね。僕の能力は賎民の教育でなくて、もっと然るべき目的のために使われないと」

「そりゃそうだ! 今でもなかなか大嬢おおいらつめに会えてないんだろ。それで都に行くんだったら、やっぱり連れていくしかないよな」

 大嬢というのは、勝の恋人のことだ。刑部結おさかべのゆいと言う名だが、大嬢で通っている。大領の妾の娘なのでやはり従妹に当たるが、妾とその娘ということで大刀自に憚ってあまり表には出てこない。

「まぁ、そういう流れになるのかなぁ」

 他人事のように言うのも仕方がない。勝と結は自然に付き合うようになってはいたものの、はっきりと将来を言い交わしている仲ではないのだ。しかし、周りの人々からは、勝が医人になった暁には二人が正式に夫婦になるものだと思われている。

(最後に共寝したのはひと月前だったか…… 近いうちに結のところへ忍んで行こう)

 物静かな母親と似ていて結も我儘など言わないし、床の中でも可憐な野の花のようにかわいらしい。

 しばし恋人の面影を思い出していた勝に、徳麻呂が不満を吹っ掛けてきた。

「あの新しい国守が来てから親父の権限が弱くなっちまってよ。租の徴収もむやみにできないし、使役も届け出ないといけないし、窮屈でやってらんねぇ。うちは代々この土地を支配してきた豪族なんだぜ? それを平城から来た余所者に口出しされてたまるか!」

「まぁ、それは言えてるね。僕も高向様はちょっと変人だと思う。父や祖父はかなりの高官だったみたいだけど。徳麻呂の親父さん、前国守と交信は続けてるの?」

 最後の言葉は声を潜めて訊いてみた。ほとんど政治というか国内統治に関与しない医人や医生にはわからないことが多いが、郡司たちは前国守の佐伯百足とは随分上手くやっていたのではなかったか。

「ああ、佐伯様とは今でも繋がりはあるよ。あの人のお蔭で大私部家は安泰だ。高向大足がこれ以上余計な横槍を入れて来なければ言うことなしなんだが。で、ここだけの話、お前が医人になったら佐伯様のつてで平城へ行かせてもらえるらしいぞ」

 漬物をつまんでいた手が思わず止まった。

「それってちゃんと典薬寮で勤められるってことだよね?」

「もちろん。佐伯様は太政官につてがあって推挙してくださるらしい。そしたらお前は行く行くは典薬寮の医博士どころか内薬司うちのくすりのつかさの侍医だって夢じゃないぜ」

「侍医?! そいつは凄いな」

 ただ下総国でなく平城の都で出世し、王や貴人に取り立ててもらい名声を得ようという野心を抱いていた勝は、さらに上をいく可能性を示唆されて少なからず驚いた。侍医というのは言うまでもなく、天皇の専属の医人だ。

 どういうことだと勝は首を傾げた。もちろん、典薬寮でさらに修業したいと願う勝としては、ありがたい路線である。しかし、前国守は勝を平城に送って何か得をするのだろうか。

「俺の弟や少領の息子たちが佐伯様の資人として平城に出てるのは知ってるだろ?」

「うん、まぁ」

「妹も采女として取られたのも、実は佐伯様の推薦だったんだ。つまり、お前もその一環で医人になったら都に行けるってわけ。国守はこうやって赴任先に繋がりを持っておくのが常識らしいぜ」

 元国守は良い人材を手元に集め、それをさらに上位の貴人や王族に差し出すことによって見返りを得られる。他にも現地から私的に物資や特産物を調達することができるという経済的な利点も大きい。その代りに郡司の子弟は都での箔をつけて地元に帰り、郡司や在庁官人となる道が用意されているのだ。

「お互いに美味しい話ってわけか。それなら納得いくね」

 勝は思いがけない展望を得てほくそ笑んだ。日頃の苦労が報われる時は確実に近づいている。

「それにな、俺たち葛飾の大私部家はもっと凄い役割を負ってるんだぜ」

 徳麻呂は一層声を落として勝にだけ聞こえるようにそう言った。凄い役割とは何だろう。一気に好奇心が湧いてきた。しかし――

「おい、徳麻呂! 母殿がお呼びだ!」

 広間によく響く声で、大領が息子を呼びつけた。大刀自の機嫌を損ねたら息子でも手におえない。

「悪い、勝。また今度、酒が入ってない静かな席で話すからよ」

「わかった」

 従兄が席を離れてしまうと、勝は自分の父親の元に行って共に飲み始めた。


 木葉と綾苅と勝がひと騒動起こしていたころ、佐久太を通じて国守から二つの調査を依頼されていた若者たちがいた。

 大柄の仲間の後方を歩きながら、阿弥太は愛しい娘の凛とした美しい横顔に見とれていた。

 月が雲から顔を出すと、くっきりと目元や形の良い鼻筋が照らし出される。

「どうしたの? 私のことなら心配しないで。怖くないわ。それに、真熊は兵士だしね」

 枳美が小声で隣を歩く阿弥太に告げた。

 夜中に三人が出歩くことになったのは、入江に出没するという手児奈の亡霊に会うためである。

「里では怪しい修行者がいて、弟に術をかけたのよ! もしかしたら亡霊も……」

 たぶん三人の中で一番亡霊狩りに意気込んでいるのは枳美だろう。というのも、先日、枳美は奇妙な発見をしていたからだ。


 話は五日ほど前に遡る。阿弥太は鍛治工房にやってきた佐久太から、密かに市場で売り物の価格調査と聞き取りを行ってほしいと伝えられた。

「密かに、ってことは変装しなきゃいけないのかな」

「ははは、そういう意味じゃないよ。さり気なく程度に思ってくれれば」

「了解です」

 そして佐久太は少し重い小袋を阿弥太に手渡した。

「これ、銭じゃないですか」

「十文だよ。もし調査のために必要だったらそこから使っていいから。余ったら返却ね」

 阿弥太は小袋を大事に懐にしまった。官戸の阿弥太が一度に手にすることがない額だ。

 正午の鐘で仕事が終わると、阿弥太はその足で小川を挟んで反対側にある織物工房に向かった。枳美の事件があってから彼女を守ろうと誓った阿弥太は毎日必ず織物工房に寄るのだ。枳美は枳美で仲間が護衛してくれることを快く受け入れ、習慣のように戸口付近に立って迎えが来るのを待っている。

 今日も枳美と合流すると、阿弥太は国守からの依頼を手短に話して二人で市場に行くことにした。

「あんまり調査してることがわかったら良くないから自然な感じでいこう」

「うん」

 佐久太によれば、遊行女婦から市で売っている化粧品が高くなっているという不満が出たらしい。

「本当は姉さんの方が市場の調査は適切だったかも。厨女でしょ、市場によく買い物に行ってたから」

「そうか。でも今は木葉は医学舎に拘束されてるもんなぁ。ま、気楽にね」

 国府の市場は国府に続く大通りの西側、太日川の港に面して設営されている。下総国にはこれといった特産物がないので珍しいものは他の国から運ばれて市場に並ぶことが多い。ほとんど市場に来ることのない阿弥太は興味深そうに眺めながら歩いた。

「白粉と口紅はこの店よ。ああ、遊行女婦はこんなきれいなものを使えるのね」

 枳美は溜息をついた。ほぼ死ぬまで橡色の衣しか身にまとえず、装飾品も持てるかどうかわからない。木葉はこっそり綾苅にもらった石英の首飾りを未だに身につけているが、そういう例は稀だろう。

