第1章 巡察使の誇り (5)越後国・佐渡国

 新川郡佐味駅で宿泊し、早朝、越後国の国府へと向かった。海岸ぎりぎりの断崖絶壁にかろうじて作られた道が長く続き、北陸道最大の難所を通過しなければならない。この区間は徒歩だ。

 ようやく姫川にたどり着くと、もう難所にぶつかることはない。姫川は天界の川かと思うほどの清流で翡翠の一大産地として名高く、河口付近の集落では翡翠玉などの工房が立ち並んでいる。俺は国の市場で翡翠の腕輪を買おうと決めた。もちろん、鈴への土産だ。

「やはり越後は今までとは雰囲気が違いますね。なんと言うか、殺伐としてる」

 さらに東へ進み、佐久太がそう感想を述べた理由は、兵士の多さが原因だろう。越後は通常の国の役目に加えて、北方防衛と蝦夷対策を担う重要な前線基地なのだ。

 後に国府は頸城郡くびきぐんに移されるが、俺が巡察使だった頃の国府はずっと北上した蒲原郡かんばらぐんにあった。越後城えちごのきと言うのだが、以前の名称である渟足柵ぬたりのきの方がよく知られているかもしれない。

低湿地帯に張り巡らされた水運網で移動し、俺たちは越後城の正門をくぐった。

「ようこそ、辺境の地へ」

 国守の物部朝臣火毛人もののべのあそんかげひとは、にこりともしないひどく無愛想な男だった。朝服を着ていても筋骨隆々だということがわかるが、なるほど武人の物部氏に相応しい。

「先に言っておくが、俺を含めた国司にやましいところはない。好きなだけ監査してくれ。だがな、知っているだろうが越後国は昨年春、疫病にやられて人が減ってしまった。恐れ多くも主上はすぐに医師を派遣され、薬も下されたが猛威には勝てなかった。ゆえに収穫量は芳しくない」

「事情はわかりました」

 こういう状況だから、物部殿の表情は硬いのかもしれないなと俺は思うことにした。

 そして、越後国では歓迎の宴が一切なかった。

「あり得ないですよ~、いくら我々が格下だからって! 仮にも太政官直属の巡察使ですよ! ああ、美味いもの食いたい……」

 すっかりやる気をなくした小麻呂をなだめるのは至難の業だった。

「仕方ないよ。初めに窮乏の実情を言われてしまったんだ、こっちから催促できないし。それに、越後は他国よりやることが多いからね」

 どういうことかというと、越後は蝦夷対策の前線基地として、蝦夷懐柔の饗給、軍事行動である征討、情報収集の斥候が国守の責任下で行われることになっている。懐柔のための宴に出す良い食材を確保したり、軍団を訓練したり毎日忙しいのに、巡察使を歓待する余裕などなかろう。

 越後城は他の国庁と変わらずかなり広く、多様な施設が並んでいる。やはり軍団関係の建物が多いようだ。

 俺と小麻呂が場内を視察していると、突然何かが飛び出し、俺の足に衝突した。

「クヤヤパプ!」

(な、何が起きたんだ?!)

