第1章 巡察使の誇り (3)越前国

 角鹿には駅が一つあり、俺たちはそこで一泊することになった。日の沈まないうちに、俺はどうしても行かなければならない場所に向かった。

「檜のいい匂いがするな」

 それは北陸道総鎮守として昨年、珂瑠の天皇の勅で修営されたばかりの氣比本宮である。越前三国の巡察がうまくいくよう、祭神によく祈りを捧げた。

 翌朝早く、松原駅を出てひたすら馬を走らせた。平坦な道で時間を稼がないと、連続する峠で歩みが遅くなってしまう。

「そういえば、大足さんってまだお独りですよね」

 突然、小麻呂が話題を振ってきた。俺はそうだよ、と返す。小麻呂はこれで妻帯者だった。佐久太にも妻子がいる。

「じゃあ、今回の巡察で北陸の美女を嫁にしたらどうですかね」

「それは良い考えです。俺も若君に相応しいお相手を探すの手伝いますよ!」

 俺の年上の部下たちは早速、俺の未来の嫁について語り始めた。確かに親父が高級官吏で、引く手あまたとまではいかないけれども、数年前からどこぞの娘は良いらしいだの、そういう話はあった。

「ああ、大納言のご息女は素晴らしい方だったのに、どうして断ったりしたんですか」

 忘れかけていた嫁候補のことを、佐久太が引っ張り出してきた。どうしてって言われても、その時、俺は別に好いた妹がいて彼女に夢中だったのだ。

「大足さんは見た目も爽やかで好青年って感じなんですから、遣唐使を目指すのもいいですけど、がんがん攻めるべきですね」

「同感です。若君、この際、本当に高向家の嫁を連れて帰りましょう」

 こうして俺の巡察使の任務に嫁探しが加わった。

 自分たちの女人の好みで盛り上がっていた小麻呂と佐久太であったが、峠を越えるごとに口数が少なくなり、やっと鹿蒜駅に着いた時には完全にふらついていた。もはや、腹が減りましたという言葉すら出てこない。

 ようやく国府の正門をくぐった時には何か一仕事終えたような気分になっていた。しかし、官司の先輩曰く「魔の越前国」との対峙はこれからなのだ。

 どうして「魔の越前国」なのかと言えば、交通の便が良く、都からそう遠くない大国でここを拠点にして謀反を起こそうとすることができるからだ。愛発あらちの関が近江国との境に設けられているのも擾乱防止のためだ。それに、山間部がひしめいていて外から見えない場所、簡単にたどり着けない場所に何かが隠されていてもおかしくない。

 俺たちは翌日、越前国の国庁に入った。もう二月下旬だが、所々、山は雪でからだを隠している。桜の蕾が目覚める日はまだ遠い。

「ようこそおいでくださった、高向殿」

 満面の笑みで両手を大きく広げながら出迎えてくれたのが、越前国守その人だった。佐味朝臣清麻呂という、俺の父親と同世代のいかつい男で、俺にとっては生涯忘れられない人物の一人となった。

「まぁまぁ、ゆっくりしてください。仕事の話は少しくらい後でかまわんでしょう。今夜の宴はどうぞお楽しみに」

 そう言うと、国守はてきぱきと資人たちに指図して、俺たちを宿舎へ案内させた。この時、まだ俺も小麻呂も早速開かれる宴席が若狭国と同じようにささやかなものだと思い、自然な気持ちで楽しみにしていた。

 ところが、正殿に足を踏み入れると――。

「巡察使様、どうぞ、こちらへ」

 いきなり俺の前に現れ、手を取ったのは若い女だった。闇夜でも目立つような化粧を施して、優雅に微笑みながら俺を席に連れて行く。

(なんだこれは。遊行女婦じゃないか。あっ、小麻呂にも一人ついてる。大盤振る舞いだな)

 そして、床に所狭しと並べられた膳を見て、俺は目を見張り、小麻呂は派手に腹の音を鳴らしてしまった。若狭国の宴とは比べ物にならないほどの膳の数と豪華な食材、そして何種類もの酒が歓迎のために用意されていた。遊行女婦も五人いる。

「では始めましょう。越前国を堪能してください、高向殿。ほれ、朝日、巡察使殿に酒を注いでやれ。若梅、舞を披露せい」

 朝日と呼ばれた遊行女婦が俺の隣にぴったり寄り添うように座り、酒を並々と注いでくる。とりあえず、杯に口を付けると、朝日は料理の説明を始めた。筍と椎茸のお浸し、カレイの煮付け、黒豆、フキ、山芋、煎り銀杏、鹿肉の燻製、五穀粥、白米、吸い物、そして極めつけは越前ガニ。

