第4章 国府動乱 (2)遅れて来た恋

 夜の艶やかな衣装ではなく、簡素で清潔感ある橙色の麻衣を身に付けた朱流は、真秦がわけのわからない術によって昏睡していると聞くと、国介が案内するのを無視して正殿に走ってきた。

「どこの誰だか知らないけど、酷いことするわね!」

「朱流さん、弟は……?」

「任せて。少し離れてて」

 龍麻呂を勇気づけるように微笑んだ朱流は、首から掛けていた翡翠の勾玉を外し、真秦の胸元に置いた。何気ない仕草に見えたが、既に見えない呪術との戦いが始まっており、朱流の勾玉は込められた力で真秦を取り巻く邪の力を破っていた。

 それから朱流は掌に乗る大きさの鏡を真秦の頭付近に設置する。こうすれば避けた邪の力が再び近づこうとしても鏡の反射によって跳ね返すことができる。

 本来、卜部は鹿の骨を焼いて吉凶を占う氏族だったが、禍事を祓うことも技術として習得している。御巫として神祇官に仕えていた朱流は正式な職を離れた今でも神の力を感じることはあるし、日常的な祓えくらいは朝飯前だった。

 朱流は懐から最後の神具である短刀を取り出し、両手で掲げ持ちながら祓詞を上げる。

「掛けまくも畏き伊邪那岐いざなぎ大神おおかみ、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原あわぎはらに、禊ぎ祓い給いし時に――」

 下総国府にも正規の禰宜ねぎはふり、陰陽師は存在するが、今回の件は言ってみれば国守による非公式の指示が元で起きた事件だ。だからこそ大足は非公式に祓えができる朱流を召したのだし、国府が裏の顔を持つ遊行女婦を抱えてきたのである。

 祓詞を読み上げ終わると、朱流は短刀を逆手に持って虚空を大きく十文字に切り裂いた。

「終わりました、国守様」

 その一言で、緊張していた場の空気が緩み、龍麻呂はそっと弟を覗きこんだ。

「真秦…… 起きられるか?」

 とその時、廊下からばたばたと足音を鳴らす音が場違いなほど大きく響いた。そして、「大丈夫!?」と言いながら突進してくる影……

「姉貴! 医学舎にいたんじゃないの?」

 半分涙目の木葉が龍麻呂の隣で真秦の手を握っている。

「国介様が教えてくれたのよ。自習時間だから飛び出してきたわ」

 騒がしい木葉の登場に大足も朱流も呆れ気味のようだが、そのお蔭なのか真秦の瞳が見開かれていることに龍麻呂が気付いた。

「何ともないか?」

 兄の問いかけに、真秦は頷いて辺りを見回す。きっと本人はなぜ国守をはじめとする人たちに囲まれて横になっているのか、わかっていない。

「お前、森の中でしゃべったんだよ。何者かの術にかけられてしまったんだけど」

 もとに戻った真秦であったが、やはり口をきくことはできなかった。しかし、体に異常はなさそうなのでひと安心だ。

「大足さん、今日は医学の講義お休みにしてください。真秦の傍にいたいの」

「ああ、そうしなさい。勝君には伝えておくから」

「ありがとうございます!」

 この日、木葉は真秦の手をしっかり繋いでそのまま自宅へ帰っていった。


(うーん、久しぶりによく寝た!)

 い草の敷物の上で思い切り背伸びをした木葉は、隣で寝ている弟の穏やかな寝顔を見て微笑んだ。

 昨日、国庁から帰る時に朱流が少しばかり米と干物と果物を持たせてくれて、きちんとした食事を家族に与えることができたのだ。空腹が満たされるというのはいかに幸せなことか。

(それにしても、朱流さんってステキな人よね。美人だし、しっかりしてるし、やっぱり大足さんのいもなのかなぁ)

 木葉はため息をつきながら寝返りを打った。あの二人の間に流れる微妙な色気を思い出すと、なんだか切ない気持ちになる。

 龍麻呂も枳美も既に仕事に出てしまっていて、木葉もいい加減活動を始めなければならない頃だ。木葉は両手をついて上半身を起こした。そして、ふと顔を上げて目にした光景に凍りつきながら、同時に赤面を余儀なくされる。