 見ると足元に七つくらいの子供が尻餅をついてこちらを見上げていた。なぜ場内に子供がいるのかわからなかったが、とりあえず助け起こした。

「どこか強くぶつけたか?」

「ううん。おいらこそごめんなさい」

「さっきのクヤヤ……って?」

「ごめんなさいという意味! あなたはではなかったんですね」

 俺が俘囚? 天皇に帰属した蝦夷だと思ったのか、この子は。首を傾げていると子供の背後から金属音を擦らせてやってきた男がいた。

「モヌイ、お前バカか」

「あっ、だいき! お昼ご飯食べに行きましょうよ!」

 子供が叫んだとは、たぶん大毅のことだ。男が甲冑に包まれていることからも、軍団長に違いない。

「この方は巡察使と言って、都から我々の仕事ぶりを見に来られたんだ。俘囚なわけないだろうが」

 言葉遣いは荒っぽいが、本当に不機嫌なわけではなさそうだ。モヌイと呼ばれた子供もどことなく大毅の存在に嬉しそうな表情をしている。

「申し遅れましたが、私は大毅を務めている高志君黒主こしのきみくろぬしと申します」

 黒主は兜を外し、一礼をした。俺の兄くらいの年に見える。

「私は高向朝臣大足だ。こちらは録事の鳥部小麻呂。しばらく世話になるな。ところで子供がなぜ?」

 話題にされた子供は、大毅が口を開く前ににっこり笑ってその理由を述べた。

「おいらはなんです。えみしと和人の言葉を両方わかるから」

「へぇ、子供が訳語ですか!」

 小麻呂は感心している。

「こいつの父は国府の雑任なのですが、母は蝦夷の女人で、それで訳語に使っております」

 なるほどと納得していると、隣で派手な空腹を知らせる音が響いた。

「ろくじ様もお腹が空いているよ。いっしょにご飯食べましょう!」

 モヌイがバツの悪そうにしている小麻呂の袖を引っ張る。

「いいのかい?」

「しかし、我々の食事は軍団の者たちと同じで、巡察使様たちに召し上がっていただくようなものでは……」

 俺は越後の軍団をしっかり見たいと思っていたから、気にしないと同席を頼んだ。小麻呂など食べられれさえすればとりあえず満足するだろうし。

 軍団の食堂は国庁外郭の端にあった。軍団と言っても全ての兵士が集まっているわけではなく、ここで給食を得られるのは幹部だけだ。出された食事は実に肉々しかった。

「肉は狩猟に長けてる俘囚がやります。俘囚は税が免除される代わりに、狩猟や武芸の訓練に励み、定期的に蝦夷の特産物を国府に納めることになっています」

「母ちゃんは父ちゃんより狩りが得意で、シカもつかまえるよ!」

 もさもさの長い髪を揺らしながらモヌイが自慢するが、黒主に一喝された。

「お前は黙っとけ」

「はぁい」

 蝦夷政策の基本は北方の地にを作り、官衙を整えて徐々に支配可能領域を増やしていくことだ。そのために北陸道や信濃あるいは東国から柵戸きのへという開拓民が移住させられ、蝦夷とは別の集落で生活している。

「蝦夷にはなかなか服属せず抵抗を試みる麁蝦夷あらえみしと服属を好都合と考える熟蝦夷にぎえみしがいます。普段は交易をして互いに利益を得ていますが、麁蝦夷ではそうはいきません」

 かつて宝大王たからのおおきみ(斉明天皇)が阿倍比羅夫を蝦夷征伐に送って以来は、大規模な軍事行動は慎まれてきた。

「そろそろさらに北方に進出せよとの指示があり、新しい柵を出羽郡の最上川手前に建設すべく既に斥候に探らせています」

「で、蝦夷は服属しそうか?」

 俺の質問に答える前に、黒主は部下からの慌てた呼び声に反応して立ち上がった。

「大毅、また柵戸と俘囚が諍いを始めました!」

「またか…… 第一隊正はいるか?! 第一隊を派遣するぞ」

 黒主は言いながら食堂を後にし、部下が引いてきた馬に飛び乗る。

「我々も同行する」

 俺は名残惜しそうに鹿の燻製肉を見つめる小麻呂の腕をとって走り始めた。ちょっと腹の中がひっくり返って気持ち悪い。

「しかし、隊を出すなんてそんなに連中は武装して暴れるのか?」

 一個隊は五十名の歩兵と騎馬兵で構成されており、二名の弩手が選抜される。だが、諍いを起こしているのは非武装の十数名らしい。

 現場は城から離れた海岸付近の交易場である。船着場や倉庫や作業小屋が整備されているが、蝦夷の管轄地域だ。和人は基本的に場内に住まわせており、夜になると場外で活動していても柵の中へ戻す。

 隊が到着すると、和人も蝦夷も一瞬怯み、ぴたりと怒号が止んだ。しかし今度は睨む対象が商人どうしではなく、隊へ変わった。がなり声でじりじりと詰め寄ってくる蝦夷は、今にも襲いかかってきそうだった。

「モヌイ、訳語を頼む」

 今度は何の騒ぎだ、大人しくしないと交易場は閉鎖するぞとモヌイが蝦夷の言葉で叫んだ。子供が言っても全く迫力に欠けるが、背後に控える兵士たちがそれを補っている。

「もうこれ以上、サケを出すことはできないって。蝦夷は布は足りてるから、交換する必要ないみたい」

 モヌイが馬上の黒主に伝えると、和人が軍団長に訴えた。

「鮭は御贄で、燻製にしてあと七百斤必要なんだ」

 この和人は越後城の官人で、蝦夷の特産品を買い付けに来ていたのだが、これ以上は取引できないと突っぱねられたらしい。川にはまだ鮭はたくさん泳いでいるのに、蝦夷は独占しようとしていると官人は憤った。

 鮭はどこかに隠してあるに違いない、持ってこさせてほしい。官人の話を後方で聞いていた隊正が兵に弓をつがえさせた。本当に射るつもりはないが、威嚇である。 子供のモヌイが不安げな顔で蝦夷と大毅を交互に見ている。

