第3章 夢と迷宮の狭間 (1)仏の顔も……

新しい国守、大足と出会い、それぞれの運命が動き出す……


   * * * * *


 その青鹿毛の馬は惚れ惚れするほどの美しさだった。濡れたように艶に満ち、さながら甲冑そのものが動いているかのように見える。青鹿毛の馬の鼻筋を撫でながら、さすが国守に与えられた馬だと綾苅あやかりは感心した。

 普段、綾苅の世話をしている馬たちは葛飾郡衙の官人らが利用するのだが、月並みの馬でしかないし、まぁ、少しくらい放置しても死にはしないだろうという程度の世話の状態であった。

 国守の香取大社参拝の一行は、綾苅と真熊の他に少掾しょうじょう榎井知麻呂えのいのともまろ小目しょうさかん大伴佐流おおとものさる、そして国師の円順である。これに護衛の兵士や身の回りの世話をする雑任と佐久太が同行するのである。

「なぁ、なんで坊主がいるんだ? だって、参拝に行くのは香取のフツヌシって神のところだろう?」

 真熊は弓矢を入れた靫を背負い、馬を引く綾苅のすぐ後ろに付いて、小声で尋ねた。しかし、綾苅もまた坊主が同行する理由を知らなかった。

 坊主というのは円順のことであるが、彼は数年前から中央から派遣されてきた僧侶の役人で、下総国内の寺院と僧尼を監督する立場にあった。そんな人物をどうして神社参拝に連れて行くのだろうか。その理由は道中の雑談に耳を澄ませているとなんとなくわかってきた。

「……つまり、参拝のついでに国内の寺の状況も確認してしまおうってことだな」

 休憩中、綾苅が真熊に言った。

「俺には難しいことはわからんが、死んだ爺さんが『寺は腐敗の温床だでぇ』って言ってたっけ」

「へぇ、腐敗ねぇ」

 真熊の言葉を受けて、綾苅はふっと笑みを漏らした。一度国家に認められ僧侶になれば重い税が免除される。寺は国を守る代わりに、寺の関係者もまた手厚く守られる。国と民が安らかであるようにと祈り、一心に努める僧尼や寺を支える関係者たちがいることは認めよう。しかし、最近では見かけ倒しに過ぎないものが増えているらしい。

 綾苅は勝手に修行者となった親友の光藍を思い浮かべた。悟りを開けたかどうかは大いに疑わしいが、光藍はごく真剣に修行をしていたように思う。彼には悲痛な過去があり、少なくとも税を逃れるために俗世を捨てたわけではない。それなのに、処罰の対象になってしまう。

「世の中、甘くねぇよなぁ」

 そうつぶやくと、いつの間にか、真熊と綾苅の後ろに大足おおたりが立っているではないか。この男は自分たちよりも若い時分に、北陸道という地域を巡察したことがあるという。やはり住む世界が違うのだ。

「君たちは甘い世の中を望んでるのかな?」

 大足はちょうど良い具合に道端に存在した切り株に腰を下ろして、賤民の若者たちに向き合った。

「うーん、そうだなぁ。俺は楽ができるならその方がいいね。馬の世話なんてしないで、人に指図して、黙ってても禄が入ってきてさ、そんで気に入った女と遊べるの。そういう世界なら生きてもいい」

 綾苅の模範解答が返ってきた。しかし、真熊はそんな世界を否定する。

「俺は嫌だね。腕っぷしがものを言う世界に生きたい。力が全てなんだよ」

 初夏というにはもう暑すぎる季節で、真熊は袖をまくりあげ、筋肉質の上腕を露わにしていた。大足が護衛に加えたことはあながち見当違いではない。真熊を見れば誰だって一瞬は怯むだろうし、実際に組み敷かれたらひとたまりもないのだ。