「こんなうまいもの初めて食いましたよ。へへ、いいのかな、私なんかがこの場にいて」

 俺の隣に全力で膳に挑もうとする男がいた。確かに、小麻呂では一生に一度食べられるかどうかの品数と質の食事だろう。

「美味しい?」

 すかさず酒を注ごうとかまえている朝日が上目づかいで訊いてくる。「結構なお味ですね」と俺は本心を返した。正直言って遊行女婦が同伴する宴は初めてで、どうしたらいいかわからない。始終密着されていると、気になって落ち着いて食べることができない。

「新益京の様子はいかがですか。しばらく都から離れてしまうと、なかなか便りも届かず世の流れに疎くなります」

「昨年、太上天皇が崩御されて、少しばたばたしていましたが、今は主上も気を強くお持ちになって政務に励んでおられます。佐味殿はもう四年もこの地にいらっしゃるのですよね」

「そうです、第二の故郷ですね。自分の家の庭のようなものです」

「つまり、越前国のことは自宅と同じくらい隅から隅までご存知と? 素晴らしいですね、長く務めただけのことはあります」

 こんな感じで国守と世間話をしたり、歌舞を堪能したりして越前国府初日の夜は終わった。国守に礼を言うと、気に入った遊行女婦はいたかと訊かれた。宿舎の一角に控えさせているからとのことだが、その言葉の意味するところを理解した俺は、「またいつかお目にかかれれば」と遠回しに必要ないと答えた。

 小麻呂はこの上なく満足そうだったし、部屋で待機していた佐久太もきちんとした食事に預かれたと喜んでいた。しかし、宿舎に戻った俺はなぜかどっと疲れてしまった。

「お口に合わなかったんですか?」

「いや、そうじゃなくてさ、過剰な量の膳や美女が出てきて驚いたんだよ」

「ちょうど良いお年頃の遊行女婦たちばかりでしたね。嫁候補じゃないですか」

 小麻呂はにやにやしているが、俺は真面目に考え事をしていた。そして、やはりおかしいぞと思ったことを告げた。

「笑い事じゃないよ、小麻呂。確か一昨年、大宝元年にさ、越前国は蝗の大量発生と大風の直撃で農作物や建物が壊滅的な被害を受けたんだ。ちょうど秋の収穫の前なのに、二重の災害だよ。その年の収穫はほとんどなくて、他国から融通してもらったり、家を建て直したりして、民はぎりぎりの生活を余儀なくされた。去年だけで倍以上の収穫になるはずがないから、今年だって余裕はないはず。なのに巡察使を迎える宴は……」

「それはマズイですね! あんなに豪勢な宴を開いていいはずがない」

 浮かれていた小麻呂は急に神妙になって腕組みをした。だいたい初っ端から多くの遊行女婦を呼び寄せた宴なんて変なのだ。もしや巡察使の俺を歓待して、懐柔しようとしているのだろうか。決めてかかるのは良くないと思いつつも、俺は明日調べ始める帳簿を頭の中で確認したり、民部省から借りてきた写しを整理してから眠りについた。


 正殿の一角に用意してもらった小部屋が巡察使と録事の執務室だ。越前国の史生が各種帳簿の正本を届けてくれた。

「えっと、これが大税帳でそっちが郡稲帳。で、校田帳は……」

「どうぞ、こちらに」

「ああ、ありがとう」

 史生が退出した後、積み上げられた台帳を確認していく。昨年の大税帳を見ると、蝗や大風の被害がなかった年の三分の一以下の収入しかない。ただし、緊急用の貯蓄米は倉から出されているようだ。

 驚くべきことに、翌日もその次の日も、初日には劣るが相応の宴が催され、俺の隣には遊行女婦の朝日が座った。朝日は俺専用の遊行女婦らしい。最初は豪勢な食事に喜んだ小麻呂だったが、今では箸を進める速度が遅い。実際に里を巡察してみないと農夫の生活がどんなものかはわからないが、一昨年の被害を考えるとまともな食事にありつけているとは到底思えなかった。

 国府で台帳の整理を始めてから五日目。とんでもない事件が発生した。

「ない…… ない! ないですっ」

 この世の終わりかと思うような悲惨な声が小麻呂の口から上がった。何がないのかと言うと、俺が民部省から借りてきた各種台帳の写しの束である。俺の部屋の隅に置いていたのだが、市場などに出かけている間にすっかり消えていた。これは由々しき事態だ。

「これから国内を巡察するのに、検田帳がないと正しく把握できないじゃないですか」

「それだけじゃない。民部省に返却できなかったら、俺が処分されるな」

 俺も小麻呂も文字通り呆然と立ち尽くした。各種台帳は二冊あって、一冊は民部省に正本として送付され、もう一冊は国府に保管される。しかし、正本が改竄されている場合もあるので、巡察のために写しが貸し出されるのだ。