「一度、兵を引かせよう」

 俺は慌てて黒主に言った。今、何と?と黒主は聞き返す。

「相手は交易人だろう? 兵士じゃない。諍いを止めさせるなら文官だけで十分だ」

「しかし、巡察使殿! 従わせるには軍団の存在が必要です」

「麁蝦夷だったらな。彼らは熟蝦夷なんだ。交易できない理由を聞き、その上でこちらの意に沿うように交渉すべきじゃないのか。ひとまず私に任せてほしい」

 丸腰の熟蝦夷に対して始めから武力で威嚇するのであれば、もし麁蝦夷と対峙する時はどれほど武装するつもりか。一個隊を出すなんて無駄だ、というのが俺の考えだった。

「わかりました。もし危険が及ぶようであればすぐにお呼び下さい」

 黒主はしぶしぶ隊正以下五十名の兵を連れて城内へ帰っていった。軍団長と言えども、平時では巡察使の方が遥かに権限が強いからだ。

 うっかり取り残されたモヌイが「おいら、おさをやろうか?」と訊く。急に兵士が撤退してしまい、逆に蝦夷は驚いている。

「では、頼むよ。責任者になぜ鮭を出せないのか尋ねてくれ」

「うん」

 モヌイは責任者に呼びかけ、蝦夷言葉で話しかけた。相手側は手ぶりを交えてひどく怒っている。

「お前たちは鮭のことを知らないのか、って言ってるよ……」

 予想外の答えだった。俺は素直に知らないから教えてくれと返した。すると責任者は俺に向かって何かしゃべりかけた。コタンという言葉が聞こえたようだが、当然、蝦夷言葉では理解できない。

「明日朝早く、コタンに来なさいって言ってるよ。集落に呼ばれてる。どうする?」

 モヌイは興味津々で俺を見上げるが、小麻呂は不安そうな目付きだ。

「蝦夷の集落に? 行って大丈夫なんでしょうか……」

「行かなきゃ御贄の鮭が手に入らないだろう。軍団の前で俺に任せろって言っちゃったし」

「じゃあ、行きますって答えるよ」

 モヌイが伝えると、責任者は黙って頷き仲間を連れて浜辺を去った。

 翌朝、厨の竈に火がくべられる頃、俺と小麻呂は馬に乗り越後城の正門を出た。 朝焼けの空が眩しい。大人の二人は眠いが、モヌイは小麻呂の前に座ってはしゃいでいる。

 越後国内にある蝦夷の最寄りのコタン――集落は半刻もあればたどり着くシビタという土地にある。モヌイによれば、まさしく「鮭の捕れる所」という意味のようだ。

 集落の入り口に男が立っている。モヌイが挨拶をすると集会場に案内された。

「あれがシビタのエカシ、長老だよ」

 奥の立派な敷物の上に白髪の老人がゆったりと座っている。いったい何歳なのだろう。俺はこんな老人は見たことがなかった。

 集会場は広く、和人から手に入れた敷物が置かれ、壁にはよくわからない動物の絵が描かれている。座って待っていると、交易場の責任者が出てきて名乗った。イホカイというそうだ。

「あなたがじゅんさつしということは知っている、だって!」

 そうか、蝦夷にもこちらの事情は伝わっているのか。イホカイは巡察使の役割を正確に理解しており、だからこそ俺を呼んだと説明した。

「越後守は我々にとってもさほど不都合な方ではないが、時々軍団が先走る。文官でなく兵士が出てくると我々も黙って引き下がるしかない」

「では、教えてほしい。御贄の交換を拒む理由は?」

 イホカイは言う。鮭はカムイチェプ、神の魚であり、漁をする時も「イナウコル」と唱えながらする。なぜなら、カムイチェプを粗末に扱うとチェプアッテカムイの怒りを買い、次の年の鮭が少なくなってしまうからだ。

「ちぇぷあってかむい、って?」

「魚を司る神のことだよ」

 鮭漁は秋に始まり、それからすぐに加工された鮭が大量に都に送られる。それが都の正月の宴に並ぶのだ。

「しかし、それだけでは足りぬと夏になっても蝦夷から鮭を手に入れようとする。蝦夷の分の鮭を取り崩しても、和人に差し出すいわれはない。和人のためだけにカムイチェプをさらに殺すことなどできない」

「要するに、お前たちは神の魚を失いたくないのだな。だが、我々も御贄を失いたくない」

 俺は言ってみれば天皇の代理人だ。熟蝦夷との無用な争いは避けたいが、天皇への貢物をむざむざと放棄するわけにはいかない。となると、代用品を貢いでもらうほかないだろう。