「力が全てと言えば、他田古忍おさだのこおしも似たようなことを言っていたよ。ほら、少領の息子だよ」

「ああ、あいつね」

 真熊は吐き捨てるように言った。古忍もまた力が正義だと思っている男だが、真熊のそれとはちょっと違う。古忍は親が少領であるという地位と威光を笠に着て、容赦なく暴力を振るってくる。権力を振りかざす上に、弓馬が得意で剣の腕も優れている。優れていると言うよりは、力に任せて叩きつけてくるので誰も敵わない。

 一度、真熊は古忍に用を言いつけられ、意にそぐわない結果となってしまった時に死ぬほど殴られたことがあった。応戦しようと思えばできなくはなかったが、主人への反抗の罪で罰せられてしまうことが目に見えていたので、ひたすら耐えた。それ以来、真熊は密かに古忍を目の敵にしていた。

「ところで、龍麻呂の妹が襲われた話だが、古忍が彼女に懸想していたということはあり得るかい?」

 真熊の不満を聞き終わると、大足が突然尋ねてきた。

「え、古忍が犯人なのか?」

「いや、可能性を一つずつ考えているだけさ」

「それなら、あいつは違うだろうな。枳美は相手の男は中肉中背で、特にがっしりした体格じゃなかったって言ってた」

 そうか、と大足は言い、切り株から立ち上がった。先に進むために乗馬した後も、両脇に綾苅と真熊が控えていた。

「で、国守様の理想の世界は何なわけ?」

 こちらの求めるものばかり問いかけてくるので、綾苅は悪戯心で大足に訊いてみた。大足は馬上で真っ直ぐ前方を見つめながら、話し始めた。

「……ひと月ほど前だが、みことのりが下った。仏教の興隆のためには、慎みと清浄が第一である。管理の行き届かない荒れた寺院を統廃合し、寺田の独占を禁じ、適切に寺の財産管理をせよというものだ。だから今回の参拝と同時に、寺院の監査を行うことにしたんだ。仏法を明らかにして人臣をお導きになることが天皇の願い。私の理想は、天皇の理想を実現することのできた世界だよ」

 わかったようなわからないような……。真熊は首を傾げている。

「っつーか、天皇の理想以外に、自分の理想ってもんがあるだろ、国守様?」

 綾苅が生意気な口をきくと、大足は苦笑した。恐れ多いことではあるが、今、若者たちに語ったことは本当に自分の理想でもあるのだ。それでもなお、自分の理想はと問われれば、それこそ国守として探っている段階だと答えるほかなかった。だからこそ、あえて賤民の若者を従者に加え、こうして話をしているのだ。

「国守様、相馬群家が見えてきました」

 少掾が前方を指さした。相馬郡。そこはかつて木葉が十七歳の時に嫁いだ土地であった。


 宙が反転する前に、大地を踏みしめ体勢を整える。すかさず拳を作り、振り下すためにいったん手前に引く。地を蹴って目の前に相手に拳をお見舞いする直前、予期せず後方から羽交い絞めを食らった。そんな羽交い絞めなど、真熊の力ではすぐに振り払えたが、声の主が友人だったので諦めた。

「お前、馬鹿か! 何があったか知らんけど、国守の巡行中なんだから自重しろよ」

 綾苅は呆れて、友人を諭した。真熊が喧嘩をしていた相手は四人いた。皆、痩せ気味ではあるが、よく一人で四人と対峙できたものだと思う。だが、真熊にとってはこんなことは朝飯前だった。相手たちも橡色の衣を着ているところから、賤民のようだ。

「この辺で引き上げてやるが、大領様には報告しておくからな」

 そう捨て台詞を吐いて、喧嘩相手たちは立ち去った。倉庫群の間に再び静寂の風が吹き抜けた。

「あいつらは?」

「大領家の家人だよ。木葉のことを妖女とか悪し様に言ってきたから、つい……」

「はぁ? 妖女? あいつが何で」

 綾苅が不思議そうに聞き返すと、真熊は葛飾郡と相馬郡の確執を語り出した。そもそも真熊が倉庫群をうろうろしていたのは、国守と相馬大領が面談をしている間、従者たちは暇だったからだ。

