第3章 夢と迷宮の狭間 (2)交差する路
久々の入江はいつになく美しかった。香取海は雄大だったが、見慣れた葛飾真間の入江の複雑な青い水の色には遠く及ばない。
巡行が終わった翌日、綾苅は龍麻呂の自宅に赴き、そのまま木葉を連れ出して入江にやってきた。葦が生い茂った場所は、適度に人の目から隠してくれる。
木葉が綾苅に嫌々ながらもついてきたということは、以前の木葉の態度と比べると驚くべき進歩である。
「木葉、俺がいない間、寂しかっただろ?」
「……何で?」
同行には従ったものの、やはり冷たい言葉は変わらない。木葉は綾苅を一瞥すると、背を向けて歩き出した。
(やっぱり隙だらけじゃんか)
本人は無視したつもりらしいが、小柄な背中が無防備だ。髪の毛をまとめ上げていて、耳元からうなじにかけた肌も露わになっている。
「話があるなら早く言ってよ」
木葉は振り返りもせずに文句を言うが、綾苅は一気に距離を詰め、木葉を後ろから抱きしめた。本気ではないので軽く木葉に振り切られてしまったが、左手首だけはしっかりと離さなかった。
「そういうことならお断りって言ってるじゃない」
「まぁ、怒るなって。ほら、これやるよ」
綾苅の左手には小さな首飾りが乗っていた。ちょうど雫のような形をした透明な石英が紐の先に下がっている。そして紐もまた桜色に染められたかわいらしいものだ。
「どうしたの? まさか市から盗んだんじゃないでしょうね」
「そこまで落ちちゃいないよ。買ったんだ。だから正々堂々と受け取ってくれ」
「買ったって、どっから銭を手に入れたの」
「禄をもらった。国守の巡行について行ったから、同行者にちょっとずつ禄が出たんだよ」
そういう決まりなんだってさ、と言う綾苅は誇らしげだった。生まれてこの方、仕事の対価に禄などもらったことはなかった。
「大足さんってすごいのね」
心なしか木葉の瞳がうっとりしているように見えた。それが輝く石英の首飾りを見てのことなのか、国守の対応を聞いてのことなのかはわからない。木葉は恐る恐る首飾りの紐を摘み上げた。
「きれい……」
「だろ?」
「ていうか、あんた何でそんなものをあたしにくれてるのよ」
首飾りを手に取ろうとして、木葉は慌てて紐から手を離した。
「好きな女に贈り物して悪いか」
綾苅はしょうがないなと、自分で首飾りを摘み上げ、木葉の首に手を回した。
「大人しくしてろよ、紐結んでやるから」
家人の生活とは無縁の美しい石は、どんなに綾苅を拒否したとしても、やはり女心としてはほしいと思ってしまう。いらないと無碍に断ったら、あの石は綾苅のことだからきっと別の郎女に渡してしまうのだろう。そう思うと、ちょっと悔しくて、木葉はぎこちなくも綾苅の申し出を受け入れて、静かに立っていた。
「……ありがとう。でもこれ他の家女とか大領の家の人に見つかったら厄介だわ」
石英など掃いて捨てるほど採取できるものなので高価というわけではないが、それでも首飾りを家女が持っているのはどう考えてもおかしなことだ。そこで木葉は首飾りを服の内側にしまって隠した。
木葉がふと顔を上げると、鼻の先ほどに綾苅の涼しげで整った顔が接近していた。そしてあっという間に腰に手を回され、もう片方の手は木葉の襟首に差し入れられた。
「や、やだっ、どこ触ってんのよ!」
「いやー、俺があげたものがちゃんと君の胸の間にしまわれたと思うと感慨深くてねぇ」
冗談めかした綾苅だったが急に真顔になり、両手で木葉の体を包んだ。
「木葉、君はいい女だよ。俺と付き合って損はない。絶対に楽しい時間を過ごせるって。俺も君が手に入ったら嬉しいな。だから今日はいいだろ? 君が好きだ」
綾苅の手が木葉のあごにかかり、どうしようどうしよう、やっぱり首飾りなんてもらわなきゃよかった――などとパニックに陥る寸前、木葉のくちびるは綾苅にまんまと奪われていた。