「馬はどうだ? 鮭の御贄の他に馬を二匹、つがいで」

 ここでの交渉はあくまでも仮だ。巡察使の権限を越えた行動なので、後で国守を通じて正式に交渉し、中央に解文を提出してもらう。モヌイに訳語してもらうと、イホカイが返事をする前に今まで黙っていたエカシが口を開いた。

「和人は何を見返りにくれるのかね。馬も貴重な生き物だ。見合った代替品でなければ、納得できんぞ」

「では、米は?」

「米は十分蓄えがある」

「でも、米を作る技法は知らないだろう?」

 俺の言葉に、エカシはふむと唸った。そう、蝦夷たちは米を和人から受けとるが自分たちでは作れない。蝦夷たちは和人と交易するようになって米をよく食べるようになったようだ。

「技法を教えてくれるというのだな?」

 俺は頷いた。越後守が承諾するか否かは五分五分だったが、俺は正当な取引だと思った。

「それならば馬と引き換えにしてもよかろう」

 エカシが決めたことは誰も反論できない。イホカイも不安そうにこちらを見ているが何も言わない。

 とりあえず、蝦夷との交渉を終えた俺はコタンを後にした。

「国守は納得してくれますかねぇ」

「まぁ、まだ提案の段階だし。物部殿がわからず屋とは思えないから説得するさ」

 果たして、越後守は俺の話を仏頂面で聞き、いかにも余計な真似をしてくれたなという感じで鼻を鳴らした。

「高向殿、蝦夷をいかに支配するかは我々にとって死活的な問題だ。蝦夷が鮭を神の魚と崇めようが、現人神であられる天皇とは何の関係もない」

「はい。我々にとって鮭は鮭でしかありません。ただ、乱獲の恐れは事実です。このままでは最低限の量の御贄も献上できなくなります」

 物部殿はやはり無表情で続けた。

「稲作の技法を蝦夷に教えるなど、あやつらの手綱を手放すようなものではないか」

 俺が国司の監視を行う巡察使ではなく、ただの部下だったら罵倒されたかもしれない。ちょっとこめかみに青い筋が見えたと、部屋を退出した後に小麻呂が言っていた。国守からしたら、それほど俺の提案は馬鹿げていた。

 しかし、俺は怯むことなく反論した。

「蝦夷だけが得をするのなら私もそんな妥協はしません。まず、稲作を教えたところで蝦夷が実際に稲作を取り入れるかわかりません」

「取り入れたらどうする?」

「それでも習得し、自力で取り組むまでに数年かかります。我々の田で教えれば数年間は労働力として使えます。それに、蝦夷が自力で稲作ができる頃には我々は出羽まで進出してるでしょう。進出を阻まれることもなく、さらに稲作の知識を持つ蝦夷がいれば出羽の開拓もより楽になると思いますが」

 それに、もし稲作がうまくいかなかったらどのみち和人の米を買わざるを得ない。俺だって蝦夷を野放しにすることは望んでいないのだ。

 国守の顔色を伺うと、さっきよりは不機嫌さが和らいでいるように見えた。しかし、俺の主張に肯定はせずにこう言った。

「飼っているだけでなく、働かせろということか。高向殿は征夷将軍になるべきだな」

 筆先に墨をつけて、国守は木簡になにやら書き込んだ。まるで俺の方が評価を受けているのではないかと思ってしまったが、軍団への指示だった。今後は和人と蝦夷が諍いを起こしても、両者が非武装であれば出動してはならないという内容だ。

「御贄の件は調査資料をつけて太政官に報告する。鮭の捕獲量を保つために代用品を献上させる、とな」

 正当な理由を付しているにも関わらず太政官が絶対拒否することは考えられなかったから、俺は国守の対応にひとまず満足した。

 翌日から越後国の検田を開始した。越後は領域が広大な割にはまだ水田開発がそれほど進んでいない。水田は蒲原の平地に集中していて、隠田が発見されたのは頸城郡と古志郡だった。

 何日も続いた検田が終わり、佐渡へ旅立つ日の前日、城外の練兵場を見物していると、突然、若い男が荒っぽい言葉を発しながら俺に近寄ってきた。たっぷりとした豊かな長い髪を後ろで束ねていてぎらぎらした目つきをしている。馬を操る姿は堂々としているが、見た目よりももっと若いかもしれない。しかしながら、何を言っているのかさっぱりわからない。どうやら蝦夷らしい。

 近くにいたモヌイが「あっ、キラウコロ兄さんだ」と呟いた。キラウコロは武具を携えていて、その馬は鞍に越後軍団特有の模様が描かれている。モヌイに訳語を頼もうとしたが必要はなかった。

