第2章 運命の出会い (3)戦いの音色
今日は満月だったのか。とんだ災難に遭ったもんだ、と勝は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。全く不愉快な国守館を後にして、徒歩で自宅まで帰る道すがら勝は誓いを新たにしていた。
(僕はたとえ医師になったとしても、国衙では働かない。程度の低い連中なんかまっぴらゴメンだ。中央に行って、もっと勉強したい。名高い医師になって、いや医博士になって中央官人の仲間入りをするんだ)
自惚れだと言われても、自分には事実それだけの力があると勝は信じていた。下総国の医博士、
勝の父も祖父も下総国の医師だった。しかし、医師止まりで医博士には任命されなかった。特に国司との関係が悪かったわけでもないから中央の太政官で弾かれてしまったのだろう。そんな中、颯爽と医博士の肩書を引っさげて下総国に戻ってきた男が、日下部刀利だった。名前の通り刀のように頭が切れる。しかし、柔和すぎると言っても過言ではない顔立ちで、女人から絶大な信頼を得ていた。
師匠とも言うべき日下部が、賤民の診察を許可し月末試験に代えてその診断報告をしろというのだから仕方がない。気が進まなかったが、勝は父と祖父がぶつかった壁を乗り越えるため、診断報告を書き始めた。
不思議なことに光藍という僧侶崩れだけが健康で、他の賤民たちは当たり前だが何らかの症状を抱えていた。そもそも血となり肉となる食べ物を満足に口にしていないのだから予想はしていたことだ。綾苅という顔だけは良い男については、顔の視診だけでは何とも言えない。色んな女と寝ているようだから病気を持っていても自業自得だ。
(それにしても、あの女、随分と火照ってたな)
報告書を書く手を止めて、勝はため息をついた。なぜか筆を置いて両手を広げてみたくなった。自分がほとんど初めて一人で診た人間が賤民たちだった。そしてその手は初めて賤民の女に触れた。木葉という女はぞわっとするほど全身から嫌悪感を表し、臆することなく勝を射抜いてきた。
(まぁ、もう二度と会うこともない奴らだろう)
再び勝は自分の義務へ目を移した。診察も所見報告も勝にとっては義務の一つでしかない。正直言って医学の勉強をする目的は人を救うことではなく、高位者の役に立って名を上げるためだ。祖父も父もできなかった医博士の地位を手に入れ、こんな鄙から出て行って都で華々しく活躍してやる。
見据えた先は地位と都。筆先は淀みなく木簡の上を走り続けた。
部屋に灯された炎が大足の緋色の袍を眩く照らす。賤民の漆黒の衣は薄暗い部屋に溶け込み、さながら小宇宙を表していた。
勝が国守館を出た後、大足による事情聴取が行われた。
「私はありのままを知りたい。君たちを罰するかどうかはそれを聞いてから考える。だからちゃんと質問に答えるように」
とりあえず木葉たちにとって驚いたことは、自分たちの話をすっかり聞いてくれるという状況が用意されたということだった。普通は何か問題が発生して、意見を言おうものなら厨長だとか工房長から体罰を加えられるだけの日々だ。そういうわけで全員が一斉に口を開き、訴えが入り乱れたのはごく当然の結果だった。
「だからさぁ、佐伯は俺らのことを人と思ってねぇんだよ! でも、あんただって、どーせそうなんだろ?」
「……いっぺんに喚かないでくれ。そもそも私はまだ君たち自身のことを知らないんだよ」
大足は苦笑した。そして木葉たちはようやく一人ずつ名前と仕事を述べると、大足はもったいぶらずに革新に切り込んできた。
「この訴え状は全部読んだ。佐伯殿とどれほど関係があるのかは私が順次調べる。ところで、君たちは新しい国守である私に何を望むんだい?」
不満どころか恨みつらみは山ほどあるのに、急に望みは何だと訊かれれば言葉に詰まってしまった。無様な沈黙が場を支配していると、小さな声で枳美が求めを述べた。
「あの、私たち働くのが嫌だというわけではないんです。でも、私はあの日から仕事に行くだけでなく、外に出るのも怖くなりました。私は下等な女かもしれません。でも…… 故なく傷つけられずに生きてはいけないのでしょうか……」
「そうです、国守様。我々下等な者たちでも、家族や仲間が傷つけば悲しいんです。それだけはわかってください。毎日恐怖に怯えて生きるなんてゴメンだ」
誰よりも枳美を愛している阿弥太がすかさず付け加えた。大足が聞き返した。
「つまり、恐怖をなくせということかな」
「そう。そうよ、陽の光はどこまでも照らすのに、あたしたちには闇しか見えない。この破れた黒衣と同じ人生なのよ、緋色の絹をまとってるあなたと違ってね。一度でいいから光を見たいの。大領家の
木葉の言葉の後は誰も何も言わなかった。全て言いたいことは木葉が言ってくれたから。彼女はやはり射抜くような瞳で大足を見つめた。しかしそれは、勝に対するような怒りや嫌悪ではなく、ある種の期待が込められていた。
「……言いたいことはそれだけだね。働くのは嫌ではないと。では、明日からも同じように働きなさい」
「えっ、ちょっ、待ってくれよ」
「結局訴えを伝えたところで何も変わらないじゃないか!」
綾苅と真熊が抗議の声を上げた。すると大足が意地悪そうな口調で確認してきた。
「別の場所で軟禁してほしいのかい? それとも獄に繋がれていつとも知れぬ裁きをお望みかい?」
「……わかったよ。働けばいいんだろ、獣よりも格下の厩が俺の居場所だよ」
綾苅は納得いかないという顔つきだったが、龍麻呂には国守の真意が理解できた。明日からも同じように働くということは、龍麻呂たちが今後罰せられることはないということだった。一切の咎めがなく、解放してもらえるのだ。