「なんだまだ横になってたのか。お前は病でも何でもないだろう」

「ちょ、ちょっとぉ! どうしてあんたがうちの戸口に立ってるのよ!」

 中腰になって戸口から中を覗き込んでいたのは、なんと勝だった。木葉は慌てて肌蹴た胸元を片手で隠して立ち上がった。

「僕だって別に自分にご足労かけたくなかったけど、日下部様がお前の弟が具合が悪くなって倒れたらしいから様子を見て、ついでに診察して来いって言うから……」

 あからさまにしぶしぶやって来たという感じだ。しかも、相変わらずの上から目線。

 木葉は追い返してやろうかと一瞬考えたが、あの親切な医博士が真秦のことを気にかけてくれていることに感謝して、勝を招き入れた。大領の甥としてそこそこ良い暮らしをしている勝にとって、直に賤民の住まいに足を踏み入れるのは初めてだろう。

 この間に真秦は眠りから目覚めており、寝ぼけ眼で姉と勝を見上げている。勝は邪気を払う水を手にかけてから、真秦の下瞼を軽く引き下げて目の状態を確認した。

「次は舌を見せて。食欲は?」

「昨日の夜、たくさん食べたわよ。朱流さんが食べ物分けてくれたから」

 話せない弟の代わりに木葉が答える。

「脈も正常だな。汗の出具合も適当…… 一時的な暑邪と慢性的な労逸で倒れたんだろう。もう元気になったみたいだから特に処置はしない」

 勝は、医学を学んでるんだからお前がちゃんとしろよと、ぶつくさ文句を言って立ち上がった。そして、戸口に至る前に舌打ちをするはめになった。

「……賤民ってのは、気楽なもんだ。昼間から堂々と持ち場を離れてうろつくんだから」

「ふざけんな! サボりじゃねぇよ、真秦の見舞いだ!」

 時宜の悪いことに、今度の来客は綾苅だった。綾苅は行く先を遮っている男を押し退けるようにして進んだ。

「今晩からは医学舎に来るんだろう? 弟が回復したならお前が学問を休む理由はないよ」

 振り返ることなく、勝は捨て台詞のように言って医学舎に戻っていった。

 医生がいなくなると、木葉は綾苅に弟たちの動向と真秦が襲われた経緯を話した。

「俺も光藍たちに合流したいな」

「けど、そっちは生き物の世話だから忙しいでしょ」

「まぁね、やりがいはあるよ。それにもう少ししたら、二歳の子馬を登録する作業もあるし」

 真秦が普通に動けるので、木葉はそのまま綾苅と一緒に外に出た。また医学舎での勉強が待っている。きっと勝は手加減せずに小試を出してくるだろう。

 そんなことをぼんやり考えて歩いていたら、綾苅に腰を抱き寄せられていた。

「今夜もまたあそこに泊まって勉強するの?」

「そうだけど……」

「お前さ、国守に憧れてんのかもしれないけど、身分を考えた方がいいよ。振り向くわけないじゃん。俺はその点、問題ない」

 綾苅は茶化して顔をずいと木葉に近づけて、にやりと笑った。

「入江での続き、どう?」

「どうって言われても、あたし、そんなつもりないから!」

 入江で押し倒された後、真秦が乗り込んできてお流れになってしまった時のことを思い出して、木葉は恥ずかしくなった。

 一体いつになったら諦めてくれるのだろう、この男は。友人としては認めるけれど、それ以上の仲になりたいかというと素直に肯定できない。綾苅の言う通り、木葉の中には高向大足の存在が無視できないものとして漂っているのだ。

「まぁ、入江を眺めて日頃の疲れを癒すくらいのことは、付き合ってくれてもいいと思うんだけど?」

 あくまでも余裕を見せる綾苅は腹立たしいが、一応国守の元で働く仲間という意識があって完全に背を向けることもできなかった。

「とにかく、あたし勉強で忙しいのよ。一段落ついたらね」

 社交辞令的に答えると、綾苅は木葉の小さくはない胸を指先でなぞって、楽しみにしてるぜと笑いながら去っていった。

 医学舎では、医生たちが講義を受けていたり、個別に鍼の練習をしていたり、いつもの光景が見られる。木葉は曹司に入って、経を開いた。復習と予習をしなければ。

 集中して机に向かっているうちに戸が開いて勝が現れた。

「……四診」

 机の前に座るや否や、勝は前回の講義の内容を木葉に問い掛けた。ええと、とつぶやきながら木葉は答える。

「望診、聞診、問診、切診」

「じゃあ、八綱弁証について簡潔に完璧に説明して」

 八綱というのは、観察した症状を八つの分類に機械的に当てはめて患者の容体を総合的に判断する分類のことだ。ここまではなんとか説明できた。

 それから勝は症状の例を出して、どのような弁証になるのかを当てさせる問いを出してきた。しかも二十問もだ。今日の講義が始まる前に、木葉の頭は既に飽和状態になってしまった。

