第2章 運命の出会い (2)新しい風

 いつの間にか桜の季節が過ぎ、初夏の風が平城宮に薫っていた。

 霊亀二年四月二十七日、八人の高級官人が朝庭に並び頭を垂れた。姿は見ることができないが、北側に位置する大極殿には天皇が御出座しになり、任官状と照らし合わせながら官人たちを見下ろされていることだろう。

「以上八名は新たな赴任先でも初心を忘れることなく職務に励みなさい」

 天皇の御言葉が代読され、解散となる。

 二年前に従五位下を授かり、右衛士佐うえじのすけを務めていた高向朝臣大足はこの度、下総国守を拝命した。巡察使として北陸道を巡って以来、ずっと新益京と平城京で官人生活を送ってきた。東国への赴任は初めてだ。

「高向殿は久しぶりの遠出といったところだな。私はこの年で初めての赴任だから、健康に気を付けねばと思っているよ。伯耆国、楽しみではある」

「何をおっしゃる。山上殿は北陸道なんかよりずっと遠くの唐に留学されていたでしょう」

 大足は笑いながら、そして羨望を含めて返事をした。山上憶良という初老の男は大変な博識を持っていて、大足からすれば、生き字引だとすら思う。若い頃に留学をして仏教や儒教などを学び、普通の官人にはない思想的なものの考えをする。

 唐への留学というのはすさまじい衝撃なのだなぁと思わずにはいられない。結局、熱望していた遣唐使にはなれていない。これからも機会がないわけではないが、大足の歩んできた官人の道は内向きだった。先の配置は武官であったし、その前は民部省と中務省だ。

 大足は下総国赴任の準備を全て済ませると親しい官人仲間やかつての上司に挨拶に出向いた。共に巡察使として官人生活を始めた波多真人余射は越前介を務めていて都にはいない。劣悪な政治状況だった越前国は、あれから国司が総入れ替えになり、しばらく越中国守が越前国守を兼任した。その後、越前出身の高志連村君が赴任して、今では立ち直ったと聞く。

 大足が出向いたかつての上司は、宮内卿の安倍朝臣広庭という還暦に近い男だった。

「しばらく寂しくなるな。まぁ、国守ってのは、何でも屋だと思うことだ。平城京の縮小版が国府で、その主がお前さん。隅々まで目を光らせること。郡司どもは手強い。なにしろ地元の人間だから勝手はこちらよりもよく知ってる。媚びていれば、国守なんぞ操れると思ってる輩だよ」

 広庭は伊予守を務めた経験を大足に語った。

「こんな話はお前さんには不要か。諸国を見て回ったんだからなぁ。ははは」

「見て回るのと実際に国を治めるのとでは全く違いますよ。もう十数年経っていますし、諸国も律令に慣れて緩んでいるかもしれませんね」

 忠実な律令官人らしい言葉だと、宮内卿は思った。十数年という年月が出てきたところで、子供の息災を尋ねてみた。

「いくつになったかな、ご子息は?」

諸足もろたりは先日、十になりました」

「下総に連れて行くのかね」

「いえ、佐伯の両親に預けました。私一人ではちゃんと面倒を見られませんから。都の方が教育も充実してますし」

 下総でそのための妾を作るか、教養ある遊行女婦を呼び寄せればいいのではと言おうとして、宮内卿は出かかった提案を飲み込んだ。この男はそれを拒否したからこそ、息子を平城京に置いていくことにしたのだろう。

