良い夢を8
数分後、そこには爆笑しながら床をのたうち回るナップの姿があった。なぜ殴り合いをした筈なのに、爆笑しているのかと言うと、ナップはムチャの技の一つである、体の各所にある笑いのツボを喜の感情術を乗せた拳の連撃で刺激して相手を強制的に笑わせる「喜笑点穴」という必殺技、否、必笑技を喰らってしまったのだ。
「くははははは!!」
さっきまであんなにカッコつけていたくせに、返り討ちにされて床を転がりながら爆笑する姿は哀れとしか言いようが無い。一応ナップの名誉のために言っておくが、ナップは決して弱いわけでは無い。感情術を使った剣での戦いならともかく、単純な殴り合いにおいては体格の勝るナップの方に分がある。しかし、ケセラから出されたプラン2の指令により、夢ナップは敢えてムチャの技を喰らったのだ。もう一度ナップの名誉のために言う。敢えてだ。
「いひひひひ……貴様のいひひひ……勝ちだひひひひ……トロン君の事はひひひ……任せたぞひひひひ!!」
ナップは笑いながらよろよろと立ち上がると、捨て台詞を残して図書室から出て行った。そして後には勝者と賞品が残される。結果的にはムチャの圧勝であったが、数発喰らったナップのパンチにより口の中を切ったせいで、口の端から僅かに血を流している。ムチャはそれをぐしぐしと拳で拭った。
「ムチャ……」
そこにトロンが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
トロンは心配そうな顔をして、手にしたハンカチでムチャの顔を拭いた。
「大丈夫大丈夫、あんな奴に大事な相方を渡せるかよ」
ムチャがそう言うと、トロンは突然ムチャに抱きついた。そして背中に腕を回してキュッと抱き締める。すぐ側にあるトロンの髪から甘い香りが漂い、その小さな体がムチャの体に押し付けられる。しかし、ムチャは硬直しなかった。その抱擁には色欲でなく情愛が込められていたからだ。
「ムチャのバカ……私のためにケガなんかして」
「お、おい、トロン?」
トロンの泣き出しそうな声を聞いて、ムチャは焦った。どうすれば良いのかわからずに、ただトロンの背中をポンポンと優しく叩く。
「……ムチャ、ありがとう」
トロンの言葉に、突然ムチャの胸にキュンとしたものが生まれた。それは甘く、酸味があり、ムチャの心をどうしようもなく刺激する。ムチャの心はその甘く酸っぱいものをもっともっと食べたいと思った。
ムチャはトロンを抱き締め返したい衝動に駆られ、やり場の無い手がトロンの背後でグーパーグーパーと無意味な開閉を繰り返す。
しかし、これは茶番も茶番、大茶番である。ラブプロデューサーケセラは、二人の様子を見ながらグッと拳を握り締めた。
(ほれ、ギュッといけギュッと! そしたら後はなし崩しじゃあ! チュッチュチュッチュの百花繚乱よ!)
このラブプロデューサー、実に悪い顔をしている。そこまでムチャを乱れさせたいなら、お前があの時更衣室でのムチャの要望に応えてお着替えシーンくらいは見せてやれよというツッコミは一切受け付けない。このケセラ、サキュバスでありながら案外自分の事に関してはピュアなのだ。
(くくく、私の演出は完璧よ! あそこで噛ませ犬三号を登場させ、男の子に彼女を助けざるを得ない状況を作り出す。そして彼は自らの意思で彼女を助ける事によって「自らの選択」でこの状況を生み出したという錯覚に陥る。そうなればもう後には引けないわ! わざわざ自分で作った料理を食べずにゴミ箱に捨てる人はいないのと同じで、夢の中とはいえ自らの選択で生み出した状況をスッパリなかった事ができる人間なんて居ないのよ! ましてやこ〜んなにハッピーなシチュエーションなら理性の陥落間違い無し。さぁさぁ美味しくいただくのよ!)
そして無駄に頭が回るのがタチが悪い。これは雑な例えではあるが、市場の果物屋で桃を試食した人が、食べながら店員と世間話をしているうちに、自分は桃を買いに来たと錯覚して桃を買ってしまうというような状況を利用した作戦である。
(ムチャ君、あなたは夢の中でさえ安易に欲望に走らない立派な精神の持ち主よ、だからこそ私も私の持てる全てを使ってあなたに幸せな夢を見せてあげる。それがエリートサキュバス見習いとしてのプライドよ)
などとかっこいい事を思ってはいるが、こいつはプレグやニパにムンムンな事をさせながら自らは自分が見習いであるという事を理由にお着替えシーンすら見せていない事を忘れてはいけない。まぁ、今までは自らは一切の手を汚さず、相手の脳内にいる人物や自らが創作した人物を夢の中で操り、それで相手を満足させてきた技量と魔力の持ち主ではあるのだが。
しかし、ムチャもまたこのラブ軍師にとってかつてない強敵であった。
ムチャはトロンを抱き締めそうになるのを寸でのところで踏みとどまると、トロンの肩を掴み引き離し、言った。
「とにかく、泣くんじゃねぇよ。俺達はお笑い芸人だ、芸人がメソメソしてたらお客を笑わせられないだろ?」
トロンはポカンとしてムチャを見つめた。それはケセラの演出の内でとったリアクションではない。ケセラ自身がポカンとしていたからだ。
(何……なんなのこいつ。なんでここまでしても落ちないのよ!)
その時、ケセラは自身の胸がクッと締め付けられた事に気付いていなかった。
(これならどうだ!)
ケセラが夢トロンに指令を出すと、トロンは目を閉じて僅かに唇を突き出した。
「!?」
ムチャの視線はトロンのプルンとした唇に釘付けになる。トロンのプルンがムチャの唇に迫る。しかし、ムチャはトロンの口に指を当ててそれを制した。
(おのれ! これならどう!?)
今度はトロンは、自らの上着に手を掛けてプチプチとボタンを一つずつ外し始める。しかし、これもムチャの手によって止められる。
(何よ! なんなのよ!)
ケセラは地団駄を踏みながら頭を抱えた。
(わかったわ! 彼は男が好きなのね! それならばあのかませ犬にアタックさせれば……)
ケセラがしてはいけない誤解をした時。
「おーい、ケセラ、どっかにいるんだろ?」
ムチャが宙空に向かいケセラを呼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます