第2章 運命の出会い (1)囚われの鳥
高向大足が巡察使を終えて十数年後。
都から遠く離れた下総国は圧政と貧困に荒んでいた。
* * * * *
ほわっと白い息が現れた。両手を擦りながらその多少なりとも温かい息を吹きかける。一瞬だけのぬくもりはまたすぐに鋭い冷気に掻き消されてしまう。
(薪はまだあったかしら……)
衣の前襟を片手で押さえて風を避けながら、木葉は住居の裏手に足を運んだ。もう雪はさすがに積もってはいないが、三月だと言うのに身を切るような空気がなかなか立ち去ってくれない。
「姉貴! いいよ、僕が持っていくから」
たいして重くない薪の束だったが、触れる前に弟の龍麻呂にひょいと取り上げられてしまった。
「ありがとう。ねぇ、あんた、今日の仕事はもういいの?
木葉はちらりと弟の左腕に視線を遣った。袖に隠れて見えないが、その下にはひどいみみず腫れができている。もし体罰を加えるなら平たい木の板で臀部を叩くことと定められているにもかかわらず、あの厨長は鞭で腕を狙うのだ。手に怪我を負ったらそれだけ作業する妨げになるというのに。
「今日は下番したよ。上の人たちがごっそり不在だから、こんな時こそさっさと帰るに限るってわけで戻ってきた」
「そう。
抱えていた薪の束をばらばらにし、数本を弱々しく揺れているかまどの火に放り込んだ。しばらくばちばちと音を立てていた薪も、炎にゆっくりと撫でられて大人しくなっていった。
静寂の中、壁際にころがっている筵がもぞもぞと動いた。
筵の隙間からこちらを伺う二つの瞳に微笑むと、木葉は積み重なった薪の間から火箸で平べったい石を摘み出し、火傷をしないように慎重に木綿の布にくるんで口の締まる小袋に入れた。
「はい、
筵をきちんと畳み、両手で温石の袋を受け取った少年は、嬉しそうに「うー」と言った。
真秦は十一歳になる末弟で、生まれつき言葉が喋れない。会話ができないだけで、心は優しいし知能や意思疎通に問題はないのだが、もっと小さい頃から苛められてきたため今ではほとんど家に籠りきりになってしまった。
天井の採光穴から容赦なく初春の風が流れ込んでくる。地面に穴を掘って、柱を立てて茅や泥で壁を作っただけの粗末な家は、夏は暑いし、冬は寒いし、一年中暗くてまるで黄泉の国で生活しているかのようだ。しかも、五、六人の家族が一緒に雑魚寝する。
「そういえば、父さんは?」
姉から温石を受け取った龍麻呂が尋ねた。
「昼には一旦、帰ってきたんだけど、また呼び出されて行っちゃった。こんな寒いのに外で働いて、もう十日も休みなしよ! あいつら、情けってもんがちっともないんだわ!」
明らかに木葉は憤っていた。引き留めたけれど、「国守の命令には背けないよ」と言って、父は出ていってしまった。
木葉たちの父である
この家族には名はあっても姓はなかった。姓を名乗ることが許されていないからだ。
世の中は良民と賤民という二種の人々に分けられ、良民は貴人から庶人まで含み、賤民は文字通り、卑しい人々である。賤民にも種類があって最低なのは奴婢の身分だ。市場で家畜のように売り買いされるし、同じ奴婢の身分の者としか結婚できず、ただこき使われるだけだ。罪を犯した者が奴婢の身分に落される。
木葉たちはそれよりも多少はマシと言える
木葉は家族と共に、下総国府がある
「父さん、遅いね。暗くなったら作業ができないからもう仕事は終わってるはずなのに」
夕暮れ前に工房から戻った枳美が戸口に垂れている筵を捲って外を覗いた。
家の外は魔の時間に近づきつつある。余程のことがない限り、夜は出歩かないことになっている。
青菜を入れた薄い粥をすすった後、龍麻呂は狩りの道具の手入れをすることにした。炉の周りでは姉と妹が片付けをしている。姉の木葉は夫と子供を失った直後は亡霊のように血の気がなく、無表情でもう魂が戻ってこないのではないかと思うほど生気がなかったが、今では本来の明るさを取り戻しつつあった。