「お前が巡察使だな」

 キラウコロは軍団に所属していることもあって、和語を話せるようだ。しかし、友好的な雰囲気ではなかった。

「そうだが」

「俺はシビタのエカシの孫だ。俺は強くなって、いつか和人を追い出す。今はこの軍団で鍛えているけど、かならず誰よりも強くなる。エカシは和人に従う道を選んだけど、俺は認めないからな!」

 一方的にまくし立てると、キラウコロは手綱を引いて駆け去ってしまった。勝手に宣戦布告された俺はただぽかんとしてその後姿を見送った。

「あれじゃあ、あらえみしみたいだよね。あらぶりたい年ごろなんだよ、きっと」

 子供のモヌイがやれやれと呆れた声を出したが、大人ぶった様子に、俺と小麻呂は顔を見合わせて吹き出した。


 まだ夏の香りを残すある日、俺たちは沼垂の津を出港した。国府の陰陽師によれば邪気がないので佐渡までそれほど悩まされずに到着できるはずだ。定期的に沼垂と往復している官船の船べりにもたれかかって、俺はカモメを見上げながら鈴を想った。あまりに恋しさが募って歌すら口をついて出てこない。

「まぁ、でも佐伯郎女を得たいと思ってる男が他にいなくて良かったですね。いたとしても父上が地方の豪族に娘をやるかというとそれはなさそうですが」

 小麻呂の言うことはもっともだ。ただ時間が隔てているだけで俺たちは相思相愛なのだ。そして俺は参議の息子。鈴の相手として不足はない。俺は鈴を絶対に手放さないと誓っていた。いずれ俺が出世してどこかの国守になったとしても、鈴を都に置いて単身赴任するつもりはなかったし、俺と一緒にいれば幸せでいられると信じていた。そう、本当に疑いもなく俺たちは同じように年を取り、同じように死んでいく人生だと思っていた。

 すっかり沖合に出てしまうと、小麻呂と佐久太は後方甲板に敷物を敷いて寝てしまった。揺れが気にならないのか不思議だ。そして俺も座ったままうつらうつらしていたが、次第に甲板が慌ただしくなり目が覚めた。

「もう佐渡の津に着きますよ」

 船員が乗船者に声をかけて回る。佐久太が熟睡している小麻呂を申し訳なさそうに揺すって起こした。

 佐渡は思ったよりもずっと瑞々しく、鮮やかな緑と青に覆われていた。郡は一つしかなく、田畑も中央部の平地に密集しており、検田は楽だった。大領は始終にこやかで何か隠しているのではと疑ってしまったが地で人が良いだけだった。

「巡察使殿、都にはツキとかツクと呼ばれる害鳥はおりますか?」

「ツキですか? 聞いたことはないですね」

 律儀に検田についてきた大領が水田の上空を指差す。宙には二、三羽の見慣れない鳥が旋回していた。それは薄紅色のとてもきれいな羽を持ち、くちばしが長く顔が赤い鳥だ。

「一昨年、蝗と大風の害で危うく飢えかけるところでした。今年はなんとか持ち直したのですが、ツキの奴が田を荒らしてしまって……」

 よく見れば水田の所々に荒らされた形跡がある。すました姿で畦に留まっているツキは、美しい見かけだが害鳥なのだ。

「駆除の費用をいただければと思うのですが、巡察使殿にお願いするようなことではないですね」

「いえ、民の暮らしを見て回るのも私の仕事ですから、要望は承りましょう」

 それはありがたいと大領は俺に頭を下げた。隣で小麻呂は必死に記録を書き留めている。半年も巡察使をやってきて、こういう地道な役回りも悪くはないと思えるようになっていた俺は、数日後、忘れかけていた中央政治の影を見ることになった。

 日差しは強いが風は秋の訪れを感じさせる。この日は朝から仕事というよりも興味半分で郡内を歩くことにした。ちょっと気になっている場所があったのだ。小麻呂には休暇を与え、俺は佐久太を連れてその場所へ足を運んだ。

 その家は集落から離れたあまり日当たりの良くない土地にぽつんと建っていた。家の前を走る小川が何か境界線のように見える。

「あ、子供が遊んでますね。うちの子よりも少し上かな」

 その子はまだ髪を肩のあたりで揃えていて、掠れた橙色の衣を着ていた。見知らぬ俺たちに気づくと不思議そうに近づいて、だあれ?と訊く。

「えーとね、郡の大領の知り合いだよ。君一人で住んでるわけ……ないよね」

 よく見ると整った顔立ちで、もしかしたら美人に成長するかもしれない、などとくだらないことを考えていると、どちら様ですかという男の声がした。

「突然すまない、私たちは巡察の者だ。ちょっとこちらの家が集落から離れていて気になっただけのことで、取り調べたりするわけでは――」

 若い男は子供の手を握った。父娘か。

「では我々のことをご存知ないのですね。大領も人が悪い」

 笑いながら、男は言う。そして立ち話もなんだからと、俺たちを家に招き入れた。家は粗末だが荒れてはいなかった。最低限の物が揃ってはいたが、娘の母親らしき人物の影はなかった。娘が小さな手で清水の入った椀を俺たちの前に置いた。