 店の前に立っていると、店の女が声を掛けてきた。

「ご主人の買い物かい?」

「あ、ええ、まぁ。手頃な品で良いのですが……」

「手頃な品なんかないよ。ここにあるのはみんな高価なもの。前より高いけど、どうしても使いたいなら諦めて買っておくれよ」

 枳美は阿弥太を窺った。一つずつ買うとそれだけで五文もする。

「実はうちの大刀自が化粧品が高くなったって言っても信じてくれなくてさ、俺が差額の銭をくすねたって思われるのは癪だから、どうして高くなったか教えてくれない?」

「そりゃ気の毒だね。高くなった理由は、簡単さ。原料が足りないから少ししか作れない」

「原料ですか?」

「白粉は鉛、口紅は呉藍の花(紅花)だよ。半年くらい前から化粧品まで鉛や呉藍の花が回ってこなくなっちゃったのさ。それで、あんたら買うの、買わないの?」

 店主に迫られた阿弥太は、もう一度主人に現状を伝えてみると言ってその場を離れた。意外と当初の任務はあっさりと片付いてしまったが、とりあえず市場全体の様子も見なければなるまい。

 立ち並ぶ店の角を曲がって食材の区画に向かおうとした時、ちょっとした事件が起きた。懐に銭袋をしまおうとして少し視線を下に下したところ、角を急ぎ足で曲がってきた男と衝突し、袋を落としてしまったのだ。運の悪いことに、袋の口の紐が緩んでいて中の銭が全て地面にばら撒かれてしまった。それだけではなく、衝突した男にも同じことが起こり、袋から飛び出した銭は一瞬にして混ざった。

「あっ、しまった」

 男が急いで銭をかき集め始めたので、阿弥太も慌ててしゃがみ自分の落としたと思われる銭を拾う。

「前向いて歩け、賤民」

 落した分の銭をきっちり回収した男は阿弥太に悪態をついて、そのまま立ち去って行った。

「ひどいわね。突進してきたのはあっちの方なのに!」

「まぁ、下を向いてた俺も悪かったよ」

「一文、二文、三文……」

 枳美は銭をつまんで数えながら袋に戻していった。この時、阿弥太は枳美が枚数を確認してくれたことに安心したのだが、枳美は何か違和感を抱きつつ食材の通りに移動した。

 そこでわかったことは、米と塩の価格もわずかに上昇しているということだった。その理由は化粧品と同じ品薄になる時があるからである。

「需要に波があるのかしら」

「どういうことか、一回来ただけじゃちょっとわからないなぁ」

 次に食材の通りの裏側に移動した。ここは布や日用品を扱う店が並んでいる。

早速、枳美は阿弥太の手を引きながらある店の前に進んだ。それは無意識のちょっとした仕草だったが、枳美を好いている男にとっては幸せな瞬間だった。

「染料? これがどうかしたの?」

「あ、私いつも機織りしてるけど、どういうもので綺麗な色に染められるのか興味があって…… ごめんなさい、寄り道ね」

 確かに工房は完全に分業体制で、枳美の織る丁寧な絹織物がどうやって染められるのか自分にはわからないのだ。阿弥太は喜んで寄り道に付き合った。自然に買い物に来たように見えるのが大事なのだ!

「何か探してるのかね?」

 店主の親父が店の奥から顔をのぞかせた。枳美は当たり障りのないことを訊いてみた。

「こんにちは。秋の衣を作るよう言われて、どんな染料があるか見に来たの」

 すると親父は意外なことを告げた。

「あいにく、アカネとウコンとアイくらいしかないよ。ムラサキ、エンジムシ、貝紫、呉藍は品薄でね」

「えっ、そうなんですか。採れないってことかしら」

「いいや、なぜかどんどん買われてしまったからだよ。高級品なのに」

 高価な染料を買うとなればそれなりの地位の者が必要としてるのではと思い、阿弥太は国府や郡家が買い付けているのかと尋ねた。しかし、官吏ではないという。

「公的に仕入れるならきちんと証書もくれるが、そいつらはわしは見たことない顔だったねぇ」

 ということは複数の人たちがそれぞれ高価な染料を買っていて、そのために店先にない状態になっているということだ。

「仕方ないな。出直します」

「そうした方がええ」

 阿弥太は店から去ろうとしたが、枳美がしゃがんで何かまだ見ている。壺に液体が入っているようだ。

「それは?」

「ううん、何かなと思って見てたの」

「これは染料を布に定着させる汁だよ。ほれ」

 よほど暇らしい店の親父は壺の蓋を開けて枳美に差し出した。中身をよく見ようとした枳美が壺に顔を近付けたとたん――

「嫌っ!」

 突然、枳美が叫んで阿弥太の首にすがり付いてきた。それを見た店の親父はすごい臭いだろうと笑っているが、枳美の様子が尋常ではないのが阿弥太にはわかった。

 枳美の叫び声は恐怖を含んでいたし、今も体を震わせながら阿弥太にしがみついている。

「枳美、大丈夫?! 親父さん、その壺買うよ。いくら?」

「おう、二文だよ」

 意外と高いと思ったが、枳美の様子を考えるとその壺は引き取って国守に見せるべきだ。二文支払うと、阿弥太は目尻に涙を浮かべている枳美を抱きかかえながら一度市場を離れた。ひどい臭いに衝撃を受けただけではないだろう。

 少し開けた広場まで歩いて枳美を木陰で休ませる。

「どうしたのか俺に話せる?」

「……その壺の汁、私を襲った人と同じ臭いがしたの」

「えっ」

 驚きながらも、枳美の異様な怯えの理由がわかった。実際、臭いは強いがそれで激しく嫌がるようなものではないのだ。

「てことは、あの親父が犯人?!」

「違うわ。もっと声が若くて細身だったもの」

「うーん、そっか。でも、かなり有力な手掛かりが掴めたね。この汁を使う人の中で若くて細身って人はかなり限られるはずだよ」

 しばらく阿弥太の手を握っていた枳美が落ち着くと阿弥太は枳美の自宅まで送り、国守館の前で大足の帰りを待った。


「……気が動転していたら、確かに柑橘類の匂いと思うのも無理はないね」

 大足は正殿に招き入れた阿弥太から壺を受け取って、臭いをかいだ後そう感想を述べた。

「とりあえず、国府の織物工房の織手をふるいにかけよう。分業とは言え、枳美に目をつけていた奴がいてもおかしくはないからな」

 阿弥太はそれから市場の様子を報告した。

「枳美のことがあったので、全体を見ることができていません。次に市が立つ日にまた調べます」

「それには及ばない。少目の報告で補えるから今日の調査で十分だよ、ありがとう。しかし……」

「国守様、何かありましたか?」

 大足は話を中断し、じっと壺を見つめながらしばし思案顔になった。

「ああ、いや、すまん。とにかく重要な報告に感謝する。枳美をいたわってあげなさい」

「はい、もちろんです」

 翌朝、枳美を自宅に迎えに行った阿弥太は昨日とは別人のように顔色のよいハキハキとした枳美をみることになった。

「阿弥太、あのね、私ちょっと気付いたことがあるの。昨日の銭はもう国守様に返してしまった?」

「うん。報告のついでに。銭がどうかした?」

「うん、昨日、市の角で人とぶつかって銭を落としたでしょう? その後拾った時に模様がちょっと違うものがあった気がするの。銭はそういうものなのかしら。もし国守様から預かった銭と違うものをお返ししていたら良くないんじゃないかと思って」

「国守様のとこに行って袋を見せてもらおうか?」

 それぞれの工房に出勤する前に国庁に寄り、国守との面会を求めた。佐久太を掴まえれば話が早いのだ。

 少しだけなら時間が取れると言われた阿弥太たちは急いで面会の間に向かった。

「すみません急に。昨日お返しした銭袋をちょっと見せていただけませんか?」

「ああ、それなら佐久太に管理してもらってるよ」

 佐久太は一度退出し、再び袋を持って現れた。袋を受け取って中身を確かめると果たして枳美の言う通り二種類の銭に分けることができたのだった。

「国守様、実は市で――」

 枳美が昨日の衝突事件のことを話し、その時に二種類の銭が混ざってしまったのではないかと推測を伝えた。ところが、それを聞いた大足は毎朝の評議を国介に任せて大掾を呼ぶよう佐久太に指示した。