 そこへ先ほどの四人組がやってきて、真熊が国守に付き添う葛飾郡の官戸だと知ると、木葉を妖女と罵り、敵意をむき出しにしてきたという。なぜ木葉が批判されていたのか。

 それは木葉がかつて相馬郡大領の家人に嫁いだことが原因だった。大私部石麻呂おおきさいべのいしまろすなわち葛飾郡大領と相馬郡大領は懇意の仲であり、そのため越境した家人どうしの婚姻が許されたのだが、木葉の夫が病で亡くなると両郡の関係は一変した。

「あいつの夫が死んだ後、相馬郡でも死人が相次いだんだ。木葉は赤ん坊も亡くしたけど、そういう女は他にも何人もいた。それで、いつの間にか外から来た木葉のせいだってことになって、木葉は相馬郡を追い出されるようにして葛飾に戻ってきたんだよ」

「そうだったのか。さすが官戸だな。俺はそんな話まで知らなかったよ」

 さらに同時期、両郡の間で租税の融通についての摩擦が発生しており、余所者の木葉への風当たりが強くなったのはある意味自然な流れであった。さすがに国守への対応は礼儀に従い丁寧であったが、下の者たちの間では従者の葛飾郡の賤民たちは憎悪の対象となった。

 国守が自ら赴いて郡内の寺の現状を調査し、翌日の朝、相馬郡を発つ時も大足は真熊の喧嘩事案については何も言ってこなかった。大領を通じて話は伝わっているはずだが、どういうわけか知らぬ顔をしている。

「相変わらず、お前より美しい女はいないね」

 綾苅は寄り添う肢体の黒々とした長い毛に指を絡めてため息をついた。すると賞賛された相手は嬉しそうに大きな瞳を綾苅に向けた。

「……とうとう、馬を口説き出したのか君は」

 道中、たてがみを撫でながら馬に話しかける綾苅に、大足は突っ込みを入れざるを得なかった。さっきからずっとこの調子だ。

「いや、だって国守様。俺、相馬の郡牧を見たんですけど、あんな細い体じゃ運搬に耐えられませんよ。毛艶もひどかったし」

「そうか。確かに墨空は都でもなかなかお目にかかれないような美しい馬だからね。これを上回る馬は珍しいだろう」

 大足は用意された馬に、墨空という名をつけた。これから任期が終わるまでの愛馬になる大事な仲間だった。

「綾苅」

「はい?」

「そういう些細なことでも、今回の巡行で気づいたことがあれば私に報告してほしい。隅から隅まで見ることはできないし、下総のことは私よりも君たちの方がよく知っているだろう。今の郡牧の話は後で精査させる」

「あ、わかりました」

 大足の言葉は綾苅とそして真熊に課せられた任務であった。たぶん、雲の上の人から頼ってもらったということは後にも先にもないだろう。国守自らが、自分の目や耳となれと賤民に命じたのだ。綾苅の背中がぞくっと震えた。


 下総国は水の国だなと大足は思った。

 常陸国との境には大きな内海である香取海かとりのうみが横たわる。印旛郡の印旛浦や手下海、常陸国の鹿島流海や香澄流海と全てつながっており、常陸国へ行くには香取海を越えなければならない。しかし、良い漁場であり、交通網であり、東国東部は香取海なしでは成り立たないだろう。

「かつては印旛郡周辺が最も栄えていたそうですが、国府は葛飾になってしまいましたね。古い豪族たちの拠点を離れたかったというのもあるし、武蔵国との境を開拓しなければならないので西部に移動させたのだと思います」

 埴生郡家に到着し、少掾の榎井知麻呂が地図を使って大足に説明する。知麻呂は常に身なりを整え、にこやかで好青年を具現化したような男だった。大足の後輩の大掾とともに下総国司の中で「目の保養組」と、国衙で働く女人たちから称号を得ている。

