第1章 巡察使の誇り (2)若狭国
淡海湖が見えてくると、ここからが本格的な旅路だ。湖沿いの北陸道を北上し、高島郡今津まで駆け抜ける。例によって、小麻呂が腹が空きましたねと言うので、市に寄って温かい甘酒を買い、持参した冷えきった握り飯を食べた。
「この峠を越えるのは初めてです。積もってるんですかねぇ」
小麻呂は今津から若狭国小浜に至る山道が走る山を見上げた。その手にさっきまであった二つの握り飯は一粒もなかった。
実は俺は宮城付近を出て他国へ向かうのは人生で初めてだった。近郊に狩りに行ったことくらいしか遠乗りの経験はないし、まして山越えなど……
しかし、冬でも往来が頻繁にあるらしい若狭道は積雪は多かったが、思ったよりは難儀ではなかった。
「やっとふもとだな!」
俺の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。実家から連れてきた従者の佐久太が気を効かせて手拭いを差し出してくれた。雪道なので慎重に馬を走らせたら通常の二倍以上の時間がかかってしまったが、俺たちは無事に若狭国の国府前にたどり着いた。
佐久太が小走りに国府正門まで近づき、衛兵に俺の到着を告げた。各国には巡察使の派遣と到着日が事前に伝えられているから、俺と小麻呂は辞令を見せると早速、正殿に通された。荷物は雑用係の国仕丁が宿坊に持っていってくれるらしい。正殿には既に守以外の国司たちが集まっていた。
「巡察使の方々、
一通りの挨拶が終わり、俺は巡察使としての第一声を発した。
「若狭国は中国ではありますが、宮中にとって非常に重要な国です。大宝の新律令が導入されてからいかがですか? 何か困っていることなどがあればおっしゃってください」
俺は当初、巡察にさほど熱心ではなく最低限の仕事をこなせば事足りるだろうと思っていた。各国の概要くらいは頭に入れておいたけれども、細かい話は現地でという方針だ。とはいえ、俺にも考えはある。公平な判断をしなければならないから、京を出発する前に、国司に関する巷の評価は聞かないことにした。
国守は確実に俺よりも官位が高いし、当然年上だ。そんな俺が天皇の命を受けて、太政官直属の巡察使として国司たちの勤務を評価しなければならない。彼らの今後の人事は俺の目と耳と判断にかかっていると言っても過言ではなかろう。
「新しい律令は着実に履行しておりますが、思わぬ不備があるやもしれません。巡察の時にご指摘いただければありがたい。最近の若狭国は大きな災害も疫病もなく、比較的穏やかです。稲の収穫もそれほど悪くはないでしょう」
後ほど大税帳などをお見せします、と
俺はちょっと拍子抜けしてしまった。若狭国はごくごく平常運転で、どうやら俺が気合いを入れる必要はなさそうだ。
「いやー、湯浴みまで用意してもらって申し訳ないくらいですね。あ、それより今晩の宴、楽しみですね!」
若狭国到着の翌日、宴席が設けられた。
小麻呂の頭の中は常に食べ物のことで満たされているが、宴は俺も楽しみだった。若狭は入り組んだ海岸が良い漁場になっていて美味しい海産物がたくさん採れるということは俺だって知っている。
「巡察使のお役目の成功を祈り、乾杯いたしましょう」
若狭守が、自ら酒を振る舞ってくれて逆に恐縮してしまう。並べられた膳には新鮮な魚(しかも生だ)が刺身として出され、取り立てのワカメ汁やつやつやした米が俺たちの舌を楽しませてくれた。
「若狭国は
陸に囲まれた土地に暮らす京の俺たちよりも、なんだか贅沢な食べ物を食ってるんだなぁと少し羨ましくなった。
実は宴も監察の対象だった。他の巡察使はどうか知らないが、俺は公費でまかなわれるこういう宴が過度ではないか確認することに決めていた。だからあらかじめ、宴は質素になどと伝えていない。
「若狭国は合格ですね。私としてはもちょっと品数があってもよかったんですが……」
小麻呂はもの足りなさそうに腹をさすったが、いつもの食事に比べれば贅沢だ。しかし、過剰な品数でもなかったし、酒も皆酔いつぶれるほど飲んでいない。
