幕間

 1


 「コダマ先輩。ほら、これどうですか? わたしに似合っていると思いませんか? 隣の女子力低い人とは違って、わたしこういうの似合ってしまうタイプなんで」

 「そんなことないよね空木君? わたしの女子力低くなんてないよね? そもそも女子力とか関係ないと思わない? 容姿に現れない部分が女子力だと思うしっ!」

 僕、空木うつぎコダマは現在二人の女子に両方から話しかけられている。

 片方は佐奈平さなひら心優みゆ君。妹の小唄こうたと同じ学年、つまりは中学二年生の女子。

 そしてもう片方は僕の彼女である笠酒寄かささきミサキ。同じ弐朔にのり高校一年生にしてクラスメイト。

 さらに場所はショッピングモールの一画に入ってる女性向け服飾店。

 なぜこんなことになっているのか? それには時計の針をいくらか逆回転させる必要がある。

 僕は恨む。

 この事態の元凶となった妹の小唄を。

 あとで絶対に説教だ。


 2


 「おにい、ちょーっと小唄ちゃんのお願いを聞いてみるつもりはない? あ、もちろん返答はイエスだっていうことを小唄ちゃんは知ってるんだけど、一応は意思確認って大事じゃない? この銀河系レベルのラブリー妹小唄ちゃんのお願いなんてのはお兄じゃなくても即答で首をちぎれるぐらい縦に振りまくってそのまま作用反作用の法則によって第一宇宙速度に達しちゃうことはわかってるんだけど、一応ね」

 「言ってることが滅茶苦茶だろうが。なんで首を振って衛星軌道に乗らないといけないんだよ。僕は面白物理学実験の対象じゃないぞ」

 空木家、リビング。

 基本的に僕はリビングにいる。

 自分の部屋もあるけど、だらしなくソファに寝転がってぼーっとテレビを眺めているには一番いいからだ。

 そんな状態の僕に突如として妹が襲来してきた。

 しかものっけから意味不明の自意識過剰長台詞で。僕じゃなかったら反応できまい。

 「お兄大丈夫。そんなに自分を卑下ひげすることなんてないんだよ? お兄はイエスって答えて明日のスケジュールを空けておいてくれるだけでいいんだから。それだけで小唄ちゃんに貢献できるなんてすごいことじゃない? この小唄ちゃんの役に立てるんだよ? お兄が。そんなことは一生に一度、ううん、きっともう一回ビッグバンがやってくるまでないよ」

 お前は話を宇宙規模にするのが好きだな。

 無視してもいいけど、その場合には輪をかけて長い台詞がやってくるのでそろそろ聞いてやる。十年以上付き合ってると妹に対する対応というモノも堂に入ってくる。

 「で、なんだよ『頼み』って。また室長に頼まないといけないようなことなら僕から伝えておくから」

 「お兄。お兄、お兄お兄お兄? 小唄ちゃんはお兄に頼みごとをしてるんだよ? ヴィクトリアさんに頼みたいことなら直接頼むよ。そんなこともわからないのかね、お兄」

 得意げな顔だ。むかつく。

 が、言われてみたら確かにそうだ。小唄は室長に直接的にコンタクトを取れるのだから、わざわざ僕に仲介してもらう必要性は低い。

 となれば、今回の『頼み』とやらは直接僕に交渉しないといけないような事態であると推察できる。

 あまり聞きたくはない。『怪』絡みの事件ならば無視すれば室長にぶっ飛ばされる可能性が発生してしまうけど、今回はそうじゃないみたいだし。冬休みの妖刀絡による一連の事件によって僕はとても疲弊しているんだ。三学期中はだらけていたい。

 「小唄」

 「なになにお兄? 小唄ちゃんの余りのかわいさ余ってかわいさ一〇〇倍のプリティフェイスに見とれちゃったのかな? それとも小唄ちゃんの天使にも匹敵するどころか天国の聖歌隊さえも泣いて教えを請うぐらいのキューティーボイスに魅了された? ああもう、しょうがないなぁ~。お兄には特別に小唄ちゃんの半径一〇メートル圏内に存在してもいい権利を進呈しちゃおう。大サービスだねこれは」

 「断る」

 なんでこの妹は呼びかけられただけで、これだけの不必要な語句を紡(つむ)ぎ出すのか不思議に思うのだけど、僕は単調直入に伝える。めんどいことは嫌だ。

 「ん? お兄、ちょっと小唄ちゃんは突発性難聴に罹(かか)ってしまったか、お兄があんまりにも馬鹿なことを言ったせいで脳の処理が追いついてないよ。だからもう一度言ってくれない?」

 「……断る」

 「やっぱり聞こえないなぁ~。小唄ちゃんのお耳に聞こえるようにもう一回」

 ……こいつ。あくまでも不都合な事実からは目を背(そむ)けて押し通す気だな。

 耳に手を添えて「早く言ってくれないかな~」みたいな表情で小唄は僕に顔を近づける。

 その耳を引っ張ってやろうかと思いもしたのだけど、ふと気がついた。

 小唄が耳に沿えてない側の手、その手が持っているものに。

 見覚えがある。

 それは僕の本棚、しかも他の本によって絶対に見えない場所に隠されているはずの物体だった。何度も何度も探索された場合をシミュレーションして、熟考に熟考を重ねて決定した隠し場所にしまわれているはずの物体だった。

 エロ本っ……!