妹の枳美の横顔は家族ながら美しいと思わずにいられない。濡れたような濃い睫毛に白い首筋、振り返った時の柔らかな瞳。枳美に想いを寄せる若者は少なくない。その一人が龍麻呂の親友の
龍麻呂の隣にはいつものように末弟の真秦が、小さな木の欠片を器用に彫って、仏像を作っている。真秦の仏像は様々な表情をしていて見ていて飽きない。本当に気に入ったものでなければ、市場で売ることもあった。弟の彫った仏像を売るのはちょっと気が引けたが、手にとってくれた人の心が安らぐなら手放してもいいと諦めがついた。
「龍麻呂! 大変だ、オヤジさんが!」
突然、家の周りが騒がしくなり、家人の一人が戸口で大声を上げた。ただならぬ気配に、真秦が怯えた顔をこちらに向けた。
「どうしたんだ?」
「作業場で事故だ。オヤジさんが指揮をしていて、倉の柱を上げようとしていたら作業員がふらついて、柱がオヤジさんに直撃したんだ!」
「怪我の程度は?!」
速くなる鼓動を意識しながら訊ねると、家人は黙って首を横に振った。龍麻呂は押しのけるようにして家を飛び出した。
「龍麻呂! 待ってよ!」
続けて木葉も後を追った。
作業場は郡家の東側の森を切り開いた場所で、倉庫群を作ろうとしていた。人だかりをかき分けて入っていくと、血だらけの男が倒れていた。
「父さんっ」
ぴくりとも動かない。それもそのはず、父親の後頭部から大量の血が溢れていて、そこだけが戦場のようだった。
息を切らしながら走ってきた木葉は父の変わり果てた姿に愕然とした。夕暮れ前には立って会話をしていたのに!
弟支は犠牲者だった。国守の厳しい命令で連日働かされ、今日は暗くなった後でも作業をしなければならず、そのために死んだ。だが、私的な建造だからという理由で弔いも見舞金も出なかった。
「こんなんじゃ、また死ぬ人が出てくるよ」
「そうね。でも、何とかしてほしいって訴える相手はいないのよ。郡司の非道で苦しんでも国司が良い人ならなんとかなるのに」
自分たちだけで集落の外れの墓地に父を葬った。大領は事故のことに言及せず、父親の代わりだと言って龍麻呂を土木作業に放り込んだ。しかし、龍麻呂は早朝から昼間は国の厨で給食も作らなければならない。
「水鳥もがもな……」
下総国府は真間の地にある。真間は南北に続く台地の南端にあり、すぐ西側を太日川(江戸川)が流れ、南端から先は美しい入江になっていた。真間というのは蝦夷の言葉で崖というらしいが本当かどうかはわからない。
さらに台地の中心まで海が入り込んでいて、蛇の舌先のように台地が割かれている。入江の向こう側は砂州である。
「あたし、この景色好きなんだけどな。海は澄んでて、松が並んでて。でも、逃げたくなるね」
木葉は目尻を指先で拭った。なぜ夫も子も父もあっけなく逝ってしまったのだろう。もっともっとたくさん生きられたはずなのに。その狂った采配は、国司や郡司の薄汚れた手によってふるわれた。
許せない。助けて。そんな声はこの国では誰も聞いてはくれないのだ。
いつものように早朝から厨に立って、戦場のような作業と支配に耐えた龍麻呂は、横暴な厨長が早退してしまうと、急いで入江に下りていった。
龍麻呂を生かしている唯一の希望が、入江の奥まったところにある洞穴から顔をのぞかせていた。
「
本当ならばこんなに親しく話すことはできない上に、名前など呼ぶこともできない相手だ。
「腕を見せて。またぶたれたりしてない?」
「もう慣れたよ。だから君に見せるほどのことじゃない」
「そんな! 私、父様に作業場の改善を何度もお願いしてるのに」
それ以上言わせないために、龍麻呂は若与理の唇をふさいだ。禁断の果実とはこのことを言うのだろうと、龍麻呂は恋人を抱きしめながら思った。