「とうとう出てしまいましたか」

 銭を摘まんで見比べた大掾はこう漏らした。何やら亡霊が出たみたいな言い方だが、枳美が二種類の銭だと思っていたのは私鋳銭、つまり偽金だった。

「枳美、手柄だよ。私が阿弥太に渡した十文は真正の和同開珎だから見かけの違う銭があるということは、それは偽物ってことなんだ」

「私鋳銭は特に厳しく取り締まらないといけません。斬刑ですから」

「そうなんですか?!」

「よく見分けられたね」

「私にはとても珍しいものだから、じっと見てしまったんです。模様の四角い部分が線が切れているのと繋がってるのがあるなと…… あと、銭の横がでこぼこしてるし」

 文字の読めない枳美は銭に浮かび上がっている和同開珎を模様だと思ったのだ。文字が切れていて周りの凹凸が目立つのは確かに官製の和同開珎ではない。

「俺、全然気が付かなかったよ。枳美は目がいいんだね」

「たぶん機織りで、いつも細かい模様を見たり、手触りで模様を確認したりするから癖みたいになってたのよ」

 枳美がはにかむと場の雰囲気が軽くなる。その身は常に橡色の衣に包まれていても、微笑みは冬が終わりかけた時期に顔を見せた日の光のようだと阿弥太は思った。だからこそ、こんなに美しく清らかな娘を汚した男を赦す余地などなかった。

 それから大掾からいくつかの質問に答えて、阿弥太と枳美はそれぞれの工房に向かった。

 枳美は思いがけない手柄を国司から誉められ、いくらか自信をつけたようだった。そしてその日の仕事が終わると、手児奈の亡霊探しもがんばりましょうと意気込んで阿弥太を見上げたのだった。


 そういうわけで今、真熊を先頭に(あるいは盾にして、とも言う)阿弥太と枳美は月明かりの下で入江を歩いている。

 枳美は事件解決に意気込んでいるし、真熊はもともと気性が荒いのでこういう胆試しみたいなことに物怖じしない。前方から下手くそな鼻唄まで聞こえる。阿弥太はというと怖いとまでは思わないがあまり積極的には動きたくないなという感じだ。

 それにしても新しい国守が来てから色んなことが起きている気がする。けれども、基本的には自分の仕事だけをしていれば良い賤民が、うっかり前国守の圧政に対して立ち上がってしまったばかりに新国守の耳目や手足となって働いているというのはおかしなことだ、と阿弥太は心の中で笑った。だからこそ今まで知らなかったことに出くわしているのかもしれない。

「おい、確かこの辺りって言ってたよな」

 真熊が松明を掲げて入江を照らした。国守は軍団長から亡霊の噂を詳しく聞き出して、阿弥太たちに伝えていた。月明かりがある時に出やすいらしい。

「子供の頃はよく入江の洞穴に隠れて遊んだなぁ」

 入江にはそれほど高くはないが崖が立っている。これの上に国府があるのだ。そして崖の側面には太古の昔に削られてできたらしい穴が点在している。確かに子供たちが面白がって出入りしそうな穴だ。

「手児奈はどの辺で入水したのかしら……」

「もっと奥の方じゃないかな」

 三人は一つ一つの洞穴を松明で照らしながら覗き、入江の奥へ進んだ。時々黒い小さな影が飛び出してきて阿弥太の肝を冷やしたがそれは洞穴に住み着いている蝙蝠だった。

 とうとう最後の洞穴に近づいた。今日は亡霊の機嫌が良くなくて出てこないのかもね、と枳美が阿弥太に囁いたその時、真熊がしっと人差し指を口に当てて注意を促した。

「何か中から出てきたぞ」

 それは白っぽい何かの大きな塊で、ゆらゆらと不規則に移動しながら洞穴の前を漂っていた。漂うというよりも這うという表現の方が相応しいかもしれない。

 崖際に身を寄せて様子を窺うと、亡霊らしきものがこちらに向かって動き出した。

「マズいよ、真熊。こっち来るよ」

「声出すな。……あれ、マジで手児奈かもしれない。若い女に見える」

 夜目の利く真熊はじっと亡霊を観察している。そして、ここを動くなと背後の二人に言い残すと、突然亡霊に突進していった。いつでも斬れるように右手は左の腰の刀に当てられている。