遊行女婦は厄介な存在だ。宴に花を添える必要がある一方、中央から派遣されてきた国司たちの現地妻のような役目もあり、京に妻子がいる場合は姦通とみなされ、処罰の対象になってしまう。まぁ、恋愛は人の勝手なので黙認されることがままあったし、俺も十数年後に下総国守として赴任した時に特別な遊行女婦を持ったのだ。
「帳簿の記載方法については特に不備はありませんでした」
緊張した面持ちで俺の手元を見つめていた幹部の
俺たちは十日間ほど、国庁の一角で若狭国の税支出や戸籍の記録に目を通して、おかしなところがないか確認した。それほど広い国ではないので、記録は間違いなくつけられていそうだった。
「随分とお若いですよねぇ。巡察使というからもっと強面の方が来るのかと思ってました」
目がにこやかに言うと、掾も同意する。守である高橋家道の人選なのだろう、二人とも人の良さそうな男たちだった。
「律令のこともよくご存知なんでしょう。若いと何でも頭に入るから羨ましいですわ」
「わしらはもうこの年だから、国の掾や目になれただけで出世したなぁと思うけどね、お前さんはそんな若いのに巡察使の大役任されて偉いもんだ、まったく」
嫌味ではなく、二人ともにこにこと息子を見るように話している。俺はこそばゆくて居心地が悪くなってしまった。自分ではあまり意識してなかったが、巡察使とはそういう目で見られるものなのだ。
「あ、では我々は明日から巡察に出ますので、これからも今まで通りにお勤めください」
「そうでしたね、もうこちらにはお戻りにならないのですよね」
「はい、西の高浜まで行って検田が終わったらその足で、東の三方郡を回りますから」
一年で最も寒い時期だが仕方ない。これから残りの二十日間は外で班田と各種帳簿を付き合わせて、税の不正がないかを確かめなくてはならない。
翌日、俺たちは外套の中にいくつも温石を入れて移動を始めた。小丹生郡の郡家で挨拶をし、郡司を同行させて一ヶ所ずつ田を見回る。
「まいったな…… 几帳面過ぎて俺が指摘するとこなんかないよ」
「私も数人の農夫に話を聞いたんですが、淡々としてましたね。良いことがあるわけじゃないが、悪いこともねぇなって」
小麻呂は大食いだが、面倒がらずに足で情報を集めてきてくれる。
そんな調子で小丹生郡の巡察が終わってしまい、正直に言って俺の士気はがくっと下がってしまった。思っていた通り、巡察使なんて地味なもんだ。
ところがどっこい、今まで何も問題がなかったのはたまたま運が良かったからだと知ったのは、若狭国東部の三方郡を周り始めてからだった。
こちらも郡家周辺に広がる田畑に関しては取り立てて気になることはなかった。しかし、郡家で書き物をしていた時、
「私ちょっと様子を見てきますよ」と小麻呂が出ていく。そして、三人が俺の作業部屋にやってきた。大領は青ざめ、少領は憤慨している。
「どうされたのですか?」
「高向殿、正直に申し上げますと、我が郡の耳里で
「あってはならぬことでございます。宮中への御贄の生産が止まってしまうなど!」
郡司たちは必死に俺に訴えている。どうやら、御贄生産に携わる民たちが作業を放棄したらしいが、理由は不明だ。確かにこれは郡司にとって大事で、監督不行き届きと見なされれば自分たちが罰せられてしまう。しかも、俺という中央からの巡察使が来ているではないか。隠し通すことなど不可能だ。
「では、現場に行きましょう。佐久太、馬を頼む」
俺は消えかけていたやる気をなんとか箪笥から引き出し、祖父くらいの年齢の郡司たちを率いて耳里へ向かった。
耳里は開けた平野で、辺り一面が雪で覆われた田畑だ。耳川という清流の付近に駅家が置かれ、なだらかな海岸がとても美しい。若狭国は風光明媚なところである。
「こちらでございます、ご覧ください!」
禿げ上がった頭の駅長が、俺たちを海岸に連れていった。いくつも掘っ立て小屋が建ち、中には大きめのしっかりした小屋もある。浜には大型の土器が並べられ、その下に焦げた薪が見え隠れしているが白く細い煙がくゆるだけで火は点いていない。
「これじゃあ、塩は作れませんねぇ。あっちの作業場にも誰もいません。傷んだ鯛が卓の上に転がってました」