「わかったならもう出ていきなさい。すっかり遅くなってしまったからね」
綾苅たちがいそいそと退出した後、龍麻呂が弟を連れて部屋を立ち去ろうとした時、唐突に真秦が踵を返した。
「どうした、真秦?」
兄の問いに答えず、真秦はそのまま進み大足の前で歩みを止めた。懐に手を差し入れたかと思うと、その手を大足に向ける。掌には小さな仏像が鎮座していた。
「これを私にくれるのかい?」
口がきけない真秦はにっこり笑みを浮かべて頷いた。真秦だって国守のような身分の高い人に直接物を差し出すなど無礼だということはわかっていた。それでも、足が勝手に動いてしまったのだ。この人に、どうしても仏像を渡さなければならないという思いが湧き起こった。気に入っていていつも持ち歩いていたものだったから、なおさら自分でも驚いたが、それは仏の意思だったのかもしれない。
「ありがとう。君が作ったんだね。来たばかりでこの館には仏像がなかったから、ちょうどいい」
大足は仏像を持っていた布にくるんで佐久太に手渡した。佐久太がどこか相応しい場所に厨子と共に安置してくれるだろう。
佐久太が仏像を丁寧に扱うのを見て、部屋の出入り口に戻ってきた真秦は満足気に兄を見上げた。
(真秦が僕たち以外の誰かのために自分から動くなんて、もしかしたら初めてかもしれないな。それに、あの国守の顔はさっきと違って、何て言うか、すごく穏やかだった)
しかし龍麻呂が軽く頭を下げて出ていこうとした時には、もう大足はいつもと同じ威厳ある国守の顔に戻っていた。
眠たい目をこすり、鉛のように重い足を意識的に動かしながら龍麻呂は国厨へ出勤した。罰せられずに解放されたものの、やはり厨長に虐げられることに変わりないのだから処罰を食らったも同然だ。
「おはよう、お前、直訴したんだって?! 身の程知らずだな!」
同僚が小声で話しかけてきた。やはり噂は広まっているらしい。龍麻呂はまあね、と答えて火に薪をくべる作業に取り掛かった。がやがやと話す声や包丁とまな板がぶつかる音や水が跳ねる音が、厨を壮大な楽団に仕立て上げる。
「おはよう、諸君」
聞き慣れない声が厨の動きを止めた。その人は厨長が立つ位置にいた。
「突然だが本日から私が厨長に就任した。前任者は病だそうだ。昨日に引き続き、新国守歓迎の宴が開かれるぞ。ぐずぐずせずに、早速取り掛かろうじゃないか」
青天の霹靂だった。あの地獄の番人のような恐ろしい厨長が交代したなんて! ざわめきが止まらない。隣にいた同僚が龍麻呂に耳打ちした。
「あのオヤジ、確か
「立候補したのかな」
「さあな…… でも、前任より遥かにまともだぜ」
同僚の耳打ちはその通りだった。厨の仕事が楽になったわけではなく、むしろ細かい指導が増えたが、体罰に苦しめられることはなくなった。
(もしかして、あの厨長が病なんてのは口実で高向殿が交代させてくれたのかな)
次々と盛り付けが終わった皿や坏が、厨女たちによって宴が行われる正殿に運ばれていく。
龍麻呂は久しぶりに、宴の様子を、色付きで想像することができた。
この日は実務的な下級官人も含めて、高向大足の新任を祝う宴が始まった。三人の遊行女婦が歌と琴と横笛で宴の始まりを盛り上げている。
皆同じように髪を頭頂部でくくり、袖無しの上着である背子は生成り色で統一されていたが、長く揺れる裳は三色に分かれていて誰がどの遊行女婦かすぐにわかる。
薄藍が
「鄙の地だと思って期待してませんでしたが、なかなかのもんですね。目の保養になります」
酒を注ぎながらそう言う男の口調には、いやらしさはなかった。心底、女人は花だと思っているような男だ。
「正成、目の保養もいいけどこっちの鴨の肉もうまいよ」
大足は回ってきた皿を正成に手渡した。
「壬申年の大戦で、祖父が武功を立てたらしいんです。らしい、っていうのは直接じいさんから聞いたわけじゃないんで…… まぁ、取り立てて才のない父や僕がこうしていられるのも、星川が大海人の大王に味方して勝ったおかげですよ」
正成は美味そうに鴨肉の串焼きを引きちぎり飲み込むと、優雅に片手を上げてみせた。遊行女婦の月紗と目があったようだ。
「あんまり愛想良くしない方がいいぞ。変に勘違いされたらお前も困るだろ、ほら、妻が
「わかってます。向こうも仕事で僕に笑いかけただけでしょう」
そう、正成はこういう奴だった。人懐こい笑みの裏には常に冷静さが控えている。だからこそ、大足は今回の赴任の人事にあたって正成を大掾に指名した。
そしてもう一人、国介として都から連れてきたのが
普通、武官の部署は左右でちょっとした競争意識を持っているものだが、小路はそうした些細な縄張り争いよりも実を取って仕事をする。
「昨日はよく眠れましたかな?」
気の置けない仲間と歓談していると、大領の
「長旅で疲れていたようで意外とすぐに寝てしまいました」
石麻呂が新国守と介の杯に酒を注ぐ。二日目の宴には国司だけでなく郡司やその子弟も参加していて、一層賑やかだ。
(こいつが大領か。龍麻呂たちの主でもあるな…… 血も涙もないとあの訴え状に書かれていたけれど、さてさてどんなものか)
大足は適当に世間話や都の話などをしつつ、郡司の為人を探ったが、向こうもなかなか慎重に振る舞っているのか、賤民たちの指摘が正しいのか否かを判断することは早急に思われた。
ところが、この後、ちょっとした事件が起きた。
「お止めください、私どもはお一人ではなくて国府に仕える身です」
遊行女婦の大海が眉根を寄せて、身を引き気味にある男に抗議した。男は無理やり大海の腕をつかんでいた。
「あれは誰だ?」