「おい、手児奈! なんでこの世に出てくるんだ?! 何が望みだ?!」

 手児奈の亡霊は一瞬怯んだらしく動きが止まり、後ずさりながら「近付くと呪うぞ」と低い声で呻いている。

 むろんそれしきのことで怯える真熊ではなく、刀を抜いて亡霊の前に躍り出た。

「やっ、止めてっ――」

 先程とは全く違う普通の若い女の叫び声が入江にこだまし、亡霊は哀れにもその場にうずくまってしまった。

「人なんだろ、お前。なぜこんなことを……」

 刀の切っ先で亡霊の体を覆っている白い布を払い除けると、真熊の読み通りにただの若い女の顔が露になった。

 少し離れた場所で隠れていた阿弥太と枳美が、真熊がどうやら正体を暴いたらしいとわかると、亡霊の元へ駆け寄った。

「ねぇ、ここで何をしているの? 真熊はあなたを殺したりしないから、私にだけでも話してくれない?」

 枳美は亡霊を怖がらせないように目線を同じにして話しかけた。

「あたしは悪くない! こうしろって言われたから! でないと父の病を治してもらえない……」

「ねぇ、誰に命令されたの?」

「い、言えない。誰かに話したら父は殺されてしまう!」

「君は家女か婢だよね? こんな目に遭わせて、親父さんを人質みたいしてるやつを庇う必要はない。俺たちは国守様の下で働いてるから君を助けることができるよ」

 亡霊になることを強いられた若い女が躊躇いつつも助けを求めようと、顔を上げた。国守なら今の状況を何とかしてくれるかもしれない、と。

 しかし、命じた人物の名を告げようとしたその口は永遠に開かれることなく幕が引かれてしまった。

「誰だっ!?」

 真熊が刀を構え、大声を張り上げて辺りを警戒した。その背後では枳美が声にならない叫びを上げ、偽手児奈の体を揺さぶっている。

「阿弥太、どうにかならないの? この子を助けられないの?」

 一瞬にして起こった出来事に同じく気が動転している阿弥太は、偽手児奈の首筋を貫通した一本の矢を見つめて、もう無理だよと力なく言うほかなかった。若い女が意を決して口を開こうとした時、風を切り裂いてどこからか矢が飛んできたのだ。その矢は的を外さずに偽手児奈をあの世に送り出すことに成功した。

「あっ、真熊が……」

 枳美が指さした方を見ると、真熊と正体不明の人影が刀を交えて戦っているではないか。人影は若い男で矢を入れた靫を背負っている。なかなか武芸に秀でた者のようで、真熊と互角に応戦しているように見えた。正確に矢を射る技術や刀を振るう身のこなしからするとおそらく兵士であろう。

 何度か刀がぶつかり合い、一振りが真熊の腕をかすめた。枳美は阿弥太の腕にしがみついて成り行きを見守っている。阿弥太は刀鍛冶だが、自分で刀を振るって訓練しているわけではないのでこの場合は全く役に立たないどころか、下手に介入すると真熊の足手まといになりかねない。

 腕を負傷した真熊だったが、利き腕ではなかったため致命的ではなく、相手の男よりも体格が上回っている分少し有利なようだ。

 そしてとうとう男は真熊の一撃で刀を跳ね飛ばされてしまった。真熊はすかさず男を地面に押し倒して、刀の切っ先をその衣服に突き刺した。阿弥太は気を利かせて、地面に放り出された相手の刀を回収し、真熊に手渡す。

