第1章 巡察使の誇り (4)越中国

 去り際は素っ気なかった。俺も国司も形式的に頭を下げて、別れを注げた。遊行女婦たちが遠くから見守る中、俺たちは馬を進めた。

 佐久太は首尾よく朝日を連れて戻ってきた。牛ノ谷峠のふもとで合流し、順調に馬を走らせる。朝日は浮浪民となってしまったが、越中国で戸籍を作成してもらう。越前国よりまともな国司だと良いのだが……

「ここが音に聞く倶利伽羅峠ですね!」

 山道がきつくなる手前で馬から降り、徒歩で登っていく。遊行女婦の朝日が心配だが、引き返せない道だとしっかりついてくる。一刻以上をかけて峠を越えると、砺波の平地が視界に開けた。

 初夏の風が、汗を滴らせる額を冷たく通り抜けた。ゆったり流れる射水川沿いを軽く駆け、越中国府の官衙群が見えてきた。

「背後に山、北に海、南に川。天然の城だな」

 川面を多くの舟が行き交い、越中国府の周辺は非常に栄えている印象を受けた。山の新緑と田の青い稲が眩しい。越中国は三方を険しい山々に囲まれ、開けた北部は海に面している。口に含んだ清水は甘く美味しかった。

 国庁の正門前には出迎えの人々が並んでいた。緋色の朝服の人が国守だ。

「巡察使の高向朝臣大足と申します。事情があり、少し遅くなり失礼いたしました」

「構いませんよ、高向殿。ようこそ越中国へ。私が国守の佐伯宿禰有若さえきのすくねありわかです。皆でどのような方か噂をしておりましたが、このような立派な青年でしたか」

 国守は口髭を蓄えた初老の男で、介以下の国司は皆若かった。

「ところで、三人と伺ってましたが、そちらの女人はどのような……?」

 国司たちもさっきから好奇心を露にして朝日を見ていた。変な誤解を招かないうちに説明しなければ。

「この女人は朝日という名の遊行女婦でして、越前国で勤務しておりました。しかし、国守から命を狙われることになってしまい、そのままにはできず連れてきた次第です。しかし、私とは個人的な関係はありません」

 朝日は神妙に頭を下げた。国守は「命を狙われるとはただ事ではありませんな」と驚いたが、詳しい事情は後でと四人揃って国庁に迎えてくれた。

 国司とも挨拶を交わし、用意された宿舎に入る。喉が乾いたでしょうと差し出された竹筒に注がれた水は、やはり美味かった。

 俺は朝日と佐久太を残し、小麻呂と共に正殿へ赴いた。正殿はとても清掃が行き届いていて、野の花が飾られていた。俺はふと数年前に他界した自分の母親を思い出した。

「若狭と越前の様子はいかがでしたか。正月に巡察を始めたと聞きましたが、たいそう寒かったのでは?」

「はい、しかし、冬でも野外で朝から晩まで御贄を生産したり、使役に従事させられたり、農夫の方がつらいのではと思いました」

 俺は様々な経験談を素直に語った。越中守は時々頷いて俺の話を聞いていた。

「越前守の悪評は当然ここまで知れ渡ってますよ。一昨年の冬は逃亡する者が大勢越境したのです」

「倶利伽羅峠を越えられずに命を落とした者もいましたよ」

 越中国へ入った民は海岸沿いの集落に住み着き、漁民として生きているらしい。ここで俺は朝日が逃げてきた詳しい事情を話した上で、越中国府の遊行女婦として雇ってもらえないか打診してみた。

 国守は口髭を捻りながら考えた後、良かろうと答えた。

「ただし、歌舞が下手であればその時は辞めてもらうよ」

 上等だ。それは遊行女婦としての最低限の条件なのだから、俺が口出しするまでもない。あとは朝日のがんばりに任せよう。

 初日の国司との話でわかったのは、彼らが自分の赴任先である越中国に愛着を抱いているということだった。都から遠く離れた地ではあるが、美しい豊かな川と海、そして仙界に届きそうなほどの高さの連峰がどこにいても視界に入る。

「明日、よければ国府周辺をご案内しますよ」

 どちらかというと文官っぽく知的な顔立ちをした越中介が申し出てくれた。

「ご覧の通り、射水川は今は澄んだ流れですが、よく氾濫するんです。高い山地から良い水を運んでくるのですが、流れが急で大雨が降ればすぐに水かさが増えます」

 翌日、越中介と共に外出した俺たちは、今の国守が争いの頻発した越中国に安定をもたらし、飛躍的に生産を高めたことを知った。

「佐伯殿が赴任する前は、水を巡って里どうしの争いが絶えなかったのですが、佐伯殿はまず川の流れを変えました。そして、農閑期の冬は紙を漉くよう指導され、使役に借り出された民に漏れなく禄を与えたのです」