「息子が面白いことを言ってました。父と離れて嫌かと訊くと、『父さんは戦いに行くんだから僕のことは気にしたらダメだよ』って」

「ほう。それは言い得て妙だな。国司は楽な仕事じゃない。毎日が戦いだ」

 息子の諸足がどれほど理解しているかわからないが、父親が大変な仕事を任されているのだということはわかってくれているようだった。

「ご子息のことで心配なことがあれば、遠慮なく言いなさい。それ以外にも、国政や配下の郡司たちのことで困ったら私を頼って構わない」

 広庭という男は面倒見が良いことで名が立っていた。伝統ある中央豪族を率いる自負がそうさせているのかもしれなかった。

 大足は深く頭を下げ謝意を示すと、後宮の尚書ふみのかみとして出仕している妻の会食の申し出を辞退して、安倍邸を後にした。

 選出した部下の官人二人に現地で落ち合う打ち合わせをし、とうとう平城京を発つ日がやってきた。

 早朝、高向家の門前には見送りの親族が集まった。先日、山背守の任期が終わり帰京した兄と宮人の妻、主計助の弟と同じく宮人の妻、そして佐伯の両親。息子の諸足は眠い目をこすりながら、父にしばしの別れを告げた。大丈夫だよと言いつつ、長い間、大足にしがみついたまま離れようとしなかったことが本心を物語っていて、大足の目頭を熱くさせた。せめて母親がいれば……と何度思ったことか。

「では、皆さん、行ってきます」

 息子の頭を撫でると、大足は意を決して乗馬した。ただひたすら真っすぐに続く官道の先に、今度は何を見ることになるのだろう。


 時々、鈴の温もりを思い出すことがある。そうすると必ず堰を切ったように涙が止まらなくなり、大足の袖の色はすっかり変わってしまう。鈴は自分には過ぎた妻だった。元々賢く、政治の機微も理解していたから、年若い夫が宮中で滞り無く気持ちよく働けるよういつも手を回してくれていた。刀自として家を取り仕切り、上司や先輩との宴の際には彼らに縁のある食材や酒を用意し、年末年始の挨拶も丁寧に出していた。官人仲間の目下の者や家人や資人たちに対しても寛容に振る舞い、頼りにされていた。お蔭で大足の評判は上々だった。

 しかし、一人だけ息子を残して、鈴は今、あの海の彼方の常世国に住んでいるのだ。駿河から望む大海は果てしなく続いている。漂う潮風が越中国府を思い出させた。

「旦那様、どうかされましたか?」

 巡察使の時に行動を共にして以来、ずっと身の回りの世話をしてくれている佐久太が主人を気遣った。また佐伯刀自のことを思い出されているのかもしれない。

「ああ、常世国のことを考えてた」

「はい。きっと常世国は今日も穏やかで笑い声に満ちているのでしょうね」

 何も言わずとも察してくれる佐久太の心遣いがありがたかった。

 相模国東部の半島までやってくるとそこからは水路となる。さらに陸路を進んで武蔵国から直接下総国に入ることはできない。というのも、国境周辺は住田川と太日川の二流が湿地帯を形成し、未だに開発が遅れていて官道が通っていないからだ。下総国司はこうした未開発の地域に手を入れて、住居と開墾ができる土地に作り変えることも期待されていた。

 半島の対岸である上総の富津から湾沿いに北上し、下総国に入る。もう少し後の時代になると国境まで迎えがやってくるのだが、大足たちは国衙の最寄駅まで単独行動だった。

「あれが下総国府なんですね」

 大足は馬上から佐久太の指し示す方を見上げた。砂州上に作られた井上駅の手前から台地がよく見える。建物の屋根や白く高く上がる煙が、まとまった集落を形成していることを示していた。

「しかし、驚いたな。真間の入江というものがあるとは聞いてたけど、上総から迂回しないと下総国府に辿りつけないわけだ」

 台地の手前は海だった。そして大足たちがいる場所は砂州となっていて、東部は水田がちらほら散らばっていた。国庁が存在する台地の隣にはまた別の台地が横たわり、谷間にはやはり海が入り組んでいる。白い砂州の縁の松林が絵画のような風景を生み出していた。