「七割しかできなかったじゃないか。明日は臨床なのに、その程度の理解では患者の証を得られないよ」

 お馴染みになってきた嫌味を聞き流して、木葉は勝が示した新しい巻物を覗き込んだ。舌の図がたくさん描かれていて、それぞれに異なる様子となっている。

「舌診の具体的なやり方だ。舌を見て、不調が現れている部位と臓腑は関係しているからどの臓腑がおかしくなっているのかがわかる。舌先は心肺、真ん中は脾胃、奥は腎、そして両脇は肝胆に対応するんだ。それから舌の色と舌苔の様子からも変調を推測できて――」

 長い解説が終わると、勝は明日の臨床で実際に見てみるとわかると言った。

「これでお前は望診と舌診の知識は習得したことになるから、明日までにちゃんと復習しておけよ」

「はい」

 木葉は講義が終わると眠気を抑えて、以前から勝に確認しようと思っていたことを口に出した。

「あのさ、今年の二月の終わりくらいに、うちの妹の枳美が暴漢に襲われたの知ってる?」

「え? いや、知らなかった。妹って最初に僕が診察をした時にもあの場にいた…… お前の妹なのに随分と顔がきれいだったからそれは覚えてる」

「あームカつく! そういう一言は余計ですっ」

「うるさいぞ、夜中なんだから。……それで、妹が襲われたことがどうかしたのか?」

「あたしと枳美はあんたのことも犯人じゃないかって疑ってるの。妹を汚したのはあんたなの?」

 婉曲に探ろうかと思っていたけれど、木葉は思い切って単刀直入に訊いてみることにした。もし犯人であればボロが出るだろうし、そうでなければあの独特な臭いが何か教えてくれるかもしれない。

「僕がお前たち賤民をどう思っているか知ってるはずだ。それに、生憎、僕は家女に手を出してまで欲求を満たす必要があるほど、女人に困ってはいないよ」

「ふーん。でも、枳美がその犯人の臭いを覚えてるの。顔を見たわけじゃないけど」

「臭い? 顔がわからないのに僕を犯人扱いするのなら、賤民に侮辱されたって国守に訴えるぞ」

 口調は静かだけれども本当に国守に訴えかねないほど、勝は真剣に怒りをあらわにしていた。大足や正成が言うように、勝は犯人ではないのだろうか。

「聞いて。枳美が記憶してる臭いっていうのが、柑橘類と鉄が混ざったような、鼻にツンとくる臭いなの。あんたがいつも使ってる、あの邪気を払う水もツンとする臭いだから同じじゃないかと思って――」

「お前、ほんと頭悪いな」

 勝は医療具箱を開けて、例の水を取り出し自分の手に少し振りかけた。そして木葉に手を差し出して臭いを嗅がせた。

「うわ、やっぱりすごいツンとする」

 木葉は顔をしかめると、勝はしばらくしてから再び同じ手を木葉の鼻先に持っていった。

「これでも臭いはするか?」

 不思議なことに、先ほどの強烈な刺激的な臭いはなくなっている。木葉はどういうことなのと尋ねた。

「この水は酒を元にして作っていて、すごい高純度なんだ。でも、揮発性も高くて外気に触れるとあっという間に水分も臭いもなくなってしまう」

 つまり、枳美を襲った犯人が襲う直前に水を手に振りかけてすぐさま枳美に触れていたという前提がなければならない。しかし、いつ枳美が通りかかるかわからない状況で邪気避けの水を準備しておくことは考えられないし、そもそも何のために水を使うのかという理由がわからない。

「ということは、枳美が嗅いだ臭いは邪気避けの水じゃないってことね?」

「その方が筋立ってると思うけど。それに、この水は酒から作っていて、柑橘類も鉄も含まれてないし」

 木葉は溜息をついた。それは犯人を別に捜さなければならないという落胆と、自分に医学を教授している目の前の男が犯人ではないようだという安堵とが入り混じっていた。

「とりあえずあんたが犯人じゃないってことは、まぁ、認めていいわ。枳美が嗅いだ臭いが何かわかる?」

「偉そうに言うなよ…… 僕が知る限り、医薬にそういう臭いのものはないな。そろそろ僕は下がるよ」

 そうか、そういう臭いは医薬だけかと思っていたけれど、医生である勝の言うことを信じるなら薬は治療用ではない別の用途のものを考えなければならないのか。いかんせん木葉にはあまり知識がなく、すぐに薬を使う作業や仕事は思いつかなかった。