「ご存知かもしれませんが、香取大社は鹿島大社と対になっています。香取海の入口の両岸に建っていて、まるで守り神のような配置です」

「タケミカヅチが祭られているのだね、鹿島には」

「ええ」

「蝦夷征伐のためにここから船団が出ていくということかな?」

 大足は地図上の、香取海の入口を指示し、沿岸を北上させていった。常陸国の北はすぐに蝦夷地である。

「そうなりますね。下総も常陸も前線なんですよ、蝦夷地への。下総には特にたくさんの牧がありますし」

 郡家の中には、綾苅と真熊も控えていた。正殿に賤民を上がらせるなんてと埴生大領やこちらの国司たちが止めたのだが、大足が地べたに座らせるのでいいから彼らにも話を聞かせたいと言って中に入れたのだった。

 もちろん綾苅も真熊もこのような場所で、国司や郡司の政治的な話を聞くことは初めてである。

「ではそろそろ寺を見に行こうか」

 ぞろぞろと連れ立って向かった寺は埴生郡衙の東方にあり、この辺り一帯は台地であった。すぐ北側は香取海、西側は印旛浦という水源に囲まれた形だ。さらに周辺には多数の古墳が存在している。少掾が言っていた通り、かつては政治的な力が集まっていたことがわかる。

「確かに龍が出てきそうな場所だね」

 大足は龍閣寺の中に美しく整備された蓮の池を横目で見ながら感想を述べた。

「そうなのでございます、国守様。和銅二年のことでございましたが、ある晩、龍女がこの地に舞い降り、一晩で金堂などをお建てになったのです」

 寺に財を寄付している檀越だんおちの男が腰を低くしながら大足に説明した。そして金堂に案内されると、黄金の仏像が視界に飛び込んできた。

「この薬師如来像ですが、こちらも龍女がお祀りしたものでございます」

 例のように後方で聞き耳をたてていた真熊が綾苅に尋ねた。

「龍女って誰だ? 一晩でこんなもの、建てられんのか?」

「さぁ…… 仙女みたいなもんかな。嘘くさい話だけど」

 曖昧に返事をすると、隣からひどく馬鹿にしたような鼻笑いが聞こえた。金堂の外に立っていたため、その音は綾苅たちにしか聞こえなかった。

「ああ、浅ましき者どもだ。龍女も知らない、その功徳も信じない」

 憐れみの一欠片すら感じさせない目つきでこちらを見ていたのは、小目の大伴佐流だった。

「何だと?! 俺たちから功徳ってやつを遠ざけておいて、よくも浅ましいだの言えるな!」

 一拍も置かずに、真熊が言い返す。マズイなこれは、と綾苅は警戒し始めたが、佐流も再び挑発してきた。

「神聖な仏法の場に、お前たちのような賤民が立ち入って、穢れてしまうではないか」

 もちろん国守の命で賤民を引き連れていることを知っての発言だ。短気な真熊は次の瞬間、拳を振り上げていた。

 当たったと思ったが、拳は宙で留まっている。何か見えない壁に阻まれたような感覚がする。力を入れてみるがびくともしない。それを知っているのか、佐流はにやりとほくそ笑んだ。

「くそっ、サルめ、お前何かしたのか」

 するとすぐに金堂の中から、少掾の友麻呂が大股歩きで外に出てきた。

「二人とも止めなさい。ここは寺の中ですよ。しかも、龍女のお祀りした薬師如来が見ていらっしゃる。小目殿も大人気ない」

 さすが歩く目の保養男、いたって穏やかかつ爽やかに仲裁に入ってきた。しかし、ちょっとした騒ぎは大足の目にも留まってしまったようだ。

「互いに言いたいことがあれば、私に言うように」

 その後、一行は境内を一通り視察したり、寺の幹部である三綱さんごうらから仏と竜王の話を聞いたりした。その間、真熊だけが綾苅が不在であることに気づいたが、綾苅はすぐにまた戻っていた。