 井上駅の門をくぐると、駅の役人や国司が整列して新国守の到着を待っていた。

「高向朝臣大足様ですね、ようこそ下総国へ。馬はお預かりします。さあ、こちらへ」

 話しかけてきた男は駅長だった。ぞろぞろと駅家の母屋に上がり用意された席に座ると、大足は辞令を取り出して見せた。自分が本物の新国守であると証明したのだ。

 次に現国介が漆塗の小さな箱を差し出した。大足は国介の顔色が悪く、よれよれの雑巾よりもひどくくたびれていることに衝撃を受けた。外に広がる下総国府特有の心が洗われるような白砂青松とはとても相容れない様だ。

「失礼ですが、どこか具合が悪いのでは?」

 思い切って尋ねると国介は、問われてしまうほど顔に出ていたことを知り、それを恥じるように頭を下げた。

「老体には長きに渡る勤めが酷だったのでしょう。しかし、この引継ぎが終われば都に戻って少しは養生できます」

「それほど国司の任務は辛いものだったのですか……」

 哀れな国介は曖昧に笑って、答えることはしなかった。そして小箱を大足に手渡す。この中には印鑰いんやくが納められていた。下総国の公印とそれをしまう小箱の鍵だ。

「確かにお預かりしました」

 新任国守の第一段階は越えた。次はいよいよ国庁に入る。国介が先導し、再び馬で砂州に整えられた道を歩く。

「また後日ご覧になると思いますが、駅家の裏手には津があります。それから、右手に見えているのが全て真間の入江です」

 砂州の端に来ると目の前も入江となっていて台地の崖が臨める。台地と砂州の間には小さな島状の砂州がいくつもあり、それを橋がつないでいた。国庁には台地の坂を登るしかない。

 馬を引く佐久太の息が上がっている。なるべく緩やかな坂にしようとして、だらだらと続く曲がりくねった道が作られていた。しかし、佐久太は「ああ!」と感嘆の声を漏らした。

 坂を登りきった崖の上から振り向いた佐久太は、眼下に広がる蒼く澄んだ入江と白い砂州の絵巻物のような景色に目を奪われたのだ。

(常世国がありそうだな。鈴、俺の働きをよく見ててくれよ)

 初夏の風が真間の崖を吹き抜けていった。


 新任国守の到着を待ち構えていたのは国庁の官人たちだけではなかった。

「止めたかったら今のうちだよ」

 小声で仲間に囁いたのは龍麻呂だ。台地の南端から国庁に続く大通りに沿って点々と国衙の建物が並んでいる。そのうちの一角の物陰に潜んで龍麻呂たちは新任国守を待っていた。

「今更止められっかよ。俺たちが動かなきゃ、下総国は地獄へ真っ逆さまだ」

「ちょっと! こんな時に何してんのよ、綾苅!」

 いつの間にか木葉の隣に綾苅が陣取っていて、おまけに腰に腕を回したのだ。

「だって、今日でこの世とおさらばかもしれないんだぜ」

「そうね、でも三途の川を渡るのにあなたにおぶってもらわなくて済んで嬉しいわ」

「まぁ、お前の最初の相手は死んだ旦那だからな……」

 まるで緊張感のない会話だが、これから死を覚悟の上で国司の出迎えの場に直訴に行くのだ。実は綾苅も心の高揚を抑えるために敢えて軽口を叩いたのかもしれない。

「で、お前こそ一家諸共、直訴に参加していいのか?」

 綾苅は木葉の後ろに控えている弟妹をちらりと見やった。

「私にはこれ以上失うものはないの。それに、枳美も真秦も自分でここに来ることを選んだから……」

 姉の言葉に、真秦は無言で頷いた。

 龍麻呂が直訴を計画してからというもの何度も兄弟で話し合って、自分の行く末を考えた。木葉は枳美と真秦は密かに逃亡すればいいと主張したが、二人とも首を縦には振らなかった。逃亡したところでまた別の土地で賤民として身を粉にして労働に従事しなければならないだけだ。

「直訴状はちゃんと手元にあるな?」

「私が差し出せば良いのですか? それともかしらの龍麻呂が?」

 唯一文字をしたためることができる光藍が懐から書状を取り出した。紙は高価で賤民が手に入れることは不可能だが、光藍が所有していた本(それも、禁書)の一枚を破いて裏紙に訴えを書き付けたものだ。