この口づけは完全に綾苅の勝利だった。最初に二人が出会った時にも試みたが、すんでのところで真秦に飛び蹴りを食らって不発に終わったのだ。今日は入江の奥で葦が目隠しになっている場所に来たのだ、邪魔されずに木葉と情を交わすことができる。木葉は決して美人ではないし色気があるわけではないが、それでも未亡人というある種の称号が綾苅の狩の本能を焚きつけていた。
何度かくちづけを交わした後、ほとんど抵抗を諦めたらしい木葉はぼうっと綾苅を見つめた。結局、じゃじゃ馬の木葉も他の女と同じで、時間はかかったものの、愛をささやかれれば白旗を挙げてしまったのだ。
「ほんとに匂える妹だなぁ」
綾苅は木葉の頭を撫でながら、器用に体を持ち上げて乾いた地面に横たえた。ろくに食べ物を口にしていないせいで、見た感じよりも軽い。
いよいよ木葉の腰ひもをほどこうと、手を伸ばした瞬間、綾苅の頭に激痛が走った。矢で射られたのかと思うほどの痛みに耐えかねて、綾苅はこめかみを押さえながら地面に転がった。
「くそっ、一体何なんだ」
あと少しのところで綾苅に体を許してしまうところだった木葉は、側に石ころが落ちていることに気づいた。そして、駆け寄ってくる末弟の姿を見つけた。
「真秦っ! よくここがわかったわね!」
弟は姉に向かって真っすぐに飛びついてきた。だいぶ成長して、力のこめられた腕が窮屈で痛かった。
「また君かぁ。マジであと少しだったんだぞ、君の姉さんだって俺に抱かれたいと思ってたんだからな」
綾苅が弁明すると、真秦は疑わしそうに綾苅と姉の顔を見た。
「ま、真秦っ、ごめんね、無理やり押し倒されたわけじゃないのよ。でも、来てくれて助かったわ。うっかりこいつに騙されるとこだった!」
「おいおい、その言い方はひどいな。あ、弟君、そういうことだから君は帰りたまえ。木葉、続きはもっと奥で――」
綾苅が木葉を連れ去ろうとすると、真秦が立ちふさがった。殴り合いも辞さないというように、拳を構えている。綾苅はすっかり悪い虫認定されているのだった。
「じゃあ、あたしもう行くわ。今のはなかったことにして」
さっきまでのとろとろした瞳は消え去り、木葉は冷淡な言葉を残して弟と共に綾苅の元を離れて行った。狩りに失敗したことのなかった綾苅だが、どうやら木葉は意外と大物のようだ。
弟二人と妹の寝息が聞こえる中、寝返りをうった木葉は胸に手を当てた。まだどきどきしているような気がする。顔だけが取り柄という綾苅の甘い笑顔が瞼の裏にちらついて寝つけないのだ。
(なんであいつなのよ。遊び人で有名なのに。ああもう、この首飾りやっぱり返さなきゃ。こんなのズルいわ)
葛飾郡にいれば綾苅に泣かされた郎女が数知れずということはわかっているはずだ。それなのに、くちびるを許してしまった自分が情けない。真秦が来てくれていなければ、あのまま綾苅の魔の手にかかっていたと思うとぞっとした。
綾苅のことを忘れようと、木葉は亡くなった夫のことを考えた。相馬郡での生活もここと大して変わらず、朝から晩まで郡司の屋敷で雑用に従事していた。それでも優しい男の妻になれて自分は幸せな方だと思っていた。夫が病に倒れ、あっけなくこの世を去るまでは。
(あの時、郡内でたくさん疫病で死んだ人がいたわね。葛飾の娘が来たせいだって、さんざん罵られた。あたしだってその病で子供を亡くしたのに)
そう、国府は疫病に対して何もしてくれなかった。猛威の前に無力であることはわかるが、いつだって声を持たない民たちは斬り捨てられてきた。最初から、諦められたように放置されて。
先日も痛ましい事件があった。
龍麻呂が木材を山に取りに行った時のこと、太日川で母と幼い子が溺れて死んだのだ。この川には橋はかかっていない。だから舟を出すしかないのだ。しかし、その舟の作りが悪く、途中の浅瀬に引っかかり、舟から投げ出された母子が流されてしまったらしい。しかも、母子は病の夫のために対岸に薬草を取りに行くところだったと聞いて、龍麻呂は落涙した。
国府には医博士や医人それに医生が勤務している。しかし、彼らが看る相手は国府や郡衙の官人やその下に連なる豪農たちで、木葉のような末端の家人のところまで医人が足を運んでくることはほとんどなかった。