 最後に大足が寺の帳簿を確認している時、綾苅は真熊を講堂の外に連れ出した。そして声を潜めて言う。

「なぁ、この寺、坊主がいないんじゃねぇの?」

「何言ってんだよ。さっきからすれ違ってるじゃないか。読経の声も聞こえるし、国守と向かい合ってるやつらも坊主だろ」

 真熊は不審そうに友人を見返したが、綾苅は珍しく真面目な顔をしている。

「いや、たぶんあいつらは偽物だね」

「どうして偽物って言えるんだ?」

 予想外の答えに真熊は目を白黒させている。綾苅は根拠を披露した。

「俺、三綱たちの説教みたいのの途中で席を立っただろ。厠に行きたくてさ。そんで、どこか適当な場所を探してしばらくうろついてたわけ。そしたら僧坊にたどり着いたんだよ。ここなら厠でもついてるかと思ったら、なんと僧坊には誰もいない。いないだけじゃなくて、屋根は壊れてるし、どの部屋も埃だらけ」

 つまり、恒常的に寝泊まりしている僧侶がいないということで、もちろん通常の寺としては異常である。

「な、早く国守に教えようぜ! 騙されてるってことだろ?!」

 真熊は話を聞くなり勇み足で講堂に上がろうとしたが、綾苅が慌てて引き留める。

「ほんとお前は気が早いな。今、飛び込んでいってもつまみ出されるだけだ。終わって出てくるまで待とう」

 そうして二人は大足が帳簿の確認を終えるまで講堂の外で立っていた。どのみち今、大足が繰っているあの帳簿だって改竄されたものに決まっている。

「では行こうか」

 偽の僧侶たちに先導された大足が、蓮の池の横を通り過ぎた時、いつも通りに側に控えて歩いてきた綾苅が大足に呼びかけた。

「国守様! 報告したいことが……」

「うん?」

 大足が話を聞いてくれそうだったので、綾苅は失礼かもしれないとは思いつつ、耳元に顔を近づけて情報を小声で伝えた。すると、墨空の鼻筋を撫でていた大足は「綾苅は講堂へ!」と指示するなり、鞍に手をかけ愛馬に飛び乗った。

「く、国守様?!」

 慌てふためいたのは寺の連中だった。突然、何事もなく寺を発とうとしていた国守が馬を駆って、僧坊の方向に行ってしまったからだ。わらわらと僧侶たちが追いかける。

「……上座、これはどういうことですか?」

 未使用の僧坊に視線をやりながら、大足は寺の幹部に問いかけた。上座はやたらとにこやかに返答する。

「おお、これは、お恥ずかしながら、建付けが悪く改修しようというところでして。僧侶たちは別の寺に寝泊まりしております」

「別の寺とは? 案内してほしい。それから、改修するならば国府に届け出ているはず。しかし、さきほどの帳簿には改修費の見積もりは記載されていなかったと思うが……」

 大足が畳みかけると、とたんに上座の顔が引き攣った。

「それから先ほど見せてもらった法会の記録、どの僧侶がどの法会を担当したか詳しく教えていただこうか」

 上座が口ごもっていると、「おい、こら、待て!」「逃がすな!」などという怒号が聞こえてきた。僧侶たちが猛速度で走る綾苅と真熊を追いかけている。綾苅の両手には冊子が握られていた。

 しかし、一人の僧侶が綾苅の袖をぐいと掴み取ってしまった。

「真熊! 頼んだ!」

 逃げ足の速い真熊は、綾苅が咄嗟に放り投げた二冊の冊子を振り向きざまに器用に捉えると、転がるようにして国守の前に駆け込んだ。

「ちょ、帳簿です。あいつら、帳簿を焼こうとしてたから、あ、綾苅が……」

 さすがの真熊も全速力で走り通して息が上がっている。大足は「よくやった。ありがとう」と声をかけると帳簿をパラパラと捲った。僧坊に駆けつける前に綾苅に講堂へ行けと指示したのは正解だった。