「大領の息子、徳麻呂殿ですよ。まぁ、ご覧の通り、思い通りに行かないことはなく育ってきたようなので、やりたい放題ですね……」
少し白けてしまった場を盛り上げようと、真紅の裳を颯爽と翻して朱流が立ち上がった。そしてぽんぽんと手を叩いて耳目を集める。
「さあ、皆さん、新しい国守様のために歌いましょう」
朱流は遊行女婦の中で一番“男前”と言っていい。形の良い眉と涼しげな目元、そしてよく通る透明な声が再び宴に華を添えた。月紗が歌い始めると朱流は自ら横笛を吹きながら正殿の会場を一周し、最後には大足の席に羽を休めることにした。
「昨日もお会いしたわね…… でももう一度言わせてくださいな。ようこそ、下総国へ。都に残してきた方々が恋しくなるでしょうけど、そんな時はいつでも私たちをお呼びになって。歌でも楽でもとことんお付き合いさせていただきますよ」
艶やかなくちびるが、自信に満ちた笑みを作った。しかし、朱流には媚びた風のところはなく、この場で仕事をすることに誇りを感じているように見えた。
「君は平城にいたことがあるのでは? 東言葉ではないね」
「ええ、そう。卜部の娘で、子供の頃、神祇官の
「それはまた興味深いな。神職に従事する卜部の娘がどうして他国へ来たんだ?」
大足は早速、朱流の話に引き込まれてしまった。はっきりとした物言いは聞いていて心地が良かった。
「それはね――」
新しい国守が意外と気さくに話に乗ってくれたと思った朱流であったが、「おおい、朱流!」というしわがれ声に捉えられてしまった。佐伯だ。
「どうされました、前国守様?」
大足に申し訳なさそうな目を向けて、朱流は佐伯の席に移動した。隣に座るなり、佐伯は朱流の手を取って大声で告げた。
「お前は元々、都の女だ。ここで務めを果たすのも良いが、どうだろう、私と一緒に帰京してはくれまいか。雅楽寮の舞師なんか、お前にぴったりじゃないか。ん? 人づてに職を用意してやろう」
これは明らかに自分の妾になれと言っていた。宮中の舞師という餌で釣っているだけのことだ。
「あんな下心丸出しの国司は初めて見ましたね……」
成り行きを見守っていた正成が上司に小声で言った。正殿は再び静寂が訪れ、朱流が何を言い出すか皆が待っている。
大領の息子にちょっかいを出されたのとはわけが違う。しかし、朱流は背筋を伸ばし、思い切り笑顔を作って佐伯を見返した。
「もったいないお言葉です。けれど、さきほど大海も申した通り、私は国府に仕えております。どなたの心身にも仕えることなく今まで遊行女婦として勤めてきました。ですから私はこの先も下総国府の遊行女婦でありたいと思います」
深々と頭を下げた朱流に何の迷いもなかった。大足が見ても朱流の歌舞は宮中でも通用するのに、鄙の地を選ぶことが当然だという。
「身の程知らずな奴め! あれほど可愛がってやったのに。こんな鄙の方が良いと言うのか。興ざめだ。私は明日、すぐにでもこの国を発つ。誘いを断った遊行女婦はお前ただ一人だ、帰れ!」
驚くべきことに、佐伯は遊行女婦から拒否されるとは思っていなかったようだ。恩をあだで返されたとでも認識しているのか、怒りを爆発させて坏などを床に投げつける。割れて飛び散った破片が朱流の裳に当たっては虚しく弾き返された。
「佐伯殿」
大足は不愉快な気持ちを腹の底にしまって呼びかけた。
「既にこの遊行女婦たちは私の配下の者です。退出させるかどうかは私が決めることです」
すると佐伯は「年若いくせに生意気言いおって」と毒づきながら、正殿を出ていった。大領と息子の徳麻呂や親族が後を追う。
すっかり大領関係者もいなくなってしまうと、正殿はほっと溜息が連鎖した。
「いいんですかね、あれ。明日帰ってしまうらしいですよ」
「宴に出るのは本人の意思次第だろう。もう必要な引き継ぎは終わってるし」
国守と大掾が冷静に話をしていると、朱流がやってきてひれ伏した。
「私のせいで、宴を台無しにしてしまいました。なんとお詫びして良いか……」
さきほどまでの威勢はどこへやら、朱流の声は震えていた。大足は重ねられた白くふっくらした朱流の両手をすくい上げ、微笑んだ。
「いや、よくぞ言ってくれたね。遊行女婦も国府に仕えるという大役であると、理解している者はそう多くはないよ」
大足はこの遊行女婦の心意気に感服していた。しかし同時に潜在的な不安が胸の内を掠る。自分もまたこの地を去る時に、この美しい女人に対し佐伯と同じ言葉を投げかけずにいられるのか。
咎められずに安心した朱流の黒々とした瞳から、大足はもはや視線を逸らすことはできなかった。
それはどこだかわからなかったが、木葉はうたた寝をしていた。やわらかなそよ風と太陽の光が母親の温もりのように木葉の髪や頬を撫でる。
ゆっくりと目を開けると、眩しさに何度か瞬きをした。体が宙に浮いているようなそんな感覚だ。おぼろげに見えた前方の景色は見たことのない壮大な建物で、朱塗りの太い柱や鮮やかな緑の縁に彩られている。
ふと人の気配がした。しかし、光が眩しくて上の方は見えない。若い男のようだが死んだ夫ではないことは確かだ。
(あの人だったら、私と同じように黒衣を着ているもの……)
するとその人物は途切れ途切れに何か言った。
「……起き……木葉。……は、もう……。君に愛され……、意味がない」
(誰なの? あたし、誰かに愛されてるってこと?)
よくわからないなりに顔が火照る。もっとその男の姿をよく見ようとすると、今度は別の男が現れた。けれども彼も足元しか見えない。そよ風を含んで、緋色の袍の裾がはためき、白い袴が膨らんでいる。
(あなたは…… もしかして大足さん? どうしてこんなところに?)
強烈な色は身分の違いを意識させるためのものだったが、木葉には抗い難く、魅力的な色に映った。恋焦がれるような情熱の色――。
「木葉、おいで。その川を飛び越えてごらん。迷っても私が導いてやろう」
その深みのある声ははっきりと耳に聞こえた。恐れをかき消してしまうような安心感で満たされる。
光の中から手が差し伸べられてきた。
(あたし、どこに行くんだろう。でも大足さんの手なら間違いないのかな)
そう感じた根拠はどこにもない。でも、心地よい暖かさは十分な根拠ではないだろうか。
木葉は腕を伸ばした。大きな手のひらを握り……。
パシッ。自分の手のひらが痛みとともに反動で返ってきた。驚いて前を見ると、真秦が不思議そうに見つめていた。
「あれ、真秦じゃない。うわ、あたし居眠りしてたのね!」
寝ながら腕を伸ばしてきた姉を見て、真秦がいたずら心から自分の手と合わせるように木葉の手を叩いたらしかった。
「大変! これから大足さんを入江に案内する約束してたんだわ!」
慌てて身支度にとりかかる。と言っても、賤民の木葉は黒衣しか着用できないし化粧道具などもってのほかだ。顔を洗って髪をちょっと整えるのが関の山だ。
「木葉、いるかー?」
後ろ髪を束ね終えた時、戸口で綾苅の声がした。案内には不本意だが綾苅も来ることになっていた。
「別々に行っても良かったのに……」
「つれないなぁ、相変わらず。俺より良い男はそうそういないよ?」
「自分で言うこと?」
呆れた木葉はすたすたと先を歩くが、綾苅は木葉がいちいち返事をするようになったことは進歩だと思っていた。
(この調子ならこいつが落ちるのも時間の問題だな)
綾苅は木葉が仕掛けた罠にはまっていると信じていた。
国庁の正門前で待っていると、大足が正成と連れだってやってきた。警護の資人も三人付いている。大足くらいの位階だとこうした使用人が二十名支給されるのだ。 葛飾郡もつてがあって時々都に信用できる良民の若者を資人として送り出すことがある。どのみち綾苅たちには無縁の世界だ。
「では行くとしよう」
「悪いね、無理に頼んで」
以前だったら半日でも作業場を離れることなどできなかったが、国守が家人を貸してほしいと言えば大領でも否とは言えなかった。
そろそろ長雨の季節だ。じわりと湿った空気がうっとおしい。今朝方、少し雨が降ったようで道に多くの足跡や馬の蹄、車の轍の跡が残されていた。前国守佐伯百足の一行が下総国を去って行ったということだ。
「本当に帰っちゃいましたね」
昨晩の朱流と佐伯のやりとりを思い出した正成は肩をすくめた。あの後、威張り散らす大領の息子たちもいなくなって、宴はまたなごやかに行われた。大足が朱流を許し、慰め、何事もなかったかのように明るく振る舞ったからだ。
「ふん、あんな奴、おとといきやがれってんだ」
宴の一部始終を知った綾苅は国守と大掾がいるにもかかわらず毒づいた。前国守がどんなに悪人でも誹謗中傷すれば処罰されるものだ。大足は早速、綾苅を諌めた。
「あのなぁ、私が君たちを許したからといって何をしてもいいわけじゃないんだよ。どこで誰が聞いてるかわからない。それに、私のことも信用できないかもしれないじゃないか」
「それは言えてる。佐伯だって最初は信じていいかなって思わせるような言動だったし」
木葉は不満そうにつぶやいた。だから本当はこの新しい国守もまだ信じていいのかはわからない。
けれど、初めて会った日、この国守はまず地面に押し付けられた木葉を助け起こしてくれた。人の道にもとる、と言って。真秦が突然、仏像を差し出した時も、優しい声をかけてくれた。木葉も龍麻呂の後ろから、大足が驚くほど穏やかな笑みを弟に返したのを、この目ではっきり見ていた。
「……それから、木葉。私を大足さんと呼ぶのは構わないが、他の官人がいる前ではきちんと国守と呼びなさい」
「はぁい。あっ、大足さん。あたしさっき夢を見たわ、あなたの。何て言ってたかちょっと覚えてないけど」
間違いなく、賤民からあなたの夢を見たなどと言われたら、並みの官人は不愉快になるか腹を立てるだろう。夢というのは暗示のようなもので、特に異性の夢を見たら相手が自分を想っているとも言われるくらいなのだ。
「お前な、そんな話をして国守に失礼だろ。身分をわきまえろ」
なんとなくいい気持ちがしなくて、綾苅は自分のことを棚に上げて注意した。
(何で木葉の夢にこいつが出てくんだよ。木葉が惚れるのはこの俺だっつーの)
「夢か…… 私は久しく夢は見ていないなぁ。夢の中の私は怖かったかい? 鬼のような国守だった? 夢は真実を表すらしいからね」
大足はさして気にする様でもなく、逆に木葉をからかった。うーん、鬼ではなかった気がする、と木葉が答えると、ちょうど目的地にたどり着いた。国府台からのだらだら坂を下り、幅の狭い砂州に出る。
綾苅と木葉がこうして連れ出されたのは、特に目的があってのことではなかった。国内の案内などはいくらでも郡司などがやってくれるだろうが、大足が知りたかったのは実情把握だ。
巡察使であった頃、郡司の報告と実際に里を回って見知ったことが乖離していることがよくあった。それは郡司がわざと情報を曲げて伝えたということばかりではなく、郡司にもよくわからない里や民の事情があるからなのだ。妻の鈴はその点をよく理解していた。父と共に郡内を巡回して誰とでもよく話をした。その結果、越中国の民は国守を信頼するようになった。
「ねえ、すっごくきれいな景色でしょう? でも、あたし久しぶりに見たな、この景色……」
木葉は背伸びをするように、入江の遠くまで見渡した。自由に出歩ける暇などなかった。大領家の厨女は食事の準備がない時は掃除やその他の雑用に追われ、気がつけば空は月がぶらさがる頃となっている。綾苅は適当にサボっていたが、代償の処罰が後からやってきた。
「一度見たら忘れられないな、この…… 何というんだっけ?」
「真間の入江よ!」
言うなり木葉は裸足のまま、砂州に降り立ち水際へ駆け寄った。足先を入江の澄んだ水につけると、じめっとした気分が吹き飛ぶ。その隣で綾苅が貝殻を拾ったりしていた。木葉は水際を行ったり来たりしながら入江の奥や台地の上を眺めた。
「そうだ、大足さん!」
「何だ?」
「