 翌日の臨床が終われば、次からはいよいよ『本草』、『甲乙』、『脈経』を使った講義に入る。薬、鍼灸、脈診という具体的な治療や診断方法を習得する段階だ。

(七割正解してもダメなんだ。患者を救うには完璧でないと……)

 木葉は冷たい水で顔を洗って眠気を覚ますと、八綱弁証の分類を復習し始めた。


 外出する日に限って、雨に見舞われた。残暑で蒸していたから、雨が降って涼しいのは嬉しいが、泥にぬかるんだ道を歩くのはとても不快だ。

「さて、患者が一人この家にいます。今日は木葉が証を立ててください」

 四半刻ほど歩いて到着した九ツ木里に、二十歳前半の女が不調を訴えているという報告が上がっており、木葉の臨床には医博士も同行してきた。かろうじて里長の妻ということで、国の医人が派遣されたというわけだ。これが家人や奴婢であれば、医人がやってきて診察や治療を施してくれることは皆無なのだから、世の中は不公平としか言いようがない。

 里長は雨に濡れた医人たちに乾いた布を渡し、温かい汁を提供してくれた。妻は奥で横になっている。

「国の医人様がいらっしゃったよ」

「はい、ありがたいことです」

 里長の妻の伊良いらは力なく微笑みながらこちらを見ている。男たちの中に一人若い女が混じっていることに不思議がっているようだ。

「木葉と言います。あたし、女医になりたくて国の医生のように勉強しているんです。今日はあたしが診察しますね。脈はまだ習ってないから医博士にお願いするけど」

「ああ…… それは安心だわ。ずっと耳鳴りが続いていて、普段もすごく疲れやすいんです。夫の助けをしなきゃいけないのに、このところはこうして寝てばかり」

 まだ若いのにこんな状態になってしまって心底悔しそうだ。木葉は昨日までに学んだことを全部頭に集中させていた。

 伊良の顔色は黄色がかり、舌を見ると淡く、舌苔も薄かった。食欲はあまりなく、お腹が張ってしまうらしい。脈は日下部が判断し、こちらも力がなかった。木簡に全ての症状を書きつけると、証を考えるために患者の傍を離れた。

「表面に熱や汗はないから裏証。疲れやすい、力が出ないから虚証。体の冷えやほてりのどちらもないから平証。つまり伊良は裏虚平証ということよね」

「はい、よくできました」

「博士、褒めるほどのものじゃないですよ。これができなかったら僕は死にたくなります。それで、次の判断は?」

 勝の手厳しい言葉に博士は笑っているが、木葉は不愉快だった。いつか馬鹿にされたことを見返してやるから!

「裏証だから体の内部に問題があるのよ。食欲がないことと、お腹が張ることから考えると脾胃が弱ってるんじゃないかしら」

 聞いている二人とも何も言わずに黙っているところからして、見当違いではなさそうだ。木葉は続けた。

「虚証…… えっと、疲れやすいとか力が入らないのは何かが足りてないってこと。そもそも気が足りてないのね。疲れでさらに気を消耗してるみたい」

「だいたい的確ですが、気虚だけでなく血虚も同時に考えた方がいいですよ」

「あ、そうですね」

 結局、伊良は吸収や循環の機能を果たす脾に問題があり、気や血が全身を巡らなくなってしまっているのだった。耳鳴りが続いているのはまさにその証拠だ。

 木葉は里長と伊良に診察の結果を簡単に伝え、後で薬を届けさせると告げた。薬の処方はまだ習っていないので、それは一度医学舎に戻ってから勝が考えて処方するらしい。

「木葉さん、下総国には女の医人が他にもいるの?」

「いいえ、いないわ。あたしはまだ医人ではないの。勉強中だから。でもきっと女医になってみせる。そしたら日本の中で初めて国の女医が誕生することになるのよ」

「どうして女医になろうと思ったの?」

「賤民は病に倒れても誰も看てくれないでしょ。だから、自分が医人になったら賤民も救うことができるかなと思って。今の国守様が来る前の下総国は、すごく、ひどい場所だったから……」

「そうね。夫が里長だから租の取り立てを厳しくしなくちゃいけなくて大変だったわ。今も皆の生活はそんなに豊かじゃないけど、よく官吏が里まで見回りに来るようになって、だから私の具合が悪いことが報告されたのでしょう?」