(ああ、恋なんてしてる場合じゃないのよ、木葉。あたし、やらなきゃいけないことがある。綾苅や真熊は良民じゃないけど、国守は傍に置いてくれた。だったら、あたしも大足さんにお願いする機会があっていいはず)
国守に直接会うことはほぼ不可能だが、どこかで偶然に出くわすことならあるだろう。その時に、あることをお願いするのだ。無理かもしれないけれど、あの国守なら耳を傾けるくらいはしてくれるだろう。そんな楽観的な見通ししかなかったが、木葉は決意した。
すっかり綾苅のことなど忘れてしまい、木葉はいつの間にか眠っていた。
その機会は意外と早く訪れた。まだまともに働くことができない枳美に代わって、時々、木葉は国府の工房に出ていた。機織りは特に上達することはなかったが、頭数には入るので呼ばれるのだ。
ある日、工房での仕事が終わり、帰路につく途中で木葉は大足が従者一人を連れて国府を出ていったのを見かけた。そのまま自宅へ帰るらしいとわかると、木葉はそのまま後をつけ、国守館の手前まで来ると思い切って声を掛けた。
「あのっ、大足さん!」
従者の佐久太がまず立ち止まった。見知った顔だとわかると佐久太は墨空の手綱を引いて、木葉の方を向かせた。
「どうしたんだい? もうすぐ日が暮れるよ」
「えっと、お願いを聞いてほしくて、後をついてきてしまったの」
「……佐久太、もう一頭、馬を頼む。入江に行って話を聞こう」
館に入れて話を聞くこともできたが、今日は風が涼しく、外を出歩きたい気分だった。佐久太に手を貸してもらい、木葉が乗馬すると、佐久太に引かれて馬が進んだ。馬に乗ったのは数えるほどしかないが、高いところから見る景色は面白かった。
「それで、私に頼みとは?」
馬を横に並べて、大足は話を促した。
夕日が眩しく、木葉は額に手をかざしながら気前のいい国守を見つめた。大足には、この人なら安心して頼れるという雰囲気が感じられた。それは国守という地位に付随するものというよりも、年頃の娘が一回り年上の男性に対して抱く一種の憧れを含んでいた。
「あたし、自分にも力がほしいの」
「力とは? 真熊のようなことを言うね」
うら若い女人の唐突な願望に、大足は少し驚いた。しかし、木葉はひどく真剣に大足を見つめ続けている。
「真熊とは違うわ。そういう力じゃなくて、あなたが持ってるような」
「……権力ってことかい? それはまた妙なものがほしいんだね」
賤民の身分で権力がほしいと面と向かって言われたのはもちろん初めてだ。
「あなたは国守でしょ。やりたいことは何でもできる。あなたの一言で、誰かを助けたり、逆に殺すこともできるのよね。あたしは、誰かを助けるための力がほしいの! もう、愛する人を失いたくない。この前、龍麻呂から悲しい話を聞いたわ。太日川で溺れて死んだ母子のこと、知ってる?」
「ああ、知ってるよ」
「葛飾に、誰か身近に薬のことを知ってる人がいたら、あの母親は川を渡らなくて済んだ。医人が相手にしてくれない人たちを助けたいの。あたしの夫と子供は病で死んだ。誰も看に来てくれなかった。何のせいなのか、どういう薬が必要なのか、全然わからなくて…… ただ、あの人が苦しんでるのを見てるしかなくて…… もし医人が来てくれたら、助からなかったかもしれないけど、あんなに苦しむことはなかったかもしれないでしょ」
話をしているうちに、当時を思い出したのか木葉は大粒の涙を流し始めた。指先で拭い、呼吸を落ち着かせると、木葉は強い意志を瞳に湛えて大足に言った。
「お願い、あたしを女医にして。何でもするわ。どんなに勉強がつらくても耐えて、乗り越えてみせる。国に一人も女医がいないのは変よ。他の国がどうなのか知らないけど、国が女医を抱えていてもおかしくはないでしょう?」
何もかも型破りなお願いだった。賤民が直接、国守にお願いを訴えることも非常識だが、それは大足が普段から賤民に対しても寛容に振る舞っているのだから目をつぶるとして、いきなり女医になりたいとは。
