七不思議その一 油蛙
生徒数は二百人ほど。わりと田舎。更に言うのならば特別何かしらの特色があるというわけでもない、らしい。
昔戦場だったとか、神社をぶっ壊して空いた場所に建てたとか、そういう曰くがあるわけでもない。
ごく普通の公立中学校。創立何十年を迎えるぐらいには歴史が古いらしいのだけど、そんなのは良くあることだ。九臙脂中学校だって、そろそろ創立四十周年ぐらいらしいし。
とどのつまり、全然特別じゃない。
そして、七不思議なんてモノがはびこっていても無理もないことだ。
退屈な自分の学校に少しでもスパイスを添加して楽しめるようにするという考えは僕にも理解できる。
僕だって純粋な中学生だった頃にはそういったどうでもいい話で盛り上がったりしたものだ。
だけど、今はソレが確実に存在しているという。
どういうルートで百怪対策室に解決の依頼がやってきたのかを室長は教えてくれなかった。僕が知る必要が無かっただけなのかも知れない。
だけど、現在の僕は夜の野瀬思中学にいる。
七不思議を解決するために。教員が見てしまったという七不思議を。
「……なんでこうなるかな」
「そりゃあキミ。私達が百怪対策室で、そこに『怪』があるからだろうが。怪奇・怪談・怪現象……」
「あーはいはい。それはわかりましたけどっ、僕が言いたいのは『七不思議の解決なんてどうやるんだよ』ってことですよ。実際に見た人、体験した人いるのかもしれないですけど、室長は幽霊退治とかは苦手なんでしょう?」
魔術師にも得手不得手はあるらしく、室長は幽霊関係があまり得意じゃないらしい。
それでも一般人からしてみたら十分なレベルなんだろうけど。
「キミは学習能力がないのか? 夏休みの事を思い出せ。私の見事な手腕をな」
『動く標本』のことだろう。
まあ、確かに問答無用の即死攻撃みたいなもんだ。怪談とか不思議には。
人間によって引き起こされていた現象に過ぎないという情報による上塗りは、どれだけの不思議であっても対抗できない。
怪談やら不思議というヤツは、根幹が謎だからこそ存在を保てる。解明されてしまったら、途端に神秘性は失われてしまい、不思議はただの現象に成り下がる。
ん? まてよ。
「ってことは、この学校の七不思議にも黒幕がいるって事ですか?」
「十中八九そうだろうな。私達の最終目的はその黒幕をぶっ飛ばして二度とやらかせないように教育してやることだ。わざわざ中学生をターゲットにしている辺り、相当の変態だろうが」
それはちょいとばかり行き過ぎた考えだとは思う。
しかし、裏で糸を引いている存在がいるのならば多少は楽か。
この学校に起こっていることは人為的なモノである。そう考えるだけでなぜか知らないけど安心感が出てくる。
こうなったらなるようにしかなるまい。
「じゃあ、とっとと今日の怪談……つうか七不思議を解決しに行きましょう。室長のことだから目星はつけてるんでしょう?」
「当然だ。コイツが今日のターゲットだな」
白衣のポケットから室長は一枚の紙を取り出す。
〈油蛙〉
筆で書かれたその名前は、どっちかというと妖怪ぽかった。
野瀬思中学に存在しているたちの悪い妖怪。……妖怪じゃん。
急いでいる人間に対していたずらすることを至上の命題にしているようなひねくれ者で、非常に厄介な異能を持っている。
その異能というのは、『滑らせる』というごく単純なものだ。
だけど想像して欲しい。
急いでいるということは、少なくとも普段よりも早足になっている。人によっては禁止されているにも関わらず走っているのかも知れない。
そんな状態で足が滑ったらどうなるか?