「国庁は出入りが厳しいから盗賊が入るなんてことはありません。きっと、持ち出した人間は国庁関係者ですよ、若君」

 そう、国庁の中心部は塀で四方が囲まれていて、一定間隔で護衛の兵士が配置されている。もちろん各門では身分の確認がなされる。佐久太の推測は正しい。

 俺は迷ったが率直に国守に、起こった出来事を話した。すると佐味は心底驚き困った顔をしてこう言った。

「私の責任下でこのようなことが起こるとは、なんとお詫びして良いか。全力で台帳を探すとともに、下手人を捕らえて厳罰に処します」

 いかにも白々しい演技だ。だいたい下級の雑任たちにとって、こんな台帳は盗んでも意味が無い。意味があるとすれば、国司なのだ。そして、掾や目が犯人ならば確実に上司の守もそのことを知っているはずだった。

「仕方ない。嘆いてても台帳が返ってくるわけじゃないんだ。行こう、小麻呂。巡察を始めよう」

 俺は史生から国府の台帳を借り受け、佐久太の馬に預けた。そして、丹生郡の国府を出発して、足羽郡、大野郡、坂井郡を順番に巡り、里の様子を視察し検田を行った。

「ひどいな…… 冬だからという理由もあるかもしれないけど、里全体が死んだように静かじゃないか」

「ええ、子供の声がしません」

 馬上から里の家々を見て回ったが、勢い良く竈から煙が立ち上っている家は数えるほどで、もっと悲惨なのは道端に老人や子供の亡骸が打ち捨てられていることだった。飢えや病で亡くなり、引き取り手がいなくてそのまま放置されていたものだ。

 都にも各地から租や調の運脚でやってきて、食料や体力が尽きて野垂れ死んでしまう者はたくさんいると聞く。もちろん病で死ぬ者も大勢いる。だけど、俺は身内の死はともかく、そういう外で命を落とした人間の成れの果てを見たことがなかった。 蝗と大風の二重の猛威によって、越前国は永遠に冬に囚われてしまったかのような大地に変わり果てていた。

「しかし、緊急用の貯蓄米が届いたのでしょう?」

 江沼郡大領に話を聞くと、彼はとんでもないと声を大きくした。

「貯蓄米なんて、そんな大したものは国府から来ませんでしたよ。雀の涙です。郡衙の機能を停止させることはできませんから、郡の官人に分配しただけでなくなってしまいました」

「じゃあ、民には米は行き届いてなかったのですか?」

「残念ながら…… もちろん郡衙の倉庫にも蓄えはありました。しかし、全て出すことなどできません。また災害が起きないとも限りませんからね。まずは郡衙の機能維持が第一です」

 口元には笑みを浮かべながら目は笑っていない大領がもっともらしく言った。結局、初めから民に米を行き渡らせるつもりはなかったのだ。

 江沼郡家の宿坊で、俺は闇の中、横になり、天井を見つめながら考え事をした。どうして主上はこんな官吏としての経験もない俺を巡察使に任命されたのだろう。俺は海の向こうの国々に関する仕事がしたいと願ってきた。それは今も同じだ。巡察使なんて地味でいまいちやる気が出ずにいた。それでも、あの素晴らしい主上の激励の言葉を思うと、恥じぬ実績を持ち帰りたいと思う。

 なのに、俺には何の力もないじゃないか。自分よりも官位の高い国司や老獪な郡司を相手に監察だと? 証拠はないけど、持参した台帳の写しを国司に奪われてしまった。そして、里を歩けば農夫たちの家は皆死んだように静寂で、飢えに苦しんでいるにもかかわらず郡司が自宅の改修などに勝手に農夫を使役している。

(こんなの、主上が見たら何とお思いになるだろう…… 俺はどうしたらいいんだ)

 俺は巡察使だが、国司でもなければ郡司でもない。彼らの代わりにはなれない。ただ、監察し、非違があれば指摘することしかできない。

 翌日、暗い気分のまま郡内を巡察した。一面が田畑で、農夫たちが田の整備をしている。梯川かけはしがわのほとりにやって来ると、何やら人が群がっている場所があった。

「何でしょうね、行ってみますか? 元気のない農夫たちなのに、ちょっと活気がありますね」

 基本的に小麻呂は好奇心が旺盛で、危なくなさそうと判断すれば足を運んでしまう。俺も単調な巡察に変化をつけたかった。遠巻きから様子を伺うと、農夫たちは手を合わせて拝んだりしている。背伸びをして隙間から覗くと、俺と同じくらい若い男が立っていた。

