ナップの回想4
ナップは深い眠りの中で夢を見た。
幼い頃の夢を。
夢の中で母親が言った。
「ナップ、お兄ちゃんがあなたの年の頃はこれくらいできたわよ」
「ごめんなさい母上……」
父親が言った。
「ナップ、お前はどうしてこんな簡単な事もできないんだ」
「ごめんなさい父上……」
兄が言った。
「ナップ、気にするな。お前の事は俺が守ってやるよ」
「うん、ありがとう兄上」
「お前はできない事は無理にやらなくて良いんだ」
「うん、わかったよ」
「できない事はやらなくて良いんだ」
「うん」
「できない事はやらなくて良いんだ」
「兄上?」
「できない事はやらなくて良いんだ」
「わかったってば!」
「できない事はやらなくて良いんだ」
「兄上、やめてよ!」
「できない事は……」
「兄上!!」
そこでナップは目が覚めた。
いつの間にか部屋の中は暗くなっており、窓の外には月が上っていた。どうやら時間は深夜のようだ。思った以上に眠り込んでしまったらしい。
何やら嫌な夢を見ていたような気がする。
(闇に紛れて屋敷を出るか……)
ナップはベッドから起き上がり、月明かりを頼りに身支度を始めた。
どうせフロナディアは課題を達成できず、明日にはリボシー達の誤解を解いて自分を解放してくれるであろうが、もしごねられたりしたら面倒な事になる。これ以上お嬢様のお遊びに付き合ってはいられない。自分には為さねばならぬ任務があるのだ。
その時、ナップはフロナディアが部屋に戻っていない事に気付いた。
(別の部屋で寝ているのか?)
きっとフロナディアはナップの出した無茶な課題に腹を立て、ナップのいる部屋には戻らなかったのかもしれない。
ナップはそんな事を考えながら、身支度を終えて窓からこっそりと屋敷を抜け出した。
ナップは身軽に庭に下りると、誰にも見られないように屋敷の裏門を探す。しばらく建物の壁沿いに進むと、屋敷の裏門が見えた。
(よし)
ナップが裏門まで一気に駆け抜けようとしたその時、庭の方から何やら音が聞こえた。
ふぉん……ふぉん……ふぉん……
規則的に聞こえてくる音は、剣が風を切る音に聞こえる。
(まさか……)
ナップの足は自然とそちらに向いていた。
建物の角を曲がると、今朝フロナディアに稽古をつけた場所が見える。そこには月光に照らされながら木刀を振るフロナディアがいた。
「……フロナディア様」
ナップは思わずその名を口にしてしまった。
フロナディアが振り返る。その顔は汗だくであったが、月明かりの下で美しく見えた。
「ナップ様、お待たせしてしまい申し訳ありません。もう少しでコツが掴めそうですの」
フロナディアはそう言って木に蹴りを入れる。その時、手から木刀を取り落とした。
「あっ……」
木刀を拾い上げようとするその手は、豆が潰れ、血が滲んでいる。
「フロナディア様!」
ナップはフロナディアに駆け寄り、その手を握った。
ナップの握りしめたその手は小刻みに震えており、限界が近いことを知らせている。
「こんなになるまで……」
フロナディアの手を握るナップの手も震えた。
「情けないですわ。私、才能が無いのかもしれないですわね」
フロナディアははにかむように笑う。そしてナップに握られた手を引き抜くと、痛みに顔をしかめながら木刀を手に取った。
「フロナディア様! おやめ下さい!」
ナップの制止の言葉にフロナディアは首を横に振る。
「大丈夫です。必ず成し遂げてみせますから」
フロナディアは疲労困憊の様子であったが、その目の光は消えてはいない。
「御無理をなさらないでください! できない事は無理にしなくても良いではありませんか! 私じゃなくても良い剣の指導者は沢山おります!」
ナップはどこかで聞いたような言葉を口にした。
フロナディアは再び首を横に振る。
「私、諦める事が嫌いですの。それに、無理な事ほどできた時は嬉しいじゃありませんか」
フロナディアの言葉はナップの胸を打った。
ナップは拳を握りしめ、己の愚かさを後悔する。フロナディアの強くなりたいという願いは本物だった。自分はそれを弄んでしまったのだ。
「フロナディア様」
ナップは唇を強く噛み締めた後、ふらふらと木に蹴りを入れようとするフロナディアに声をかける。そして覚悟を決めて言った。
「フロナディア様、木の葉切りの秘密は感情術にあります」
「感情術?」
ナップは言葉を続ける。
「脱力して、目を閉じて下さい」
フロナディアはナップの言葉に従い、木刀を握った手をだらりと垂らし、静かに目を閉じた。
「昨日あなたは私を襲った時、怒りを感じ、それを露わにしましたね。その時の事を思い出して」
昨日、フロナディアは確かに感情術の片鱗を見せた。
「あなたが何に怒り、なぜ怒ったのかを思い出して下さい」
フロナディアならばできるはずだ。ナップは確信していた。
「その怒りが己の全身に満たされてゆくのを感じて」
「怒りが……全身に……」
深く呼吸をしたフロナディアの背から、僅かに赤いオーラが立ち上る。
「その感覚を維持したまま、ゆっくりと上段に構えて」
フロナディアは静かに木刀を上段に構える。
「全身を巡る怒りを剣に集めるのです」
フロナディアから立ち上る赤いオーラがゆっくりと、時間をかけて刀身へと集まってゆく。そしてオーラが刀身を包み、刀身から赤いオーラが立ち上り始めた。
「もっと鋭く」
刀身全体を包むオーラが徐々に剣先へと集まってゆく。
「もっと」
やがてオーラは剣先の一点に集まる。
ナップはフロナディアの集中を切らさぬように木に歩み寄り、そっと手のひらで触れ、グンと力を入れた。
枝から数枚の葉が落ち、その一枚がフロナディアの眼前に舞う。
「今です」
ナップがそう言った瞬間、フロナディアの握る木刀が振り下ろされた。
シュカッ
木刀を振り下ろしたフロナディアが目を開くと、そこには真っ二つに分断された木の葉が舞っていた。
「お見事です。フロナディア様」
そう言ったナップの顔は複雑な表情をしていた。
やはりこの男、お人好しである。
「あ……あ!……やった! やりましたわ!」
しばらく呆然としていたフロナディアは、木刀を放り投げ、何度もお嬢様らしくない激しいガッツポーズをした。
そしてぴょんぴょんと飛び跳ね、困ったような顔をしているナップに正面から飛びついた。
押し倒されたナップは、再びツインマシュマロの洗礼を受けたのであった。
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