「女医になって、どうするんだい? 医人は元々、国府や郡衙の官人の診察が仕事だよ」
「だから、あたしは官人として女医になるんじゃなくて、自分で自分のために女医になるの。助けたいのは、見向きもされないあたしたちみたいな人間だから。民を守ってこそ、国があるのよ」
最後の言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。たぶん、亡き妻の鈴がそんなことをよく口にしていたのだ。木葉の真摯な瞳は、まさしくいつも民を気にかけていた鈴と同じ力強さと輝きを放っていた。
「医学は独自に習得することが許されている。宮中でも女医は基本的には賤民から選ばれる。従って、私は家女の君が独自に医を学ぶことを禁じる理由はない」
大足は敢えて堅苦しい言葉で告げた。自分自身を納得させるためでもある。
「てことは、あたしにもできるのね?」
「ああ、ただし博士の役割をする人物が必要だね。君は書物を読めないだろう」
ここまで言って、大足は既に木葉の無茶苦茶な願いを引き取る覚悟を決めていた。きっと、大足の敬愛する鈴の父、佐伯有若も女医の育成に反対することはないに違いない。そして、博士として個人的に木葉に医学を教授する人物も目星を付けた。
「まずは文字を学ばないとな。しかし、準備をしたいから少し時間をくれないか。十日くらいは必要だ。全て整ったら知らせるよ」
「ほんとに感謝するわ、国守様!」
木葉は朗らかに心の底から叫んだ。この時、木葉は何があっても高向大足に忠誠心を捧げようと誓った。
開け放たれた国庁の正殿にも蝉のけたたましい啼き声が聞こえてくる。一瞬の静寂の後、間の抜けた声が発出された。
「はい? あの、今、何ておっしゃいましたか」
額にじっとりとした汗を感じながら、綾苅は今しがた聞かされた国守の言葉の意味を必死に理解しようとしていた。急に大足に呼び出された真熊と阿弥太も困惑している。
「言った通りだ。綾苅は郡家の馬従から官牧の
「……俺への処罰は?」
真熊は恐る恐る訊いた。神郡である香取郡の舎人と殴り合いになってしまったことは否定できない事実なのだ。大足はまだわかってくれないのかと苦笑しながら答えた。
「だから軍団に入って奉仕しろと言ってるじゃないか。大掾が言うにはあの舎人は怪我を負わなかった。だから笞四十の刑を下すのは不適当だと。しかし、無罪放免というわけにはいかない。君はまた暴力沙汰を起こすだろう。軍団でしばかれてきなさい」
つまり、笞の代刑として兵役に就かせるということだ。笞刑で済むような軽犯罪については国守の裁量が及ぶのだ。それにしても、兵役はある意味で徒刑のようなものだから、いささか重い罰かもしれない。
ところが、真熊はこう言い放った。
「それなら、望むところだ!」
実は、真熊は国の軍団に憧れていた。いつも横目で訓練風景を眺めては羨望の念を抱いていたのだ。兵士たちはもちろん強制的に徴集された男子であるが、様々な役職があって、選抜されれば隊を率いることができるし、郡の有力者やその子弟が任命される幹部はそれなりの地位と威厳と力を持っていた。
「そう言ってくれて助かった。明日からは国衙の雑用を離れて葛飾軍団で勤務するように。期限は一年だ」
「わかりました」
嬉しそうに返事をした真熊であったが、軍団長である
「国守様、牧子ってやつはどうすれば?」
「ああ、下総国には多くの官牧があるのは知っているね。国府から一番近い菊野牧はここの北側にあるんだが、そこで馬を育ててほしい。郡家の厩の馬従とは目的が違うが、どうだい? やってみるかい?」
「……あー、まぁ、やれるかわからないですけど。いい加減、郡家の馬の世話も飽きてきたところだったし」