「皆さん、今年こそは実りのある田畑にしましょう。そのためには、少しでも良い結果が出るように工夫をしなければなりません。そして神仏にお祈りするのです」

 若い男は修行者だった。国家から許可されていない優婆塞うばそくではないだろうか。もっとよく見てみようと思ったその時、誰かが「巡察使が来た! 法澄ほうちょう様をお守りしろ」と叫んだ。俺に背を向けていた農夫や女子供が一斉に振り返り、若い男を防御した。

「ちょっと待ってくれ。私は確かに巡察使だが、その修行者を捕えに来たわけではない。通りすがっただけだ」

 修行者は柔和な澄んだ瞳で、こちらを見つめ微笑んだ。

「巡察使殿ですか。私が言うのもおかしいですが、とてもお若いのですね。越前国の現状をどうご覧になりましたか?」

「……想像以上にひどい。本来豊かなはずの越前国が死にかけています。お目にかかりたいと思っていました、法澄大師。天皇からよろしく頼むと言付かってきましたよ」

 法澄は後に白山を開山し、天皇から泰澄の名を授かることになる高名な修行者だった。法澄は俺を仮庵に招き、民の窮状を訴えた。

「蝗の害も大風の害も、これは防ぐのは容易ではありません。でもその後に、国府が動いてくれればもう少し違ったでしょう」

 法澄は庭に目をやった。枯草の間から青い草が生え始めている。水の冷たさも日に日に和らいでいた。

「でも、主上はすぐに越前国に使者をやって色々と支援を行ったはずですが。恤救を惜しむことはありませんから」

 俺が言うと、法澄は静かに頭を横に振った。

「おそらく支援は国府で止まってしまったと思われます。寺は寺で自力で何とか修繕したり、倉の蓄えを出しましたが…… そう、私がいる寺は倉の蓄えをほとんど民に開放しました。でなければ皆冬を越せなかった。私はただの修行者で、国司に訴える資格はありません。何の力もないのです」

 力なく言う法澄はどことなく俺の抱えるもどかしさと同じものを持っているようだった。だが、法澄は主上からも民からも必要とされる男だ。

「大師、あなたは存在するだけで皆の力になるのではないですか。それを期待して、主上は鎮護国家法師に任じられたのだと思います。同じ修行者の役小角えんのおづぬが人々の讒言で伊豆に流され、恩赦が出た矢先に亡くなってしまったことを、主上は悔いておられたのです。自分とは違うやり方で民を守る修行者が必要だと、おっしゃっていましたよ」

「ありがたいお言葉です。私はいずれ越前国を離れます。できるだけ多くの民と対面しなければ」

「私は国司や郡司に正面から対峙しなければならないと思っています。彼らは本来の役目が何かわかっていないのです」

 なんだかかっこいいことを言ってしまったような気がしたが、法澄は「互いに精進しましょう」と初めて若い男らしく歯を見せて笑ってくれた。

 俺は幾日も検田帳を片手に、開墾されている田を見て回った。広さと石高と実際の収穫と持ち主を一つずつ確認するという単調で面白みのない作業に気が遠くなりそうだった。それでも小麻呂は文句ひとつ言わずに俺と農夫の会話や気づいたことを丁寧に書き留めている。右も左もわからない俺に録事として小麻呂を紹介してくれた親父に感謝しないと。

 ある日、小高い丘に登った俺たちは斜面に作られた田を見つけた。それを見つけてしまったばかりに、俺は巡察使という立場の袋小路に迷い込み、任務と私情の板挟みに苦しめられることになった。

「こんな場所で田植えなんてできるんですかねぇ」

 小麻呂は一町ほどの田を見下ろしてつぶやいた。その田は昔から整えられてきたというよりも、急に耕して田にしたというような脆弱そうな作りだった。俺はいつも通り、検田帳を開いた。ところが、地名を繰っても該当する田が存在しない。

「帳簿に載ってないぞ、ここの田は」

 念のため小麻呂にも確認してもらったが、やはり記録されていない。つまりこれは隠田ということになる。所有者を探し、処罰しなければならない。隠田の所有者は最悪死罪だ。天皇が所有する土地を勝手に開墾し、私有物として税を逃れるのは天皇への反逆と同じことだ。