転倒するだけでもかなり危険だ。怪我の心配はつきまとう。
前に転んだのならば前歯を折る可能性だってあるし、後ろに転んでしまったら後頭部を強打する可能性だってある。
まだ死者は出ていないらしいのだけど、被害者はかなりの数に上るらしい。
当然、油蛙の仕業なのか、それとも単に転んでしまったのかの区別はつかないので厳密な被害者数は計上できない。
が、しかし。
何人かは見てしまったらしい。
廊下で転んで、その際に。
一抱えもあるような巨大な蛙を。
不気味に喉を鳴らしながら、目撃者が体勢を立て直すのと同時にどこかへと消えてしまうらしいのだけど、教員までもが目撃している以上、単なる口裏合わせとか錯覚とかいう可能性は低くなってくる。
しかもこの油蛙、廊下をぬらぬらとした油のようなモノでコーティングしていくというお土産までくれるらしい。
そのために、何度も業者を呼んだりで出費も
デカい蛙を見てしまっただけで嫌いな人間は気絶しそうだけど、廊下を油まみれにしてくれるようないたずらまでやってくるとなると、もはや七不思議っていうか、やっぱり妖怪じゃねえかと言いたくなってしまう。
そして、今夜のターゲットはその油蛙。
当然、校内に侵入する必要があるのだけど……。
「
かちょん、という音と共に玄関の鍵は外れる。
魔術師に対するセキュリティなんてものが普通の中学校に存在しているはずもなく、あっさりと僕と室長は校内に侵入を果たしていた。
そして、現在地点は昇降口。
目の前からすでに廊下。
暗いので不気味だ。なり損ない吸血鬼の視力は昼間と変わらない程度の視界を保証してくれるのだけど、光り方が違うとなんとも気持ち悪い。しかも、何処から油蛙が仕掛けてくるのかわからないとなったら
「さ、コダマ。走れ。全力疾走で廊下を走りまくれ」
「……いや、なんでまたそんな自殺行為をしないといけないですか。僕が転んだらどうするんですか」
突然の命令。しかも罠に突撃しろという。
「?」
「そんな顔してもダメですよ。なんか用意しているんじゃないんですか? 油蛙をおびき出すためのアイテムとか魔術とか」
「いるだろ、ここに」
ぽん、と肩に手が置かれる。
もちろん、僕の肩だ。
「囮になれと」
「そうだ」
「嫌で……」「嫌っつったら魔術で無理矢理走らせるからな」
半分出ていた言葉を呑み込む。
どうやら、選択肢はないようだ。
渋々、僕は廊下で駆け出す体勢を取る。
「全力で走れ。囮は目立つのが仕事だからな」
「転倒して死んだら化けて出ますからね」
「出来るものならやってみろ」
なり損ない吸血鬼であることがこんなに恨めしいとは。
これ以上グチグチ言っていても埒があかないので、僕は全力疾走を開始した。
夜の学校を走る。
字面だけ見たらただの不審者。とんでもないスピードで走る今の僕を見たら敏捷度の高い不審者。
だけど命令に従っているだけなので、責任は室長に帰属して欲しい。決してこれは僕の意思じゃない。
が、なり損ないとは言え吸血鬼の脚力。
殆ど一瞬で廊下の端から端に到達してしまう。
今は一階の教室前の廊下を制覇したところだ。
今のところ僕達以外に不審な点はない。
「戻ってこいコダマー。もちろん全力疾走でー」
反対の端から呼びかけられているので室長の声も間延びしている。
ため息を吐きながら再び全力疾走を開始しようとした瞬間、僕はソレに気付いた。
地面の摩擦係数の変化に。
しかし、もう動きだした足を止めることは不可能だ。
踏み出した右足が廊下に接地する。
まるで油がひかれたかのように良く滑る床は物の見事に僕の足を滑らせた。
前に、こける!
とっさに腕を突いて顔が激突するのは避けられたのだけど、その腕も滑る。
分厚い油膜が廊下に出現していた。
油まみれになりながら僕は転がる。
服に思いっきり油がしみこんでしまったのだけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない!