「ねぇ、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
人目につかないように息を潜めながら、ひと通り近況を話し合い終わると、若与理が声を震わせて言った。
「どうしたんだ?」
嫌な予感がした。
「私ね、采女として主上のお側に上がることになったの」
目の前が真っ暗になった。以前にも考えたことがなかったわけではない。だが、葛飾郡からはいつも防人を出していたから安心していた。それが今年からは采女を献上しろということになったらしい。
「君は大領の娘で、とびきりきれいだから、そういうことはあり得るんだよね……」
自分を納得させるために言ってはみたが、絶望が増すだけだった。采女は宮中で天皇の身の回りの世話をする下級の
「お別れするのは死ぬほどつらいわ。でも、絶対にあなた以外の男を背の君と呼ぶことはしない。今の天皇はとてもお美しい女人なのですって。だから、どう転んでも妻にはなれない。運が良かったわ」
「でも、都には立派な官人がたくさんいるよ。僕なんて人のクズみたいに思えるよ」
若与理は龍麻呂の頬に手を添えた。日焼けして手もぼろぼろのこの若者は、たとえ身分が違い、決して一緒になることが許されなくとも、若与理の心の拠り所だった。
ある日、兄弟やその友人たちと歩いていると野犬が飛び出し、若与理めがけて襲いかかってきた。誰も犬を追い払おうとせず、若与理の裳裾に唸り声を上げた犬が迫った時、果敢に犬を打ち払ってくれたのが龍麻呂だった。龍麻呂は持ち運んでいた土器を数枚割ってしまい、厨長からさんざん体罰を食らったが、助けた娘を思い出すと痛みや追加労働など何でもなかった。 許されない恋だとわかっていても、二人の心は互いを無視できなかった。
「若与理、やっぱり君は都でいい男を見つけて幸せな人生を送ってくれよ。僕は君を幸せにすることはできない。だって賤民なんだよ」
二人の間の溝は限りなく深かった。若与理の服は鮮やかな染色で、都の宮人からすれば田舎者かもしれないが葛飾郡の中では最も華やいでいる。他方、龍麻呂は賤民であることを示す黒衣であった。視覚的にも現実というものを見せつけられてしまう。
「……いっそのこと、私もあなたと同じ身分になりたい。父様の下でこき使われてもいい。あなたと一緒になれるなら、そんなこと関係ないわ」
「バカなことを言わないで。僕は…… 君が神である天皇にお仕えできることを誇りに思うよ」
龍麻呂が若与理の髪を撫でながら言うと、若与理は嘘が下手くそね、と悲しそうに微笑んだ。二人で逃げようかという考えが一瞬よぎったが、見つかれば確実に龍麻呂は死罪だ。若与理は賤民にかどわかされたということになり、采女送りは取り止め、国内のしかるべき男に嫁がされるだろう。そして、一生囚われの鳥のごとく生きていくことを強いられる。
(ダメだ。僕は若与理を狭い世界に閉じ込めても嬉しくなんてない。それよりも、神聖な采女として都で羽ばたいてほしいよ)
「で、いつ出発するの?」
「急に決まったの。十日後よ」
「何だって」
それでは今日の逢瀬が最後かもしれないではないか。龍麻呂はほとんど自由に休みをとることができない。三日ごとにこの入江で会うことにしていたが、だいたい十日にいっぺんしか二人で過ごす時間はなかったからだ。
そしてその懸念は現実となり、十日後に、着飾り浄められた若与理は郡の官人に連れられて下総国府から旅立ってしまった。絶望が龍麻呂を侵食していく中、最後に一度、若与理が振り返った時、目が合った気がした。微かな笑みが真秦のお気に入りの観音菩薩の彫り物によく似ていた。
井戸の水がぬるくなった。雲雀もどこかでさえずっている。今日こそは郡で一、二を争う美女と名高い龍麻呂の妹を手に入れたいものだ、と少領家人の綾苅はそわそわしていた。