 俺はこの時、郡大領の悪徳そうな顔を思い浮かべた。大領を処罰することができれば、いくらか民を救うことができる! しかし、それは大いに甘い考えであった。

「あっ、誰かそこにいる。おい、佐久太!」

 突然、小麻呂が叫び、足の速い佐久太が茂みに隠れていたと思しき人物を追いかけて走り出した。俺たちも後を追う。

「こいつがこそこそと…… お前の名は? なぜここにいる?」

 佐久太が男を組み伏せて、両腕を捻じりあげながら詰問した。男は痛いと呻きながら、助けてくれと懇願した。

「もしかして、お前はこの田を管理してるのか? 検田帳に記載されていないが」

 男は俺の言葉に怯え、泣き出した。

「この田は俺が作ったやつだ。この田がないと、皆飢えちまうと思って…… 子供も老いた両親もいるんだ」

「郡には届け出たのか?」

「いや、郡司は知らねぇ。知られたら没収されちまう」

 つまり、この男が郡司の指示とは関係なく田を勝手に作った。貧困に耐えられずに。俺は血の気が引いた。隠田にはそういうものもあるのだ。だが、隠田を見つけたら没収し、その所有者には厳罰で臨まなければならない。俺がその決まりを曲げるわけにはいかなかった。巡察使は律令が正しく執行されているかを確認し、正すという大役を負っているのだから。

 農夫は力なく冷たい地面に蹲った。なぜ自分と家族の命を繋ごうとしたばかりに罰せられなければならないのか。俺は情けなくも助けを求めようとして小麻呂を振り返ってしまった。巡察使になってから初めて動揺したと言っていい。だが、小麻呂も途方に暮れたように頭を横に振るばかりだ。

 結局、俺はこの農夫の名を聞いてから釈放した。一時的にだ。農夫は逃げるかもしれない。しかし、浮浪民となっても罰せられるし、逃げた土地で使役させられるかもしれず、籠の中の鳥であることに変わりはなかった。

「あの農夫を罰したとしても誰も救われないよ。俺の報告を聞いて主上がお喜びになるとは思えないし」

「ですね。見逃すわけにはいきませんが、徒役を課すなんてあんまりです。まして死罪にすれば……」

 俺たちは悶々としながら眠りについた。

 ようやく里にも春の息吹が感じられるようになり、川沿いの桜が歌い始めた。鶯のさえずりも野山に響いている。

 羽咋郡は能登の入口に位置する郡だ。長い美しい海岸を馬で駆け抜けるのは本当に気持ちがいい。東へ進めば越中国府だが、俺たちはまだ能登の先まで行かなければならない。

「あ、ここが気多大社だな。オオクニヌシに良い結果に導いてもらわなきゃ」

 気多大社はオオクニヌシが能登の国土開拓を終えた後に留まったことから始まったらしい。今の俺は神に一心に祈ることしかできないような気がした。俺が巡察使と言うことで、大社の禰宜がわざわざ境内を案内し、祓いの儀式を行ってくれた。それから禰宜を下がらせて敷地内をふらついた。

 ここは人の出入りが許されていて、郡の官人や豪農も参拝している。その中で俺は一人の若い女と目が合った。少し太めの美しい形の眉が印象的で、豊かな髪を下していて後頭部に大きな花の飾りを付けている。襟元に白い薄絹のひだが見えたが、あれは最近都で流行っている女人の服装だ。ここの人間ではないのか。

 彼女は俺とすれ違いざまに「こんにちは、巡察使殿」と言って微笑んだ。いい加減、新益京が恋しくなっていた俺は、思わず「都の方ですか?」と声を掛けてしまった。

「そう見えますか? 私は能登郎女のとのいらつめですよ」

 明らかに嘘のあだ名を告げると、その人は軽やかな歩みで去っていった。

「かわいらしい人ですね。あっ、追いかけましょうか? 忘れてましたけど、嫁探ししなくちゃですよ」

 佐久太は急に張り切り出すのも無理はない。このところ検田ばかりで嫁探しなど忘却の彼方だったし、この国の悲惨な状況を目の当たりにして浮かれた気にもならなかった。

 数日後、小麻呂が春の匂いのする知らせを持ってきた。

「気多大社の裏山で歌垣が開催されますよ」

「ふーん、それで?」

 眉根にしわを寄せて郡稲帳を読んでいた俺はそっけなく反応した。小麻呂は大袈裟にため息をつく。

「大足さんも参加しなきゃダメですよ。いつまで経っても春は来ません!」

「若君、羽咋郡の若者たちの様子を直に見聞きするのも巡察使の立派な仕事のうちですよ。それに、このところ根を詰め過ぎなのでは? たまには若者らしく恋の駆け引きでも楽しんでこられた方がいいですよ」

 佐久太の援護射撃に反論できるところはなかった。歌垣というのは若い男女が野辺に集まって気に入った相手と歌を交わす場のことで、地方の若者は歌垣で妻や夫を見つけたりする。地方に初めてやってきた俺はもちろん歌垣は未経験だ。