 雑誌サイズじゃあないから小唄の小さな手にも収まってしまっているのだけど、多少変形してしまっているのはやむを得まい。いやいや、そういうことじゃない!

 なんで! こいつ! 僕の秘蔵本を持ってやがる⁉

 これは……まずい。

 何がまずいって具体的にはわからないのだけど、よろしくないということぐらいは本能的に察知する。なんというか、男の本能的に。

 「ん? お兄どうしたの? この小唄ちゃんが持っている本に興味があるの? これはね、お兄の部屋で発掘したお宝なんだけど、小唄ちゃんには価値がわからない物体なんだよね。だけど、もしお兄が小唄ちゃんのお願いを袖にするような愚行に出るなら小唄ちゃんはこれを家族会議の場で証拠物件として提出することもさない構えだよ。罪状は男の子なんだからえっちなのはわかるけどまだ早いよね罪」

 絶対にわかってて言ってやがるこの悪魔みてえな妹!

 まずいまずいまずいまずいっ! 僕の……こう……アレが家族の目にさらされてしまうというのは非常にまずい。羞恥しゅうちしんで僕は自殺しかねない。っていうか、妹に知られてしまった時点でかなり致命傷に近い気はするのだけど。

 しかし、小唄ならどうにかなる。

 こいつは情報の価値を知っているタイプの人間だ。

 我が妹ながら恐ろしいことだけど、おおよそこの町の中高生の事情については小唄が掴んでいない情報のほうが少ないという噂まで聞いたことがある。

 情報の価値を知っているということは、取引の仕方も知っているということだ。

 あまりにも理不尽な取引を何度も繰り返してしまったらそれは確実に反感を招く。そしてそれは、自分自身への報復として襲ってくるというのもわかっているだろう。

 一つの情報で取引できるのは一回が相場。

 なればこそ、今までの力押しにもほどがある攻め方にも合点がいく。

 始めから僕には選択肢は一つしか無かったのだ。

 小唄の頼みを聞いて、エロ本の事を両親に黙っていてもらうという道しかっ!

 妹にやんわり脅迫される兄というのはどうなのだろうか、とか、こいつは将来絶対ろくな大人にならないだろうなぁ、とか色々と思うことはあったのだけど、僕は実利を取った。見栄を取った。人として大事な何かを捨てた。

 「『お願い』とやらを聞いてやるからその本を僕に返して今後一切それに対して触れるな」

 「うわーい! やったー! うれしー! さっすがお兄。小唄ちゃんの兄(あに)なだけはあるね。話がわかるぅ。まあ、頼みは簡単だよ。ちょっとお兄のことが気になる女子がいるから明日デートしてあげて。別に振ろうが、笠酒寄さんを振って付き合おうが二股かけようが自由なんだけど、とりあえずはデートしてあげて。明日の午前十時にうちに来るって。そんじゃ」