真熊と違ってそれほど積極的ではなかったが、惰性で生きてきたことを考えれば、転属もありかなという気がする。綾苅は少領の家人であったが、代々、馬の扱いに長けているので郡家に奉仕させられてきた。その代りに少領の懐には郡からの報償が入っていた。微々たる額だがないよりもマシだということなのだろう。だからその報償が手に入れば、家人がどこで働こうが少領にとってどうでもよいことだった。
「阿弥太、君が軍団に納入した刀のことだが、あれを試しに兵部省へ送ってみた」
「ええっ、いつの間に」
思いがけない話を聞いて、阿弥太は驚いてしまった。自信を持って作った刀だがまさか中央に渡るなどとは考えたこともなかった。
「兵部省は何と言ったと思う? このような立派な刀を今まで下総国内で独占していたのは甚だ遺憾である、だそうだよ」
「はぁ、それはお褒め下さったということですか?」
大足は頷いた。阿弥太の刀はその実直な性格が反映されているのか、丁寧で美しく、そして使い手のことが考えられて仕上がっていた。
「君は鉄製武具をずっと一人で作ってきたようだけど、今後は同じような技量を持つ者を増やしたい。鍛冶工房長の元で他の官戸を指導するように」
恐れ多く畏まっている阿弥太の肩を、真熊が叩いた。真熊も阿弥太の手が生み出した刀が好きだった。真っ直ぐ伸びた鈍色に輝く鉄の刀は一度見たら忘れられない。それを腰に佩けるのは幹部だけだったとしても、阿弥太の刀を持っている葛飾軍団はそれだけで魅力的に思われた。
「詳細は追って知らせるよ。ところで、木葉から話を聞いているかな?」
「木葉? あいつが何かあったんですか?」
「まだ伝えていないんだね、あの娘は。木葉も新しい道を歩く選択をしたんだ。女医のね」
大足が告げたことは三人にとって青天の霹靂であった。女医って女の医人のことだよな、いきなりどうしちゃったんだよ…… そんな考えが三人の頭を駆け巡った。
(あいつ、最近ずっと大人しいと思ったらそんなことを決めてたのか)
綾苅は思い当たる節に気づいて納得した。しかし、医学の知識など全く知らない賤民の女が目指すようなものではないだろう。綾苅は内心では、どうせすぐに音を上げるなと小馬鹿にした。きっと、大足という立派で優しい国守様に感化されて熱に浮かされているだけに違いない。
「で、誰が木葉に医学を教えるんですか? もしかして国守様、医学にも通じてるとか?」
真熊が肝心なことを尋ねると、大足は「いや、私はそこまで何でも屋ではないよ」と否定し、一人の人物の名を告げた。
「私なんかよりも適任者がいるよ。医生の
「はあっ。ちょっと待てよ」
相手が国守であることも忘れて綾苅は抗議の声を上げた。勝と言えば、態度だけでかくて頭から賤民を見下しているあのひ弱そうな奴ではないか。木葉に対してもさんざん馬鹿にした言葉を浴びせ、綾苅に至っては自らが拒否したのが原因だが、病気をうつされたかもな、などと愚弄して診察を放棄している。
「あの医生がまともに木葉に勉強を教えるわけないじゃないか!」
真熊もまた綾苅と同じように反論した。
「あいつ自身はがり勉でひ弱かもしれないけど、大領の甥だろ? 木葉にいやがらせをして、枳美みたいになったら国守様のせいですよ。てきとーでいいから国守様がなんとなく灸とか薬草とか教えてやったら、あいつ満足しますから」
本気で綾苅は木葉を好いているわけではないが、友人の姉だし、やはりこれ以上不幸になってはほしくない。
「心配性だな二人とも。私は勝君の能力を信頼しているし、伸ばしてやりたいんだ。誰かを指導するというのは自分も成長することになるからね。それに、勝君はひどいことをするような男ではないよ」
「やけにあいつのこと信用してますね。国守様もやっぱり同族かぁ」
「それほど気にするなら、君が勝君や他の男から木葉を守ってやればいいじゃないか。龍麻呂が綾苅が姉貴を懲りずに追い回してるって困っていたぞ。それに、真熊も腕っぷしが取り柄だろう? 木葉も安心して医学に打ち込めるなぁ」
いくら若者が反論しても、大足は余裕で笑いながら流してしまう。それどころか、おまけまでつけて返してくるのだからたまったものではない。