 その結果、争いはなくなり、民は怠けることなく働くようになったという。

「国守は本当によく国内を巡行されて、その場で問題を解決してしまうんです。だから、農夫は安心して米を作り、機を織ってくれます」

 越中介は自慢げに語った。佐伯宿禰は軍事の名門で、おそらく有若は蝦夷政策の裏方として越中に派遣されたのだろうが、軍事だけでなく全般にも気を配ることができている。

 さらに驚いたのは、農夫が介に気軽に話しかけ、介も笑いながら受け答えていたことだ。

「後々問題が発覚したり、隠蔽されたら困るのは国司の我々ですからね」

 これくらい当然ですよ、と越中介は答えた。

 倶利伽羅峠の西側とは別世界が広がっていた。国守一人の働きだけで、こんなにも明暗が分かれてしまうのか。俺も小麻呂も一日中、衝撃を受けっぱなしだった。

 ところが、さらなる衝撃は宴の席でやってきた。まだ何も知らない俺はこの国なら宴も楽しめそうだと安心していた。小麻呂は久しぶりに美味しい食事にありつけると上機嫌だ。

「ああ、早速、君も仕事をもらえたんだね」

「おかげさまで!」

 朝日は張り切って、皆に酒を注ぎまわっている。膳の上には、マス鮓、ブリ、ホタルイカ、昆布などが上品に並んでいた。贅を尽くした食事ではないが、もてなしの心がありがたかった。

「高向殿、国司の役目はおわかりかな?」

 国守は息子に接するように、俺に尋ねた。決められた通りに税を徴集するのが役目です、と俺は返す。

「そうだ。それには田畑を潤し、技を高めねばなりません。農夫や海人たち、機織りの女たちは一人一人では小さな力しかありませんが、国府の工夫と大掛かりな支援で、彼らの働きはぐっと高められるのです」

 俺は後に下総国守に任命されてから、時々、佐伯宿禰有若の言葉を反芻した。民を助けることが国を豊かにし、天皇の御心に報いる近道だという越中守の確信は、生涯俺の指針となった。

 再び朝日が俺の前にやってきた。恐怖から解放され、頬が桃色に染まり健康さを取り戻したようだ。朝日が酒を注いでくれると、佐伯殿が俺を呼ぶ。

「何でしょうか?」

 俺が顔を向けると同時に、佐伯殿はぽんぽんと手を打った。

 さらさらと衣擦れの音を引いて宴席に現れたのは、俺が毎晩夢を見て恋慕う娘その人ではないか!

「こちらは私の娘です」

「どうぞお見知りおきを」

 能登郎女は優雅に手を付いて挨拶をしたが、俺は驚きのあまり注いでもらったばかりの盃をうっかり落としてしまった。同時に、やはり能登郎女の登場に衝撃を受けた小麻呂も昆布を皿に落としていた。

「あっ、すまない」

 俺は慌てて盃を拾い、朝日が手にしている手拭いを無理やり取って朝服に付いた酒を拭いた。

「あたしがやりますよ、巡察使様!」

 朝日が布を奪い返そうとする。そんな様子を見た能登郎女、いや越中守の娘はけらけらと笑った。ああ、その笑顔! これは現ではないのか。

 俺はようやく彼女が、変化を成し遂げた人物に会えると言ったことや、別れ際にも関わらず涙を見せなかったことの理由を理解した。俺が巡察使として自分の父が国守を務める越中国にいずれやってくるとわかっていたからだ。

(ずるいよ、君一人だけ知ってたなんて!)

 しかし、佐伯殿は俺と娘が顔見知りであることを知らないようだ。

「親バカかもしれませんが、この娘は賢く、よく気が付くので、巡察の助けになると思い顔を出させました。馬にも乗れますし、字も書けます。高向殿より越中国の事情に詳しい。国府におられる間は使ってやってください」