 「待てこら」

 ブツを押しつけて去って行こうとする小唄の襟首を捕まえる。

 「なぁに? これから小唄ちゃんは全国魔性の妹コンテストに出場するための提出書類を書くために、部屋に籠もっておしゃべりするんだから邪魔しないでよね」

 「べらべらと嘘を並べ立てるんじゃない。……そうじゃなくて、僕が気になる女子?」

 「そう。男子じゃなくてよかったね」

 「……いや、まあ、そうだけど。……そうじゃなくて! ……誰だよ」

 「佐奈平心優ちゃん」

 「……誰だっけ?」

 僕は本気で忘れていた。

 妖刀関連で強烈な刺激を受け続けてしまったせいだと思いたい。そうじゃなければ、彼女の強烈な印象を忘れるはずもない。

 『怪』を生み出してしまった少女の事なんて。


 3


 翌日、午前十時。土曜日。

 僕は自宅の前で待機していた。

 佐奈平心優ちゃん。二口女ふたくちおんなという『怪』を生み出してしまった少女。

 真相としては、彼女の友達の体臭に耐えかねてのストレスからくるモノだったのだけど、その解決後に堂々と僕に好意を伝えてきた。

 結局、何度か笠酒寄と衝突してからは音沙汰がなくなってしまっていたので、てっきり諦めたものだとばかり思っていたのだけど、それは大いなる勘違いだったらしい。

 いや、筋違いか。

 彼女が僕なんぞに惚れる道理はない。

 僕はただ単に室長の使いっ走りとして動いただけなのだから。彼女は自分で自分の『怪』と向き合っただけの話だ。向かい合える程度の『怪』だった、とも言えるのだけど。

 だから、僕に感謝するよりも自分自身に感謝すべきなんだ。僕や室長はただ手助けしただけ。二口女を解決したのは彼女自身なのだから。

 「おはようございます、コダマ先輩」

 どうやら少しばかり思考に集中しすぎてしまったらしい。不意を突かれた。

 「……おはよう佐奈平君」

 彼女の接近に気付かなかった。相手が妖刀だったらすでに僕は真っ二つになっていただろう。

 そういう僕のほうの事情は知ってはいないだろう。僕が彼女の考えを全く読めないでいるように。

 「佐奈平君、なんて距離のある呼び方じゃなくて、心優、って呼んでください」

 微笑む佐奈平君は見た目だけならば可愛らしいといえるだろう。だけど、発言の内容が問題すぎる。大して知ってもいないのに女子を呼び捨てで、しかも名前を、なんてことは僕にはできない。ののしりたければ罵るといい。僕は童貞野郎なのだ。

 「いや、それは遠慮しとくよ。女子の名前を呼んでしまうことに非常に抵抗があるし、なにより僕は未だに彼女のことも名字で呼んでるぐらいだしね」

 一応は牽制けんせい。知ってはいるだろうけど、一応。

 「……そう、ですか。まだ笠酒寄さんとは別れてないんですね」

 怖っ! この子怖っ! なんだこの昼ドラみたいな台詞⁉ こんなの僕は一生聞くことがないと思っていたのに簡単にくつがえしてきた。

 背筋に冷たいモノが流れる。……果たして僕は無事に『デート』を完遂できるのだろうか。

 疑問だ。三対七ぐらいの割合でヤバいことになりそう。もちろん、『なる』確率が七だ。

 「さ、彼女さんの事は忘れて“デート”に行きましょう。わたしと先輩の二人だけで。……一日中二人っきりで」

 「……夜までには解放して欲しいな」

 「それは先輩次第ですよ。ふふっ」

 なんとも嗜虐しぎゃく心にあふれる笑みを浮かべて佐奈平君は笑う。

 なぜ僕は年下の女子に攻められるような事態になってしまっているのだろう。

 そんな疑問を抱きつつも、佐奈平君に手を引かれて僕は歩き出した。

 目的地は、知らない。っていうか教えてくれそうにない。

 



 「先輩、知ってますか? 人間にはパーソナルスペースっていうモノがあるんですよ」

 「聞いたことがあるようなないような……。それがどうかしたの?」

 「パーソナルスペースには三種類あります。他人の距離、友達の距離、そして恋人の距離。後になるほど接近してる状態なんですよ。でも、実はこのスペースは様々な条件下で変動するんです。例えとして出すならエレベータですね。あの狭い密室の中に人が何人もいたらそれぞれの距離は非常に近い物になるんですけど、そこまで不快感をあらわにする人はいないでしょう?」

 たしかに。個人差があるのかもしれないけど、エレベータ内部で他の人が乗り合わせても『それがどうした』という感じだ。閉じられた箱という状況下ゆえに許容できる距離が狭まっているということか。

 これが、例えばだだっ広い体育館に二人という状況下において、息づかいがわかるほどの距離まで接近されてしまうと……確かに不快だ。っていうか、僕のほうから離れるだろう。

 「なるほどね。で、その豆知識がどうしたの?」

 「今、わたしと先輩はその恋人の距離にいます。お互いに腕が届く距離、それが恋人の距離なんですよ」

 現在、僕と佐奈平君は電車に乗っている。

 端に座った僕の隣に佐奈平君が座っているので、自然と肩が触れそうになるぐらいの距離だ。

 なるほど、これが恋人の距離か。

 「いや、別に佐奈平君が隣に座ったから自然とこうなるわけだからね? その理論でいくと、僕はおっさんが隣に座っても恋人の距離を許していることになるじゃないか」

 「まあそうなんですけど。もう一つ面白い豆知識があるんですよ、このパーソナルスペースには」

 聞かないほうが良さそうだけど、それを開陳かいちんするのを阻止したところで現実は変化しないし、佐奈平君が手加減してくれるということもないだろう。ゆえに、僕はテキトーに流すことにした。気分は波に揺られるクラゲ。女子に対する処世術というヤツだ。決して僕がヘタレなわけじゃない。じゃないったらじゃない。

 「へー。物知りだね」

 「人間は慣れてしまうんです。本来ならば存在を許容できないスペースでも。そして、慣れてしまうと今度は誤認を起こしてしまうんです。本来ならば『友達』のカテゴリにない人物でも、友達のスペースにいつもいると、友達だと認識してしまう。そういう風に人間っていい加減なんです。いつも一緒にいる人っていつの間にか仲良くなってしまいませんか? 仲間意識とか言ったりもするんですけど」

 心当たりはある。

 高校に入学してからずっと隣の席の五里(塚ごりづか。あいつとはいつの間にか軽口を叩くような間柄になっている。何かしらのきっかけがあったとかじゃなくて、自然とそうなってしまったのだ。

 「心当たりはあるし、納得も出来る。だけど、佐奈平君の言いたいことがわからないな。女子と男子では会話の目的が違うっていうのは僕もなんとなく感じているところなんだけど、そういうことなのかな?」