なにか納得行かないと思いつつも、用事が済んでしまったのでこれ以上、国守の時間を取らせるわけにはいかず、綾苅と真熊は正殿を退出したのであった。
友人二人が突然、仕事が変わったという話を聞いて、龍麻呂はあの国守は只者ではないと思った。綾苅はやる気がないだけで、馬の扱いは上等だったし、真熊が兵士になれば百人力だろう。翻って自分はというと、通常運行で国厨で官人たちへの給食を作り続けている。私的に従事させられていた倉庫群の建設もやっと終わり、今は以前に比べたらだいぶ労力は減った。
一番驚いたのはやはり姉の決意だった。家族の誰一人に相談せずに女医になる意思を固めていたのはちょっと悲しかったけれど、夫と子供と父を失った姉が立ち直るためには十分すぎる大きな目標だ。
そんなわけで、少し余裕の出てきた龍麻呂は妹の枳美の心身を回復させるために、よく一緒に外出するようになった。
「枳美、暑くない? 確かあっちの方にきれいな小川があったはずなんだ。かなり昔の記憶だから頼りないけど」
「ううん、ありがとう、兄さん。楽しみよ」
こうして家族だけで歩いている時の枳美は以前と変わらず落ち着いている。枳美は美女を陥落させることに生き甲斐を感じているらしい綾苅から逃れられた唯一の女人かもしれない。それでも最悪の魔の手にかかってしまったのだから、運命というものは皮肉だ。
「そういえば、兄さん。聞いていいことかわからないけど、兄さんには恋人がいるの?」
「な、なんだよいきなり!」
心臓が止まるかと思った。若与理のことが漏れたのだろうか? 絶対に内密にしなければならない関係で、龍麻呂も若与理も慎重にしていたはずだ。
「だって、この前兄さんが寝てる時に、寝言で若与理という名を呼んでたの聞いてしまったから、恋人のことかなって。大丈夫、家には私しかいない時だったから」
(ああ、驚いた。大領の娘ってことは知らないのか。適当にごまかすしかないな)
「それは、まぁ、葛飾の女じゃないんだ」
「へぇ……」
枳美はそれ以上詮索はしてこなかったが、なんとなく嬉しそうな顔をしていた。枳美は何か良いように勘違いしているらしかったが、龍麻呂は不意打ちのようにかつての恋人を思い出してしまい、内心狼狽していた。忘れようとしてきただけに、衝撃は大きい。
若与理が平城京へ旅立ってから、当然のことながら音沙汰はない。龍麻呂はそもそも字が書けなかったからこちらから文を送ることはできないし、まして采女として天皇に奉仕している若与理が頻繁に故郷に連絡を遣ることなどできなかった。
(たとえ若与理が任期を終えて葛飾に戻ってきたとしても、今度こそ大領が適当な男と娶せるだろうな)
それだけでも絶望的なのに、先日、阿弥太からさらなる不安を掻き立てられるような話を聞いた。今の天皇はたいへん美しい女人だそうだが、皇太子が若与理と年の近い男子だという。後宮には日本中から集められた粒ぞろいの麗しい采女が仕えている。若与理は相当に美しく、天皇が気を利かせて皇太子に与えてしまう可能性だってないわけではなかった。
「兄さん? 気を付けてよ、そこ、泥水よ」
意識が都に飛んでいた龍麻呂の袖を妹が引っ張った。危うく足を泥まみれにするところだった。
「ごめん、ちょっと考え事してた。ああ、そうそうこの奥に小川があるよ」
耳を澄ますとさらさらと心地よい小川の流れが聞こえる。子供の頃というほど昔ではないが、ここに来てから時間がたっている。しかし、やはり景色は同じだ。
「枳美、この辺りなら流れが遅いし魚も捕まえられるよ。何匹か捕って夕飯にしよう」
兄妹は衣の裾を紐で縛って、水に濡らさないようにすると浅い小川に足を入れた。真夏の暑さには水に浸かるのが一番だ。
しかし、二人はすぐに異変に気づいた。きらっと光るものが上流から流れてきて、捕まえようとしたのだが、その魚は腹を横に向けて自力で動くことはもはやなかった。
「死んでるわ」
「ああ、こっちの魚もダメだ」
龍麻呂は不思議に思って、少し上流へ歩いてみることにした。そして、ほどなく腐乱臭が鼻を突いた。