「じゃあ、行ってくるよ」

「はい、いってらっしゃいませ。いい男っぷりですよ、若君」

 いつもの浅緑色の朝服を脱いだ楽な服装で、あまり心は軽くはなかったけれど、俺は夕暮れの歌垣に出かけた。篝火の中に浮かび上がる七分咲きの桜が幻想的だ。

 俺がその場に着いた時には既に多くの男女が集まり、複数人で固まって談笑したり、はたまた早くもお目当ての相手を捕まえて口説いている奴もいる。生活がどんなに苦しくても異性を求めて愛をささやきたいという気持ちは生きている限りなくならないのだ。俺は周囲の様子に耳をそばだてながら歩き回った。

(皆、頭の中は春だよ。巡察の仕事に役立つような話なんかするわけないよな)

 俺は苦笑した。と、同時にこんなところに来てまでお役目のことを考えてしまう自分に嫌気がさした。

 すると大きな木の下で喝采が上がっているのに気がついた。よく見えないが、輪の中心には女が立っているらしい。大柄の男が悔しそうな顔をして輪の中から外れ、今度は別の男が中に入り歌を詠む。ああ、これは皆が狙っている女に歌を贈り合う勝負ということか。喝采が少し静まり、輪の外から見物している俺にも声が聞こえた。要するに彼女の返歌は「あなたが私に相応しいと思ってるの? 千年早いわよ」という手厳しいお断りだった。

「もう飽きたわ! 別の子を立てて」

 女はちょっとイラついた声で離脱を宣言したが、諦めきれない男たちは引き留めようとする。

「お願いだよ、もう少しだけ、能登郎女!」

(え、能登郎女だって?)

 俺が聞き間違いかと思っていると、輪から女が飛び出してきた。頭に大きな花飾りをつけた少し太い眉の女。それはまさに大社ですれ違った能登郎女だ。彼女は大股で歩いてくると、輪の外にぼーっと立っていた俺に気づき、突然、俺の腕をひっぱった。

「ちょうどいいわ。退屈してたから、あっちでお話しない、大足さん?」

「何で俺の名前を?」

 駆け出しながら、俺は間抜けたことを訊いてしまった。彼女は俺が巡察使だと知ってるんだから名前なんか明らかじゃないか。

 後方では能登郎女に逃げられ、外野の男と共に去られた挑戦者たちの怒号が聞こえた。たぶん俺に対する非難轟々だ。ただ、暗がりだったし、いつもと違う姿をしていたから俺の正体が巡察使だとはバレてなさそうだ。

「また会ったわね、巡察使殿。あ、今更だけどもしかしてお目当ての子がいたりした?」

 能登郎女は他の男女がいない場所に俺を連れて行き、乾いた草の上に腰を下ろした。この土地に詳しいのだろうか。

「あ、別に、そういうんじゃ……」

「ならお仕事? 農夫や豪族の息子たちの様子を探りに?」

「そういうんでもないな……」

「そう。変な人ね」

 能登郎女はおかしそうに笑った。俺はその明るい笑顔を見て、急に心が乱れ始めてしまった。佐久太の言うとおり、ずっと根詰めて仕事に向き合い、心身が疲れきっていた。尻尾を出さない郡司に怒りを覚え、一心不乱に検田をすればするほど農夫の悲惨な状況にぶちあたる。自分がおかしな人だと笑われたのに、そんな笑い声が俺の干からびていた心にどっとしみ込んで来たのだ。

「巡察は大変でしょう? ここの国はほんとに疲弊してるもの。国守の佐味があんなだからよ。確かに税を取り立てるのが国守のお役目だけど、国を守るのだって仕事のうちじゃない!」

「驚いた。君は国府の官人みたいなことを言うね。まぁ、君の指摘は正しいよ。俺は巡察がこんなにつらいものだとは思わなかった」

 つらいというのは、職務内容が多くて過酷だということもあるが、精神的なつらさの方が勝っていた。

「でも、俺が弱いだけなのかもな。きっと、俺の先輩の藤原朝臣房前殿なら、横暴な国司にも、行き詰ってる貧農にもうまく対処されるはずだよ」

「それはどうかしら。藤原のご子息なら国司とそれほど波風立てないように曖昧に終わらせてしまうかもしれないでしょ。苦しい農夫を見ても、あなたみたいに悩んだりしないかも」

 俺はますます驚いた。地方の娘が中央の世情を知っているなんて。そのせいで、俺はますます自分の心情を吐き出しやすくなってしまった。

「俺、自分が不甲斐ないよ。主上から預かった大役なのに、見れば見るほど怖くなる……」

 俺が遵守させようとしている律令が、民の生き方を悪い方へ変えてしまうのではないか。だけど、律令は天皇の正しい統治のために存在する。

 今まで見聞きしてきたことを、俺は滔々と能登郎女に語り、知らない間に涙を流していた。そして、彼女は母親のように俺の肩を優しく撫でていた。

「国を、国司に代わって巡察するのがあなたの役目。それでいいと思うわ。見聞きしたことは全て主上に報告するの。後は主上が正しい判断を下されるはずよ。それに悪い国司ばかりじゃないわ」