少し離れた場所から木葉が叫んだ。
「いいや、聞いたことないなぁ」
「じゃあ、教えてあげる!」
急いで戻ってきた木葉は国守たちを入江の西側へ誘った。
「手児奈っていうのは、この辺りにむかーし住んでた絶世の美女なの」
どのくらい昔の話なのかは今となってはわからない。ただ葛飾の真間にずっと伝わってきた話だ。
「手児奈は髪をとかさなくていつも裸足でみすぼらしい姿をしてるんだけど、着飾った豪族の娘なんかよりもずっと美しいの。それでだんだん噂が広まって、この辺りの豪族の息子たちだけでなくヤマトの豪族までも、手児奈に求婚するようになった」
その様子は、灯りに群がる虫のようだとか、港に押し寄せる舟のようだとか言われたらしい。そして男たちは手児奈のために決闘をして命を落としたり、恋煩いで本当に病にかかる者まで出てきた。
「手児奈は自分の体は一つ、誰かに嫁げば皆を不幸にすると苦しんで、とうとうこの入江に身を沈めてしまったんですって」
木葉の話を聞いた男たちは黙って波打ち際を見つめた。こんな明るく美しい海に、悲しい伝説はふさわしくないように思われた。
「……俺なら好きな女がいたら、争ってないでさっさと盗みだして逃げるけどな」
「それでどうせ飽きて捨てちゃうんでしょ」
「そこまでひどくねえよ! お前だってほんとは俺に盜まれたいと思ってんだろ?」
びしゃっと乾いた音が鳴った。綾苅は顔をしかめて左頬に手をやった。木葉はすぐに凶暴化する。
そんな二人な様子に、正成は顔を逸らして笑いをこらえ、大足は呆れている。
「ほうほう。君たちそういう関係なんですか。国守の前なんだから仲良くしなさいね」
面白がって正成がからかうと、木葉は全否定した。
「違いますってば! むしろ律違反で処罰してほしいくらいです」
何の違反なんだかよくわからないが、ともかく木葉は綾苅から離れて大足の背中に隠れてしまった。落ち着いた大人の男の背中は実に安心する。
「で、さっきの手児奈の話はそれで終わりかい? 魂がさまよって本当に思う人のところへ行ったとか、そういう続きは?」
「大足さんって意外と甘いこと考えるのね!」
木葉は嬉しそうに言った。しかし、伝説に続きはない。あれきり手児奈は海の底だ。
ところが、綾苅が妙なことを言い出した。
「ほんとかどうか知らないけど、手児奈の亡霊が出るらしいって噂は聞いたことあるな」
「え、そうなの?」
綾苅の話によれば、入江の奥深く、満潮時には砂道が水没してしまう場所でその亡霊が目撃されているという。その場所は洞穴がいくつもあり、黄泉の国へとつながっていると言われても、なるほどと思えるような雰囲気だ。
実はその洞穴の一つは、龍麻呂と若与理が密かに逢引きしていた場所なのだが、そのことは姉の木葉にも明かしていなかった。
「どうして手児奈が現れるのかな。この世に未練があるということだろうか……」
なぜか大足はわりと真面目に考え込んでいる。しかし、綾苅も実際に亡霊の姿を見たわけではないので何とも言えない。
「俺は見てないけど、亡霊を見た人は複数いるんだ。で、近づこうとすると『見るな、祟るぞ』とか『入ったら呪い殺すぞ』なんて言うらしい」
「何それ、恐ろしいじゃない。本当に手児奈なの?」
「さすがに昼間っからは現れないだろうから、今度、夜になったら確かめてみたらどうです?」
なんて恐ろしいことを言うんだ、大掾は! まるで他人事のように正成はけしかけてくるが、木葉はそれだけでも身震いした。木葉は大足に「何とか言ってよ」と助けを求めたが、大足はまだ考えを巡らせていた。
「まぁ、この件はいつか調べよう。被害は出てないんだろう?」
「そんな話は聞かないな。みんなすぐに逃げてしまうみたいだし」
手児奈の話はこれで打ち切りになった。綾苅が先頭に立って継ぎ橋を渡り、一番広い南の砂州にたどり着くと、井上駅を通り越して裏側の津へ向かった。
津はよく整備され、漁船や荷の運搬船が十隻ほど停泊している。
「俺たち、たまにこの津に来て郡家の物資を運ばされたりする。入江の奥にももう少し小さな津があるんだけど、やっぱり国府の津と言えばここだよ」
津の周辺には倉庫群が並んでいる。ここに一時的に荷が保管されるのだ。ある倉庫の前にはさきほど荷揚げされたばかりの木箱が置かれていた。
「なんだか臭いますね」
不思議に思った正成が木箱に近づいて中身を覗いた。それは薬草や鉱物が収められ、国府の医療に使用されるものだった。
「医人はこんなものを組み合わせて薬を作るんですねぇ。うわ、すごい目に染みる……」
大掾は勝手に木箱の中に小分けされた、原料がわからない紫色に黒光りする物体をつまみあげて、すぐに箱に戻した。
木葉はしばらく疑問に思っていたことがあり、この薬草の木箱を見て大足にそれをぶつけてみた。
「大足さん、あの、あたしたちを診察したあの大領の甥いたでしょ?」
「ああ、大私部勝か? 彼がどうかした?」
「あの人って、信用できるの? あたしの妹がね、大私部勝が使ってた清めの水の匂いと、暴行された時に嗅いだ男の匂いが似てたって言うの!」
「ほう……」
木葉は自分の瞳の様子を検査しようと伸ばされた医生の手から独特な匂いがしたことから、もしかして枳美を襲った男もこういう臭いだったのではないかと後で確認したのだ。すると枳美もそう思っていたと言うではないか。枳美のことを好きだと言ったその声がどんなものだったかはちょっと忘れてしまったが(むしろ早く忘れたかった)、柑橘系の鉄が混ざったような臭いは記憶が薄れない。
「絶対あいつが妹を襲ったのよ! 許せない。身も心も傷つけて…… もう一生元に戻らないのよ。あんなやつが医生だなんて信じられないわ。鬼みたいな男よ。医人を目指してる顔の裏は闇に紛れて女を狙う卑劣なやつなの!」
木葉の怒りは本物だった。勝は賤民をことさら見下して、そのくせ密かに枳美に惚れていて人知れず無理やり手に入れたのだ。どうして診察の時に問い詰めなかったのだろうということが悔やまれる。
「でもねぇ、実際に同じ匂いだったのかなんてわからないよ。勝くんに、その事件の時はどこで何をしていたか確認したりしないと。暗闇で顔を見ていないんだから、匂いだけでは判断できないね。君の妹さんには本当にかわいそうなことだと思うけれど……」
