第4章 国府動乱 (1)見えない恐怖

それぞれの道を歩み出した下総国の若者たち。しかし奇妙な出来事が続けて起こり、その裏には前国守の影が見え隠れするのであった……


    * * * * *


 腕の中で身を捩った女の長い髪が鼻先をかすめて、大足おおたりは顔をしかめた。少しくすぐったい。露わになったふくよかな胸元にかかる黒髪を一房つまんで、肩の向こう側に流しやると、女は頬を膨らませて大足に言う。

「随分とあの娘さんに入れ込んでること」

「君にしては珍しく拗ねてるのかい、朱流あかる?」

 大足が笑うと、拗ねてみせた本人も吹き出した。そう、本気であの娘、つまり木葉に嫉妬しているわけがなく、むしろ彼女の向上心や目覚ましい知識獲得を姉のように楽しみにしている。

 遊行女婦うかれめの朱流と国守の大足が深い仲になるには時間はそうかからなかった。国守就任の宴で、朱流は遊行女婦はこの心身は誰のものでもなく国府に仕えていると言い放ったが、お互いに湧き出る情を無視し、建前にしがみついていられるほど彼らは子供ではなかった。大人であるからこそ、避けられない運命を受け入れたとも言える。

 赴任してきた国司が都の妻を忘れて、遊行女婦を妻にすることは律違反であるが、幸い今のところ下総国府で国守を悩ませる色恋沙汰は発生していない。国守自身が遊行女婦と通じていることは半ば公然の秘密であったけれども、大足の妻は何年も前に他界しているため遊行女婦を妾にしたところで何ら問題はない。しかも二人はまだ付き合っているという段階で、その辺は大足も節度を守っていた。

「まさか勝君の厳しい試験を合格するなんて、私も半信半疑だったんだ。医博士に聞いたら、勝君は相当無茶苦茶な速度で講義をしているらしいからね」

「木葉ちゃんは本気なのね。ちょっと私の若い頃に似てて応援したくなっちゃうわ」

卜部うらべの娘と?」

「そうよ、前にもお話したでしょう。私は父に言われるまま神祇官の御巫みかんなぎを務めていて、神から力を受けていた。そのまま伊勢の大巫女と一緒に斎宮に送られることになったのだけど、私はそれがどうしても嫌でね……」

 それが祭祀を司る卜部の娘に生まれた朱流の宿命だったが、朱流は最後の禊の段階で父や神祇官に反旗を翻した。一生、清い身のまま伊勢の地に閉じ込められて代々の大巫女に仕えることなど、一人の若い娘にとっては死を宣告されたようなものだ。

「だから私は伊勢へ向かう道中に逃げたのよ。そして、卜部の親戚がいる下総国までやってきた」

「立派な逃亡者だな」

 何度目かの身の上話を聞きながら、大足は朱流の首筋に接吻をする。朱流の肌は大陸の陶磁器のように滑らかで白い。

「でもね、ちょうど運よく遊行女婦を募集していたの。これは神が用意してくださったご縁に違いないと思って飛びついたのはいいんだけど、神事に従事してた小娘が歌舞なんてできるわけないでしょう?」

 朱流は当時を思い出すように、天井を見つめて言った。

「だから必死になって、期限付きという条件で雇ってもらって、死ぬ思いで先輩の遊行女婦たちから歌舞を習ったわ」

 定められた運命から決別して、新しい人生を自分の力で手にしたいという思いは、木葉のそれと同じであろう。

「木葉ちゃんにはあなたという心強い後ろ盾がいるし、仲間もいる。私よりずっとうまくいくわ」

 朱流が溜息をつくと、大足に抱き締められた。今日はいつになく大足の愛撫が激しい。朱流は本能的にそれに応えようとした。

「ね、大足さん。昨日の宴の話だけど、私も調査に手を貸すわ。私なら国衙を出入りしても怪しまれないし、昔からここの連中のことは知っているし。いざとなったらこの身をもって――」

「それは許さないよ」

 きちんと話を聞いていた大足が明確に朱流の申し出を却下した。遊行女婦の仕事は国府における饗応であって、間諜まがいの行為ではないのだ。それに大事なその身を手段として汚すことなど、あってはならなかった。まして朱流は大足の恋人だ。

「朱流、君は賢い女人だからそう申し出てくれるのだと思う。でも、租調のことは国守である私が責任を持たないといけないものだ。遊行女婦は遊行女婦の責任を、誇りを持って果たしてほしいよ」