 男にとって会話とは手段だけど、女にとって会話は目的。

 おしゃべりすることそのものが目的。

 室長なんかと接していると今一つ実感が薄いのだけど、なんの終着点もなく会話を続けている小唄あたりを見ていると得心とくしんがいく。

 結局、彼女達はしゃべっているのが一番楽しいのだ。僕にはちょっと理解しがたい感覚だけど。

 だから、佐奈平君も僕とおしゃべりするために、こんなどうでもいい豆知識を披露してくれているのかと推測した。会話の枕は一番難しい。切り出すには勇気がいるし、維持するには根気がいる。

 「違いますよ。わたしは言いたいのは……今日一日ずっと恋人の距離にいたら、コダマ先輩はわたしのことを好きになっちゃうっていうことですよ」

 思わず佐奈平君のほうを向いてしまった僕は、そのオニキスのような瞳を直視することになってしまった。

 吸い込まれそうになるぐらいに深い深い黒の瞳。

 室長の蒼とは違う、日本人にはありふれているはずの黒い瞳。 

 だけど、わずか数十センチの距離にある二つの宝石はきらきらと光を放っているように見えた。

  

 4


 「さあ先輩。『デート』はここから始まりますよ。わたしと先輩の第一歩ですね」

 それを肯定してしまうと、僕はかなりまずい状態になりそうだったので否定も肯定もしない。

 ただただ佐奈平君が喋るがままに任せている。下手につつくと爆発するような危険物には

放置するという選択がベストではないだろうけど、ベターだ。

 「さあ行きましょう。二人の桃源郷に」

 「うん、普通のショッピングモールだから変な名前つけないでくれる? 多分オーナーさんたちもすっげー迷惑だからさ」

 「何を言ってるんですか? わたしに命名されることを至上の幸福として捉えるぐらいの境地に達してもらわないといけません。だって、想定している呼び方を変更するっていうことは愛着を持っているからなんですよ。だから、感謝すべきなんです。まだショッピングモールと呼ばれているこの場所は。数年後には名前が変更されている予定ですし」

 ……オーナーにでもなるつもりなのだろうか、この子は。

 なんとなく、この子が小唄に頼み事をできた理由が段々とわかってきた気がする。

 天上天下唯我独尊。ゴーイングマイウェイ。エゴイスト。

 しかしながら、どこか人を惹きつける。あり得ないほどの自己中心さと、それを支えるだけの自信と、能力。そういったたぐいの存在だ。

 そして、類は友を呼ぶ。

 小唄にとって、自分と同じカテゴリの人間っていうのは珍しかったのだろう。二つ返事で頼みを聞いたのが想像できる。

 思いっきり当事者である僕にはめちゃくちゃ大事なんだけど。

 「……佐奈平君の未来計画は脇に置いておくとして、行こうか。ここでおしゃべりしててもしょうが無い」

 「そうですね。若い内の時間の価値は黄金にさえも匹敵するという名言もありますからね」

 「へえ、そんなの言った人がいるんだ」

 「今わたしが言いました」

 「……そう」

 完全に向こうのペースになってしまっている。

 年下の女子(しかも中学生)にてのひらの上で転がされている高校生男子っていうのは嫌だなあ。現在の僕のことなんだけど。

 執拗に僕の手を握ってこようとする佐奈平君の手を躱しながら僕達はショッピングモールに入っていった。




 「はい、先輩。あーん」

 「……人目があるから止めてくれないかな、っていうか僕と君はそういう関係じゃないし、そもそもそれは人に食べさせるタイプの代物じゃないと思うな。液体だけどさ」

 フードコート。色々な店舗が入っているからちょっとした空腹を満たすにはちょうどいい。

 ちょっと冷えたので何か飲もうと思って入店し、受け取って席についてからの速攻だ。

 ちなみに、今僕の目の前に差し出されているのは佐奈平君が注文したホットコーヒー。紙コップに入っている黒い液体は湯気を立てている。

 僕の手にもホットコーヒー。つまり、自分が飲む分はしっかりと確保しているのだ。この状態でなぜ僕は佐奈平君が注文したコーヒーを飲まないといけないのか? 

 「え? わたしのコーヒー飲みたくないんですか? 本心から言っているならちょっとまずいかも知れませんよ先輩」

 「え、なに? 君の勧めるコーヒーってそんなに重大なやつだっけ?」

 「そうですよ。だって、未来の彼女の勧めるコーヒーなんですから。直接キスはちょっと気恥ずかしいので、最初は間接キスからいきましょう。順序は大切ですからね。あんまり一足飛びにやってしまうと事をし損じます」