綾苅の仕事は郡家の馬の世話で、家族は全員疫病で死んでいるから気ままな身だ。馬は好きだが、仕事はかなりサボっている。よくふらふらと出歩いて、かわいいと噂の郎女たちを見つけに行くのが日課である。なんとなく生き続けているだけで、楽しいことは女探しくらいなものだ。幸運なことに、綾苅は目鼻立ちがくっきりしていて、家人だけでなく少領の妻や娘でさえも綾苅の顔を見つめてしまうほどだった。
同じ家人の龍麻呂とは親友で、先日、父親が事故死したことには憤りを覚えた。下総国の守は
下総国府は白砂青松の入江が見る者の心を惹きつけたが、その国府には病魔が巣食っている。綾苅はもうとうの昔にこの世に愛想を尽かしていた。貧困と暴力とが人々の心身をおかしくしている。貧困を抜けだそうと努力しても、その結果は郡司と国司の懐に消えていく。真面目に働くだけ損だ。
(しばらくあいつとも会ってないな。寝る暇もないくらい働かされてるっぽいし。お、でもかえって好都合かも。妹を口説くのに邪魔が入らないぞ)
頭の中で美人と評判の良い龍麻呂の妹の姿を思い浮かべる。屋内で機織りをしているせいか、肌は白く、華奢で、腰回りが折れそうなくらい細い。あまり国府の工房に行くことはないが、何度か後ろ姿を見たことがあったが、確かに抱きたいと思える女だった。
様子を伺いつつ龍麻呂の自宅に近づく。すると家の外で、洗濯物を干している女がいた。広げて干した布の間から足と体の一部が見え隠れする。綾苅はあれが妹だろうと思い込み、逃げられないように素早くその手首を掴んで引き寄せた。
「何するのよっ」
洗濯物の間から引きずり出された女は抗議の声を上げながら、手首を離そうとしたが、綾苅は体ごと抱きとめてしまった。
「俺は君の兄貴の親友だよ。ずっと好きだったんだ」
言いながら顔を覗きこむと、二重瞼の、意思の強い瞳がこちらを睨んでいた。怒りからか頬が上気している。
「ふぅん、あんたなんだ。弟から話は聞いてるわ。親友が妹に懸想してるみたいだけど、あいつは遊び人だからなぁ、ってね!」
しまった人違い、しかも龍麻呂の未亡人の姉だ。綾苅は一瞬戦力を喪失しかけたが、自分を見上げている女が意外にも美しく、抱きしめた体からは胸の弾力が感じられ、狩りの獲物は容易に変更されてしまった。
「悪いね、確かに俺はついさっきまで妹さんに興味があったけど、今はもう君しか目にはいらないよ」
「離してよ! 誰とでも寝る男なんて、サイテー!!」
木葉は身を捩って綾苅から逃れようとしたが、びくともしない。それどころか、綾苅は楽しそうに笑っているではないか。綾苅にとってはこんな罵声は慣れっこで、口説き続ければ最終的には落ちるということを経験で知っていた。
綾苅はありとあらゆる賛辞を木葉にささやいた。だいたいは綾苅の見た目の良さと甘い言葉で、抵抗されることはなくなるのだが、木葉は罵詈雑言を浴びせながら拒否し続けた。とうとう、二人ともバランスを失って地面に倒れてしまった。しかし、木葉には運悪く、綾苅がその体の上に覆いかぶさってしまい、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶も同然だった。唇が奪われようとしたその時――。
いでっ、と綾苅の呻き声が聞こえ、木葉は体が解放されたのを感じた。急いで立ち上がると、弟の真秦が木葉にしがみついてきた。大丈夫?とその目が言っている。
「助かったわ、真秦。こんな礼儀知らずの男、初めて!」
「うわー、君の弟くんその二だね。手荒い歓迎、ありがとう。おかげで腰が…… いてぇ」
綾苅は腰をさすっている。真秦の飛び蹴りを食らったらしい。ざまあみろだ。
「妹にも近づいたら、いくら龍麻呂の親友だからって許さないわよ。肥溜めに突き落としてやるからね」
姉弟、二人とも仁王立ちで怒りで肩を震わせている。これほど嫌われてしまったら仕方がない。今日のところは諦めて帰ろう。