 必死に俺を慰めようとする能登郎女のかわいらしい顔が頬辺りまで近づき、俺の目をじっと見つめる。俺は何一つ素性を知らないこの娘を思わず抱き締め、草の上に寝かせた。能登郎女は嫌がる様子を見せず、瞳を閉じ、俺の口づけを受け入れた。 歌垣とはこういうものなのだ。お互いに知らなくても、恋い慕う気持ちが生まれる。俺はそろそろと能登郎女の帯に手をかけた。ところが、俺はふいに自分が巡察使であることを思い出してしまった。

「大足さん? どうしたの?」

 急に体を離してしまった男に、能登郎女は声を掛けた。俺は帯から手を引き、横たわる娘を丁寧に抱き起した。

「ごめん、今の地位で君を抱くことはできない。きっと噂になる。巡察使がその権力で、あの郎女を自分のものにしたんだって」

「そんなこと……!」

 能登郎女はとっさに歌を口ずさんだ。

 ――春山の馬酔木あせびの花の悪しからぬ君にはしゑや寄そるともよし

「俺となら噂になってもいい、か。嬉しいよ。 もし俺がただの豪族の息子なら、堂々と君に名を訊く。でも、俺は巡察使としてここに来たんだ。君の本名は訊けないよ。能登郎女って、本名じゃないだろ?」

 彼女は観念して頷いた。だが、もちろん名は明かさない。本名を訊く、つまり求婚するということを俺がやめてしまったのだから、娘の側からは教えようがないのだ。

 俺は困惑したように微笑む能登郎女を抱き寄せ、耳元でささやいた。

 ――春されば水草の上に置く霜の消につつも我れは恋ひわたるかも

 言ってしまってから俺はちょっと後悔した。自分から求婚はできないと断言したのに、その相手に「ずっと恋し続けるよ」なんて、矛盾もいいところだ。一体俺はどうしたいんだ。彼女も呆れかえってるに違いない。だが、能登郎女は俺の肩にもたれかかって、うっとりとしている。そして、やけにはっきりとこんなことを言った。

「その歌、心にしまっておいていい? ねぇ、現状を変えることができた人に、あなたはこれから会うことができるわ。だから諦めないで」

 俺たちは人目につかない場所で別れた。歌を交わした後、能登郎女は始終笑顔で上機嫌だった。ところが、密かに歌でも送ろうかと思ったが、次の日から郡内で能登郎女の姿を見かけることはなかった。


「まったく…… 歌垣に行って冷やかしただけで帰ってくる人がどこにいますか!」

 二人の部下は、俺が歌垣で誰とも話さずに帰ってきてしまったと伝えると一瞬言葉を失った。面倒なことになると嫌だったので能登郎女のことは黙っていたから、不戦敗ということになっている。

「やっぱりマズイだろ。恋をしに北陸に来た訳じゃないんだぜ、俺たち」

 結構真面目な気持ちで言ったのだが、小麻呂には言い訳にしか聞こえなかったらしい。大足さんってそんなに奥手でしたっけ、などと苦笑された。

 ともかく、俺たちは陸路と水路を使いながら北上し、半島の巡察を続けた。郡司たちは愛想があまりなく、最低限のやりとりしかしようとしなかった。

 何度も挫けそうになったが、そのたびに俺は能登郎女の最後の言葉を思い出した。

 ――状況を変えることができた人に会える。

 それがどういう根拠で言われたのかはわからないが、信じる価値はあった。そしていつの間にか俺は、毎晩、あの明るく笑う娘を夢に見るほど、彼女を想うようになっていた。

 半島はほとんどが山で覆われ、川も多い。所々、河口付近に開けた土地があり、里が営まれていた。しかし、俺たちは平地の田畑だけでなく、川の上流まで上り、谷間や山の斜面をこの目で確かめて隠田を探った。

「魔の越前国とはよく言ったもんだね。こんなに隠田があったなんて信じられないよ」

 ひと月半をかけてようやく半島を巡り、能登郡七尾に上陸した。半島だけでも隠田は二千町、男で換算すると約一万人に班田が割り当てられる分に至った。これらは全て郡司の指示だと、管理を任されていた農夫たちが白状した。これほど大規模な隠田を経営していたのだから、特に鳳至郡ふげしぐんと珠洲郡の大領と少領は死罪を免れないだろう。