 「うん、君が僕の彼女になる予定はないよね? うん」

 「わたしはすでにそういう予定にしています」

 聞いてねー。二重の意味で。

 僕の話を聞くつもりもないし、君の未来計画も聞いていない。

 目の前に差し出されたコーヒーは微動だにしていない。まるで僕が口をつけるまでこの場所から動かないと主張しているかのようだ。

 ……困った。飲めば既成事実が、飲まなければこのまま気まずい状態が続く。

 「僕のと交換する?」

 「いえ、わたしはコダマ先輩が口をつけたコーヒーを飲みたいんです。そこをはき違えないでください。常にわたしは自己の主張に迷いはありません」

 まっすぐな瞳は本当に迷いがない。

 『いいから口をつけろ』と押し迫ってくる。生来押しが弱い僕としてはこのまま押し切られてしまうのは想像に難くない。

 「さあどうぞ。コーヒーは熱いうちに飲むのがいいんですよ。コダマ先輩が飲んでくれないといつまで経ってもわたしが飲めないじゃないですか。わたしにぬるいコーヒーを飲めと?」

 言ってねえ。とっとと飲み干したら良いじゃないか。

 は、と気付く。

 そうだ。これをとっとと飲み干してしまったらいいんだ。そしたら佐奈平君は口をつける理由がなくなる。

 ふっ、多少は頭が回るみたいだけど、所詮は中学生。やはり考えが浅い。

 「ああ、先輩。飲み干してしまったらわたしはもう一杯注文してきます。わたしの計画が実行されるまで。例え先輩がギブアップしても同じ事です。むしろギブアップしてからが本番ですから」

 ……どうやら、大分思い詰めていらっしゃるようだ。この女の子は。

 これは、もう、やるしかないのか? 『はい』が選択されるまで延々と同じ会話を繰り返すゲームのキャラなのか、君は。

 くっ……そろそろ注目を集めてしまいそうになっている。当然だろう。身を乗り出してコーヒーを差し出している女子と一向にそれを飲もうとしない男子。端から見たらこれほど奇妙な状態はない。

 まさか僕の方にはすでに別の彼女がいるという事情まで推察できるヤツがいたら出てきて欲しい。なんの役にもたたないだろうけど。

 「……ぬ……くっ……」

 「変な声上げてないで男らしく行きましょう。さあ」

 ずい、っと更にコーヒーが僕の口元に近づく。

 「あ、空木くーん、やっほー。奇遇ぅ。空木君も遊びに来てたの? ここいいよねー。割となんでもあるし、時間つぶし……に、は……」

 後ろから聞こえたその脳天気そうな声は、現状一番聞きたい声だったかも知れないし、聞きたくない声だったのかも知れない。しかし、聞こえたのは事実だ。

 そして、最後のほうで段々と声が低音へと変わっていったのは、正直に恐ろしい。

 「……なんで、なんで空木君が彼女のわたしを差し置いて佐奈平さんと一緒にいるの? ねぇ、教えて、うつぎくん」

 「あら、これは奇遇ですね、笠酒寄先輩。空木先輩はわたしと『デート』に来ているんですよ。邪魔しないでくれますか? 理解してくださったらうれしいです。理解してくださらないなら実力行使に出ます」

 開戦からの激突は避けられたみたいだったのだけど、すでに僕が介入してどうにかなるレベルの決裂ぶりではなかった。

 下手をすれば、血を見る羽目になる。

 後ろを見る。

 スカート姿の笠酒寄がいた。

 口は笑っているのだけど、目が笑っていない。

 「ねぇ、空木君。どういうこと?」

 その瞳の奥に、僕は人狼の姿を見た。


 5

 

 とっとと事情を説明すべきか、それともこの場限りのごまかしに走るか、もしくは「やってらんねぇよ!」と叫びながらこの場から全力逃走を図るか。

 一瞬で浮かんだのは主にその三択だったのだけど、全力逃走は却下。佐奈平君と笠酒寄のバトルが僕なしで勃発ぼっぱつしてしまう。大惨事だ。

 そして、ごまかしも却下。バレたらどうなるからわからない上に、佐奈平君という名の不確定要素が大きい。ほんの小さなほころびからどういう方向に転がってしまうのかわからない。

 十分後には僕が佐奈平君と生き別れの兄妹であるという話になってしまっても不思議じゃない。 

 よって、僕が選択したのは一番最初に思いつき、そして最善だと思われる選択肢だった。

 正直に限る。

 「小唄から頼まれて、さ。佐奈平君と一緒に遊びに行くことになったんだよ」

 「違いますよ、空木先輩。わたし達は『デート』に来ているんですよ。恋人達の甘い蜜月の時間、親愛なる二人によるひとときの逢瀬おうせ。そういう状態なんです。物事は正確に、そして迅速に説明してください。特に笠酒寄先輩に対してはそういう対応が望ましいと思いますけど」

 割り込んできた佐奈平君によって、事態はより一層混迷を深くした。

 一言でここまで事態を厄介に出来るのは、最早才能とか、努力とかいう次元を超越しているような気がするんだけど、どうだろうか?