 木葉は頷いた。大足が公式、非公式に国中の視察を指示しているからこそ、里までの現状が把握できるのだった。

 医学舎に戻る頃には雨は上がり、虹が空にかかっていた。また蒸し暑さがぶり返し、いつの間にか濡れてしまった衣も乾いている。

「じゃあ、薬の処方は勝君に任せますよ。作った薬は奴に持っていってもらいましょう」

 日下部はそう言うと自室に向かい、残された勝は木葉をある場所へ連れて行った。医学舎の裏にある薬園である。

「ここには色んな生薬の元が植わっているけど、これを摘んで薬を作るわけじゃない。乾燥させなきゃいけないから、僕が今から作る薬はこの倉の中から選んで調合するんだ」

「うわー、すごい臭い」

 薬園の一角に設けられた高倉には整然と木箱や竹籠が並べてあり、文字の書かれた木札が下げられている。しかし、ものすごい薬臭い。あまり長居はしたくないなと木葉は思った。

「ちょっと試しに問うけど、さっきの里長の妻の証からどういう薬を処方したらいいかわかるか?」

「……脾や胃の気が弱くなって、血も不足してるから、気と血を補うような薬を出せばいいんじゃないかしら」

「ふん。まぁ簡単だよね」

 木葉が適切に答えてしまったので、勝は面白くなさそうにつぶやいた。『本草経』をやり始めたら、ぐっと難易度上げてやると密かに決心したことは言うまでもない。

 その後、勝は何かを教えるでもなく木葉を放置して、生薬をいくつか選んで箱から必要な量を取り出した。人参や芍薬を始めとする八種類の生薬を抱えて倉を出る。八珍湯という薬を処方するつもりだった。

「倉の中を見たけど、ほんとに鉄や柑橘類はなかったわね」

「だろ。僕の知識と記憶力は揺るがないからな」

 なんだか綾苅とは違った意味で、勝も自信家なのだ。綾苅は容姿や恋愛要素を誇り、勝だって見た目が悪いわけではないけれど、彼は医人の家系としての知的能力や技術に自信を抱いている。木葉はどっちもどっちだなぁと、やや呆れた。


 それから数日間、いつも通りの日々が過ぎていった。いつも通りというのは、昼間は予習復習をして、夕刻になると講義が始まり、終わった後も夜が更けるまで自習をするということだ。

 いよいよ薬を学ぶために『本草経』を読み始めた。大足が文字を教えてくれたお蔭で、木葉は中央政府で学ぶ女医よりも遥かに高度な知識に触れている。

(ああ、もう無理! 三百六十五種類も覚えるの無理! 無害の木ですら二十種類もあるのに……)

 昨日の夜から木葉はこんな調子で頭を抱えていた。まずは無害の薬である上薬から暗記しろと言われたものの、眠くて覚えることができず、そうするとまた勝の小試に及第できず、さらに上乗せして課題が出されてしまう。それに、『本草経』が終わっても、鍼灸や脈が待っている。医人とは何という能力の持ち主なのだろう。

 誰もいない曹司に転がっていても何も解決しない。勝はできの悪い木葉に対して冷酷に「覚えられるまで寝るな、アホ賤民」と言い残して去っていったのだ。どうにかして上薬だけでも完璧にしなければ……。

 そう意気込んでみたものの連日の睡眠不足と運動不足がたたって、木葉は耐えきれずに朝方になって床に倒れるようにして眠ってしまった。

 目が覚めると木葉は空腹にも関わらず食堂ではなく、そのまま医学舎を出ていった。気力も体力も限界で、地面に足がついていないかのようにふらふらしている。講義の時間帯であったので、医学舎を出るまでに誰にも会わなかった。

(一度家に帰ろう。情けないけど、あたしにはちょっと休みが必要かも)

 そう思って歩いていると、急に視界が暗くなり傾いた。ああ、あたしとうとう倒れるんだ…… 妙に冷静に認識したのだが、体が強く打ちつけられる前に誰かに受け止められた。

「木葉っ、どうしたんだよ」

「んー、ちょっとね……」

 朦朧とした意識の中で、木葉は綾苅に抱きとめられていることを知った。また面倒なことになるわと頭の片隅で考えていると、綾苅は素早く木葉を横向きにして抱えてしまった。

「大丈夫、一人で家に帰れるから下してよ」

「何言ってんだ。そんなふらふらした状態でここから歩くのか。俺の家に連れてってやる。その方がお前の家に帰るより近いだろ」

「でもあんたの仕事は?」

「朝の仕事は終わったよ、気にすんな」

 もう一度、下してよという言葉は出てこなかった。疲れすぎていて綾苅の腕の中で寝てしまいそうなくらいに体が重い。木葉は大人しく綾苅に連れ去られることにした。

 自宅に着くと、綾苅は木葉をい草の敷物の上に寝かせて湯を沸かした。この家には家族がいない。綾苅を残して、両親も兄弟姉妹も疫病で黄泉の国へ旅立ってしまったからだ。時々、目をつけて口説いた女を連れ込むことがあっても、基本的には温もりのない家だ。