「……あなたらしい答えね。わかったわ。ただ、何かの機会に知ることがあったら、真っ先にあなたにお伝えします」

 大足は満足して、朱流の額に口づけた。


 少し時間は遡って、昨晩の宴のことである。大目だいさかんの安倍朝臣池守が計帳使として平城へ赴くことになり、その無事を願う出立の宴だ。国司のみならず、史生、博士そして葛飾軍団長も列席している。

 真夏という季節は過ぎたが、窓や戸を開け放たなければ暑くて仕方がない。三人の遊行女婦は大きな団扇で官人たちに風を送っている。ほろ酔い加減になったところで一人ずつ歌を詠んでいき、それで形式的な宴が終わった。

月紗つきさら、酌をしてやってくれ」

「はい。ただいま」

 大足が気を利かせて、月紗を池守の横につけさせた。池守は控えめな男なので、やはり一番淑やかな月紗の接待が相応しいと思ったからだ。恋人の朱流は度胸もあるので、勝手に相手を見つけて酌をしたりお喋りをしている。

 底抜けに明るい大海おおみは軍団長のお気に入りのようで、さっきからずっと引き留められている。軍団長の土師宿禰狛はじのすくねこまは女人には愛想が良く、見た目も精悍な青年なので、この男の普段の気分屋で横暴な面は大海は知らない。

「お前は怖いものがあるのか、大海?」

「すぐには思いつきませんけど……」

「じゃあ、一つ怖い話をしてやろう。手児奈てこなのことは当然知っているだろ?」

「ええ、入江に身を投げたかわいそうな昔の乙女ですわね」

 大声で話す軍団長の口から手児奈という言葉が聞こえて、大足と国介の忌部小路いんべのこみちは顔を見合わせた。手児奈と言えばしばらく前になるが、入江にその亡霊が出現するという話があったではないか。

「それでなぁ、手児奈は現世に名残があって、どうやら入江に姿を現すらしい」

「あら、どんな名残なのでしょう」

 怖がらせようとしているのに大海は怖がらないどころか興味を持ったようだ。

「それはわからねぇよ。軍団の連中に肝試しで手児奈の亡霊と会ってこいと命じたんだが、どいつもこいつも腑抜けで――」

「あ、あのー。その話はもうこの辺で止めませんか」

 話の腰を折ったのは意外にも小掾しょうじょうの知麻呂であった。知麻呂は申し訳なさそうに軍団長の顔を窺っている。

「何だ何だ、少掾殿はこの手の話が苦手なのか?」

「はぁ、情けないことですが、どうも霊界の話は遠慮したいものです」

「良かった! 大海さんがちっとも怖がらないから、私いつこの話が終わるかと思ってたんですよ」

 池守の隣から月紗がほっとしたように知麻呂の方を覗いた。そして、月紗は話題を変えようと国の市のことを話し始める。

「ところで、最近、市に行ってちょっと困ったことがあるんです」

 おっとりした美しい遊行女婦に、困ったことがあると言われて見過ごすことができる男はいないだろう。その場にいた国府の官人たちは一斉に月紗に視線を向けた。

「私達、よく白粉と紅を買うのですけれど、以前に比べて値が高くなってる気がして。こういう仕事だから買わないわけにはいかないでしょう」

「そうねぇ、確かに質が良くなってるわけではないのに。他の化粧道具や絹の値も同じくらい高くなってると思うわ」

 朱流の言葉に大海も月紗も頷く。すると小目しょうさかん佐流さるが野菜などの値は変わっていないのではと言った。大足も市から報告される日常的な物資の値が上がったとは認識していない。

「つまり、贅沢品だけが値上がりしているということだな。月紗、話をしてくれてありがとう。化粧道具のことなどは我々では一向に気が付かないからね」

 月紗は役に立った嬉しさに顔を綻ばせ、それを見た佐流が国守に申し出た。

「国守、この件はまず私が市に出て調査いたします。大目は明日から平城へ行ってしまいますから、秦か物部に手伝わせましょう」

 いきなり話を振られた史生の二人であったが、日頃の文書整理とは違う外での調査は気分転換になるだろうと考えて承諾した。

「では頼むよ。美しい遊行女婦たちの憂いを取り除いてやらねばな」

 宴の席で仕事の話になってしまったところで、朱流が立ち上がって舞い始めた。大海はいつも懐に忍ばせている笛を吹き、月紗は自慢の柔らかな声で歌う。再び宴は和やかな雰囲気に包まれた。

 瞳を閉じながら恋人の舞の衣擦れの音や楽を聞き、大足は考えを巡らせている。 国守に就任してからというもの、毎日のように様々な報告が耳に入り、新たな問題が発生し、部下に対応させてきた。巡察使の時に国府や郡衙がどのように回っているかよく観察し、ある程度はわかっていたつもりだったが、国守の立場では視点が丸きり違う。