「枳美、こっちには来るな!」
突然の兄の大声にびくっと体を硬直させて枳美はその場に立ち止った。龍麻呂の視界に入ってきたのは大量の魚の死骸である。腹を見せて浮かんでいる魚が淵や岩に引っかかって折り重なるようにして墓場を作っていた。白くなっているものもあるし、奇妙な色に変色しているものもある。
魚に外傷が見当たらないので、人間に捕獲されて捨てられたというわけではなさそうだ。水は清流のように見えるが、所々、赤茶色の砂が溜まっている。ここの地質は単純な小石や薄茶色の砂でできているはずなので、上流から流れてきたのだろうが、龍麻呂の記憶には地質が変わっているということはなかった。
「どうしたの、兄さん?」
「理由はわからないけど、たくさん魚が死んでる。枳美はもう水から上がって、違う場所に行こう。祟りかもしれない」
「そうなの!? じゃあ、兄さんも早く戻って」
龍麻呂は無意識に川に両手を差し入れ、水の匂いを嗅ぎ、そのまま口に含もうとした。が、その時――
「待て、その水は飲んではだめだ!」
全く気配に気が付かなかったが、龍麻呂と枳美の間には若い男が立っていた。ごく普通の民の姿で、一瞬この辺りに住んでいる人間かと思ったがそれはしばらく姿を見せていなかった知人であった。
「光藍! どうしてここに? 一体今までどこ行ってたんだ?」
「その話は後でゆっくりしますよ。とにかく、すぐにこの場を離れましょう。この清水で足と手をよく漱いで」
光藍は背負っていた荷物から大きめの竹筒を取り出して、枳美に手渡した。意味がわからなかったが光藍の指示に間違いはないので、言われた通りに手足を洗い、龍麻呂も同じようにした。
「とにかく、国守館に行きましょう。二人とも私と一緒に」
夕飯の魚が得られなかったのは残念だが、それよりも光藍は何か隠しているようだということは薄々感じていたので、龍麻呂と枳美は大人しく従って国守館に向かった。
仕事を終えた大足が戻ってきた頃には日が落ちていて、厨女が簡単な食事を出してくれた。大足は介の小路と大掾の正成を伴って正殿に入ってきた。
「ご苦労さまだったな、光藍。体の不調や怪我などはないかい?」
「はい。特に私に関しての問題はありません」
「それは良かった。では早速、報告をしてもらおう。大掾、記録を頼む」
国守たちがやってくる間、光藍が今まで何をしていたかを説明してくれた。光藍は大足の指示によって単独で国内を歩き回り、現状視察と情報収集をしていたらしい。国守も綾苅と真熊を連れていくつかの土地を視察したが、やはり国守が来るとなると不都合な部分は隠されてしまうし、時間が足りずに本来の国の姿がわからない。
「私は修行で体を鍛えてきたから長期の移動は苦ではないし、字も読み書きできる。山野に身を隠さなければならなかったから隠密に行動するのも得意だ。それで、国守は私を隠密活動に適していると判断されたのだろうね」
そういうことだったのか、とようやく龍麻呂は光藍の長期の不在の意味を理解した。
光藍は小さく折りたたんだ紙を懐から取り出して、淡々と報告事項を読み上げていった。
「まず、全ての郡に共通して言えることですが、必要な橋や堤防の修繕が行われておらず、費用のみ消えています。理由の曖昧な…… つまり産業振興のためなどという理由で増税が行われていました。しかし、きちんと太政官符が下りています。それから、民の恣意的な徴集と労働も行われていました。特に葛飾郡、相馬郡、
黙って手元の紙に目を落としながら聞いていた大足は、一度顔を上げて、よくここまで調べてくれたなと感嘆の声を漏らした。
「さらに、印旛郡と結城郡では民が突然姿を消すという事案が発生しています。郡の民は神隠しだと言っていましたが、怪しいものです。いなくなった者たちの素性を調べたところ、皆、地主関係者なのです」
「うむ、それは十中八九、郡司らによる不当逮捕だろうな。国府も関与しているかもしれんが」