 「でぇと? 空木君が? 佐奈平さんと? なんで? わたしも何回かぐらいしかしてないのに?」

 怖い怖い怖い怖い。

 普段はやかましいぐらいのテンションの笠酒寄が抑揚のない口調でしゃべるとこんなに恐怖を感じるのか。人のギャップって怖いな。

 「待て待て待て待て。佐奈平君と僕では現状認識に隔(へだ)たりがあるんだよ。僕は単に一緒に遊びに来ている程度の認識なんだけど、佐奈平君は違うというか、そのへんが今回のややこしさというか……」

 必死に弁解しようとする僕にはまったく気を払う様子を見せずに笠酒寄は空いている席に座る。四人掛けなのであと一人分は空いているのだけど、好き好んで座る人間はいないだろう。こんな修羅場真っ只中に。

 「小唄ちゃんの頼みで、なんで空木君が佐奈平さんとデートしてるの? なんでわたしに言っておいてくれなかったの?」

 やべー。怒ってらっしゃる。これは確実に怒ってらっしゃる。

 下手な申し開きは人狼パンチどころか人狼キックに人狼タックル、そして最後に僕は八つ裂きにされてしまうことだろう。

 ぐ、と腹のあたりに力を込める。負けないように、ヘタレないように。

 「笠酒寄」

 「なに?」

 ご機嫌斜めなのは先刻承知の上だ。そのうえで機嫌を直してもらうにはどうしたいいのか? これまでの人生経験をフル活用するしかない。

 真っすぐに僕は笠酒寄と視線を合わせる。

 「お前に事情を説明してなかったのは僕のミスだ。悪かった。反省してる。どんなに傷つくか、なんてことはちょっと考えればわかることだったのにな。ごめん」

 頭を下げる。

 とはいっても座っている状態なのでそこまで下がることはないんだけど、『しっかり謝罪の意を示す』というのが重要なのだ。

 笠酒寄はなにも言わない。

 「もっとお前のことを考えてやればよかったのに、僕はそれをできてなかった。これからはもうちょっと考えるからさ。機嫌を直してくれないかな?」

 「……空木君はさ、わたしとデートしたくないの?」

 ……そうきたか。いやまあ、僕もあまり外出するよりも引きこもっている方が性に合っているほうだからあまり笠酒寄と一緒に遊んだという事実はない。

 だからこそ今、笠酒寄はへそを曲げているんだろうけど。

 「今度デートしよう」

 「今度っていつ?」

 「……次の週末にでも。それでどうでしょうか、お嬢さま」

 「……うん」

 ……くっはぁ。あっぶね。何とか正解だったみたいだ。

 これで失敗していたら僕の命さえも危うかったに違いない。

 「お二人とも、誰かを忘れていませんか?」

 ……どうやら次は佐奈平君の手番らしい。

 にこにこと笑顔を浮かべてはいるものの、やはり目が笑っていない。

 「まず笠酒寄先輩。次のデートはありません。なぜならば、次の週末にはコダマ先輩はわたしの彼氏になっているんですから。他人の彼氏とデートすることを笠酒寄先輩はよしとするんですか?」

 爆弾放り込むんじゃねえ! 宣戦布告どころか、先制攻撃じゃねえか!

 だけど、笠酒寄も負けていない。

 「それを言うなら佐奈平さんも人の彼氏とデートしてるのはどうなの? 現在の空木君はわたしの彼氏なんだけど」

 「わたしは別に人の彼氏だろうが夫だろうが、デートしたい人とデートするんです。やりたいように、したいように。そして、そのためには手段を選びません。そういう人間ですから」

 そこまで言い切れるのは、あまりにも人間性が欠如しているような気がするのだけど、佐奈平君が言うと変な説得力があるのはなぜだろう。すでに彼女の無茶苦茶ぶりを僕が多少知っているという面もあるのだろうけど。

 「ちょっと身勝手過ぎない? 空木君にも空木君の事情があるんだと思うんだけど。それに他人はダメだけど、自分はいい、っていうのはダブルスタンダードじゃない?」

 「こういう言葉を知っていますか、先輩。『人は人、自分は自分』」

 「自分勝手って言うんだよ、そういうの」

 「他人からの評価に興味がないので。わたしは自分の評価を自分で下すタイプなんですよ。だって、馬鹿らしいじゃないですか。なんで他人が定めた基準で評点をつけられないといけないんですか? 結局、それは自分の方が優れているという優越感に浸りたいだけのつまらないプライドだと思いますけど? 他人に点数をつけるって楽しいですからね」

 どろっどろだ。すでに戦線は混迷を極めている。

 講和は難しい。両軍引くことはできず、かと言って突撃しても目標(僕だ)の奪取には慎重にならざるを得ない。

 じりじりとお互いに戦力を削ぎ落して、決定的な一打を放つ機をうかがっている。

 巻き込まれている僕にはたまったものじゃないけど。

 「空木君はわたしの彼氏なんだから手を出さないで」

 「恋愛の自由は保障されていると思うんですけど。それともなんですか、笠酒寄先輩はこうおっしゃるわけですか? 『空木コダマはわたしのモノだ』、と。それはあまりにも傲慢ごうまん……というか、コダマ先輩の自由意志を完全にないがしろにしている考えだと思います」

 両者全く引く気はないらしい。

 二人とも声を荒げることはないが、冷たい怒気が店内に充満していくのがわかる。さっきからほかのお客さんからの視線が痛い。ちらちらと店員さんたちの視線も刺さってくる。

 「空木君がどうとかじゃなくて、人の彼氏にちょっかいださないで」

 「堂々巡りですね。もうちょっと論理的に話をされてみたらどうですか?」

 あ、だめだこれ。決着がつかないヤツだ。このままここでうだうだ言っててもしょうがない。

 僕は一気に持っていたコーヒーを飲み干す。

 そして、わざと二人にも聞こえるような音を立ててテーブルに置く。

 反射的に振り向いた二人の顔を見て、注目を集めることには成功したのを確信する。

 千載一遇のこのチャンス! 逃してたまるか!