 一つ一つの問題は小さくとも、それが積もっていけば大きな障害になってしまう。前国守時代から続く下総国の貧困と暴力的な支配は国守が交代したからと言ってすぐに消滅するわけではないのだ。

(小さな問題は、大きな病の一部…… 枳美きみの暴行事件も、手児奈の亡霊も、白粉の値上がりも、そして浜梨谷の魚の大量死も。全部、俺の国で起きたことなんだ)

 大足は酒の杯を傾けながら、佐久太に命じるべき内容を頭の中で整理していた。


 一番上の姉が医学の勉強を始めると、弟や妹たちは以前にも増して仕事に精を出すようになった。というのも、姉がすごいことを目指しているのであれば、自分たちもそれなりに働かなければ申し訳ないという気持ちになったからである。きっと前国守・佐伯宿禰百足さえきのすくねももたりの配下ではそもそも賤民に前途はなかったし、国府で今以上に働こうなどという気にはならなかった。

 しかし、今は高向朝臣大足たかむくのあそんおおたりの時代である。

 問題が一切消え去ったとは言い難いが、監督官からのあからさまな嫌がらせや暴力的な管理がなくなったことは大きな進歩だった。郡司たちの横柄な態度はどうしようもないものの、国守が目を光らせているためか強制的に使役されることもなくなり、家人や奴婢たちはようやく息ができるといった感じだ。

 枳美は再び国府の機織り工房に出勤するようになり、龍麻呂は大領家の雑用をこなしつつ相変わらず国厨で官人たちの食事を作っている。

「楽しいですか、真秦まはた?」

 今にも鼻歌を歌いそうな調子で歩く真秦に光藍が声を掛けると、真秦は真っ直ぐ光藍を見つめて頷いた。

 木葉が医学舎に通うようになってから、末弟の真秦にも変化が現れた。ずっと家に引き籠っていた真秦が外に出たいという意思を示したのである。

 国内の偵察から戻った光藍は引き続き様々な調査を任されているため、真間山ままさんに引き返すわけにはいかず、龍麻呂の家に居候の身となった。そこで真秦が自称修行者の光藍に興味を抱き、光藍が外出する際にはいつの間にか後をついて来るという関係になっている。

「すっかり懐かれてるね、光藍。あいつは仏像を作るのが趣味だからさ、俗世を捨てた君はある意味憧れの対象なんろうね」

「僕は修行者だけど、仏の道というわけではないんだ。じゃあ何の道かと言われればちょっとすぐには答えられないけど」

 そうは言うものの、光藍は真秦の幼い手が生み出す木彫りの素朴な仏像が好きだった。口がきけない真秦がその思いをぶつけることができるのが仏像の作成なのである。どんな思いで木を彫っているのか知る由もないけれど、真秦の掌にちょこんと座っていらっしゃる仏像の穏やかな眼差しを見れば、真秦の世界がなんとなくわかる。

「真秦は本当に心の優しい子ですね。僕が彼だったら、やさぐれて家族に迷惑かけてるでしょう」

 真秦が生まれた時から知っている兄の龍麻呂は弟の見えている世界が、いや真秦そのものが極楽なのだということに気付いていた。

「そろそろ移動しようか?」

 ある目的地にたどり着く間に落ちている木の枝や幹をいくつか拾った真秦は、竹籠にしまうと兄たちの後ろについて歩き出した。

 目的地というのは毎回変わる。葛飾郡かつしかぐんの中にある多数の里を回って状況を見聞きするためだ。

「はぁ…… この里もしょぼくれた感じだね」

「どこも皆似たようなものです。民が潤う前に、必要な物資は郡衙で消えてしまいますから」

 里の人々からすれば見知らぬ三人組の若い男がふらっと里にやってきたとあれば、不審に思うだろうが、幼い真秦のお蔭で怪しさは薄められている。龍麻呂はしょぼくれた感じと評したが、それは控えめな表現だった。地面を掘って茅で葺いただけの粗末な家を出入りする里人は誰もがやせ細って、瞳には生気というものが欠けている。

 背の高い広葉樹の下で涼みながらしばらく里の様子を観察していると、ある家から少女が出てきて、こちらへ歩いてきた。少女の動きを目で追うと、視力の良い龍麻呂はその子の目尻が濡れていることに気付いた。

「ん、何、真秦?」

 真秦が龍麻呂の袖を引っ張り、あの少女と自分の瞳を順番に指さした。真秦も少女がどうやら泣いているらしいとわかったようだ。少女は小さく見えたので子供だと思ったが、龍麻呂たちの目の前を通過しようとした時に、真秦よりは少し年上だということが判断できた。思いつめたような憂いある横顔は無邪気な子供ではなかったのだ。