「やはりどこにも改修費の項目は見当たらない。しかも、これほどの寺田を保有しながら速やかに改修に着手していないとは、どういうわけだろう」

 龍閣寺の三綱と壇越は、国守自らが僧坊に乗り込み、帳簿を精査するとは予想だにしなかったと見え、狼狽している。

「少掾、小目、全ての帳簿を回収し、改めて国府で調査するように。寺田から得た収入の真の使途を追及するんだ」

 大足が真熊から受け取った帳簿を友麻呂に渡すと、友麻呂と佐流は顔を見合わせた。目の前で起きたことに驚いているのだろう。

 一度は袖を掴まれた綾苅だったが、大足が寺の不正を指摘したことで、下級の僧侶たちは諦めて綾苅を解放した。

「お見事でしたね、国守。失礼ですが、とても驚きました。さすがは巡察使のご経験がおありになる方だ」

 埴生郡を出て香取大社に赴く途中、少掾がしみじみと言った。しかし小目はしきりに綾苅と真熊を気にしているのか、落ち着かない。

「危うく不正を見落とすところだったよ。私ではなく、綾苅の発見のお蔭だ」

「……賤民と言えども侮れませんね」

「そう。彼らにも我々と同じように目や耳があるのだからね」

「ではあの者たちに禄を取らせるのですか?」

 佐流が納得いかないという風に尋ねた。しかし大足は否定する。なぜなら、財をもって賤民を動かせば、そのうち要求が高くなり、禄に満足しなくなれば大足の耳目であることを止めてしまうであろうから。

 今のところ、橡色つるばみいろの若者たちは、出される食事に満足するような、欲とは無縁の態度であった。

 さて、その日の夜、一行は神郡である香取郡に到着した。一晩を過ごす場所として、綾苅と真熊は厩の一角をあてがわれた。綾苅が馬従なので致し方ないことである。

「お前たち、神の馬なんだろ? なのにこんなにお粗末な体で、ひでぇな…… 何食ってんだよ。馬沓もボロいし……」

 綾苅は三頭の馬の前に立って、話しかけている。

「綾苅、意外と馬好きなんじゃないか」

 仕事をサボりまくっているわりに、やたらと馬のことを気にする綾苅を見て、真熊は笑った。

「うん、まぁ、嫌いではないね。けど、国守の墨空ほどの馬はどこにもいないな」

「そんならお前が墨空みたいな馬を作ればいいじゃん」

 この落胆気味な友人にかけた真熊の何気ない一言が、後に綾苅の人生を変えることになるのであったが、その前に事件が発生した。


 翌日、無事に国司たちが香取大社への参拝を終え、神門をくぐり出てくると、下級の官吏と思しき男や警護を担当する舎人たちが十名ほど集まり、怒号が飛び交っていた。

「神域付近であいつら何をしてるんだ。ちょっと見てきます」

 佐流がそう言って、現場に入っていった。国司がやってきたことによって、その集団は静寂を取り戻したが、一人の男が中から摘み出された。

「あれは、真熊か?」

 目を細めて判別しようとした大足の口から護衛の名が漏れた。あの橡色の衣はまさしく真熊だ。一体どうしたというのか。

 戻ってきた佐流の報告を聞き、大足の片方の眉が器用に吊り上った。それと同時に舌打ちの音も聞こえた。国守が不快な表情を露わにすることなど珍しいと、少掾は思った。ともかく大足たちは舎人の集団に歩んでいった。

「この者は私の護衛だが、どうして争いが起きたのか説明してほしい」

「国守様! 申し訳ございません。護衛とは知らず…… しかし、賤民を神域に入れるわけにはいきません。この者が無理やり神門を突破しようとしたので、我ら舎人で止めようとしたのです」