「腹減ってんじゃねぇの? 草粥あるけど」

 綾苅は土器に粥を盛って、横たわる木葉に差し出した。とりあえず何か食べようと、土器を受け取って啜る。そうしていると、木葉の両目から大粒の涙が静かに流れ落ちた。

「ありがと。牧子になってから、支給される物が増えたのね」

 木葉は小声でそう言うと、吸い込まれるようにして眠りに落ちていった。


 家の中が薄暗い。もう夕刻なのだと理解して、木葉は慌てて起き上がろうとした。何時間も綾苅の家で眠り込んでいたなんて信じられない。

「あ、起きたか。俺のことは気にするなよ。気の済むまで休んでていいからさ」

「そういうわけにはいかないわ。医学舎に戻らないと、講義が――」

 言い終わる前に、綾苅が木葉の肩を掴んで座らせてしまった。

「それより、お前、無理してんじゃないのか。あの男がひどい扱いをするからそんなになっちまうんじゃないのか。もう止めろよ、女医になるなんて。いくら立派な目的でも達成する前にお前自身がどうかしちゃったら意味ないだろ。勝ってやつは、自分の名声のためにお前の指導をしてるだけで、はなから俺たち賤民を見下してる。腹が立って仕方ないよ」

 綾苅が心配して、腹を立てる理由はよくわかる。それでも木葉は女医になることをここで止めるわけにはいかなかった。

「ごめんね。あたし、何があっても女医になるって決めたの。だから行かせて」

「それは国守のためか……?」

 木葉は肩にかかっている綾苅の手をそっと外し、再び立ち上がろうとした。しかし、逆に反対の手で押さえつけられてしまう。そして、綾苅は木葉の背中に腕を回した。

「ちょっと、今そういう時じゃ……」

 抵抗しようとした木葉は、眼前にある男の表情がいつものようにふざけていて、にやにやした笑いが一切ないことに気付いた。綾苅はどこまでも真面目な顔で木葉を見つめている。

 綾苅は戦いに負けたことを素直に認めざるを得なかった。

 狩りをするような気楽な感覚で木葉を追いかけていて、自分に惚れるのも時間のうちだと高を括っていた。けれども、今ははっきりと綾苅自身がどうしようもなく木葉に恋をしていると言えた。木葉に厳しく接する勝には怒りを覚え、彼女が影響を受けて憧れている国守には嫉妬している。

「好きだ、木葉。遊びじゃなくて本気で言ってる」

 突然の告白に衝撃を受けて、木葉は頭の中が真っ白になった。今まで適当にちょっかいを出して遊んでいた男の言うことなど、にわかには信じられない。すると綾苅は、少し下がって地面に正座し、思い切り頭を下げるという行動を取った。土下座をしたのだ。

「この通りだ。お前を大切にする。だから俺を見てほしい。国守でも医生でもなく、俺を――」

「やだ、もう。急にそんな風に言われてびっくりしちゃった…… あたし、自分の意思で女医になるって決めたのよ。だから誰かを見てるとかそういうんじゃないし。だから女医になることを止めろっていう人とは、綾苅でなくてもお付き合いできない」

「わかった。木葉がそんなに真剣に考えているなら、俺も真剣に木葉を応援して守るよ。勝は何を考えてるかわからないやつだから、普段は上から言われて講義をしてるのかもしれないけど、いざという時にどういう態度をとるか気を付けないと。俺は木葉が辛い時も傍にいられるし、頼ってほしい。……それでも、俺じゃダメなのか?」

 綾苅は木葉の手をそっと握った。今までのような、遊び半分でからかっているのとは違う暖かさと真剣さが伝わってくる。

「ダメっていうか、あの、あたし今はそういうこと考える余裕ないし、ちゃんと付き合えるかわからない」

 自分はきっと逃げているんだと薄々わかっていたが、木葉は明確に拒否もしなければ、受け入れるとも言わなかった。遊び人の綾苅がまさか本気で口説いてくるとは夢にも思わなかったのだから、動揺しても仕方がないと思う。