「その通りだ。決めつけてかかると後で泣きを見るのは君だよ」
「そんな……」
この二人なら賛同してくれると思ったのに。木葉は落胆した。やはり国府の官人や見習いというのは、罪から隠されてしまうものなのだろうか。釈然としない木葉であったが、大足は何か思い出したように懐から取り出して木葉に差し出した。
「これ何?」
「血の道に効く薬だそうだ。例の診察で、勝くんが君は血の道に支障があって顔や体が火照りやすくなってしまうと所見を出していた」
犯人だと信じている男の名前が出て、木葉は受け取った袋を不愉快そうに凝視した。
「もしかして、この薬もあの男が調合したの?」
「もちろん。それも含めて彼の月末の試験だからね。最終的にはちゃんと医博士に確認してもらってるから安心して服用しなさい。綾苅の所見は悲惨だったよ。見させてもらえなかったんだから、特筆すべきことはないとしか書きようがないからね」
大足は笑ったが、綾苅は舌打ちした。あんな腹立たしい奴に誰が体を見てもらうものか。綾苅もまた、枳美を襲ったのが勝だと考えていたから、この点では綾苅と木葉は共通の敵を持っていた。
受け取った薬を大足に突き返したが、国守の命で服用することと言い含められてしまい、木葉はしぶしぶ袋を腰に下げた物入れにしまった。
「津守はいるんだよね? 一言挨拶しようと思うんだが」
「あー、たぶんこっちの小屋じゃないかなぁ」
倉庫群の一番端に、質素な小屋が建っている。机と棚が一揃い置いてあるだけだ。木葉が中を覗くと、津守のじじいが居眠りをしていた。
「津守のじいさん、起きてよ!」
港を監督しなければならないのに、気楽なものだ。しかし、こんな老人が津守でも一度も事故が起きていないのは奇跡としか言いようがなかった。
「おお、何事だね」
「大足さん…… じゃなかった、新しい国守様が津守のじいさんに挨拶なさるって!」
「へえ! それは大変なこった!」
津守のじじいは慌てて帽子を被り、小屋の外へ飛び出し、砂の上にひれ伏した。
「お前が葛飾の津守だな。私は高向朝臣大足、新しい国守である。これから世話になるがよろしく頼むよ」
「へへえ!」
大足は津守を立ち上がらせると、砂州に沿って海上から視察したいと指示をした。予め知らせてはいたので、船は一隻用意されていた。そこに四人と護衛の資人二人と船乗りが乗り込んだ。
鴎が優雅に空を舞い、時折、鳶も横切っていく。水面から下を覗くと、底まで透き通って見渡せた。
「北陸道の海も美しいと思ったけど、ここはまた違う趣だな。明るい常世の国のようだよ」
「それじゃあ、まるで大足さんが常世の国に行ったことあるみたいね」
「それもそうだな。でもこういう美しい場所であってほしいと思ってるよ」
船乗りが力強く漕ぐ櫓のきしきし言う音と、水面を擦る音が耳に心地よい。津を出て北上していくと、西側にも集落がある。そこには牛や馬の官牧があった。さらに北上すると、太日川に合流する。この東側が国府の台地だ。
「ねぇ、大足さん、ご家族は連れてこなかったの?」
「そういえば、着任の日、一緒に誰もいなかったよな。佐伯は妻だけ連れてきてたけど」
二人の疑問に、正成は先輩の顔を見返した。家族のことを離すのは、大足にとってとてもつらいことなのだ。だが、大足は静かに話し始めた。
「まだ幼い息子は平城の実家に置いてきた。妻は、もうこの世にはいないんだ……」
「えっ、そうだったの……」
訊くんじゃなかった、と木葉は後悔した。自分だって夫と子供を早くに亡くして、そのつらさが身に染みてわかっているだけに、とてもひどいことをした気がして心が痛んだ。だが、大足は淡々と妻の話を続けた。それは、さらに心が締め付けられるようなものだった。
「私は若い頃、そう君たちよりも若かったかな、北陸を巡察していた時に妻と出会ったんだ。妻の父親は越中国守を務めていてね、善政で名高い方だった。その娘もまた、父親と同じように明るく賢くて、民と接する術を心得ていた。私は許しを得て娘を妻にもらって、平城京に戻ってからも幸せに過ごしていたんだ。数年後、息子も生まれたよ。けれど、ある日、仕事の付き合いの酒の席から帰宅すると、妻が血を流して倒れていた。家の者たちにも気づかれずにね」
木葉は両手で口を覆い、綾苅は大足から視線を逸らした。一体何が起こったのだろう。
「部屋がめちゃくちゃになっていたから、刑部省の連中は強盗に押し入られ、犯行を見られたために妻は殺されたのだと結論づけた。でも、私はそうは思わなかった」
その時、大足は鈴の手に小さな仏像が握りしめられているのを見つけていた。何のへんてつもない仏像だったが、それは大足にとって意味のある仏像だった。巡察使時代に最も苦労した越前国の市で買い、ことあるごとに巡察の成功を念じていた。都に戻ってからも、その仏像を手にしながらよく鈴と越前国での苦労を語り合ったものだ。
だから鈴がわざわざその仏像を手にとったということは、越前国が関係すると言っているに等しかった。もし単に恐怖に駆られて仏像に縋ろうとしたのであれば、いつも首からかけている小さな仏像を頼るはずだ。
「まさか、先輩の奥方がそんな目に遭っていたなんて…… 亡くなったことは知っていましたが」
大足は家族以外の誰にもこの話をしたことがなかった。公式には強盗殺人とされているものを、先の越前国守である佐味朝臣清麻呂が関与する復讐だとはおおっぴらには言えなかった。不審な点があれば審議をやり直すことは認められていたものの、越前国の仏像について証明できるのは大足と鈴の二人だけで、何の客観的な判断材料にもならない。
「じゃあ、高向殿は奥方が殺されてそのまま耐えてるってことなのか? 復讐しなくていいのか?」
何事にも投げやりで真剣に考えることを忌避している綾苅でも、さすがに憤りを感じた。佐味という男は大宝年間の巡察によって、国内の監督不備と不正の隠滅などを大足に指摘され、降格処分となった。さらに不正分の財を返上しなければならず大変な借金に苦しんだという。また、佐味をあてにしていた郡司らも解任され、佐味は賄賂を吸い上げることもできなくなった。
「ひっどいわね! 本当にただの復讐じゃない。それも愛する人を亡き者にするなんて卑怯すぎるわ!」