「郎女、どうかされましたか?」

 物腰の柔らかな光藍が少女に声を掛けた。お節介かもしれないと思ったけれど、調査の一環として誰かに話を聞かなければ何も始まらない。

「……誰? 修行者がどうしてうちの里に来たの。出てってよ。あんたの仲間でしょう、母さんに飲ませろって薬をくれたけど、飲んでから気を失ってずっとそのままなのよ! 母さんを元に戻して!」

 初っ端から何か重大な問題にぶち当たってしまったようだ。少女の背丈は光藍の胸元ほどで、上を見上げて光藍に詰め寄っている。

「ちょ、ちょっと待ってよ。こいつは君の言う怪しい修行者の仲間ではないと思うよ。葛飾郡衙の方に住んでる僕の友人だし、いつも一人で修行してたから。ねぇ、光藍?」

「はい。修行者が悪いことをしでかしたのなら、同じ修行者として聞き捨てなりません。どういうことか話してくれますか?」

 少女はどうしようかと迷うそぶりを見せたが、龍麻呂と光藍の間に立っている真秦の心配そうな瞳を見ると安心したのか、自分の愛称を告げた。

「私は小美祢こみね。今から薬草を取りに行こうとしてたの。それを煎じて飲ませたら母さんが目を覚ますんじゃないかと思って、毎日そうしてる」

「ああ、そうだったんだね。引き留めてしまってごめんよ」

「修行者っていうのは、いつ、どこから来たかわかりますか?」

 小美祢によると、修行者は中年の男でもう一年以上前から里周辺の森に棲んでいて、時々ふらっと里に姿を現しては薬を置いていくのだという。わざわざ修行者に会いに行く物好きもいないし、迷ってしまう危険を冒してまで森の奥深くに入る里人もいないため、修行者がどこでどのようにして生活しているかは不明のようだ。

「薬を置いていくと言いましたね。他には何か里に置いていったり、逆に持ち帰ったりするのですか? その薬を飲んだ里人はあなたのお母さん以外にいますか?」

「持って帰るものはなかったと思う。この里には病人がたくさんいるから、薬をもらった人は多いよ。でも、皆すぐに病で死んじゃったから薬が効いたのかどうかわからないの」

 どう考えても、これは国守への異状報告事項だろう。この時点で龍麻呂と光藍の考えは一致していた。

「小美祢郎女、僕も少しだけなら病のことがわかります。もし良かったら、家のお母さんの様子を見せてもらえますか?」

 光藍の言葉の後に続いて、真秦が懐から小さな木彫りの仏像を取り出して小美祢に見せた。

 ――大丈夫だよ、心配しないで。

 言葉の出せない真秦に代わって、仏が少女を励ましていた。

 地面を掘って、屋根を葺いただけの粗末な家の中には小美祢の母親が筵の上に横たわっており、その瞳は今日も開くことはなかった。

「母さん、ちょっとお客さんを連れてきたよ。光藍様が具合を診てくれるよ」

 答えがないことはわかっていても、小美祢は必ず母親に話しかけるようにしている。もしかしたら、話すことはできなくてもちゃんと自分の声を聞いていてくれているかもしれない。

「思ったより顔色は悪くないね」

 龍麻呂は小美祢の説明ぶりから、もっと血の気のない顔か変色した顔を想像していたのだ。光藍が母親の横に座り、顔の様子を確認した後、失礼しますと声を掛けてから脈を計った。

「おそらく神気が閉じ込められてしまっているのだと思います。神気を開放できればお母さんは目を覚ますでしょう」

 光藍の判断を聞いた小美祢は初めて嬉しそうに顔を上げた。

「本当!? どうすれば解放できるの? 私にできる?」

「鍼を使うので、郎女にはちょっとできませんが僕なら……」

 そう言いながら、光藍は懐から藍色の巻かれた布を取り出し、それを床に広げた。たくさんの長細い鍼が収まっている。

「いつもこんなの持ってるの?」

「そうですよ。独学ですが、読める書物はたくさんありましたから」

 知識を豊富に持っているのであれば、姉は光藍から医学を学んでも良かったのではないかと龍麻呂は思った。聞くところによると大領の甥である医生大私部勝は相変わらずの高圧的態度で、木葉に無茶苦茶な指導をしているらしいではないか。姉は指導を開始して二日目から医学舎に寝泊まりするようになり、数日おきにしか自宅に戻ってこない。姉がそれを望むなら龍麻呂が何かを言う筋合いはないのだが、やはり根を詰めて勉強しているのは家族として心配で仕方がない。