 「二人とも。このままここで言い合ってもしょうがないだろ? ちょっと歩きながら話そう。こういう時には気分転換してみるもんだ」

 声が震えなかったことを自分でほめてやりたい。

 笠酒寄も、佐奈平君もしばらく自分の持っているコーヒーを眺めていたが、ほとんど同時に一気に空ける。

 「わかりました。そうしましょうコダマ先輩。わたしのほうが笠酒寄先輩よりも彼女にふさわしいということを証明して見せます」

 「わかった空木君。三人でデートだね」

 ……いろいろと言いたいことはあったのだけど、今だけはぐっと飲み込んで僕は席を立つ。

 二人も一緒についてくる。

 「で、だ。二人ともどこに行ってみたい? 両者の意見を踏まえて検討しよう」

 「ここです」「ここ」

 二人が指さしたのは案内板の一か所だった。

 それなりに有名な、女性服の専門店だった。

 そして、時計の針は冒頭へと追い付く。


 6


 「じゃあ空木君待っててね。次の着てくるから」

 「では空木先輩。少しお待ちください。わたしと笠酒寄先輩の違いを今度こそはっきりさせますから」

 両者試着室に入場。

 ほんのひととき、僕は安息を得る。

 最初はそれぞれに入ろうとしていたのだけど、試着している間に相手がちょっかいかけ放題だということに気付いた二人はどちらからともなく同時に試着するという結論に達していた。

 助かる。正直、笠酒寄は試着室から飛び出してきかねないのだから。

 しかし、なぜ女子の買い物っていうのはこうも時間がかかるのだろうか。これで五回目の試着だ。

 その上、一回一回の試着にも時間がかかる。 

 いや、そりゃあ色々と事情はあるのだろうけど、それを僕に全部察してくれって言うのは無体じゃないか? サイズさえ合っていればいいようなタイプの人間にそういう何度も何度も試着して、その上で買わないっていう行動を理解するのは難しい。

 つらつらとそんなことを考えていると、二つの試着室のカーテンが同時に開く。

 ……お前ら実は仲いいんじゃないのか? 

 「どう? 似合う?」

 笠酒寄は全体的に白のコーディネート。真っ白なカーディガンとロングのスカートで暖かそうだ。……ついでにねこみみみたいな帽子を被っているのは突っ込むべきか。

「どうでしょうか? 似合います?」

 佐奈平君は対照的に黒っぽいコーディネート。皮のジャケットとパンツが似合う中学生っていうのはどうかと思うのだけど、怜悧な彼女の風貌(ふうぼう)に異常にマッチしている。

 静と動、柔と剛、光と闇。そういう対照的な二人。

 甲乙つけがたい。そもそものコンセプトが違うのだから当然なのだろうけど。

 それでも感想ぐらいは言わないと失礼だろう。

 「うん、二人とも似合ってる」

 「……引き分け」「……引き分けですね」

 これで五度目の引き分けになる。僕もどうやったら勝敗が決するのかわからないし、二人も実はわかっていないんじゃないかと思う。

 「いや、そろそろ僕も限界なんだけど」

 ぽつりと心情を吐露する。

 「限界? なぜですかコダマ先輩。今は女の決戦の最中なんです。この勝敗如何いかんによっては人生の勝者と敗者に分かれるといっても過言ではありませんよ」

 僕の彼女になることがそこまで大事だとは全然思えない。むしろ、他のことに労力を費やした方がいくらかは生産的だと思う。

 「……空木君、やっぱり……目立つから?」

 そうだよ。

 女性向け服飾店に未成年とは言え、男がいる。

 この状況で人目を引かなかったら、そっちのほうがおかしい。

 現にさっきから僕は浮きまくっている。

 他の女性客たちは僕にちらちら視線を送ってくるし、店員さんさえもどこか不審げな様子だ。このままだと近いうちに通報されるんじゃないかと気弱な僕は戦々恐々としている。

 とどめのように、さっきから試着しまくっている笠酒寄と佐奈平君。

 どうも、第三者から見てみたら、僕がこの二人に競わせて楽しんでいる、という風に見えないこともないらしい。

 時折、『あの男サイテー』という感じの刺々しい視線が混じっている。更に言うのならば、その割合は上昇傾向を見せている。

 針のむしろになるときも近い。

 なぜ僕がそんな責め苦を受けないといけないのだろう。僕はただ自分の名誉を守るために妹の頼みを聞いただけなのに。

 ああ、神がいるのならば出てくるといい。今ならばきっと最高の右ストレートを叩き込めるはずだから。そしてできれば感想も聞かせてほしい。今の僕がどれだけの不満を抱えているのかわかるはずだから。