木葉は自分の身に降りかかったことのように、大足に同情し、ほとんど泣いていた。
「そんな悲しいことがあったのに、大足さんはずっと官人の道を歩いてきたのね」
「そうだね。もし私が巡察使の責任を全うせず、適当に越前国守とも馴れ合っていたら妻を失うことはなかった。妻を失ってから、人生に何の意味があるのか悩んで心が折れそうで、しばらく職を遂行できなかった時期もあったよ。でも、正しい道を進まなければいけない。天皇の官人として正しいことを行い、いかなる時も責任を果たさなければならない。それが私を選んでくれた妻も望むことだからだ。もし我々が天皇から与えられた職務を放棄したらどうなる? それこそ越前国のように民が苦しみ、税も徴収できず、国は栄えない。天皇はそんなことをお望みではないんだ。私たち官人は、決して民に孤独を与えてはいけない。だから、前に進むしかないと思わないかい?」
――正しい道を進まなければいけない。
――決して民に孤独を与えてはいけない。
一体今まで木葉にこんなことを言った官人がいただろうか。心情をさらけ出してくれる国司や郡司なんて存在したことがあるだろうか。国司が国司であることを当たり前に思い、何かと言えばすぐに「お前たちは黙っていろ、知らなくていいことだ」と言い、抵抗すれば暴力で排除する。
しかし、今、目の前に座っている緋色の袍をまとった国守は何から何まで違っている。賤民の木葉ですら、その鋭い瞳でしっかりと捉えているのだった。
(あたしは…… あたしは、この人に仕えたい。たとえこの身は死ぬまで大領の厨女だとしても、心はこの人に従おう。大足さんが苦しい目に遭ったら、あたしは死んでも助けよう。一度、死罪になるようなところを救ってもらった身だもの)
目尻の涙を拭いながら、木葉は緋色のその人をうっとりと見つめた。
国守が賤民の男女を連れて砂州周辺の案内をしたという話は、すぐに広まった。例がないことで、少掾以下の国司や郡の大領や少領たちが口を酸っぱくして忠告してきた。
「なぜ案内を賤民に、しかもあの不敬な者どもに頼んだのですか。適切な者は他におりますよ」
「適切な者にはしかるべき時に案内してもらうから、そう怒るな」
そう言って、大足は軽く受け流した。実際、正式な国府周辺の視察も行い、部下たちとの酒の席も設けて不満を軽減するよう努めた。
他方、大足は早急に着手すべきことを国介と話し合い、一人の男に白羽の矢を立てた。ある日の夕刻、国守館へひっそりと入っていた者がいた。
「再びお目にかかるとは思いませんでした。私はなぜ許されたのでしょうか」
「光藍、君はまだ真間山に住まいしているのかね」
「ええ、まぁ。行き場所がありませんから」
突然、国守から直々に一人だけ呼び出された光藍は少し緊張気味に応答している。辺りは静寂に包まれ、国守の隣には正成が、部屋の外には家人の佐久太が控えているのみだ。国介を差し置いて正成がここに呼ばれたのは、大掾の所掌が関係していた。
「君が書いたというあの訴え状だが、あれは禁書を破いて裏に書きつけたものだね」
字が読めれば誰でもそれが禁書だと判別できるのに、どうしてそのような危険な真似をしたのか、大足は興味を持った。いくらなんでも挑発的すぎる。
「……確かに禁書を保持していたことは認めます。しかし、私は禁書を読んで、国府に害をなすつもりはありませんでした。それも偶然、市で売られていたのを買い取っただけです。私が訴え状に禁書の紙を使ったのは、禁書を手に入れ、外に流す輩がいることを知っていただきたかったからです」
光藍は持参した荷物をくるんでいる布を取り除き、中身を大足に差し出した。返上した、という方が適切かもしれない。それは禁書の束だったからだ。
「お返しします。私が持っていても意味をなしませんから」
「驚いた。こんなに隠し持っていたんだね」
大足はため息をつきながら、一冊ずつ手に取った。七曜暦、天文、兵書、図書、それに預言書まで揃っている。
「明らかに律違反だ。徒刑一年は免れないな。私は君たちを釈放はしたが、それは直訴についてのみで、禁書保持を許したわけではないよ」
「……そうでしょうね」
光藍は覚悟はしていたし、大足もまた律令の執行を枉げるような真似はできなかった。越前国で指摘した隠田の主も、結局は処罰の対象となった。ただし、その後すぐに主上がいくつかの地域に恩赦の令を出したため、隠田の主は実際は刑に服することはなかったが。
どのような処置を言い渡されるのかと、光藍は静かに前を見つめた。すると大掾が口を開いた。
「僕たちは罪状を確定するために、君の話を聞く必要があります。禁書保持が徒一年というのは基準であって、事情があったりさらに隠された罪があれば刑罰は変わりますから」
光藍がそれはもっともだと頷くと、正成は一つずつ問いかけてきた。大掾の職務には裁判が含まれる。俗名、年齢、家族構成、その生死と行方、疾病、さらに自白すべき後ろめたいことはないか、言っておきたいことはないか等々。それらに淡々と嘘偽りなく答え終ると、今度は大足が尋ねた。
「では、なぜ君は俗世を捨て、修行者の道を選んだのか?」
とうとう訊かれてしまった。光藍は悲しそうな笑みを浮かべ、親友の綾苅しか知らない過去を語り出した。
「私はかつて都で仕官していた父と共に暮らしていました。まだ刑部充高であった頃のことです。私はある日、とても可憐な少女に出会ったのです。その少女は、百合と名乗りました――」
充高が百合を畑の草むらの脇で見つけた時、百合の髪はざんばらで全身が泥と血で汚れ、傷だらけで、よく生きていたなと思うほど弱っていた。麻の服は所々破けていて、太腿やら胸元が見えていた。充高は目のやり場に困りながらも、助けなければという一心で少女を自宅に運んだ。そして、ちょうど父が長期の出張中で不在だったため、充高は使用人に固く口止めをして自室で看病することにした。
「百合は、坂合部宿禰という姓を持っていて、元は中流官人の家柄だったようです。しかし、回復した百合が告げたことは、彼女が佐渡に流罪人の娘として暮らしていたということだったのです」