「龍麻呂、お母さんをちょっと俯せにしたいので手伝ってください」

「あ、ああ、わかった」

 ゆっくり丁寧に小美祢の母親を俯せにさせると、今度は光藍は鍼を布から抜き出して、母親の耳と首筋に軽く打ち込んでいった。光藍以外の三人は初めて鍼治療を目にして、ぎょっとしている。

「心配しなくていいですよ。みんなが想像するような痛いものではありませんから。しばらく動かさないでこうしておきましょう」

 光藍の指示で母親の様子を見守ることになり、真秦は自分が持っていた仏像をその枕元に置いた。

「あのさ、光藍。例の怪しい修行者が持ってきた薬を見せてもらったらどうかな? 僕はちっともそういう知識はないけど、光藍なら見れば薬の種類とかわかるんじゃない?」

「そうですね。郎女、残っている薬はありますか?」

「うん。捨てなくてよかった」

 竹籠の物入れから取り出された薬は、乳白色の粉で少し透明な青の粒も混じっている。臭いはというと薬草を何種類も使ったような感じだ。

「ちょっとこれは預かっても良いですか? 詳しく調べるには持ち帰らないと」

「どうぞ。そんな怖いもの、家に置いておくのはやっぱり嫌よ」

 それから龍麻呂は小美祢に修行者の情報を再び尋ねた。里に出てきた修行者がそこで何をしているのか。

「んー、何をしているんだろう…… 私は忙しくてあんまりじっくり修行者のことなんか気にして見たことはないんだけど…… あ、思い出した。これは母さんが言ってた話で、修行者は里の入口とか、ちょっと里から離れた路上に立って、何かを訴えてたって」

「訴え?」

「うん。仏の教えに従うべきだ。今の世の中は仏の道から逸れている、って」

 一見もっともらしい主張だが、遠回しに治世者を批判している危険な言説だ。まだ少女の小美祢にはそれが理解できていないらしいが、光藍はますますこの修行者に注目せざるを得ないと判断した。治世者――それは行きつくところ、平城宮に君臨する徳と美を兼ね備えたというあの女帝なのだ。

 一刻ほど経ったが、母親の様子に変化は見られない。光藍は鍼を抜き取って、龍麻呂と共に母親を仰向けにした。真秦はさきほど拾った木の枝を使ってまた仏像を彫り始めている。

 だいぶ日が傾いてきて、炉に火を入れると家の中がぼんやりと明るくなった。小美祢が何か食べるものをと探している間に、母親に変化が現れた。

「手がわずかに動きましたね。龍麻呂、わかりましたか?」

「うん。あ、頭も動いた!」

 ずっと死んだようにぴくりとも動かない日が何日も続いていたのだが、母親は自分の意思で体を少し動かしたのだ。小美祢はその動いたという母親の手を握りしめた。

「すごい、光藍様は本物の修行者だわ。母さん、ちゃんと戻ってきて。もう一度、目を覚まして」

「僕たちは一度、帰ります。また明日来て、鍼治療しましょう。すぐに目覚める方が危険です」

「お願いします。母さんを元に戻してください」

「光藍に任せれば大丈夫。だから、小美祢、僕たちがここに来たことや、君のお母さんを治療していることは今はまだ誰にも言ってはいけないよ。少し動いたことも隠しておいて」

「どうして?」

「怪しい修行者がその話を聞いたら、僕たちの身が危なくなるからだよ。君のお母さんのことだって、また変な薬を持ってきて飲ませようとするかもしれないし」

 龍麻呂の言いつけを小美祢は守ると約束した。しかし、そういえば龍麻呂たちはどこから来た、誰なのだろう。今さらながらに尋ねると、光藍は龍麻呂に明かしてもいいのではと言う。

「僕たちは国守の高向大足様の命で、里の様子を見て回っているんだよ」

「じゃあ、お役人だったの? でも、龍麻呂さんたちは家人でしょ?」

「そう、僕と真秦は大領家の家人だよ。光藍は見ての通り、修行者。だからみんな官吏ではないんだ。でも国守の手伝いをしてるってわけ」

 小美祢はふーんと返事をした。あまり状況を理解していないようだが、仕方がない。彼らの正体も外には言わないように念を押すと、龍麻呂たちは里を後にして国庁へ戻っていった。


 ちょうど三人が国庁の正門前に着いた頃、佐久太に引かれた馬が大足を乗せて厩の方から歩いてくるのが見えた。龍麻呂が駆け寄って、報告したいことがある旨を伝えると、そのまま国守館へ一緒に向かうことになった。