「どうしてあんたがここにいるんだよ、馬手うまて? 正直に話さないと斬るぜ?」

「こいつ、知り合いなの?」

「ああ、軍団の兵士で弓の名手だよ」

 馬手と呼ばれた兵士は苦虫を噛んだような顔で、真熊を見上げた。既に丸腰で逃げようとしたら真熊は本気で切りかかってくるだろうし、実は戦っている最中に足を痛めてしまったようだった。どのみち逃れられないと観念すると、馬手はなぜ自分が入江にやってきたのかを話し始めた。

「お前は気づいてたかどうかわからんが、俺はお前を良く思っていなかった。いや、憎い気持ちと言った方がいい。俺は自他ともに弓の扱いに秀でてると思っていたが、途中からお前が軍団に入ってきて、賤民にも関わらず弩手に抜擢された。お前が俺よりも優遇されているのが気に食わなかったんだ」

「……そいつは知らなかったよ。あんた、そんなそぶりは見せなかったじゃないか。俺と訓練してる時も淡々としてたし。俺はあんたの弓の腕を尊敬してたんだぜ」

「そうか。でも慰めにはならんな。俺は他の仲間に不満を口にしていたんだが、そのうちに校尉の耳にも入ったらしい」

 校尉という言葉に、三人の間に緊張感が走った。軍団の校尉は郡大領の息子大私部徳麻呂である。

「ある時、徳麻呂様が俺を呼んでこういう話を持ちかけてきた。『真熊が弩手の一人に抜擢されたことは実は俺も納得がいかない。俺は馬手の力量をよく知ってる。そこで頼みがあるんだが、数日おきの夜、入江の奥に行って食料を運んでほしい。入江で怪しい奴を見かけたらお前のその百発百中の弓で射殺して構わない』って。報酬ももらえたし、次期の弩手に選ばれることも約束してもらえたから、俺は引き受けたんだ」

「じゃあ、手児奈の亡霊の真相は? あの婢は何のために入江の洞穴に住みついてたんだ?」

 阿弥太は畳みかけるように問い質したが、馬手は首を横に振って「知らねえよ」と返答した。

「知らない? あの婢と関係ないっていうのか?」

「ああ。どうして食料を入江に運ぶのかも知らない。というか、理由は聞くなと言われたからな。だから亡霊の話も噂でしか聞いたことがない。俺は怪しい奴がいたと思ったから矢を射ただけだ。とりあえず軍団の弩手であるお前を殺したら色々面倒なことになると思って、一番怪しげな白い衣を被った女を狙った」

 すると手児奈役の婢が射殺されたのは偶然だったというわけだ。もしかしたら自分が最初の標的になってしたかもしれないと考えた阿弥太は身震いした。

「で、これからどうするんだよ?」

 馬手が自暴自棄になって言うと、阿弥太は今日の出来事を口外しないと馬手に約束を求めた。徳麻呂が馬手に命じたことと婢に亡霊として入江に住むよう命じたことは、根本ではつながっているはずだ。だから徳麻呂には阿弥太たちがここにやって来たことや馬手が婢を射殺したことを知られないようにしなければならない。

「……わかったよ。普段通りに振る舞えばいいんだろ。けど、俺の身の保証はどうしてくれる?」

 相手に口をつぐむよう頼んだのだから、こちらも入江にやって来た理由を話さなければならず、阿弥太は国守の指示で亡霊出没の噂を確かめるためにここに足を運んだと正直に伝えた。

 三人の後ろに国守がついているということは馬手にとってはやはり苦々しいことではあったが、噂の真相の調査という雑用を賤民に押し付けたのだという程度に思った。徳麻呂から何か言われても国守に助けを求められるという条件は、馬手を安心させた。いくら真熊を憎く思っていても、養わなければならない家族もいるし、あまり危ない橋は渡りたくないのだ。