俺にはわかる、小麻呂が腐ってもいいから鯛を食べたいと考えていることを。
それはともかく、責任者に話を聞かねば何も始まらない。
「皆、どこに消えたんですか?」
「自分たちの家に籠っているようで…… 許せん、全員捕らえて獄に繋ぐべきだ! 押し入っても構わん!」
「あのー、ちょっと待ってください」
息巻く少領に待ったをかけたのは大食い小麻呂である。
「全員捕らえてしまったら、それこそ御贄を生産できなくなるでしょう」
「その通りです。まず私が責任者に話を聞きます」
郡司によると、責任者は耳里の長で官道沿いの集落に住んでいるらしい。里長の家は普通の家より一回りくらい大きく、集落に着くとすぐにわかった。俺は閉ざされた戸口の前で名乗った。
「里長! 私は北陸道巡察使、高向朝臣大足である。中にいるのなら出てきて、御贄の集団罷業に至った理由を説明してくれないか?」
その瞬間、戸口が勢いよく外側に開き、付近に立っていた小麻呂を直撃した。声にならない声で呻き、両手で額を押さえている。俺は憐れな小麻呂を横目で見つつ、里長に向き合った。
「巡察使だと?! おいおい、随分と若いじゃねぇか。こんなヒヨっ子が俺たちを監視しに都からやって来たのか! ふん、バカにするのもいい加減にしろよ!」
男は案外若く、体力がありそうだった。一気に捲し立てると里長は俺を睨み付けた。たぶん民は巡察使が何のために派遣されたか理解していない。また自分たちから税を取り立てて締め付けに来た役人だと勘違いしている。
(厄介だな、これは……)
俺はできるだけ柔和な顔になるように、ぎこちなく微笑んだ。
「誤解しているようだが、巡察使は民を監視したり取り締まったりはしない。むしろ逆だ。私の役目は国司や郡司の働きを監督すること」
「へぇ、嘘じゃねぇだろうな。だったら、ちゃんとこいつらを監督しろよ。できんのかヒヨっ子?」
里長は顎をしゃくって郡司たちを示した。
(何度もヒヨっ子って言うな!)
俺は里長の挑発的態度にキレそうになったが、ぐっと堪えて淡々と答えた。
(こういう時、年の功や藤原氏のような威厳ある名があればナメられたりはしないだろうな)
「そのつもりで仕事をしてる。それで、あなたたちが御贄生産を止めた理由は? 教えてくれないと私も対処できない。何が不満だ?」
「お前は生産現場を見たか?」
「さっき少しばかり」
「……御贄は租と違って一年中、生産することになってる。今みたいな雪の降る季節でも外の冷たい海岸でだ。おまけに月に二回は都に御贄を運ばなきゃならねぇ。調の織物もある。人ごとに課せられてるから、それぞれが土器、薪、海水を用意して、運ぶときも各人でやる。鯛の鮓も同じだ。仕事が増える一方で、俺たちが納めてる御贄を食ってる奴は俺たちをいたわるどころか感謝もしない。どうせ気楽にへらへら過ごしてるんだろうよ――」
「それは違う!」
きっぱりと否定した俺の言葉に一番驚いたのは俺自身だったかもしれない。里長の不満を軽く受け止めていた俺は、彼が「贄を食ってる奴」つまり天皇に言及した時、心の中に何かが弾けたのだった。
驚く小麻呂や郡司に構わず、逆に俺は里長に訴えた。天皇を侮辱したことが反逆と捉えられるぞと言ったわけではない。もっと、俺の個人的な感情だった。
「な、何が違うんだよ?!」
「
俺は今まで頭の隅に置いてしまっていた珂瑠の天皇の御言葉をはっきりと思い出した。あの方は俺と同じだけの時を過ごしているにも関わらず、何もかもが優れていた。深い知識と洗練された射撃の腕前、臣下を気遣う表情…… 既に一人の息子の父親でもあった。
お祖父様の大海人の天皇は、我こそが天皇である、神の子孫であるといかにも王者の風格を備えていたらしいが、孫の天皇は謙虚で人徳を重んじている御方だ。俺は初めて御前に参上したその時、この天皇に忠誠を誓ったのだ。
俺は続けた。
「天皇は今日のような暗く寒い日も、朝早くから弓馬の鍛練をされている。それから、全国の様子をお聴きになり、疫病や災害が起きれば寝ずに対応を指示されてきたんだ。決して気楽に生きてるわけじゃない」