「今日も暑かったですねぇ」

 厨女が並べた水を一気に飲み干した佐久太がつぶやいた。

「早速ですが、今日、松ノ里で見聞きしたことがちょっと特異だったのでお話いたします」

 国守が頷くと、龍麻呂は小美祢母娘のことを中心にして報告をした。そして、光藍が小美祢から受け取った薬を大足に差し出す。

「私にもこれが何かはわからないのです。いや、ある程度はわかるので、正確にはわからないというべきでしょうか。おそらく薬草の類ではありません。臭いは甘草に近いですが、青い粒は確実に鉱物です」

「鉱物か……」

「今、私は龍麻呂の家に身を置いていますので、調べる道具がありません」

「そうだなぁ。この薬を半分にして、医博士に調べてもらおう。何も言わずに、これがわかるかどうか」

「それが良いと思います」

 同意した光藍は薬を半分に分けて、新しい紙に包んで国守に渡した。

「しかし、謎の修行者は一体何者でしょうか。里の森の奥深くに住みついているという噂ですが…… 光藍が鍼治療をするのと並行して、そっちも調査すべきだと思います」

「松ノ里の森はあまり人が踏み込まないところだと聞いている。だからこそ、修行者が出入りするのだろうが、薬の件は黙って見過ごすわけにはいかないな。明らかに毒物じゃないか。民を助けるどころか害している」

「害していると言えば、修行者たちは己の主張を民に訴えているそうです。世の中は仏の道から外れているとか」

 大足はふうっと息を吐いた。どうもこの国内には深刻な病魔が巣食っているらしい。

「……元より勝手に修行の身となることは禁じられているが、修行者の中には、禁書や武器を保有している者たちもいることは皆知っているね」

 勝手に修行の身となり、実際に禁書を何冊も保持していた光藍はきまりが悪そうに国守から視線を逸らしてしまった。しかし、大足は今ここで光藍を責めるつもりは毛頭ない。なぜなら大足が言及した修行者と光藍には決定的な違いがあった。

「山や沢に逃げ込んだ民は主上の庇護を自ら拒否した者たちだ。禁書や武器を密かに保持し、最も身近な国府に仇為そうと狙っている。もっともらしく自分たちに義があると主張しているようだが、仏の名を借りた御輿批判に過ぎないんだよ。弁の立つ輩を辻に立たせ、良民たちを煽っている」

 それは光藍のことではないな、と龍麻呂も安心した。光藍は何か個人的な事情があって一心に修行をしていただけだと綾苅が言っていた。

 しかし、龍麻呂はずっと昔に修行者か何かがやはり同じように仏の道を説いているのを耳にして、何の疑いもなく「そうだ、世の中が僕たちに辛いのは仏の道を外れた国司たちのせいだ」と信じていたのを思い出した。その当時は、修行者たちが武器を隠し持っているなどとは全く思いつかなかったものだ。

「じゃあ、森の中を捜索するにしてもかなり気をつけなきゃいけないってことだね」

「護衛に真熊をつけられればいいんだが、あいにく国境警備に出てるから森の中へ入るなら無理をしないように」

 龍麻呂たちが退出すると、大足は独りごちた。

「毒の薬、謎の修行者、手児奈の亡霊、魚の死…… 見えない恐怖だな」


 時々、薄曇りの空から太陽の光が覗いたり隠れたりしている。森の中へ入ると外が大いに晴れてようが曇っていようが関係なく、薄暗くひんやりとした空気に包まれた。

「お母さんの顔色に赤みが戻って良かったね。鍼治療を知らない人が見たら、光藍は呪術師か何かだと思われてしまいそうだね」

「先駆者はそうやって恐れられていたかもしれませんよ」

 再び小美祢の家を訪問した光藍は、同じように鍼を打ち込んで、さらに香を焚いてから龍麻呂と真秦と共に森の捜索を開始した。

 里の西側に鬱蒼と茂った森が広がり、里の中を流れる小川の上流が森へと続く。里人は小川の恵みを受けるために森に入ることがよくあるが、せいぜい最初の視界に入るくらいの場所までしか足を踏み入れないという。

 確かに、その森は人を拒否しているかのように黒く冷たい帳を下している。

「怖かったら小美祢の家で待ってていいんだよ、真秦」

 しっかりと兄の袖を掴んでいる真秦を見て、龍麻呂は微笑んだ。実は自分だって恐ろしいと思っているのだが、弟の手前そんなことは言っていられない。しかし、真秦は首を横に振って同行する意思を伝えた。