「こんなところでなければ、もっともてなすこともできたのですが」

「というと、本来は良い暮らしを?」

 男は寂しそうに頷いた。確かに、立ち居振る舞いや訛りのない言葉からすると農夫の生まれではない。

「私は坂合部宿禰大鳥さかあいべのすくねおおとりと申します。親族の唐はこのたびの律令撰定にも携わり、他にも粟田朝臣殿と共に遣唐使として大陸へ渡っている者もおります」

 つまり目の前の大鳥という青年はそれなりの中流貴人の出ということだ。それにも関わらず佐渡という遠国で生活しているということは……

「ええ、私は罪人です。多くの親族がそうであるように私も唐の言葉を理解し、佐渡へ配流になる前は玄蕃寮に勤めておりました。先の太上天皇がご存命中、この度の遣唐使派遣が決定され、私も末端ですが準備に関わりました。……早い話が、私は機密を漏らしたのです」

 そういうことか。誰になぜというのは、中央の、俺が関わることのない次元の権力争いが発端だった。

 現在の主上は俺と同じ年で大変お若い。だが、主上と同じ立場の若者が一人いる。長屋親王だ。どちらも壬申年の戦に勝利した大海人の天皇を祖父に持ち、母は姉妹同士だ。結局、長屋親王の父である高市皇子が薨去された後に珂瑠皇子が皇太子となり、今に至った。珂瑠皇子と血の繋がった祖母である先の太上天皇がご存命だったのだから、この立太子は当然といえば当然だった。

「私は主上に背く気持ちは一切ありませんでした。ただ、妹が長屋親王の屋敷に務めていて私も何かと良くしていただいていたのです。それで、今般の遣唐使について自分もたくさん勉強したいとおっしゃられて、私は職場から遣唐使に関する情報を持ちだして長屋親王にお教えしました」

 主上にとって最大の脅威があるとすれば従兄弟の長屋親王だろう。この事件をきっかけに長屋親王自身を謀反の罪に問うこともできたが、あの主上のことだから脅威とは思ってないどころか、似たもの同士なのに若いという理由で従兄弟を政権内に入れてやれないことを気にしているに違いない。

「そうこうしているうちに、先の太上天皇が薨去され、私一人が機密漏洩の罪で佐渡へ流罪になったのです。でもそれで良かった。私は恐れ多くも、長屋親王にもたくさん学んでいただきたいと思っていましたし、実際優秀な方です。これからの政権に必要となる方を謀反の罪に問うことはできませんよ」

 大鳥は巡察使が主上直属の官人だとわかっていて、こんな話をしたのだろうか。長屋親王が優秀で必要な人物だという主張は受け止め方によっては、大鳥の発言は政権への不満ともみなされてしまう。

「ねぇ、お父様、いつおうちに帰れるの?」

 都の話題が出たからか、大鳥の膝の上に座っていた娘が無邪気に訊いた。大鳥はいつだろうね、まだ都の新しいおうちが完成しないみたいだねと答えた。もちろん娘への答えは嘘で、流罪の身では死ぬまで帰京などできない。

「妻には既に先立たれていたのですが、この子が不憫でなりません。私の罪でこんな土地に縛られてしまって」

 父親は思わず涙ぐんだ。子供を持つ佐久太もつられて目を赤くしている。

「お父様! なかないで、ゆりはお父様といっしょだからたのしいよ」

 そんなこと言ったらますます父親は泣いてしまうじゃないか。俺は無表情を保ちながら内心苦笑した。大鳥は申し訳ありませんと頭を下げた。

「あなた様はお若いのに巡察に選ばれたのですね。新益京に戻られてもご活躍されますよう、お祈りいたしております」

 大鳥の言葉には、中級官人として活躍の場を永久に失ってしまった悲しみが含まれていた。彼の行動は浅はかであったかもしれないが、邪な企みがなかったのであれば同情に値すると俺は思った。敬愛する貴人に活躍してほしいと思うことは中下級の官人にとって自然な感情だからだ。

 大鳥の家を去る時、娘のゆりが淡桃色の野の花を一本くれた。この子はどのように育つのだろう。いずれ流されたという事実を理解するようになっても、父親の罪を憎まなければいいのだが。