「あとは佐味のやつが関与してたかだな」

 今のところ郡司たちは、国府からの指示は受けていないと口を揃えて主張したが、素直に信じる気にはなれない。俺たちは再び一気に南下して、国府に帰還した。


 初めて国府を訪れた時と同じように、国守の佐味は仰々しく俺たちを出迎えた。

「長旅ご苦労様でございました。宴をご用意しておりますので――」

「その必要はない! この国に毎回豪勢な宴を催す余裕などないでしょう。なぜ民の窮状を放置してきたのですか」

 俺が問い詰めると、国守はおやおやと肩を竦めた。

「緊急米は出しましたし、壊れた施設などは修復していますよ」

 確かに緊急米は消費されていた。しかし、各郡に届いていなかった。つまり、食用ではなく、国府が物を購入するために使用されたことになる。おそらく、それは見事な陶磁器や調度品に化けて、国守館に鎮座していることだろう。

 また、大風で破壊された建物や橋の修復は囚人が行っていたが、小麻呂が調べたところによると、病の囚人も枷をはめられ、健康な囚人には旬(十日)ごとの休みが与えられていなかった。これは獄令の規定に違反する。

「それは囚人監督が指示に背いたのです」

「隠田も大量に見つかりました」

「しかし、私は何も知りませんよ。郡司たちが勝手にやったのでしょう。厳罰で臨まなくては」

「……あなたは国内を自分の家の庭のようによくご存知とおっしゃっていましたよね。それでも知らないと?」

「蟻の巣の中のことまでは、わかりませんよ」

 厚顔無恥とはこの男のためにあるような言葉だ、と俺は苦々しかった。俺はこの場で国守を断罪する権限はない。過ちを指摘し、改善を促すことができるのみだ。

 結局、用意されていた宴の食事を廃棄するには忍びなく、俺たちは宴席へ向かった。当然、楽しく食事などできずに、ただ出されたものを飲み込んでいった。

 出立の前夜、全ての荷物を整え、明かりを消そうとした時、戸を叩く音がした。空耳かと無視したが、やはり戸が揺れている。誰だろう夜中に。もし部下たちなら遠慮せずに入ってくるが躊躇っているのがわかる。俺は用心しながら戸を開けた。

「巡察使殿、夜分にごめんなさい。でも、ちょっとあたしを部屋に入れて」

 なんと遊行女婦の朝日だった。寝るつもりだったのか、髪は下ろされ薄い衣を重ねているだけだ。俺は蝋燭の火に照らされる朝日の色っぽい姿にドギマギしてしまった。

「どういうことだ? 俺は、君を、その、呼んだりしてないよ」

「訳があるの。入るわね」

 朝日は周囲を確認すると、さっと部屋に滑り込み、床に荷物を置いた。見てと言うので手に取ると、それは盗まれた台帳の写しではないか。

「ごめんなさい! これを取ったのはあたしなの」

 どういうことか問い質すと、朝日は涙を浮かべながら話した。

「佐味様があたしを数ヶ月、宴に出してくれると言うから喜んで仕事を引き受けたわ。仕事しないと禄をいただけないもの。だけど、巡察使の男の行動を見張って、隙を見て冊を持ち出して来いとも命じられた。もし嫌だと言ったらもう仕事はもらえないし、それに、悪いことだと思わなかったのよ」

 けれども、俺と国守の会話を耳にするようになり、自分の行動が巡察使の任務を妨害しているとわかり、台帳を返しに来たのだった。

「固く口止めをされてたんだから仕方ないさ。それより勇気を出して来てくれて感謝するよ」

 やはり民部省に提出した正税帳の収支は実際よりも少なく申告されていた。差分が国司の懐に入ったのは間違いないだろう。

「だけど、台帳がなくなったとわかったら、佐味は君を罰するに違いないよ」

 懸念されるのはそれだ。

「台帳のことだけじゃないの」

「え?」

「隠田は全部、郡司が勝手にやったことだなんて嘘よ。郡司の姉妹や娘が佐味の館で働かされているから、佐味を訴えられないの!」

 そういうことか。身内を人質に取られているなら、国守を庇わなければならない。朝日は遊行女婦の仲間の一人が珠洲郡大領の娘だと教えてくれた。

「あたしは今から逃げるわ。捕まったら佐味に殺される」

「でも、こんな夜中にどこへ? そうだ、俺たちと越中国へ行こう。家族はいるの?」

 朝日は、両親や兄弟は疫病で亡くなったから、自分がどこに行こうとも問題ないと答えた。

「よし、こうしよう。君は明日の昼までは変わらずに国府で芸の稽古をする。そして市に行くと言って出てくるんだ。俺の資人の佐久太を迎えにやるから、一緒においで」

 合流するまで一刻くらい待って、越中国入りが遅れても構わない。朝日の身柄の方が大事だ。

 興奮気味の朝日を帰すと、俺は越前国最後の夜を一人眠りについた。歌垣が夢だったのかと思うような能登郎女の面影を胸に抱きながら。

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