 複数の舎人たちが「俺は国守の護衛だ!」と喚きながら進もうとする真熊を掴んだが、真熊が振り払おうとして一人の舎人に拳をぶつけたというのだ。そしてそれを機に、舎人たちと真熊の殴り合いが始まったらしい。真熊の隣には、途方に暮れた綾苅が突っ立っていた。

「香取は神郡です。暴力は忌避せねばならないもの。神罰が下ります! なぜこのような賤しい者を護衛などにつけたのですか、国守」

 舎人の説明を再び聞き終わると、佐流はあからさまに賤民への嫌悪感を訴えた。

「それで、真熊の弁解はどうだ?」

 溜息とともに大足が尋ねると、それまで黙っていた真熊はふてくされた態度で答えた。

「俺は悪くねえよ。だって、国守の護衛なんだぞ。拝殿の外まで近づいたって構わないだろう。俺が舎人なら摘み出されることなんかなかった!」

「私は綾苅と共にここで待つように言ったと思うが……」

「でもさ、もしあんたの身に何かあったら――」

「それでも、拳をもって舎人を退けることが必要だったのかい?」

 至極まっとうな大足の問いかけが、真熊の怒りを爆発させてしまった。

「百歩譲って、勝手に神門の中に入ろうとしたことは、まぁ、俺に否があるのは認める。でも、俺が賤民である限り、俺が抵抗することは不可能だ。拳しかないんだよ! あんたはさ、権力があるだろ。それでこの国の誰でも従わせることができるじゃないか! 手を汚さずに、国守って地位だけで好きなことができる。俺たちは生まれた時から色んなものを奪われて、残されたのはこの拳だけなんだよ!」

 今にも国守すら殴りかかりそうな勢いで真熊は言いたいことをがなり立てた。すると大足はぐいっと真熊の腕を掴み、この若い男とは反対に静かに怒りを吐き出した。これまで大足は二度の真熊の暴力沙汰に目くじらを立てることはなかったが、今回ばかりは違った。

「君には失望したよ。いいか、賤民には拳しかないなんて考えるな。それから、国守は好きなことを何でもしていいなんてこともない。私をよく見ておきなさい。君は良民を殴った。幸いあの舎人に重傷は負わせていないが、闘殴で笞罪になる。今から君を私の護衛から外そう。国府に戻るまで大人しくしていること」

 内心ブチ切れているのかもしれないが、国守は表情を変えずに、しかし厳しい口調で真熊に告げた。綾苅は友人をかばおうと何か言うべきかと考えたが、大足の固い目つきを見て、それは意味のない試みだろうと悟った。

 そして、後方から佐流の嘲り顔がこちらを見ていることに気づき、綾苅はやるかたなく地を片足で蹴ったのであった。

 香取郡を出る時には雲一つない大空から熱い光が降り注ぐようになった。小川沿いに作られた郡の道を進むが、水面から照り返す強烈な太陽が眩しくてたまらない。

 大足を乗せている青鹿毛の墨空の皮膚は熱を帯びて、汗ばんでいる。

「国守様、ちょっと墨空に水を飲ませていいでしょうか?」

 馬従らしく綾苅が馬の健康状態を気にして、大足に尋ねた。木陰を見つけて、一行も休憩を取ることになり、大足が下馬すると綾苅は墨空を引いて小川に向かった。

「もうすっかり夏だな。ほら水だよ、墨空。お前はほんとにいい女だ。従順で誇り高くて、ちょっと汗ばんでるのも色っぽいな」

 自分も小川の冷たい水で顔を洗っていると、隣で笑い声がした。国守だ。

 綾苅は馬従なので全ての行程に同行しているわけではなく、細かい仕事の内容などはわからないが、国守は朝から晩まで郡司や寺の関係者と話し込んだり、自分の足で出歩いたりしていて、かなり働いているらしいことは察せられた。仕事はサボってなんぼだという態度の綾苅は、十日余りでよくこれだけ働けるものだと感心していたが、今隣にやって来た大足に疲労の色は見えない。それどころか、にこやかだった。