「わかったわかった。とりあえず妹さんには手を出さない。でも、君はそのうち俺に惚れるよ。じゃあ、またな」
綾苅はからかい混じりに、木葉に言った。この時の綾苅はまだ、木葉を当分の間楽しめそうな新しい恋の獲物の一つだとしか思っていなかった。
いくら満月でも光にも限界がある。木々の間までは届かないし、ちょっと雲がよぎれば闇夜と変わらない。
集団で松明を掲げながら作業現場を後にした龍麻呂は、疲労困憊で体のあちこちが錆びついたように固く痛かった。早朝から昼間は国厨で大量の給食を作り、終われば父親が事故死した過酷な倉庫建築現場に行かなければならない。どうしてこの世は、生まれによって手を汚さずに生きられる者と手を汚すしか生きる方法がない者がいるのだろう。這い上がりたくても蟻地獄は上に行こうとするほど、一気に下に突き落とされる。
「ただいま」
声を落として、家の中に入っていく。最近は帰りが遅くて真秦は寝ていることが多いからだ。今日も案の定、真秦は竈の傍で転がるように眠っていた。頭の横にはまた新しい仏像が置かれていた。
「この子の作る仏様だけが、私たちに優しい顔をしてくれるね」
枳美が仏像をそっと手に取り、両手に包み込んだ。
翌日は枳美の帰宅が遅かった。木葉は郡大領家の炊事洗濯や掃除などの雑用に従事しているため、夜遅くなったとしても自宅が近いためすぐに帰ってこられる。しかし、枳美は国府内の崖の方にある工房で働いている。
「どうしたのかしら。あの子がこんなに遅いなんて」
確かに今日は上からの指示で工房は晩まで稼働させるということは聞いていたが、いくらなんでも遅い。
「僕、ちょっと見てくるよ」
と龍麻呂が立ち上がった時、戸口から転げるようにして枳美が帰ってきた。しかし、様子がおかしい。
「枳美! どうしたのその体!?」
妹は力なく入り口の側に倒れこみ、その表情は死人のように生気がなく、何より異常だったのは衣の裾に血液が付着していることだった。
「誰がやったの!?」
木葉は横たわった枳美の横に膝をついて体を確かめた。その美しい顔や腕には痣や傷跡が生々しく残っている。明らかに暴行されたことがわかる。
枳美は姉の問いかけに答えることができず、ただ弱々しく首を横に振った。
その日から枳美の笑顔は消えた。翌日は体調不良ということで工房を休み、ようやく口を開いたのは数日後のことだった。事件は枳美が最後の布を仕上げ終わり、工房を出てから通る林の中で起きた。枳美以外の作業員は全員帰宅していて一緒に帰る仲間がいなかったことが災いした。
「待ち伏せをしてた感じだった。私の名前を知ってたから…… 私を好きだって言ってた」
枳美は思い出したことを後悔したように体を震わせた。
男は枳美を後ろから羽交い締めにして、口を塞ぎ地面に押し倒したという。そして、その男の衣からは独特な臭いがしたと枳美は言った。
「どんな臭い?」
「わからない。嗅いだことのない臭いだった。薬かな…… ちょっと柑橘類と鉄が混ざった変な臭い」
そんな奇妙な香があるとは思えないからやはり薬だろう。そういう薬を携帯している人間か、あるいは医師なのか。
「臭いのことはわからないけど、もしかして綾苅なんじゃないの? あいつ枳美のこと狙ってたもの!」
木葉は顔だけは特別良い憎たらしい綾苅を思い浮かべた。しかし、龍麻呂が綾苅犯人説を否定した。
「あいつは女たらしでどうしようもないけど、暗闇でいきなり襲って無理やり手に入れるような男じゃないよ」
「どうだか! あたし、いきなり抱きしめられたわよ!」
「でも、ひたすら口説かれただけでしょ。絶対暴力は振るわないね。しつこいのは僕も呆れるけどさ」
とりあえず、弟の主張を信じることにした。それにしても、もし工房の仕事がいつものように昼上がりだったらそもそも事件は起きなかった。遅くなったとしても日没の半刻前には終業することになっているのに。