「室長! 出ました!」
まさかこんなに早く出現してくるだなんて思っていなかった。
が、出た以上はとっとと解決してやる。
「今行くー」
多分、魔術を使っているだろう。室長は空中を歩くようにして僕に近づいてくる。
だけど、僕は見てしまった。見えてしまった。
室長の足下に出現した、巨大な蛙を。
話通りに、一抱えはあるような大きさ。その図体に似つかわしい巨大な目玉は頭上の室長を確実に捉えていた。
ずるん、と空中を歩いていた室長の足が滑る。
「室長⁉」
そのまま一回転しそうだった室長の体は床と水平の状態で停止する。
「慌てるなコダマ。この程度は想定内だ。魔術にまで干渉してくるとはな」
にらみ合う室長と油蛙。
げろり、と油蛙が鳴いた。
それを合図にしたかのように廊下全体が鈍い輝きに包まれる。
おそらくは、油。
僕のバランス感覚では立ち上がることさえも不可能だろう。そのぐらいの量だ。
だが、空中に停止している室長にそんなことは関係あるのか? 答えはノーだ。
「ふん、とっとと現象に解体されてしまえ」
白衣のポケットから室長が何かを投げつける。
透明な……
「
室長の言葉と共に見えない刃によって瓶のようなモノが切断され、中に詰まっていた液体が油蛙に降りかかる。
ゲ! ゲッ! ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲッ!
耳を塞ぎたくなるような断末魔と共に、巨大な蛙は塩をかけられたナメクジみたいに溶けていく。超グロい。
半分液体になってしまった油蛙は動かない。声を上げることもなくなってしまった。
同時に、廊下を覆っていた油膜も消える。
まるで、始めからなかったかのように。現実ではなかったかのように。
一応、大丈夫なことを確認してから僕は室長と油蛙に歩み寄る。
非常に冷たい視線を足下に送っている室長の手には、また瓶のようなものが握られていた。
いや、瓶じゃない。
台所用洗剤のボトルだ。
「油蛙。コイツの正体は何だと思う?」
突然の問い。
だけど、そんなことを聞かれても僕には見当も付かない。
どこからともなく流れてきた土着の妖怪とかそういう感じだろうか? それとも……。
「……もしかして、生徒のいたずらから想像されて、そこから生まれた妖怪みたいなものなんでしょうか?」
想像。それは創造に繋がってくる。
多くの人間によって共有される思念というのは『存在力』とても言うべきような力を帯びて、いつの日か実体化してしまう。
あの『動く標本』はほぼその前段階だったと言えるだろう。
人為的な操作によって生まれかけていた、『怪』の雛(ひな)。そういうモノだった。
「正解、と言いたいところだがちょっと違うな。生徒のいたずらじゃない。必然的に起こった現象に対して、この油蛙を想像した人間が多かったということだ」
なんじゃそりゃ。
いたずら、じゃない?
「作為的なモノじゃないっていうんなら、一体何が起こったっていうんですか? こんな……不細工な蛙まで生み出すような現象ってなかなか無いと思うんですけど」
『怪』が生まれるには何らかの原因がある。
今回の油蛙だってそうだろう。しかし、室長はそれが自然現象だとおっしゃる。
学校内で滑って転んですってんてんの自然現象があったら教えて欲しいもんだ。
「……ヒントをやろう。ほれ」
室長は僕に何かを投げて寄越す。
受け取ったソレは、スリッパだった。
……いや、何のヒントだよ。
来客用のスリッパじゃない。もっと頑丈そうだ。トイレのスリッパかな?
大げさに肩をすくめながら室長は嘆息する。
「やれやれ。ここまでわかりやすいヒントをもらっても、まだわからないとは……キミは百怪対策室で何を学んでいたんだ。これまでの『怪』も浮かばれないな」
余計なお世話だ。
「そんなこと言っても、スリッパで何がわかるっていうんですか」
「ただのスリッパじゃない。さっき昇降口で拝借してきた、学校指定のスリッパだ」
はぁ。わからなくもないけど。頑丈なつくりは使用頻度が高いからか。……で?