 龍麻呂が書状を受け取ると、阿弥太が「おい、国介が戻ってきたぞ」と小声で注意を引いた。

 大通りを二頭の馬が歩いてきた。従者は三人だけだ。そして、国庁の正門前には新任国守を出迎えるため、現国守以下の下総国府官人たちが並んでいる。

「マジで面構えの悪い国守だな」

 正門の方を睨みつけた綾苅が毒づいた。あの男のおかげでどれほどの民が虐げられてきたことか。

「しっ! 来るよ」

 厳かに新任国守の馬が近づいてくる。目を凝らしてその姿を見ると、予想外に若かった。若いと言っても木葉たちよりもだいぶ年上だが、それでも現国守よりも遥かに若い。

 そしてすっと整った眉に引き締まった顔立ち、なかなか男らしい見た目であることはわかった。

(でも、こんなに若い人を寄越すなんて、下総国は見捨てられてるのかしら)

 人は見かけじゃないということはよくわかっているつもりだ。なにせ今の国守がやって来た時も、愛想の良さに皆騙されていたのだから。若くて男前だからと言って、執政も期待通りかどうか怪しいものだ。

 馬の歩みが正門の手前で止まり、国守が進み出てきた。

「お待ちしていました。私が国守の佐伯宿禰百足です。下総国は実に良い所でしてね、やりがいがありますよ」

 にこやかに言っているその意味は、裏を返せば、民をこき使えてたくさん搾り取ることができるということだ。下馬した新任国守の表情はこちらからは見えないが、「そうですか」と淡々とした声で答えていた。

「では正殿ヘお入りください。引継ぎの儀式を行いましょう。それが終われば歓迎の宴です」

 佐伯が後ろを向いて正門をくぐろうとした瞬間、「今だっ」と声をかけながら龍麻呂が小屋の陰から飛び出した。続いて綾苅と光藍も追いかける。少し遅れて木葉たちが後に続いた。この青い空を見られるのも今日が最後だ――。

「お待ちください、国司様たち!」

 龍麻呂は二人の国守の間に割って入り、叫んだ。

 静寂の後、すぐさま周りにいた雑任たちが龍麻呂や綾苅の腕を捕らえにかかった。

「新しい国守様にお願いです! この訴えをどうかお読みください! 我々は人として扱われていません!」

「何を賤民の分際で! おい、兵士を寄越せ、捕らえろ!」

 佐伯が喚く。

 腕が不自由になる直前に、龍麻呂は書状を差し出した。手ががくがく震えているのがわかった。ほんのひと呼吸の間のことが、永遠に思えた。

「賤民が字を書いたのか?」

 新任国守は少し驚いたように眉を上げ、そしておもむろに龍麻呂の手から書状を抜き取った。

「そんなものは捨て置けばよろしい」

 顔を真っ赤にして激怒している佐伯の言葉が後ろから飛んできたが、若い国守は動じる様子を見せずに直訴状の中身を一瞥した。

 ほどなくして集まった兵士十名が、子供も混じっている賤民の集団を取り囲んだ。皆地面に組み伏せられていたが、下手に動けば四方から矢が射掛けられるだろう。 万事休す。

(これであたしたちは、斬首だわ。でもあの若い人が、光藍の書いてくれた書状を受け取って目を通してくれたんだから、それだけでもうまく行ったと思わなきゃ……)

 木葉は頭と肩を強く押さえつけられながら考えた。あと少しで鼻の頭が埃っぽい地面に付きそうだ。四つん這いになり体を支える右手の指の間を小さな蟻が行き来している。

 すると、ふいに体が軽くなった。

「止めなさい。賤民とはいえ女人を力づくで押さえるのは道に反している」

 その場にいた誰もが自分の耳を疑った。木葉もまた恐る恐る顔を傾けて声の主を伺った。やはりあの新任国守だ。しかも、支えるように木葉の腕をとって立ち上がるのを待っている。