要するに、国府で急に大量の織物が必要になり、その命令を受けて工房は働き詰めを強いられることになったというわけだ。もちろん、なぜたくさんの織物が必要になったかという背景など賤民が知る由もない。
枳美はたまたま席を外していて知らなかったのだが、一度、工房に国守がやってきたらしい。進捗状況を直接確かめたかったのかもしれない。
「犯人は国守といってもいいくらいだね」
妹は他人より手先が起用で機織りも上手かった。だから、複雑な織物は全部枳美の担当になり、異常な残業の果てに見知らぬ男に暴行されてしまったのだ。
その上、精神的ショックから工房に出られなくなってしまった枳美の代わりに木葉が借り出されることになったが、枳美ほどの腕ではないので監督官から罵倒されているらしい。
(何のために僕たちは生きてるんだ。あの国司や郡司たちの懐と腹を満たすために、どれだけ僕たちが犠牲を払っていると思ってるんだ。はやり病にも弱いのに十分な薬は回ってこない。朝から晩まで休みなく重労働に使われ、死者が出ても続行する。誰か死ねばまた他のやつを投入するだけ。僕たちは人ではないんだ。ただの使い捨ての駒にすぎない)
こんな考えが頭の中を延々と回る。寝付けない夜が何度もあった。木葉はようやく笑顔を取り戻した矢先に父を失い、妹が汚され、再び寡黙になってしまった。失うことばかりで、得るものなどこの世にはないのだ。
龍麻呂は一人思案した。厨の竈に火をくべながら、倉の材木を削りながら、この悪循環を終わらせる方法を――。
思案を実行に移そうと決めたきっかけは、仲間の阿弥太が軍団に納入した刀が使いづらいという理由で突き返されたことだ。
「使いづらいなんて、いちゃもん以外の何物でもないよ! 俺は寝る間も惜しんで改良したし、実際に兵士に握り方を試してもらったんだ」
阿弥太は官戸で国府の鍛冶職人だ。愚直な性格でおかしな品物を作ったことなど一度もない。
「単に、軍団長が気に食わなかっただけなんだ。そしたら大領の息子がしゃしゃり出てきてさ。あいつはいつも癇癪を起こして、俺たち官戸や奴を殴る」
軍団の中には大領の息子の徳麻呂という、完全に名前負けしている傲慢な若者がいる。あの若与理の実の兄とは信じがたい。
「今回も?」
龍麻呂が訊くと阿弥太は耳の辺りにかかっていた髪を避けて見せた。青い痣が耳から首筋に浮き上がっている。
「ひどい……」
「俺が作った刀の平地で叩かれた。鞘がなかったら切れてたところだよ」
郡司の非道は国司に訴えるべきだが、国司も同罪なのだから泣き寝入りするしかない。龍麻呂は計画を打ち明けた。実行すれば誰かがこの悲惨な国府を都に伝えてくれるのではないか。
「国司館を襲撃?!」
阿弥太は声を落として叫んだ。そんなことをすれば生きてはいられまい。都から派遣されてきた国司に歯向かうことはすなわち天皇への反逆だからだ。しかし龍麻呂は真剣に頷いた。誰かがやらねば。
「訴える文を持って押しかけるんだ。襲撃の正当な理由を示す必要がある」
「でも、文字書けるのか?」
それが問題だった。そもそも墨や筆も持っていない。龍麻呂には心当たりがあった。
「いいよ」
阿弥太に計画を告げた日の夕刻、懲りずに自宅にやって来て木葉を口説こうとしていた綾苅を捕まえて、龍麻呂はあることを頼んだ。するとあっさり承諾が返ってきた。
「
「脅してまでやってもらわなくてもいいよ」
「でも、俺らの中で光藍くらいしか文字を書けるやついないだろ。あ、うまく行ったら姉貴をちゃんと紹介してくれ。襲撃に参加して最悪死罪。その前に抱いてから死にたいね」
さすがの親友でも呆れてものが言えない。命がかかってる行動に半拍も置かずに賛成し、仲間の光藍も引き込もうとしている。たぶん自分の命なんてスズメの羽よりも軽いと思っているのだろう。投げやりで、いつだって恋も刹那的な遊びでしかない。