「あの子、どうしよう。ちゃんと葬ってあげないと……」

「そうだね。とても可哀想な役割を背負わされたんだ」

 枳美は涙を流した。同じ橡色の衣を身につけなければならない賤民でも、偽手児奈は枳美たちよりもさらに自由を奪われ、市場で売買の対象になる奴婢の身分であった。

 阿弥太と真熊がとりあえず婢を洞穴の奥に持ち込み、安置する。足を痛めた馬手は申し訳なさそうに後からついてきた。国守に報告をして、密かに回収した後にきちんと葬ってあげようと阿弥太は思った。

 そして婢を白い布で覆い終わり、洞穴の外へ出ようと歩き出した時、馬手が何かに躓いてしまった。

「痛え」

「大丈夫か? どこかにぶつけたのか?」

「暗くてよく見えなかったから、こんなところに箱が置いてあるのに気付かなかった」

 真熊が馬手の足元に松明を近づけると、なるほど壁際に沿って大きな木箱が置かれていた。そして、もっとよく見渡すと木箱の奥は一段低く地面が掘り下げられており、その空間にも木箱や大き目の壺などが並べられている。

「これ、もしかして……」

「いかにも怪しいな。婢がこの洞穴に住まわされて、亡霊として出入りしていたことを考えると、これを隠したかったってことか?」

 言いながら真熊は木箱の蓋を開けようとしたり、小さい壺を持ち上げて重さを確かめたりしている。厳重に封がされているものもあれば、力を入れれば壊れそうなものもある。真熊は小さい壺に被さっている木の蓋を拳で叩き割った。

「これ全部、銅銭じゃないか。……てことは、この辺にある壺は同じだな」

 真熊がいくつかの壺を開けると、枳美がその中の銭をつまんで顔に近づける。贋金かどうか確かめるのだ。真正な銅銭には側面の凹凸や文字の切れ目がなかった。

「すごいわ、本物よ。一体いくらあるのかしら…… あ、でもこの壺は贋金が入ってる」

 どうやら壺には二種類あって、藍色の紐が括り付けられているものは真正の銭、山吹色の紐のは偽物のようだ。そして、さらに奥には大量の稲が積み上げられていた。残るは木箱であるが、鍵がかかっていて開けるのに手間取ってしまう。

 たくさんの大小様々な木箱の中から適当なものを選んで、真熊が刀を鍵に打ち付けて壊しにかかる。何度目かで成功すると、真熊は恐る恐る蓋を外した。それは両手で抱えられる程度の大きさの箱だった。

「なんだこれは。木簡……? 俺、文字読めねぇよ」

「あら、私も読めないわ」

 賤民三人は箱の中を覗いてみたが、何の目的の木簡がしまわれているのかがわからない。すると、馬手がどれどれと割って入る。がさごそ箱の中を漁って中身を確認すると、奥の方からただの木簡ではない奇妙な形の木札が出てきた。

人形ひとがただよね……?」

 人形というのは文字通り、人の頭や手足をかたどった木の札で、呪具として使う。病を祓うために使うこともあれば人を呪う時に使うこともある。そしてこの人形には首という文字が墨書きされている。

「この文字は首って読むんだ。首が痛かったのかな。人形に病を移して捨てることに使えるし。それか、誰かの首を狙ったとか?」

 簡単な文字の読み書きができる馬手が教えてくれた。

「それって呪い?」

「そうなるな」

 同じ木箱に入っているものは土器の類で、どのみち人形と共に使われるものだろう。

「きゃっ。虫がたくさんいるわ!」

 洞穴の暗くて湿った空気のせいか木箱から黒光りする虫が出入りしており、虫が嫌いな枳美は思わず後ずさった。もう出ましょうよと阿弥太に耳打ちする。

 確かに長居したくはない空間である。物入れの麻袋に詰められるだけの物を詰めて、四人は洞穴を出た。明日、これを持って国守に報告に行かなければ。

 もうすぐ夜明けだ。

 洞穴よりは熱気のある外の空気だが妙に清々しかった。伊耶那岐命が黄泉の国から戻ってきた時も、こんな気持ちになったのだろうかと阿弥太は思った。

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