「そういえば、坂合部氏の事件は若君の父上はご存知なのでしょうか」

 郡家に帰る道すがら、佐久太が呟いた。

「ああ、言われてみれば。親王がらみで謀反か否かの話だから親父だって知ってるはずだ」

 つくづく親父は立派だと思う。今は唐へ渡ってしまっているが、俺の尊敬する粟田朝臣真人殿と同じ参議に名を連ねて、国政を取り仕切っているのだから。ここへ来て俺は急に都が恋しくなった。粟田殿や親父のように俺もいつか遣唐大使になって、唐の進んだ知識や技能を学び、我が国の存在を高めたいものだ。

「次の遣唐使船くらいには乗れないかなぁ」

「いいんですか、乗ったら最後、帰国できないかもしれませんよ。帰国できたとしても翌年や数年後とは限りませんし。佐伯郎女はどうするんですか」

 半ば呆れたように佐久太が言う。そうなのだ、遣唐使は危険極まりない。多くの官人が遣唐使に選ばれることと家族との離別の板挟みになって苦しむのだ。差し当たり、俺は鈴を正式に得ることだけを考えることにした。

 佐渡を離れる時も、大領はにこにこして見送りに来た。ちょっと頼りない感じがするが、締め付けがきつくて民との折り合いが悪いよりはマシに違いない。

 約ひと月ぶりの越後城は冬支度に余念がなかった。米の収穫が終わり、鮭漁も無事に済んだらしい。俺たちは最後の巡察使の仕事として、税の納入に立ち会った。城門には様々な納入物を背負ったり、荷車で引いている人々の長蛇の列ができている。その列は城内の西側にある倉庫群までつながり、越後守の監督する前で一つずつ丁寧に納入者と品名と数が帳簿に書き込まれていく。

「じゅんさつしどの!」

 子供の声がするので振り返ると、モヌイが駆け寄ってきた。

「もうすぐ都へ帰っちゃうんだってね。さびしいよ」

「いつか大きくなったら遊びに来いよ。都には蝦夷も結構住んでるんだよ。誰か偉い人にお仕えする方法もあるし」

「へぇ、おいらもできるかな」

 モヌイは早速目を輝かせている。モヌイがいるということは大毅がどこかにいるに違いない。そう思っていたらやはりいた。部下を引き連れて倉庫群の巡回をしている。

 税の納入は何日も続いた。途中で大量の鮭の運搬を見たが圧倒的だった。異形の蝦夷たちによって、丸々と太り赤い口をがばっと開けた鮭が荷車に乗せられてやってくると、官人の間から感嘆の声が漏れた。鮭は全て都に送られる。

 そして実は俺は帰京してすぐの正月の宴でこの鮭を食べた。少し塩辛かったが身が厚く引き締まっていて美味かった。巡察から十年以上経った今でも、鮭を見ると人懐っこいモヌイや真面目なイホカイ、白髪のシビタのエカシや荒ぶるキラウコロの顔を鮮明に思い出す。

 とうとう巡察が終わった。越後守は相変わらず仏頂面だったが、別れ際に労いの言葉をかけてくれた。そしてこう言った。

「北方の守りと拡大はまだまだ不十分なところがある。何が足りないか自分で考えて主上へ報告しろ。蝦夷は忍耐強いが、烈火のごとく怒ったら和人の手に負えない。さらに北方には麁蝦夷と都加留つがるが控えてる。和人の支配を進めるには熟蝦夷と同じ対応では限界があるぞ」

「はい、わかってます」

 物部殿の言葉は、俺が御贄の件を交渉で片付けたことへの忠告だった。だが、熟蝦夷だからあの手が通じただけだということは俺だって理解していた。和人の、いや、天皇の威厳を蝦夷に十分知らしめることは取引や妥協では達成できない。

「都に帰っても北限で働く官人や兵士たちのことを忘れるなよ」

 俺は見送りに来てくれた人たちに向かって深く頭を下げた。

 俺たちはたっぷり二日かけて越中国の国府へ戻った。北陸の冬は都よりも早く訪れるので、日が傾くと一気に暗くなる。鈴の顔が見たい。でも暗くてよく見えないかもしれない。俺の鈴への気持ちは一切弱まることなく、かえって強くなる一方だった。

「先に行ってるよ」

 俺は居ても立ってもいられず、小麻呂と佐久太の馬を置いてきぼりにするように自分の馬の腹を蹴った。

 国庁は整然と明かりが灯され、残業をしている官人たちの姿があった。もうこの時間では国守は帰宅しているだろう。俺はもう巡察使として越中に来たのではないからと国庁には寄らずに国守館へ赴いた。