「そっちの女人も楽にしてやりなさい」

「し、しかしこの者たちは我々を害そうとしたのですぞ。おい、何をしている! さっさと縄にかけて獄へ繋いでおくのだ! いや即刻、首を切る用意を!」

 佐伯のがなり声が正門前に響き渡ったが、新任国守は大したことではないという風に、ごく穏やかにこう言った。

「今日から私が下総国の守となります。この者たちの処分は私に任せてください。身柄を拘束して私の館へ連れていきなさい。武器を持っていないか確かめて、客間かどこか適当な部屋に。あ、そうそう、食事も出してください」

 またもや皆が耳を疑った。獄ではなく私邸の、しかも客間へ。さらに食事も出せと言ったではないか。聞き間違いだろうか。

 だが木葉たちが呆然としている間に若い国守は、佐久太と呼ばれた資人や国衙の雑任たちに色々伝えて自分の指示を実行させてしまった。あれよという間に、龍麻呂たちも解放されて「さあ、こちらへ」と先導されていく。

「新しい国守様、俺たちはどうなるんだ!? 書状に書いたことは本当だ。信じてくれ!」

 龍麻呂はふりむきざまに叫んだ。一体どういうつもりで私邸に連れて行けなどと指示を出したのか皆目わからず、斬首を宣言されるよりもある意味不気味であった。

「私の名前は高向朝臣大足だ。お前たちを信じるか否かは今決めることじゃない。私は引継ぎ式で忙しい。逃亡したり私の家の者を傷つけたりしないで、大人しく待ってなさい」

 ますますわけがわからない。木葉や枳美に助け舟を出したのは確かだが、腹の底で何を考えているのか、龍麻呂には読み取ることができなかった。

「さあ、邪魔な若者たちは消えました。引継ぎ式の挙行をお願いします、佐伯殿」

 高向大足は新任国守としての身の程をわきまえているといったように、あくまでも淡々と言い、現国守に頭を下げた。


 時が経つにつれ往来の喧騒も徐々にまばらになっていく。まだ日は高いが、夕餉の支度で家々の竃から煙が上がっていた。

 直訴の場から兵士たちに連れられて国守館の一室に放り込まれた。資人の佐久太の指示で縄は解かれたものの、龍麻呂たちは軟禁状態に置かれている。

「厠に行きたい時はちゃんと言うんだぞ」

 部屋の外には見張りのために佐久太が座り込んでおり、中庭には五人の兵士が配置されていた。出入口にも衛兵が立っている。

「あたしたちどうなっちゃうの?」

 沙汰が告げられずに軟禁されるというのはひどく不安になる。生きていいのかそれとも死が待っているのか。ひとり真秦だけが冷静に、懐から作りかけの木の仏像を取り出して続きを彫っていた。

「木葉、無事に釈放されたら生きている喜びを一緒に味わおうじゃないか」

 この時ばかりは、縄にかけられていた方が良かったと木葉は思わずにいられなかった。自由に動けるのをよいことに、綾苅が周りをうろついて目障りだ。

「君という男は相変わらずですね。しぶといというか何というか……」

 光藍は壁に向かって瞑想しながら、親友の言動に呆れてみせた。

「君たち! 食事はいるかい?」

 木葉と綾苅のくだらない騒ぎをよそに、佐久太がひょこっと顔を覗かせて訊いた。食事と聞いて、囚われの若者たちは水を打ったように静まった。食事といえるような食事にありついたことなどあっただろうか。

「うまいものとは言わないから何か食わせてくれよ。水みたいな粥しか口にしてないんだから」

 沈黙を破ったのは阿弥太だった。そしてさらに注文をつける。

「俺たちはいいけど、女にはたくさん飯を出してほしい」

 そう言いながら阿弥太は枳美の方をちらりと見た。枳美は暴行事件以来すっかり痩せてしまい、今にも倒れてしまいそうな体になっていた。

 葛飾郡きっての美女と言われた枳美は、今やほとんど無表情で影がまとわりついているようで、阿弥太には痛々しかった。あの夜、鍛冶場の仕事が終わった後も、枳美の帰宅を待っていればよかったと何度後悔したことか。