 なるほど、忙しい国司の代わりになる補佐役ということか。

「よろしくお願いいたします、巡察使殿」

 朝日が別の席に移動すると、能登郎女は何食わぬ顔で俺の隣に座り酌をした。

 ――我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり

 能登郎女は小声で歌を俺に贈った。馬酔木はもう季節外れだけど、春から気持ちは変わってないの、と言う。

「宴の後、どこかで逢えるかな」

 俺は周りから妙な親密さを気づかれないように、距離をとってさらりと尋ねた。彼女は「酒蔵で」と答える。なるほど、朝餉に酒は出さないから夜明けまでは誰も来ない。

 宴がお開きになり、頃合いを見計らって敷地の西側に建っている小屋に出向いた。鍵が外れている。そっと戸に手をかけると、入ってと声がした。

「君のことはもう諦めてたんだよ。意地悪な人だね」

「ああ、怒らないで。父様に内緒で隣国に行ってたから、正体を知られたくなかったのよ」

「でも、何をしに?」

「うちの国にもやってくる巡察使を前もって観察するためよ」

 つまり、この娘は大胆にも父親に秘密で俺の偵察をしてたというわけだ。しかし、観察の動機は単なる好奇心で、悪気はなかったと能登郎女は肩を竦めた。

「遠くから様子を見るだけだったのに、気づいたらあなたにこんなに近づいてた…… 私、父様の言う通り、あなたのお役に立てるかな」

 能登郎女は優しく俺の手を握った。俺はこの時、何としてもこの娘を新益京に連れて帰ろうと決意し、思い切って名を訊いた。巡察使の身分が何だ。越中守には全ての任務が終わったら、打ち明けよう。

「本当の名を知りたい」

「……鈴よ。佐伯宿禰鈴」

 鈴は心底幸せそうにつぶやいた。

 酒蔵に立ち込める酒の匂いから来る酔なのか、それとも恋の酔なのか、俺たちは我を忘れるほど互いの名を何度も呼び合い、夜明け前まで体をぴったり寄せ合って眠りについた。


 越中国の大税帳や郡稲帳は、写しと違わず正確に記されており、収支の割合も適当だった。この国の史生が恐ろしく几帳面な性格で、間違いがあれば必ず彼の目に留まるらしい。そんなわけで、台帳の確認作業は思いの外早く終わってしまった。

「明日から検田と里視察ね」

 鈴は目を輝かせているが、しばらく離れ離れになるのにどうしたことか。すると鈴は私も巡察の伴をしてもいいって、父様にお許しをもらったわと言うではないか。ただし、越中掾も巡察に加わるとのことだ。

 越中国の田はほとんど平地に固まっており、検田は比較的簡単だったし、険しい山々ばかりで隠田を作れる環境ではなかった。

 普段、俺は鈴を皆に倣って佐伯郎女と呼ぶことにしていた。娘は第三者に本名は明かさないことになっているからだ。

「郎女が巡察に同行してくれて助かるよ」

 一番の効果は、鈴が一緒にいると農夫や里の女子供が見慣れない巡察使を警戒せずに、積極的に情報をくれることだろう。鈴はよく越中守と共に国内巡行をしていたらしい。

「おや、佐伯郎女じゃないかい! なんだい、都の官人引き連れて、郎女が国守みてぇだな」

「そうなの! 父の代理よ。もうすぐ長雨の季節だから、堤をもう一度よく確認して。暴れ川(黒部川)をなめたらだめよ」

 農夫たちに出会うたびに、鈴は丁寧に声をかけ注意事項などを伝えていった。里長には病人はいないか、薬は足りているかと尋ね、患者がいると聞けば国医師をすぐに派遣すると約束した。そういうわけで、越後国と隣接している新川郡大領はすっかり鈴を頼りきっており、俺への対応そっちのけであった。

 俺はまるで模範的な国守のように熱心に巡行し、身分が低い者に対しても微笑みを絶やさずに話しかける鈴に、ますます惚れた。おそらく父の赴任以前までずっと都で育ってきた上流階級の娘が、どうしてこんな態度をとれるのだろう。

「君はきっと菩薩の化身に違いないよ」

「それは菩薩様に失礼だわ。私はただ、父様だったらこうするだろうなと思うことを実行してみてるだけ」

 俺と鈴は、巡察中は小麻呂や掾の視線があって、深い仲になることはできなかった。とはいえ、そうでなくても俺は結婚を許されるまで鈴の柔肌に直接触れるつもりはなかった。もし双方の親が認めても、結婚前に契りを交わしていた場合は、その男女は強制的に別れさせられ、結婚してはならないという決まりが律令で定められている。たとえ、実際の慣行と律令が乖離していようとも、諸国の民に律令を守らせる役割を負う巡察使の俺が鈴を抱くわけにはいかなかった。だから、歌垣の時、鈴の腰の帯を解こうとする直前にふと自分の巡察使としての自負を思い出したことは神の采配だったのだ。

 越中の雄大な景色を堪能しながら、多くの民と話し、国守の娘や掾の働きぶりを見ることができた俺は充実感で満たされていた。国府に戻り、佐伯殿に各郡の実情を報告すると、「娘は役に立てましたかな」と問いかけてきた。