「木葉、嫌なことは全部、俺が忘れさせてやる。怒った顔でも何でもいいから、俺を見てくれよ」
龍麻呂と真秦が外に薪を割りに行った間に、綾苅はまたもや木葉に挑んだ。今度は少し距離を置いて話しかけるだけだ。当然、木葉は答える義務などないと無言を貫き通している。青菜や雑穀を水で洗ったり、繕い物をしたり手を休めることなく動くが、一瞬足りとも綾苅の方を見ようとはしなかった。
(どういう神経してんの、あいつ。人様の不幸につけこんで、あたしが弱ってる時に優しくするなんて。無視よ、無視! ……それにしても、龍麻呂はほんとに国司館を襲うつもりなのかしら。そんなことしたら後がない。でも、残しておきたい後なんて、あたしにもないよ。真秦も枳美も一緒に行くって言ってるし、あたしだって一応姉だから乗り込んでみせる。ああ、せめて赤ん坊が生きてたら――)
ぼんやりと考え事をしていると、ふいに人が動く気配がした。綾苅だと気づいて退く前に木葉の肩は綾苅の腕に抱き寄せられ、顎に指先がかかった。
(ダメ! あたし、死んだ夫以外の男に唇は触れさせないって誓ったんだもん!)
唇を固く結んで顔を横に向けたつもりだったが、綾苅は一枚上手だった。木葉の誓いは遊び人の前に脆くも崩れ去っていた。慌てて綾苅の胸を押しのけると、盗人はごちそうさまと満面の笑みでこちらを見ている。
「ああ、やっと俺を見てくれたね。顔に血の気も戻ってとっても綺麗だよ。まぁ、君のその白い肌を堪能できないのは心残りだけど、今のでも、もう死んでもいいや」
「何言ってんの、あんた死ぬ気? ていうか、あたしの身にもなってよ。これでも未亡人なんだよ」
木葉は逆上して甲高い声を上げたが、綾苅は意に介さずへらへらと笑っている。
「だから? いくら想っても君の亡くなった背の君は戻ってこない。俺に恋すれば、苦しいことなんてなくなるんだぜ」
やれやれと綾苅は肩をすくめた。木葉には隙がありすぎる。嫌ならこの部屋からさっさと出て行けばいいのに。
「俺はね、両親と兄弟をはやり病でなくした。だから一人。西の方から病が忍び寄ってきてるのがわかってたのに、佐伯の野郎は何もしなかった。国司や郡司を優先して薬を配って、病人が出た家は立ち退くしかなかった。俺はあの時、家族と一緒に死ぬべきだったんだよ。だから今だって死んだも同然なんだ。国守を襲うことに何のためらいもない」
辛い話なのに綾苅は始終笑っている。本当にこの世などどうでもいいという感じだ。木葉は背を向けた。後ろから抱きすくめられる恐れはなさそうだ。戸口に二人の弟が帰ってきた音がする。
「なんだよ、まだいたのか、綾苅」
「もう帰るわ。馬に草やらなきゃ。笑っちゃうよな、俺よりも馬の方が腹いっぱい食ってんだぜ。光藍はきっと協力してくれる。数日内にまた来るよ」
妙に笑顔なのが気になったが、襲撃の準備が大きく進みそうなので龍麻呂は頼むよと短く一言だけ言って見送った。
早朝。浅葱色の空に見えるか見えないかくらい薄い雲がたなびいている。
裾が朝露で湿るが仕方がない。綾苅は親友の龍麻呂との約束を果たすべく、真間山を登った。山というよりも丘のような感じでそれほど高くはない。もう一人の親友である光藍は真間山に住みついている優婆塞だった。
優婆塞というのは政府から認められていない勝手に出家した修行者のことだ。政府は優婆塞になることを禁じているが、これと言って有効な手立てを講じられていないのが実情だ。徴税逃れのために修行者になる者は多数いるが、少なくとも光藍は真面目に修行している。当然、取り締まるのは国司の役目で、光藍にとって国衙の役人たちは天敵と言っても過言ではない。
(しかし、すげーな、この護符)
胸元にねじ込まれたよれよれの護符は光藍がくれた。これを持っていれば、真間山に登ろうとしても結界に阻まれることはないと言われた。光藍は何か呪術を使えるようだった。