「底を見てみろ」
言われたとおりに靴底(スリッパ底?)を見てみる。
つるんとした底があるだけだった。
「摩擦、それは大事な力だ。普段見えない力というヤツはなくなってみて初めてそのありがたみを実感できる。人間もそれ以外も同じことなんだが」
唐突に学問的なことを言い始めた。
だけど、おそらくは種明かし。
油蛙の、正体みたりスリッパ。というのはなんとも締まらないけど。
「そのスリッパ、底に溝がないだろ?」
たしかに、ない。
もしかしたら最初はあったのかも知れないけど、削れやすい素材なのか、それとも溝が浅すぎるのか、僕が持っているスリッパの底は平面だ。
「さて、理科の時間だ。溝があるのとないの、どっちのほうが滑りやすい?」
「そりゃ、溝がない方でしょうよ」
「そうだ。しかし、別にあってもなくても良いような気もするな。……地面が滑りやすくないのならば」
僕達がいる廊下は、多分リノリウムだろう。つやのある滑らかな表面をしている。
だけど、それならば別に不思議でも何でも無い。『怪』にはならない。
四六時中すっ転びやすいのならば、別に不思議でも何でもない。
ただの、設計ミスだ。
「ではここで実験。滑らかな床に水を撒く。更にその上で底がつるつるのスリッパを履いて走ってみよう。数秒後のコダマはどうしてる?」
滑らかな平面と底がつるつるのスリッパ。その間に水という潤滑剤が入り込むことによって、まるで油の上でダッシュしたかのような結果に終わるだろう。
すわなち、派手に転倒。
「いや、待ってくださいよ室長。水なんて撒いてたら普通に注意して歩くでしょうに。走るなんてもってのほかですよ」
いくら中学生とは言っても、それぐらいの常識は持ち合わせていることだろう。
「撒いて無かったとしたら?」
なんじゃそりゃ。水を撒いてないのに、水か撒いてあるなんてことあってたまるか。
「梅雨の時期っていうのは嫌なモノだな。私は日本の梅雨が大嫌いだ。なんせ食い物はすぐに腐るし、雨ばっかり降るし、雨が降りでもしたらすぐに結露する」
はっ、とする。
自然現象に過ぎない結露。
しかしながら、それはぴったりと密着した床とスリッパの間に出来た、ほんのわずかな隙間を埋めるには十分な量になりはしないだろうか。
「ようやくわかったみたいだな。となると、油蛙の正体ははっきりした。梅雨の時期のリノリウムの床が結露し、その上を疾走した生徒は盛大にすっ転ぶ。痛みをこらえて立ち上がろうとすると、蛙の鳴き声が聞こえた」
蛙の妖怪が自分を転ばせた。
そういう風に“解釈”した。
決して自分が不注意だったわけじゃない。これは他に要因があるという責任転嫁。
それを幼いと
だけど……まさか『怪』を生み出すほどに強固に信じられてしまうというのは想定外だけど。
ここの生徒達はピュアだったのか、それとも怪談に飢えていたのか。前者であってほしい。
「『滑らせる』という性質から『油』が連想されて、蛙の形にくっついたんだ。最初にいたのは多分蛙だ。それに肉付けされるうち、段々と巨大になり、油の性質を取り込み、そしてこの学校の七不思議の一つとして定着した。そんなところだろうな」
なんともあっけない。
「……油蛙の正体はわかったんですけど、その台所用洗剤はなんなんですか?」
室長が油蛙にぶっかけた液体。致命打になったのは多分、これだ。
「水から生じた油の性質を持った『怪』。ならば、水でも油でもなくしてやったら、存在にほころびが生じる。元に還元されるのか、それとも油蛙なのかわからなくなって、そのまま永遠に乳化してればいい」
まるで油汚れみたいな扱いをされている。
『怪』の正体が両極端の性質を持っているのならば、それを無理矢理接合させて自己崩壊させてやったというわけだ。
つなげたのは、何の変哲も無いような台所用洗剤。
死因、洗剤。うわ、すっげぇ間抜け。
「これで、油蛙は終わりなんですか?」
「まあな。復活しようと思うのなら、あと一〇年以上はかけて徐々に生徒に浸透していくしかないが、いい加減に学校指定のスリッパも変更になってることだろう。もっとグリップがいいのにな」
なるほど。どうやら、せっかく存在を得たデカい蛙はもう復活できる可能性はないらしい。
「一つ目、ですか」
「ああ、あと六つだな。まったく、誰だこんな面倒くさい依頼を受けたのは」
アンタだアンタ。
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