それに、と俺は付け足した。たぶんこの話が一番大事だろう。
「主上は私が北陸道へ赴くと聞いて、『若狭国から来る贄は私の好物だ。あれを食べるとまた元気になる。若狭国の民にそう伝えてほしい』と感謝されていた」
長い時間、外で立ち話をしてしまい、里長の唇から血の気が引いて、俺の耳も雪が氷が張り付いているように冷えていた。郡司たちは沈黙を保っている。まだ里長を獄に繋ごうと思っているのだろうか。
「本当に天皇の言葉なのか?」
「そうだ。嘘をついたら、俺が天皇の言葉を捏造した
里長はじっと俺を見つめた後、ぼそっと言った。
「寒いだろう。汚ねぇ家だが入ってくれ」
再び開かれた戸口の中に里長が入っていき、残された俺たちは互いに顔を見合わせた。大領は行くなと首を思い切り振ったが、小麻呂はそろりと戸口に踏み込んだ。中の様子を伺って、安全かどうか確かめたらしい。
「じゃあ、お邪魔しますよ」
早速、小麻呂が家へ入った。こうなったら上司の俺が立ち去るわけにはいかない。郡司たちには先に郡家へ戻ってくださいと伝えて、俺も小麻呂に続いた。
その家は広いせいもあり、うっすら寒かったが中央の竈の付近は火の暖かさで心地よかった。
「こんなところは初めてだろ」
里長は笑って竈の前に胡座をかいた。彼の言う通り、中央の高級官僚の息子である俺は今回初めて郡司の家に入ったくらいだ。
「悪いが、巡察使殿に出せるような食い物はねぇんだ。ところで、俺たちの訴えはどうなる? 天皇が立派な奴だってのは信じてやってもいいが、俺たちにも限界ってもんがある」
そして、里長は壁際に視線を向けた。初めてそこに、女人が横たわっていることに気づいた。
「俺の妻は、織物の名手だが同時に塩も作らされている。でもよ、冷たい水で手先がやられて織物の細かい作業ができなくなっちまった」
「そうか…… だが、税を勝手に免除することも軽くすることも私にはできない。ただ、一人一人の負担を軽くする考えはある」
俺は各人で一から作業するのを止めて、耳里全体で分担して塩や鮓を作ればいいと提案した。外の作業は皆が決まった時間ずつ交代で行い、できるだけ長い時間、火のある小屋で別の作業をする。土器作りは専門の集団に任せる。これで楽になるのではないか。
「御贄が宮中に届けば良いのだから、誰がどんな風に作るかは関係ないだろう」
里長は半信半疑で俺の話を聞いていた。しかし、今日からすぐに里の者たちと話し合ってやり方を変えてみると答えた。
俺が日暮れに郡家へ帰ると、大領が当惑したような表情でやってきた。
「耳里の連中はどうしましょう。主上への反抗ですぞ。それに…… 我々のことも監督不足として報告されてしまうのでしょうね」
「反抗ではありませんよ、大領。ただ、彼らは作り方に困っていただけです。明日からは元に戻りますよ」
大領は驚いて声を上げた。あんなにいきり立っていた里長をなだめ、罷業を止めさせたなんて……。
「しかし、頼みがあります」
「な、何でしょう」
大領の唾を飲み込む音が聞こえた。
「国府でも郡家でもよいですが、しもやけやあかぎれに効果のある薬草を耳里に寄越すようにしてください」
若狭国を去る日、珍しく太陽が輝いていた。澄んだ深い青色の三方湖はもう何度も見たけれど、飽きることがなかった。耳里の人々は今日も黙々と御贄生産を続けている。里長の妻は薬草が効いて、また美しい織物を作れるようになったと聞いた。
「醤油が香ばしいですねぇ」
これからしばらく続く小峠に備えて、小麻呂が耳駅で調達した焼き飯をほおばっている。揺れる馬上で食べられるなんて、つくづく器用な奴だと思う。
まだ桜が咲くには早いが、越前国での台帳調査の間にでもちらほらと咲き始めるのではなかろうか。しかし、若狭国から越前国府までの道のりは険しく、どうやってもいくつも峠を越え、山間の道を伝って
俺たちはひとまず馬ですぐに行くことができる越前国最初の土地、
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