「もちろんです。どこぞの国の守と郎女を入れ替えてやりたいほどですね」

「はっはっは。そこまでおっしゃるとは」

 佐伯殿は父としてまんざらでもなさそうだった。

 俺と小麻呂は数日間、検田の結果や気付きの点などを整理したりして過ごした。そして、越中国を去る前日、俺は国守と二人だけで面会する時間をもらった。

「なんでしょう、話とは。私の国で不正でも発覚しましたかな」

 国守は冗談交じりに言った。俺はとんでもないと答えつつ、頭を下げた。

「単刀直入に申します。鈴殿を私の妻にいただけないでしょうか」

 数拍の沈黙の後、佐伯殿は冷静に言った。

「それでは、娘は自分の名を教えたのだな。高向殿の妻になっても良いと」

「はい。お怒りであればそれはもっともなこと。ですが、決して巡察使の地位をもって結婚を問いかけたわけではありません。私は鈴殿の賢く大らかで素直なところが好きなのです」

 実を言うと、佐伯家と俺の高向家では俺の方が格が上なのだ。佐伯有若殿はこの年で国守だが、俺の父はもっと若くして同じ位となり、遣新羅大使として外交団を率いている。そして昨年から参議に任じられ、太政官の朝政、つまり日本国の重要な政策を扱う大臣級の会議に出席している身だ。家柄や地位や財産の面でも、鈴が不幸になる要素はない。

「参議殿のご意向は聞かなくて良いのですか。佐伯宿禰の娘など一蹴されるかもしれませんよ」

「その心配はありません。私は次男ですし、人の道や律令に外れた結婚でなければ、良いと思う娘を選べと言われております」

 俺は再び深く頭を下げた。しかし、佐伯殿は即答せずに、夜の歓送の宴までに考えたいと言い残して、部屋を出て行ってしまった。

 夜の宴では、佐伯殿は国守の顔に戻り、俺と小麻呂の苦労を労ってくれた。朝日は他の遊行女婦とも仲良くやっているらしく、生き生きと働いていた。ところが、鈴の姿はなかった。今まで巡察の仕事に関わる席でも娘を同席させていたのに、やはり求婚のせいだろうか。

「次に向かう越後国はどのようなところでしょうか?」

 小麻呂はワカメの味噌汁を飲み干すと国守に尋ねた。今から食べ物の心配をしているのだろうか。

「まぁ、国守の物部殿はカタブツだから、やりにくいかもしれません。しかし、二つの軍団を統制し、蝦夷を従えなければならないのだからあれくらいでないと」

 何やら癖のある人物らしい。

「それから、夏のうちに佐渡へ渡った方が良いですね。秋以降は海は荒れます」

「わかりました、是非そうします」

 遊行女婦たちの楽の演奏が終わり、国守がお開きを宣言する。しかし、その前に佐伯殿は手を打ってある人を呼んだ。藤色の領巾ひれを肩にかけた鈴が現れ、俺に視線を向けると静かに父の隣に腰を下ろした。

「今朝、巡察使殿が私の娘を妻にと申し出てくださった」

 その一言は何も知らせていなかった小麻呂と佐久太を大いに仰天させ、宴席をざわつかせた。

「そこで、私は二人に条件を課す」

 俺は居住まいを正し、緊張して佐伯殿の顔を伺った。

「高向殿が明日からの巡察を無事に終え、数ヶ月後も娘を慕う気持ちがおありなら、その時は娘をどこにでも連れて行きなさい」

「あなたはそれで良いのですか?」

 俺は鈴に訊いた。すると鈴は微笑みながら構いませんと答える。

「たった数ヶ月です。それに大足殿は隣の越後にいらっしゃるのです。それくらい待ちます」

 その言葉を聞き、俺は安心して佐伯殿の条件に同意した。俺は巡察を必ずやり遂げなければならなかったし、彼女への想いが消えてしまうことなどあり得ないと信じていたからだ。それに、佐伯殿は結婚に反対したのではない。俺の本気を確かめるために条件を出したに違いなかった。

 蝉の声がかしましく青空に吸い込まれていく。越中国府の人々が総出で俺たち三人を見送った。愛しい娘は領巾を振りながら、俺の姿が見えなくなるまで別れを惜しんだ。

「若君は行動がお早いですね。我々の出番がなかったじゃないですか」

 佐久太はちょっとむくれているが、佐伯郎女と大足さんはお似合いですと、小麻呂は嬉しそうだった。

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