粗末な庵にたどり着くと、白い修行装束を身にまとった光藍が太陽に向かって祈っているところだった。邪魔をしては悪いと思い、しばらく佇んでいると光藍から歩み寄ってきた。
「しばらく会ってませんでしたね。また女人の尻でも追いかけてるんですか」
荒々しい修行者とは思えない涼しい顔の光藍は、ふっと笑みをこぼした。傍から見れば悟った顔なのだろうが、何のために修行しているのかイマイチ理解できないものの、彼が俗世を捨てた理由を知っていた綾苅としてはその笑みが恐ろしく思えた。自分の投げやりな態度とは真逆の、しかし、それ以上に空虚な心が痛々しい。
光藍の俗名は、
「まぁ、しばらく飽きずに遊べそうな女を見つけたよ。龍麻呂の姉貴でさ、すぐ怒る。拒否するくせに、隙だらけ。ところで、お前に頼みがある」
綾苅は持参したまっさらな木簡を手渡して、事の次第を説明した。光藍は剃ったまま放置して短い毛が生えてきていた頭を掻いて、「困ったもんですね」とため息をついた。
「やっぱ、無理か? あ、いやでも、お前はここに文字を書くだけで、襲撃に参加しろとは言ってないよ」
「僕も参加しますよ」
「へ? いいのか、そんな簡単に決めて」
「既に俗世を捨ててる身です。僕は未だに修行者として何も感得できていない。いつになったら、役小角のようになれるのか。越前の法澄法師は白山に登られる支度を始めたというし。もしかしたら襲撃に加わることで何か得られるものがあるかもしれませんよ。死罪になってもそれはそれで本望です」
綾苅には光藍の言っている意味がよくわからなかったが、協力してくれることは確かだ。きっとこいつは自己犠牲で誰かが救われるかもしれないなんて考えてるのかもしれない。俺はただ国守に一泡吹かせてやりたいだけだ。
狭い庵に上がり込み、綾苅は光藍から薬湯をもらった。苦味があるかと思ったが、ほどよい酸味で飲みやすかった。朝早いこともあって、綾苅は遠慮なく床に転がる。すると、光藍はそういえば……と初めて聞く話をした。
「小耳に挟んだのですが、あとひと月したら国守が交代しますよ。その時を狙った方が衝撃が大きいのでは? 今の佐伯を襲っても僕たちが逮捕死罪になっても隠蔽されてしまったら元も子もありませんから」
「そんな話があるのか。てことは、四月の下旬。よし交代式を狙おう。まぁ、新旧の国守がそろって隠蔽するかもしれないけど」
新しい国守にとっては初っ端からの大惨事、大失態だ。何としても事件をなかったことにするかもしれない。とは言え、大勢の役人が目の前にいるところで訴えに及べば、口に戸は立てられぬと言うから噂は広がるだろう。下総国の圧政が民を苦しめ、とうとう暴発に至ったのだと。
「他に参加者は? まさか三人だけですか?」
「いや、龍麻呂の家族全員と、阿弥太と真熊も一緒だ。阿弥太は武器を用意できるし、真熊は腕っ節が一番強いから」
信頼できそうな仲間たちに打診したが、参加を覚悟してくれたのは阿弥太と真熊だけだった。それでもいないよりマシだ。
「ほんと感謝するよ、光藍。でも、いいのか? お前、修行した意味なくなっちまうんじゃねぇの?」
光藍は一切の動揺なく、首を横に振って否定した。晩春の暖かい木漏れ日が光藍の背中を流れるように移動している。
「いいんですよ。あの人のいないこの世に未練はありませんから」
光藍にはわかっていた。修行などただ過去を見ないようにするための方便だということを。これだからいつまでたっても何も感得できずにいるのだということを。
非情な国守を糾弾するために身を投じたとなれば、あの人は呆れつつも褒めてくれるかもしれないではないか。光藍は胸に飼い続けてきた彼岸の扉を開けようとしていた。
*****
物語は完結しています。少しずつ掲載していきます。
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