「とりあえず、小川沿いに歩いてみますか。そうすれば、迷うことはないと思います」

 龍麻呂は小川をよく観察しながら歩いた。浜梨谷の小川のように、魚の不審死が見つかるかもしれないし、他の異常がわかるかもしれない。

「うーん、小川に特に変わったところはないね。来る時も里の人たちが普通に水を汲んで飲んでたりしたし」

「そうですね。次は、けもの道でも探しましょう」

 あまり入り口から遠くに離れない程度に、けもの道を探すことになり、龍麻呂は真秦と歩き回った。

 ――がさがさっ。

「!? 今、何か通ったよね?」

 思わず後ずさりすると、茂みの中から野ウサギが飛び出してきた。

「ああ、ウサギか。肝試しだよ、全く」

 森の中は涼しいのに、汗が出てくる。真秦はウサギが姿を現した茂みの前で屈んで頭を突っ込むようにして中を覗いた。そして、兄を手招きする。

「どうした?」

 代わって龍麻呂も目を凝らして茂みの奥を見ると、けもの道があった。暗くてよくわからないけれど、確かに道だ。

「光藍、こっちに道があったよ」

「僕も一つ見つけました。とりあえず今日はここで引き上げましょう。小美祢郎女の家に戻って、お母さんの様子も見なければ」

 三人が小美祢の家に戻ると、母親の表情は随分と柔らかくなっていた。

 道具を全て片付けて里を撤収し、国守との面会を待つ。

「今日もご苦労だったね。母親の具合は?」

「だいぶ神気が解放されつつあります。顔色も良くなってますし」

「それは良かった」

 国守の隣には医博士の日下部が控えており、腕組みをして眉根を寄せている。爽やかな青年の日下部がこんな風に堅苦しい表情をしているのは非常に珍しく、ただ事ではない様子が龍麻呂にも理解できた。

「この薬に含まれているものは、全て鉱物です。青い粒はおそらく藍雲玉ではないかと思います」

「藍雲玉…… 聞いたことがあります。確か、呪術に使われるのでは?」

 光藍がうろ覚えながらそう言うと、日下部は頷いた。表情は厳しいままだ。

「とはいえ、何のための薬かは私にも判断できません。毒素が強いことは確かです」

「里人にその薬を飲ませたということは、毒の影響を確かめようとしたんじゃないですか?」

「そうかもしれないなぁ」

 医博士ですら鉱物の正体を把握できない状態では、複数存在するらしい修行者の真意は全くわからない。大足は引き続き里の調査と治療を指示した。

 翌日、光藍は三回目の鍼治療を施した。今までは死んだような状態で飲食物を摂取しなくとも生きていたが、動くようになって何か腹に入れた方がいい頃だ。光藍は医博士に処方してもらった精のつく薬を湯で溶かして、少しずつ母親に飲ませるように小美祢に伝えた。

 そして昼過ぎ、小美祢が二回目に薬を飲ませた時、母親の瞼がゆっくりと開き、ぼんやりとした瞳の焦点が娘の顔に合わさった。

「か、母さん? わかる? 小美祢よ」

「小美祢……」

 その声はとても小さなささやきだったが、苦しみは伴っていなかった。母親はなぜ見知らぬ若い男たちが家にいるのか警戒している。

「母さん、この人たちは国守様のお手伝いをしていて、母さんを助けてくれたの」

 娘が笑顔で説明すると、母親は信じられないという顔をしたが、事実、自分の意識が戻ったことと娘の喜び様を見て納得したようだった。

 真秦はまた新しく作った仏像を小美祢に手渡した。今度は早く動けるようにとの祈りを込めて作った仏像だ。小美祢は掌に乗るくらい小さな仏像を拝んで、母親の枕元に置いた。

「本当に良かった。まだしばらく家から出ないように。その薬を少しずつ飲んでくださいね」

「僕たちは森へ行ってくるよ」

 小美祢の母親は口を動かして礼を言うと、安心したのか眠ってしまった。

 ひとまず憂いがなくなり、龍麻呂たちは森のけもの道へ侵入することにした。二つの道があったが、野ウサギが飛び出してきた道を行ってみる。というのも、茂みは青少年がくぐるには狭すぎたが道そのものは、光藍が発見した道よりは広そうだからだ。

「人の足跡があれば辿れるけど、それらしき形跡はないみたいだね」

 地面を注意深く確認しながらけもの道を進んだ三人であるが、これといった人の存在を確かめられる跡になかなか出くわすことがなかった。そして、道なりに行き着いた先は袋小路になっており、忽然と道が途絶えている。周りは暗い木立に囲まれていて何かが隠されているという雰囲気でもない。