 それでも綾苅は「いいよ、それで。俺が勝手に好きでいるから」と微笑み返してくれた。そして木葉は曖昧な感情のまま、初めて真っ直ぐに綾苅と口づけを交わしてしまった。綾苅の本気の口づけはもったいないほど優しく情熱的で、今までの疲れなどなかったような気持ちにさせてくれた。

「お休み、木葉」

 とうとう木葉は医学舎には戻らなかった。

 綾苅は木葉がぐっすり休めるように世話をして、そして隣で共に横になった。木葉は頭を綾苅の肩にもたれかけ、手を繋いだ。

 木葉にとって、今は誰かに寄り掛かることが必要なのだ。かつて夫が生きていた頃、同じようにぬくもりを感じていたことを思い出した。また前に進むために、このくらいの休息は許して。

 残暑の夜は久しぶりに心地よく過ぎていった。


 女医生の姿が見えないということで、医学舎はちょっとした騒ぎになっていた。初めは何かの用があって教導曹司を短時間離れているだけだろうと、勝はイライラしながらも木葉を待った。

 ところが、一向に戻らない。医学舎中を探索しても見つからず、医博士の曹司を訪れてもやはりそこに木葉の姿はなかった。

「今までこんなことはありませんでしたよね。ちょっと外出した隙に何か事件に巻き込まれたのかもしれません」

 日下部の言葉を聞いた勝は、先日木葉が言っていた木葉の妹の暴行事件を思い浮かべ、嫌な気分になった。昼間はともかく、日が落ちた夕刻後の道は安心とは言えない。場所によっては物盗りや人ではない妖に出くわす可能性もないわけではない。手児奈の亡霊が出るという噂もあるほどだ。

「少し探しましょう。勝君は入江の方、私は郡家の方を」

 ざっと見回ったがもう人の気配すらしなかった。日下部はまた明日の朝、別の方向を探しましょうと言い、一度捜索は中止となった。

(もしかして、あの家女逃げたのか。このところずっとできが悪くて、とうとう音を上げたのかもしれないな。まぁ、だとしてもその程度の決心の奴に付き合う理由はない。僕は喜んで解任されてやるよ)

 寝る態勢になりながら、勝は木葉の逃げ場所に見当をつけた。

(あいつが真っ先に戻るとしたら自宅だろうな。家族の顔が見たくなるはずだ)

 正義感が強そうな弟、美人の妹、そして言葉が話せない不思議な雰囲気の末弟。珍しく一人息子の勝には想像できない賑やかな兄弟姉妹だ。

 翌朝、講義を担当せざるを得ない日下部博士から一人で木葉を探すよう指示された勝は気乗りしないまま龍麻呂の家に向かった。

「昼までに見つからなかったら国守に報告しよう」

「わかりました。……本当に迷惑極まりない家女ですね」

 先日訪れたことがあったので、勝は真っ直ぐに龍麻呂の家に辿り着くことができた。そして、たまたま旬ごと(十日ごと)の休暇で自宅にいた龍麻呂が川の水を汲んで戻ってきたところに鉢合わせると、早速姉の所在を尋ねた。

「姉貴はしばらくうちに帰ってませんよ。何かあったんですか?」

「いや、ちょっと用があったんだけど、医学舎にいないから一旦戻ってるのかと思って。いないなら別にいい」

 勝は木葉の姿が昨晩から見えないことは正直に話さなかった。この賎民兄弟と関わるのは何となく面倒だと思ったからだ。

 踵を返して医学舎へ続く道を戻り、立ち止まって次はどこを探そうかと思案していると、まさしく連れ戻さなければならない対象が三叉路の別の道の奥から現れた。しかも勝にとって意外な人物と一緒に歩いている。

(何であの二人……)

 道の端に寄って様子を窺っていると、木葉と綾苅は歩みを止めて向かい合い、驚くべきことに互いの額をほとんどくっつけるようにして至近距離で何か言葉を交わした。

 確か木葉は綾苅を毛嫌いしていて避けていたはずなのに、今、木葉は微笑みすら浮かべながら髪を愛撫する綾苅の手に自分の手を重ねている。

 突然、勝の中に言いようのない怒りが込み上げてきて、気が付いたら大股で二人に向かっていた。明らかに愚かな男は自分ではないか。

「木葉! 一体どういうことだ?! 講義を無断でサボるなんて許されると思ってるのか?! 僕ら医人を舐めるのもいい加減にしてくれよ」

 勝の登場は木葉と綾苅にとっても予想外で、一瞬にしてその場に緊張感が走った。綾苅は木葉の前に立ちはだかるようにして勝に言い放った。宣戦布告と言っても良いかもしれない。