 一方的に密かに想いを寄せているだけだが、守ってやれなかった自分が不甲斐なかった。だから、ひとまず死罪にならなかったことを幸いに、これからは何としても枳美を陰ながらでいいから守ろうと阿弥太は誓ったのだ。

「少し待ってな。あったかい食事を運ばせるから」

 佐久太は一旦、厨の方に消え、そしてすぐに戻ってきた。女の家人二人が盆の上に何か乗せている。

「ゆっくり食べなよ。あ、毒なんて入ってないよ。俺も一緒に食べるから安心して」

 佐久太は自分の器を抱えて部屋に入るなり大根の漬物を音を立てて食べ始めた。実にうまそうな音だ。

「俺は食うよ」

 一番体格の良い真熊の手が器に伸びた。目の前に少量とはいえ白米と煮魚と漬物が存在しているのだ! 今食べずにいつこんなものを腹に入れることができる?

「うめえ……」

 その一言で他の若者たちが一斉に箸を持って食べ物を掴みにかかった。

 誰も言葉を発しない。ひたすら腹に詰め込んでいる。そして、にわかに啜り泣く声が聞こえてきた。

「姉貴……」

 木葉は空になった器を両手で大事そうに抱えながら嗚咽を漏らしていた。生きている、ということがふいに実感できたのだ。もしかしたら古い米かもしれないが、与えられた白米は美味しかった。阿弥太の要望通り、木葉と枳美の分は少し多めに盛られていて、たったそれだけのことなのに初めて誰かに求めているものを受け入れられた気がした。

「旦那様は早めに帰ると言ってたけど、歓迎の宴が開かれるから少し遅くなってしまうだろうね」

 空腹が満たされすっかり冷静になった若者たちに、佐久太が告げた。

「なぁ、佐久太さん、あの国守は俺たちをどうするつもりだ?」

「あいつにずっと仕えてるのか? 虐待されたりしないのか?」

 次々に問いかけられる質問に、佐久太は苦笑した。笑い事ではないのだが、よほどこの若者たちは主人から酷い目に合わされているようだ。

「悪いが、君たちをどうされるかまではわからないよ。でも、俺は旦那様に十年以上もお仕えしてきて、一度もつらい目に合ったことはない。奥様からも本当に良くしていただいたし」

「ほんとなの!?」

 木葉が驚きの声を上げた。高い身分の人に仕えることが必然的に絶望への道だと思ってきたため、世の中に佐久太のような恵まれた者がいるなどと思いもしなかった。

「旦那様はそれほど愛想がいい訳じゃないけど、すぐに怒りを露わにしたり、感情的に政治をすることはなさらない方だ。俺には難しくてわからないこともある。でも、ちゃんと何か考えがあって行動されるんだ」

「じゃあ、期待していいのね、新しい国守様に」

「どうかな。君たちの期待を受け止めてくださるかはまた別問題だろう」

 騒ぎを起こそうとした賤民たちに軽々しく、心配するなとは言えない。大足なりの考えで、待遇の良い軟禁を課したのだろうが、最終的な扱いについては佐久太だって何も知らなかった。

 ところで、と龍麻呂が新国守の奥様について尋ねようとした時、家人がやってきて佐久太に何事かを耳打ちした。そして佐久太が席を外して、またすぐに戻ってくると一人の若者が後から現れた。簡素な若草色の袍で、片腕に木箱を抱えている。なかなか知的な顔立ちだが、かなりイライラしているように見えた。

(あれ、どっかで見た顔だな……)