 俺の顔を覚えていた家人が驚いて、一人大急ぎで館の中へ入っていった。別の家人は馬を預かってくれた。

「どうぞ、国守様がお待ちです」

 資人が手燭を掲げて客間に案内する。そして、廊下の曲がり角に来た時、俺は身動きができなくなった。背中が暖かい。

「お帰りなさい、大足さん!」

 鈴が俺の背後から両腕を伸ばし、ぎゅっと抱きしめていた。

「無事に仕事を終えて、君の元へ帰ってきたよ」

 振り返らずにそう言ったが声が震えてうまく言えなかったかもしれない。鈴が俺の到着を聞いて真っ先に駆けつけてくれたことがただただ嬉しかった。俺は振り向きざまに愛しい娘を抱き返した。鮮やかな空色の領巾のように、めいっぱいの笑顔の鈴がそこにいた。資人が目を丸くしながらこちらを凝視していようが構わなかった。

 そして俺は鈴の手を引き、国守の待つ客間へ急いだ。

「ようこそ、再び越中国へ、婿殿よ」

 鈴の父親はくつろいだ雰囲気で妻に酒の酌をさせながら、俺たちを出迎えた。俺ははっきりと婿と呼ばれた。鈴との結婚を認めてもらえたのだ!

「国守殿、いえ父上、滞りなく巡察使の役目を果たしてまいりました。娘御への愛情も変わってはおりません」

 俺は佐伯殿の前に平伏した。少し後方で鈴もまた座して父親に頭を下げたのが気配でわかった。滅多なことでは泣いたりしない俺だったが、十ヶ月ほどの巡察の苦労と愛する娘を得ることができた安堵で胸がいっぱいになり、俺はほとんど泣きかけていた。

「無事に戻ってきてくれて嬉しいぞ。越後の国守は気難しいやつだから心配したがなんとかなったようだな。まぁ、巡察の話はいい。参議殿のご意向を伺う前だがこれから祝の宴にしようじゃないか」

 その言葉を合図に、侍女たちが宴の膳を運んできた。彼女たちが準備をしている間、俺は大事なことを佐伯殿に告げた。

「実は、私が越後に行っている間に、実家の父に手紙を出しました。返信がこちらです」

 差し出した手紙をじっくり読むと、佐伯殿はほっと口元を緩めた。それはそうだ。親父に結婚のことを伝えると、人格優れた佐伯有若殿の娘なら間違いないと書いて寄越したのだから。

 その晩、俺と義父と部下たちは飲めや歌えの大騒ぎをし、気がついたら皆、床に転がって朝を迎える有り様だった。後にも先にも、これほど宴で飲み騒いだことはない。


 十月末、俺は朝堂で久しぶりに同期の波多真人余射と再会した。少し肉付きが良かった余射は無駄な肉が消え去り、細身の男に変わっていた。苦労したのかと尋ねると、そうではないが歩きまわったせいで痩せたということだった。確かに一生分歩いたかもしれない。余射からはたくさんの有益な話を聞くことができた。特に出雲地方の製鉄は大規模で組織的で、北陸道には見られないものだ。

 藤原朝臣房前、多治比真人三宅麻呂、高向朝臣大足、波多真人余射、穂積朝臣老、小野朝臣馬養、大伴宿禰大沼田の巡察使七名、そして録事七名は御前に参上し、巡察の終了を報告した。

「巡察使の諸君を誇りに思う」

 珂瑠の天皇の第一声は、宮人の捧げるさしばに隠されて御尊顔は見えないが、朗らかに弾んでいた。一昨年に公布された律令に巡察使を規定して初めての派遣がこうして滞りなく終わったのだから、若い天皇にとっては一つの大事業を成し遂げたという気持ちに違いない。

 白虎大路と飛鳥川が交差する辺りにある高向家には一足早く俺の妻が待っていた。本来ならば佐伯の屋敷に俺がしばらく通い続けなければならないのだが、鈴の実家は両親が不在で、それならば俺の実家に引き取ってもいいだろうということで連れてきてしまった。お袋など涙を流して喜んでいた。

 宮の北側に位置する耳成山が色づき始めている。鈴は数年ぶりに帰ってきた新益京を懐かしみ、庭に差し込む朝日に眩しそうに目を瞬かせた。

「これからあなたと二人で生きていくのね」

 そう言って鈴は、机の上の新しい筆を手に取った。その筆は、柄が緑色の硝子でできていて白馬の毛が使われている珍しいもので、巡察使の労をねぎらって主上が下された贈物だ。筆は鈴の形の良い手によって木簡の上を優雅に滑った。

 ――秋つ葉のにほへる山に日の照らす燃ゆる思ひは君にまさりて

 愛しい妻は誇らしげに、俺を見上げた。

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