「木葉はいつでも真剣だぞ。一生懸命にお前の出す課題や講義の速度に応えようとして、とうとう気を失うくらいになってしまったんだ。言っとくけどな、木葉は俺が守る。さっきまで俺たちのこと見てたんだろ? どういうことかわかるよな」

「ちょっと、綾苅っ……」

 木葉は焦って綾苅の袖を引っ張った。別に勝に綾苅との関係を誤解されたところで困ることはないのだが、これ以上無用な摩擦は避けたかったのに綾苅が挑発してしまったからだ。

「真剣というなら今すぐ医学舎に帰って勉強するんだね」

「も、もちろんよ!」

 木葉が答えると、勝は微妙に距離を保ったまま木葉がこちらへやって来るのを待った。木葉は綾苅の顔をちらりと見遣って、「昨日はありがとう。嬉しかったわ」とお礼を言って綾苅の腕を振り払った。

 やっぱり行くなよ、という言葉が喉から出かかって、綾苅は背筋を伸ばして堂々と歩いていく想い人の後姿を黙って見送った。木葉の意思は固いのだ。もし綾苅の言葉だけでその心を動かせるのなら、とっくの昔に木葉は綾苅のものになっていただろう。

 木葉がついて来る様子を見せたので、勝は再び医学舎へ向かって歩き始めた。

 お荷物でしかないはずなのに、ここで木葉が勉強から脱落してしまうことがどうしても許せなかった。医人の一歩前の段階までたどり着いた評価の高い医生の誇りと高慢が、もしこの家女の教育が失敗して女医になることができなかったら、指導していた自分自身も医人の出来損ないになってしまうのではないかという恐れを生じさせていた。

 医学舎に戻ってから日下部に木葉を連れ帰ったと報告し、曹司に入る。

「……お前がそれほどアホ賤民だとは思わなかったよ。休息が必要なら僕でなくて、お前が憧れてる医博士か国守に直接訴えれば良かったじゃないか。僕はあの二人に逆らえないからね。それなのに、無断で出ていった挙句、あの遊び人のところに逃げ込んでたなんて」

「正常な判断ができなくなるほどの状況だったのよ。それに、あの人のこと、悪く言わないで」

「あの人、ね。どういう心境の変化なんだか」

「うるさいわよ、いちいち。どうとでも言えば?」

 そんな会話を交わした後、二人は対面しながらしばらく無言の時間を過ごした。

「勉強のやり方を変えよう」

 ようやく沈黙を破ったのは勝だった。

「どうやって?」

「夕刻から講義を始めると十分な時間が取れない。そこで課題を出しても、お前はちっとも消化できずに僕の与える基準を満たせないまま心身の限界が来て、そしてまた綾苅の元に逃げ込むんだろうね。講義は一旦中断されてしまう。そんなことの繰り返しはもうたくさんだよ」

 そこで勝はこう提案したのだ。講義は夕刻からではなく朝餉が終わってから開始し、午後も続ける。それから自習時間にも自分が曹司に控えていて木葉の疑問に答えていくことにする、と。これなら就寝時間は戌の刻で十分に眠ることができる。いつもの小試は翌朝の講義開始の際に行うのだ。

 勝の言ったことをよく考え直してみた木葉は、勝に聞き返した。

「このやり方だと、勝の拘束される時間が長すぎるんじゃないの? 昼間の自分の講義は?」

「基本的に僕が受講しなければならない教科は全て終わってる。今は任意で聴講しているか、施術の練習を自主的に他の医生たちとやってるだけだから問題ない。僕の都合を優先するのは当然だから、お前に気にされることじゃないね。昼間の自習時間にも僕は勉強できるし」

 木葉想いの提案のようで、勝は実に狡猾だった。講義の時間が夜から朝になっただけで、昼間の行動はそれほど制約されない。自分が必要だと思ったら、医学舎の講堂に行けばいいのだ。それに、医学舎に縛られるのは木葉の方だった。朝から晩まで勝の監督下に置かれるということは、実質的に軟禁状態である。睡眠時間も確保されているため、綾苅の家に逃亡する理由もなくなるというわけだ。

 体力が温存できるという利点に心を奪われた木葉は、この提案をすぐに承諾した。

「意外と親切じゃないの。できれば初めからこういう形式にしてほしかったけど」

 おそらく初めて木葉から微笑みを見せられた勝は、どこまで馬鹿な女なんだろうと心の中で悪態を付きながら反射的に視線を逸らした。

 まるで太陽の光を直視することができないのと同じように。

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