光藍の口から出た名前と地名は、大足の脳裏に一瞬にして十数年前の時を呼び起こした。そうだ、そんな罪人と一度話をしたことがあったじゃないか。長屋親王のために外交文書を持ち出し、政治的思惑に絡め取られ流された坂合部宿禰大鳥の娘。あの時はまだほんの子供だった。
「私と百合は、そのうち好き合うようになり、父が戻る頃、百合に子供ができたことがわかりました。当然、そうなれば隠し通せるものではありません。百合は実父の死後、佐渡から逃亡してきた身です。私の父は激怒し、身重の百合を納屋に押し込めました」
じじじ、という灯りの焦げる音が静かすぎる部屋に響いた。真っ直ぐに国守を見据えて話す光藍はその若さを、影を被って帳消しにしているようだった。生を諦めた愁いと微笑みは、既にこの世の者ではなく見える。
百合は納屋で男子を出産したが、そのまま光藍の父が使用人に言いつけて赤ん坊をどこかへ運び出してしまった。そして、泣き叫ぶ百合を抱き締めていると、間もなく自宅に刑部省の官人が衛士を連れて押しかけた。ああ、これで何もかもが終わりだ――。充高はそう悟った。父が官司に通報したことは一目瞭然だ。
「結局、百合はすぐに息を引き取りました。あまりにも衰弱していて…… 私たちの子の行方はわかりません。もうすぐに遺棄されたのだと思います。罪人が死亡したので私は罪に問われませんでしたが、それから私は死んだも同然の日々を送り、都の父と俗世を捨てたのです」
この話をしたのは本当にいつぶりだろうか。幼馴染であった綾苅に打ち明けた以外は心のうちに秘めた過去だ。大足もまた光藍の話に少なからぬ衝撃を受けていた。まさかあの佐渡のかわいらしい娘の末路がこのように哀れなものだとは。少し離れた場所に座っている佐久太も同じ思いだろう。なにせあの時は録事の小麻呂ではなく、佐久太を伴って坂合部の家を訪れたのだから。
感傷に浸りかけた大足であったが、すぐに国守としての指示を光藍に与えた。
「光藍、今までの話から、君は守るべき家族を持っていない。医生の所見通り、健康体でもある。従って、罪の減等には値しないね。まず、還俗を命じる。そして――」
ここで大足は一息ついだ。続いて告げられた命令は、大掾の正成にも光藍にも予想外の内容であった。
ここ数日間は慌ただしかった。国守着任の慣行として、国内最重要の神に詣でるというのだが、なぜか綾苅と真熊がその供に指名された。
綾苅は大足の馬従として、真熊は護衛として召し出された。もちろん護衛などは正式な舎人たちが務めるのだが、真熊も随行することになった。
「どれくらいの日程なの?」
龍麻呂が大領家の畑仕事をしながら綾苅に尋ねる。
「さあね、ひと月はかからないと思うけど。香取郡がどこにあるかよくわからんし」
龍麻呂にも詳しいことはわからなかったが、下総国の重要な神が香取郡に鎮座していて、フツヌシとかいう名だと聞いたことはある。
そんなことより綾苅が気になるのは、木葉の口数が減ったように思われることだ。今も弟たちの隣で草むしりをしているが、こちらには加わらない。いつもなら綾苅に対して、「また来たの?」とか「邪魔だからどいて」とか悪態をつくのに。
綾苅は龍麻呂が刈り取った雑草を捨てに行った間に、木葉の前に座り込んだ。やはり木葉は無言だ。
「どうした? らしくないね」
木葉は目の前の男を一瞥し、再び地面に視線を下して土を均している。次の瞬間、すっと木葉の顔が上がった。綾苅の右手が木葉の愛嬌のあるあごを捉え、上を向かせている。
「もしかして、あの国守に惚れたのか?」
木葉の右手が綾苅の手を冷淡に払った。
「バカな人ね。そもそもあたしと大足さんじゃ、住む世界が違いすぎてお話にならないわよ」
その言葉では自分の問いかけに答えたことにはならない、と綾苅は不満に思ったが追求するのは止めた。未だに抱く機会のない木葉を不機嫌にするのは得策ではない。
どっさり雑草を捨ててきた龍麻呂は、友人がまた姉を口説いている様子を見て溜息をついた。綾苅に対してではなく、姉に対してである。
(姉貴も頑固だなぁ。綾苅は確かに女遊びが過ぎるけど、女を粗末に扱うことはない奴だし。でも、姉貴は高向殿に心を寄せてるのかも…… だとしたら、どうにもならない三角関係だな。まぁ、綾苅がどこまで本気かわからないけど)
夫と子供、そして実父を続けて失った姉にはどうにか少しでも幸せになってほしい、と龍麻呂は心から願った。
嫌な長雨の季節が終わり、時折強烈な太陽の光が揺らめく。木葉は綾苅がしばしの別れを告げて去ると、洗濯をしながらじっくりと物思いに浸った。冗談を言い合っている仲間の家女たちの言葉は耳に入ってこない。
(あたしはあたしのままでいいのかな。死ぬまで厨女で、また誰かの妻になることも今は考えられない…… ずっと変わらない今日と明日と明後日。でも、そういう生まれなんだから仕方ないのかな。あたしはあたし以外になることはできない)
大領家の洗濯物の隙間から青空が見えた。そして、黒い蝶が一匹、木葉の目の前を横切り、急にふわっと上空に飛び去って行った。
その時、木葉の中の何かがはじけた。
(ダメよ、このまま厨女のまま死にたくない。なんで、あたしは空を飛んではいけないの? あたしは自分を変えることができないの? ううん、変えようとしてないだけよ)
この考えは賤民の分際ではとてつもなく傲慢に思えたが、己の心のままに道を決めて飛び去ったあの黒い蝶が頭を離れそうになかった。そして、木葉の頭の中には一人の男の顔が浮かんだ。
(大足さんが下総国に来たのは、たぶん、あたしが自分を変えなきゃいけないことを気づかせるためなんだわ。だって、あの人は初めて会った時から、私の国守像をひっくり返したんだもの。国守は国守でも、あの人には目指すものがあって言動をそれに合わせてきたんじゃないかしら……)
そう、木葉にも目指すものがあるはずだった。力に屈服させられ、日々の悲しみと怒りに気づけなかった、彼女だけの大空が。
木葉は立ち上がり、顔に手のひらをかざしながら頭上を見た。強烈な光の矢の間を、蝶だけでなく鳥も不規則に駆けている。
正午を告げる国府の鐘の音が郡内に響き渡った。きっとそれは、長い長い戦いの開始を告げたのだろう。
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