 その場にいた誰もが思ったが、すぐには思い出せなかった。しかし、佐久太が笑顔で謎の若者を紹介してくれた。

「あ、旦那様の指示で来た医生の大私部勝おおきさいべのすぐる君だよ。君たちに病がないか調べるようにっておっしゃってたからね」

 どうりで見たことのある顔だった。医生は医人になるために修業している若者で、だいたい郡司の子弟から選ばれる。確か勝は大領の甥で、よく医人を輩出する家の息子だった。国衙の一角に医学校があり、よく出入りしているので、国衙で働く賤民たちもなんとなく見知っているのだ。

 ところが、勝は開口一番、こう言い放った。

「僕がお前たちみたいな賤民の体を診るなんて、こんな屈辱はないね。どうかしてるよ、あの新しい高向って国守は。もうすぐ月末の試験で勉強しなきゃならないってのに」

 その言葉に綾苅のこめかみに青筋が現れた。手の早い真熊など半ば腰を浮かせて、ひ弱そうな医人の卵に掴みかかろうとしている。だが、勝はこれ見よがしに鼻を鳴らして笑った。

「まぁ、勝君、臨床の勉強だと思えばいいじゃないですか。そのために旦那様が機会をくださったのかもしれない。君は随分と優秀な医生だって聞いてますよ」

 剣呑な雰囲気に気まずいと思った佐久太が慌てて勝をなだめた。

「ふん、賤民が臨床に適してるとは思えないけどな」

 不機嫌な表情のまま勝は中庭に面した廊下側にどかっと腰を下ろし、何やら木箱から道具を取り出した。勝が手にしているのは、掌に乗るくらいの小さな筒状の金属でできた瓶だ。瓶から透明な液体が出てきた。

「それは何ですか?」

 勝に最も近い場所に座っていた光藍が尋ねた。光藍は真間山に篭っている間、怪しげな薬を調合していたので気になるらしい。とは言え本人にしてみれば、怪しくはないのだが。

「邪気を払う水だよ」

 勝はそっけなく返した。掌に満遍なく塗り込めると、勝はそのまま光藍の顔を観察し、それから目の下の辺りを軽く押し下げて眼球の様子を見た。

「手首を出して」

「脈診ですか」

「お前は異端の山沢さんたくの民だろう? 馬鹿な奴だ。いずれ処刑されるぞ」

 光藍が沈黙を保っている間、勝は目を瞑り脈を測った。そして、何も言わずに場所を移動した。

 次は木葉の番だった。勝は同じように瓶の謎の水を手に振りかけ、木葉の目の前に膝を進めた。木葉はあまりにも勝の態度が横柄なので、きっと鋭い目つきで医生を見返した。

「……酷い顔だな。賤民の女は鬼か。邪気の塊じゃないか」

 あくまで単調に小声で言ったが、当然、貶された木葉は激昂した。いくらなんでも女人の顔を見て鬼はないだろう。

「さっきから黙って聞いてれば、何なの?! それでも医生?! あんたこそ邪気がうじゃうじゃ出てるわよっ。おんなじ最低男でも、まだ見た目を褒めてくれる綾苅の方がマシってもんだわ!」

 一気にまくし立てた木葉に、勝は小馬鹿にしたような冷笑を浴びせた。

「どうせそいつは誰とでも寝るような女たらしなんだろ。賤民のくせに色男を気取って――」

「おい、俺たちをバカにするのもいい加減にしろ!」

 図星を刺された綾苅が立ち上がって、勝に殴りかかった。しかし、拳が届く前に身が後ろに引っ張られる。

「綾苅! 医生を殴ったら面倒なことになるよ。せっかく命拾いしたんだから、文句は後であの国守に言おうよ」

 力いっぱい綾苅の胴体を抑えながら龍麻呂が言った。今言ったことは嘘ではないが本心は、姉や弟妹の体の状態を調べてもらえなくなるのを阻止するためだった。医生がこれ以上不機嫌になって帰ってしまうとも限らない。

 しかし、勝は綾苅に冷たい一瞥を与えただけで、木葉の目の観察に移った。

(うわ、あの瓶の水、すごい匂い。ツンとする)