「どうする? 無理にでも進んでみようか?」

 龍麻呂がそう光藍に問いかけた瞬間――

 あり得ない声がその場に響き、龍麻呂と光藍の背筋を凍らせた。

「これ以上、先に行くとこの子供の命はないぞ」

 ぐるっと見回しても三人以外の人影は見つからない。そして、何より不気味な声は十歳くらいの少年のものだった。

「真秦……? お前、喋れるのか!?」

 龍麻呂の目の前に立っている弟は、両手がだらりと力なくぶら下がり、いつもの優しい眼差しが失われ、お面が貼り付けられたような硬く無機質な表情でこちらを見つめている。生まれつき言葉を出すことができなかった弟が突然話し始めたことは、衝撃以外の何ものでもなかった。

「愚かな詮索者たちよ。進むのか、去るのか。去らねば子供は石となるぞ」

 子供というのは真秦自身のことだろう。ということは、本物の真秦ではなく誰か別の人物が真秦の口を借りてしゃべっていることになる。

「幼い子供を通さず正体を見せたらどうですか。ここには我々しかいませんよ」

「正体などない。我は森の神だ。人に静寂を乱されるのが耐えられないだけだ」

「森の神。笑わせますね」

 光藍は護符のようなものを取り出して、右腕を真秦の方へ伸ばした。呪術者ではないのだが、身を守ることくらいは光藍にもできる。結界を張れば、真秦から正体不明の何かを追い出すことができるのではないか。

「修行者にもなりきれていない者が、神に勝てると思うか」

「……くっ」

 真秦の体から青い炎のような光が立ち上がり、見えない壁が光藍と龍麻呂に押し迫ってくるような感覚に襲われる。

「光藍、仏像かなんか持ってない!?」

「持ってません!」

 そして真秦は普段から仏像を携帯しているのだが、運悪く今日は新しくできたばかりの仏像を小美祢の母親のために置いてきてしまっていた。もし携帯していれば、得体の知れない力を跳ね返すことができたかもしれないが、今そのことを後悔しても仕方がない。

「森の神だか知らないけど、真秦から出ていってくれ!」

「二度と森に入らないと約束しろ」

「ああ、もう、わかったよ! 光藍、引き返そう」

「わかりました」

 撤退を承諾すると、見えない壁が一瞬で消え去り二人の体は均衡を失って転びそうになった。それと同時に、真秦の足元が崩れ落ちて地面に横たわった。

「真秦っ」

 駆け寄ると弟は失神していた。軽く頬を叩いても目を覚ます様子はなく、くったりしている。

 真秦が倒れてしまったので、どのみち一度引き上げなければならない。龍麻呂が真秦をおぶって、けもの道を戻り、またあの狭い入口をくぐり抜け、その後は光藍が真秦を抱えて国府に戻った。混乱が生じるといけないので、小美祢の家には知らせていない。

 そのまま龍麻呂の自宅に戻ろうとしていたところ、道端で国介の忌部小路と鉢合わせた。

「おい、どうしたんだ。何かの病か?」

 手短に事情を説明すると、小路は眉間に皺を寄せて唸った。

「高向様にすぐ知らせよう。ついて来なさい」

 小路はそう言うと、光藍から真秦を引き取って自分で担いで歩き始めた。さすが左衛門大尉として腕を鳴らしただけのことはある。

 正殿に向かうと、大足は一人静かに政務の最中であった。小路が失礼しますと言って入る。

「……ただ事ではないね」

「ええ、森の調査を行っていたら正体不明の何者かが森の神と名乗って、真秦を操ったのです。森から出なければ真秦を殺すと脅してきました。意識を失っています」

 敷物の上に真秦をそっと下して横たえたが、蒸し暑いにも関わらず真秦の額や背中は一切汗をかいていない。ただ気を失っているというよりも、やはりこれは自称森の神による特殊な力なのだろう。

「これではっきりしたよ、国守様。あの森には何か隠されているんだ。でも、真秦を元に戻さなきゃ」

「例の母親の意識は戻りましたが、今度はこちらが犠牲に……」

 心配そうに真秦を見つめていた国介は、医博士を呼びましょうかと国守に提案したが、却下された。

「単に意識を失っただけではないのだから、医博士でも目覚めさせるのは無理だよ」

 国守の判断は正しかったが、龍麻呂は焦った。弟がこのまま石みたいに眠り続けるなんてどうしたらいいんだ。

 すると、大足は小路に指示を出した。

「うちにはその神の力とやらに対抗できる者がいるじゃないか。朱流をすぐにここへ呼んできてほしい」

「ああ、なるほど。卜部の娘ですからね」

 軽く一礼をすると、国介は特殊な能力を持つ遊行女婦を連れてくるために正殿を退出した。

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