ナップの回想7

 その日の夜の事である。

 食事と湯浴みを済ませたナップは、あてがわれた部屋で剣の手入れをしていた。ナップの剣は心神流の免許皆伝の証に授けられる剣であり、ナップにとっては旅の共としても個人としても命の次くらいに大切なものだ。

 ナップが剣をしまい、ベッドに腰掛けて明日のフロナディアの稽古プランを考えていると、誰かが部屋のドアをコンコンとノックした。

「はい、開いております」

 ナップが言うと、扉がそーっと開く。

 そこにはスッポリとローブのフードを被った怪しい人物が立っていた。

「何者だ!?」

 それを見たナップは慌ててベッドから立ち上がり、手入れしたばかりの剣を抜く。

 すると、怪しい人物は右手の人差し指を立ててシーッと言った。

「ナップ様お静かに、私ですわ」

 怪しい人物がフードを取ると、その人物の正体はフロナディアであった。

「フロナディア様……脅かさないでください」

 ナップは胸を撫で下ろして剣を鞘に収める。

「何かご用ですか? 嫁入り前の女性がこんな時間に男の部屋に来ては家の者に誤解されてしまいますよ」

 そう言ってからナップは、グリームス家の人々にその心配は一切無用だという事を思い出した。しかし万が一フロナディアがナップの部屋に入るのをリボシーに見られて、翌日に「昨夜は励んだかの?」と言われるのも非常に嫌である。

 フロナディアは部屋に入ると、後ろ手に扉を閉め、言った。

「例のデートに行きましょう」

 ナップの頭上にハテナマークが浮かぶ。

「例のデート?」

「お昼に話した闘技場ですわ」

 それを聞いて、ナップは昼間の事を思い出した。

「今日行くのですか!? しかもこんな時間に!?」

 ナップは思わず声をあげ、フロナディアはまた「シーッ」と人差し指を立てる。

「善は急げと言うではありませぬか。それに、例の闘技場は夜中にしかやっていないのです」

「まぁ、そういう闘技場もあると聞いた事はありますが……それにしてもその格好は何です?」

 フロナディアは普段、寝間着や運動着さえ、服の機能を損なわない程度に花や鳥の刺繍のされた可憐な服を着ているのに、今は全身を茶色のローブでスッポリと覆っている。

「こっそり抜け出すには普段の服では目立ちますから」

「こっそり抜け出すって、別に悪い事をしに行くわけじゃないのですから、家の者に言って普通に出れば良いではありませんか」

 ナップが言うと、フロナディアは首を横に振る。

「それがそういうわけにはいきませんの」

「なぜですか?」

 ナップは少し嫌な予感がした。

「ケルナの闘技場は血生臭い試合を行う事で有名で、街の人々からの評判はすこぶる悪いんですの。お爺様はこの街の有力者ですから、闘技場を閉鎖するか、試合のルールを変えるように何度も闘技場の開催者とぶつかっていて、とっても仲が悪くって……それで私が以前から闘技場に行きたいって言っても絶対に連れて行ってくれませんでしたのよ」

「つまり、表立って闘技場に行く事はできないと」

「そういう事ですわ」

「じゃあ、やめましょう」

 ナップはキッパリと言った。

「なぜですの!?……あ」

 フロナディアは大声をあげてから、慌てて自分の口を塞ぐ。

「きっとその闘技場は裏の闘技場ですね。そういう所にはガラの悪い連中や、魔王軍崩れの獣人や鬼族が紛れているはずです。フロナディア様をそんな危険な所にお連れするわけには参りません」

 ナップはキッパリと言った。

「でも、ナップ様がお守りになって下さるでしょう? それに、闘技場で試合を見る事は良い修行になると言ったではありませんか」

「それはそれです。私のポリシーとして女性をあえて危険な場所へ連れ出す事はできません」

「婚約者として?」

「婚約者ではありません。一人の男としてのポリシーです。そもそもこんな夜中にフロナディア様を外に連れ出した事がバレたらグリームス卿に何と言われるか……さぁ、明日も朝から修行ですよ。部屋に戻ってお休みになられて下さい」

 そう言ってナップは寝る支度をし始めた。

 そんな取りつく島もないナップを見ながら、フロナディアは頬を膨らませ、背中に問いかける。

「どうしてもいけませんか?」

「どうしてもです」

「私のおヘソを好きなだけ見せますから」

 フロナディアは日中ナップがヘソを注視していた事に気付いていたのだ。

「な、何を馬鹿な! とにかくダメなものはダメです!」

 ナップのその言葉に、フロナディアは奥の手を使う覚悟を決めた。

 フロナディアはナップに背を向け、部屋の扉の前に立つと大きく息を吸い込む。そして……

「あぁ〜ん!!! ナップ様ぁ〜ん!!!」

 突然色っぽい声で叫び出した。それを聞いてナップは勢い良くずっこける。

「ナップ様のエッチ〜!!!」

 ナップは素早く立ち上がると、嬌声をあげるフロナディアに駆け寄り、背後から手で口を塞ぐ。

「フロナディア様! 何をされているのですか!?」

「むぐむんぐ、むぐぐぐむー」

 フロナディアがナップの腕をタップすると、ナップはそーっと手を離した。

「フロナディア様どういうおつもりですか!? 例の誤解が二度と解けなくなりますよ!」

「だって昼に約束したのに、ナップ様がイジワルを言うから……」

 このお嬢様、どうやら良くも悪くも目的のためなら手段を選ばないらしい。いや、普段のフロナディアならもしかしたら大人しく引き下がっていたのかもしれない。しかしフロナディアの前に立つこのナップという男は、なぜか振り回してしまいたくなる天性の性質を持っていたのだ。

 ナップは諦め、大きなため息を吐いた。

「わかりました……でも、決して私から離れないで下さいよ」

 むくれていたフロナディアの顔がパアッと明るくなる。

「はいっ!」

 フロナディアは子供のように元気よく返事をした。

 そして「では早速参りましょう」と言ってナップの部屋の窓を開ける。

「フロナディア様?」

 フロナディアはナップの部屋がある二階から、事も無げにヒラリと飛び降りた。そして音も立てずに綺麗に着地すると、ナップに向かってクイクイと手招きをする。その顔は遠足に行く子供のようにワクワクしていた。

 ナップは思った。

(このお嬢様、生半可なおてんばではない……)

 と。

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