 勝の手が目元に来た時、邪気を払うという水の匂いが鼻に入ってきたのだ。

「手首を出して」

 仕方なく木葉が右手を差し出すと、医生のくせに勝はひどくぞんざいにその華奢な手首を掴んで、指先を当てた。

「ちょっとー、痛いんですけど」

「いちいちうるさいなぁ。正常な脈が測れないだろ」

 心底うるさそうな勝の口調に、木葉の脈は速く乱れた。怒りが次から次へと湧き出してくる感じだ。しばらく我慢していると勝は手を離し、こう尋ねた。

「月の物はちゃんとあるか?」

「はっ?」

 何てことを言うんだこの医生は! 男がいる場で聞くようなことか! 木葉は顔を真赤にしてぷるぷると震えている。しかし、当の勝はいたって真剣に問いかけたので、木葉がなかなか答えないことに再びイライラし始めた。

「……何で自分のことなのに答えられないんだよ、もういい」

 そういう問題じゃないだろ、と龍麻呂は姉の様子を伺いながら突っ込んだが、勝は諦めて木箱から筆と木簡を出した。

「丁子、川穹せんきゅう白朮びゃくじゅつ……」

 ぶつくさまじないの言葉のようなものを呟きながら、木簡に文字を書き連ねているが、もちろん木葉にはわからない。それから勝は隣の綾苅の前に移った。

「言っとくけど、俺はあんたに見てもらう必要ないからな」

 綾苅はすっと立ち上がり、検診を拒否してみせた。むしゃくしゃするのだ。この医生が木葉に酷い言葉を投げかけ、乱暴とまでは行かないが粗野に扱うのを見て、綾苅は怒りを止められなかった。どうしてこうも、ちょっとでも身分が高いと俺たちを見下すのだ。結局のところ、医人と言っても国府や群家に勤める良人のための存在で、人として扱われない賤民など救ってはくれないのだ。

「勝手にしろ、僕だって好きでここに来たわけじゃない。君がさっき話に出た女たらしの綾苅ってヤツだろう? 賤民どうし仲良くやってくれ」

 綾苅はもはや売り言葉を買うことはせず、大股で部屋を出ていこうとした。この時から綾苅は身分も頭の出来も及ばない勝に戦いを挑むことになった。最初は、バカにされたという屈辱が綾苅を突き動かした。そして次第にある別の理由から、勝に負けるわけにはいかなくなるのだった。

 綾苅は龍麻呂の「おい、待てよ」という呼び掛けを無視して勢い良く廊下に出た。ところが、それ以上先に進むことができなかった。人にぶつかったらしい。

「おいおい、逃亡するのかい? 困ったなぁ」

「……あ、新国守様。帰ったんですね」

 緋色の袍が綾苅には眩しかった。その色は良人でさえ容易には越えられない身分の壁を表していた。慌てて床に平伏す。

「すっかり遅くなってしまった。予想はしていたけど、歓迎の宴は盛大すぎるほどだったよ。佐久太、今まで見張りを任せて助かった。ありがとう」

「いえ、旦那様のお考えですから。それに色々と面白かったですよ」

 大足が部屋に入るなり、若者たちは一斉に額づいた。明確に色分けされた世界にあっては、それは反射神経のようなものだった。

「で、診察は終わったのかな、勝君?」

「いえ、まだ二人です。しかし、なぜ賤民を見なければならないんですか。お言葉ですが、僕は期末試験の勉強があります」

 なんとかして勝はこの場を離脱したいと思ったが、大足は余裕の笑みを向けた。

「期末試験は免除しよう。その代わりに、この者たちの診察の所見をきっちり提出すること。いいね?」

「でもそれじゃあ、医博士いはくじに何と言われるか」

 勝は食い下がったが、とうとう逃げられなかった。

「君を私に推薦してくれた医博士の提案だよ。日下部殿は面白いことを考えるね」

 こうして、断固拒否した綾苅を除いた残りの五人もきっちり医生の診察に与ったのであった。

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