そう呻いたのは小路だ。私もそう見当を付けていますと光藍が答え、最後の報告に移った。
「さきほど龍麻呂と枳美も居合わせたのですが、浜梨谷の近くの小川に異変が生じています」
「異変?」
「はい、川魚が悉く死んでいるのです」
龍麻呂は枳美を連れて魚を捕獲するために小川に行ったこと、魚が変色して死骸となっていたことを説明した。
「どういうことかわかるかい、光藍?」
大足は腕を組みながら光藍に尋ねた。
「……魚の表面に傷はありませんでした。腹から背にかけて変色している魚が多く、水底にはあの辺にはない地質の赤茶色の砂が溜まっていました。つまり、上流から毒を含んだ水が流れてきている、ということではないでしょうか」
だから水を飲むなと光藍が注意したのだ。もしあの場に光藍がいなければ、自分もあの魚のようになっていたかもしれないと考えると、龍麻呂の背筋が寒くなった。
「さすが、真間山に籠って禁書に触れていただけのことはありますね。祟りだと無暗に恐れるのが普通なのに」
正成が面白そうに笑い、光藍を褒めた。
「しかし、どうして毒の含まれた水流となったのかはわかりません」
「そうだな。誰かが意図的に毒を流したのか、毒が含まれた水がどういうわけか流れてしまったのかそこまで突き止めなければ。引き続き調査をしてくれるね、光藍?」
国守からほとんど念押しのように言われてしまえば、おいそれと断るわけにはいかない。光藍は自分の過去の秘密と禁書保持の罪の行方を国守たちに握られてしまった時から、こうなることは予想していたし、直ちに囚人として牢にぶち込まれるよりは断然ましだと思っていた。
光藍たちを退出させると、大足は部下とともに手にしていた紙を再び覗いた。この紙は大足の下総国赴任の日に龍麻呂が命がけで手渡してきた訴え状だった。そこには、前国守佐伯百足や郡司らによる不正や理不尽な振る舞いが書き連ねられており、真偽を確かめるために光藍が裏から情報を集める役に抜擢されたというわけだ。
「光藍の報告は重要な参考情報になりますが、直接的な証拠とはなり得ません。佐伯が公費を横領していたかどうかは不明ですし、たとえ各種の費用が消えていたとしてもそれが何のために使われたかもわからない」
「国守交代の引継ぎで、正倉を確認しましたよね。その時も稲は適切に収められていましたから、横領していると疑問を呈することはできませんでしたし」
部下たちの意見はしごく真っ当で、大足は静かに頷いた。
大宝律令が公布されて十余年が経ち、大足が巡察使に任命された頃は皆恐る恐る律令をなんとか運用しようと努力していたのだが、今ではあちこちで弛緩しているらしい。
大足は嘆かざるを得なかった。天の下知らしめす天皇が国を運営するための律令を遵守することが、全ての官人に課せられた使命であるのに、天皇の御膝元を離れると国司はその絶大な権限を楯に随分と勝手な振る舞いをするようになったものだ。
「これを見ていただけますか」
小路が大足に一通の書状を手渡した。
「指示通り減税の申請を太政官に送付しましたが、却下されました」
「……前任者が下総国の生産力を上げたため、今般特別に減税の必要性を認めることはできない、か。佐伯殿の報告を鵜呑みにしているということだな」
「中納言殿が生きておられれば……」
小路は遠慮がちに言ったが、大足はたとえ中納言職にあった父が生きていても、正式な手続きを踏まずに下総国の現状を訴えるつもりはなかったし、太政官の構成員一人の一存で物事が動くのではないということはわかっていた。
宮内卿の阿部広庭を通じて天皇に話を入れることもできなくはないが、やはり同じ理由でそのやり方は大足の選択肢には入っていない。
「地道に探っていきましょう。それが我々の進む道ですよね」
上司の心情を慮って正成が締め括った。正々堂々と律令に則って、というのが我らが高向大足の流儀なのであった。
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