「君は馬の扱いが上手だね」

「まぁ、ガキの頃から馬の世話をしてるので。親父は駅馬を担当してましたよ」

「なるほどね。馬従の良し悪しで、こういう旅の疲れ具合も変わるんだよ。墨空は元々が良い作りなんだろうけど、ちゃんと理解してくれてる馬従のお蔭で力が発揮できてるように見えるね」

「……それはどうも」

 罵倒されこそすれ、こういう風に褒められることのなかった綾苅はそっけなく礼を言ったが、内心ではこそばゆく赤面していた。

「国守様、今までいくつかの郡を通過して官牧を見てきましたけど、正直言って牛馬が貧弱過ぎてちょっと驚きましたね。あんなひどいとは思わなかった。葛飾郡の馬はさすがに国府があるから少しはまともですが、他の馬は見るに堪えられない」

 馬の話ついでにと、綾苅は今まで見てきた官牧の様子の感想を伝えた。もしまた旱魃やら災害が起きたら馬などひとたまりもないだろう。綾苅には関係ないことだが、下総国は蝦夷征伐の前線基地として良馬を供給しなければならないはずなのに、これでは駄馬かそれ以下だ。

「それは私も同じことを思ったよ。あの貧弱な馬は蝦夷の馬と戦えない。国府に帰ったらやることが山積みだな」

「俺には蝦夷征伐とかよくわかりませんが、墨空を目にしてしまってから馬のことがどうも気になって……」

 大足は綾苅の言葉にもっともだと頷いた。確かにこの美しい良馬と比べると、官牧の馬の悲惨さには目を覆いたくなる。

 大足は水筒から清水を飲むと、話題を変えた。

「ところで、君は従順で誇り高い女人が好みなのかい? なかなか理想が高いね。でも、君が追いかけてる木葉はむしろじゃじゃ馬だろう」

 大足がからかい半分に綾苅に訊いた。もちろん馬のことを言っていたのは知っている。

「聞いてたんですか。木葉は好きですけど、からかいがいがあって面白いからですよ。俺が本気じゃないのはわかると思いますが。あ、木葉には俺なんかより気になってる男がいるんですよ」

 綾苅はからかわれた仕返しに、そう言ってみた。

「参考までに教えてほしいね」

「……国守様ですよ。絶対惚れてるって!」

 すると大足はにやりと笑って答えた。

「ほう、それは君に申し訳ない。追いかけている女人が国守を慕っているとなれば、とうてい君に勝ち目はないだろうな」

「だからあの娘は遊び相手だって言ったじゃないですか」

 どのみち木葉が本当に大足を慕っていたとしても、賤民が国守の妻になることなどできないし、大足が木葉のような小娘を相手にすることもないだろう、と綾苅は判断していた。だから今の会話はただの笑い話に過ぎない。

「そういえば、真熊はどうしてる? 私の指示通りめっきり大人しくなってしまったね」

「ああ、あれで反省してるんですよ」

「君も気づいてると思うが、真熊の動きには無駄がない。力に任せていることは否めないが、やみくもに攻撃しようとしているわけではないんだよな」

 大足は真熊に厳重注意をしていたが、見捨てていたわけではなかった。ただ、あの考えなしに暴力という手段に訴える傾向をどうにかさせたいとは思っていた。綾苅と違って、真熊には何か芯となる支えが必要なのではないかと大足は見ている。

「国府に戻ったら、真熊の処罰を考えないといかんな」

「重い罰は与えないでくださいよ。あいつを護衛に加えたの、国守様なんだし」

 この綾苅の訴えには大足は答えなかった。どういう処罰になるかは、介と大掾とも相談しなければならない。

「さて、まだ日が暮れるまでにずいぶん時間がある。進めるところまで行ってしまおう」

 こうして国司一行は再び印旛郡と相馬郡を通過し、十日ぶりに葛飾郡の国府へと帰還した。

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