 「おーい、空木君?」

 笠酒寄の呼びかけによって我に返る。

 咳ばらいを一つ。

 「……そもそもだ。僕が付き合ってるのは笠酒寄なんだから、佐奈平君はどうこう口出しすることじゃないと思うんだ」

 いい加減に僕も嫌気がさしていた。

 元々、乗り気じゃない頼みだったのに、ここまで疲れるとは思っていなかったのもある。

 「コダマ先輩。わたしはあなたを手に入れるためならば、多少の労苦どころか、多大な犠牲もいとわない女ですよ」

 だから……もうっ!

 「……とにかく、一旦ここから出よう。いい加減にしないと営業妨害で訴えられそうだ」

 「わかりました」「わかった」

 こういう時だけは素直な二人だ。

 



 場所を移して現在地は再び食事処。

 しかしながら、先ほどのフードコートとは違う点もある。

 個室だ。

 本来ならば僕たちのような一学生程度がおいそれとは利用できないが、百怪対策室でバイトしている僕はそれなりに資金がある。

 正直、痛い出費ではあるのだけど、奇異の視線を受け続けることに比べたら幾分かはマシだ。

 そう考えないとやってられない。

 「さ、て。じゃあそろそろ話をつけよう佐奈平君」

 向かいには佐奈平君。笠酒寄はどこにいるのかというと、僕の隣だ。

 佐奈平君は大層不満そうだったけど、なんとか説得できた。

 「話? コダマ先輩が笠酒寄先輩と別れて、わたしの彼氏になってくれたら話はそれで終了です。それ以外にこの話の終焉はありません」

 真っすぐに背筋を伸ばした姿勢で佐奈平君は頑として譲らない姿勢だ。

 だけど、本当は彼女もわかっているんじゃないだろうか? 聡明な彼女ならばわかっているはずなんだ。自分がどれだけ無理強いをしているのかを。僕からどれだけの反感を買っているのかを。そして、自分がどれだけ駄々をこねているのかを。

 多少先に生まれた程度の僕でしかないけれど、それを断ち切ってあげるぐらいの先輩風を吹かせてもいいだろう。例え僕が恨まれることになろうとも。そういう感情を向けられてしまうのは慣れてしまった。それに、彼女ならばそのうちに気付くはずだ。

 息を吸って、吐く。

 あんまり気は進まない。だけど、ショック療法というか、ある程度の刺激は必要になってる。

 「……笠酒寄、ちょっとこっち向いてくれ」

 静かに、なるべく佐奈平君を今は刺激しないように。

 「え? うん」

 素直に向いてくれるのは助かる。

 「目をつぶってくれ」

 「うん……って、えぇぇ⁉」

 これから行われる行為に予想がついたらしい笠酒寄は大げさに驚いてくれるけど、僕は表情を崩さない。本気であることを伝える。

 「…………わかった」

 おずおずといった様子で笠酒寄が目を閉じる。

 睫毛まつげが震えているのがわかる。

緊張しているのか、少しだけ開いた口も震えている。

 僕は、そんな笠酒寄の後頭部に手を添える。

 ゆっくり、ゆっくりと笠酒寄の唇が迫る。

 触れあう直前、僕も目を閉じる。

 緊張のせいか、以前より少しだけ固い感触だったけど、確かにそれはキスだった。

 一秒、二秒、三秒……。

 大体十秒ほど。

 だけど、唇を離した瞬間に目を開いた僕には、きらきらと輝きを放つ笠酒寄の瞳が見えた。

 ふぅ。

 「わかってくれたかな。僕は笠酒寄と付き合ってるし、好き合ってる。それに対して疑問を抱くような状態じゃないし、そこにちょっかいをかけてくるっていうんなら、僕は君と敵対してもいい。いや、むしろ積極的に戦う」

 佐奈平君は何も言わない。

 ただ、静かな目で僕の視線を受けているだけだ。

 姿勢は全く崩れていないのだけど、なぜかその姿は少しだけ縮んでしまっているかのように見える。

 沈黙。 

 僕から言うことはもう、ない。あとは佐奈平君がちゃんと受け止めてくれるかどうかにかかってくる。これでもダメならば、室長辺りに頼むしかないのだろうけど、それは最終手段にしておきたい。

 「……わたしは、コダマ先輩が好きです」

 それは、今まで聞いたことがないぐらいに小さな佐奈平君の声だった。

 あれほど闊達かったつにしゃべっていた女の子とは思えないぐらいに。

 だけど、それは横恋慕になるんだよ。君には僕よりもいい男はいくらでも現れる。

 「その好意はうれしい。だけど、僕は君と付き合えない。笠酒寄がいるから。彼女が大事だから。そして、二人でいる時間が大切だから」

 逆切れされる、はたかれる、なじられる、色々と想定してみるけど、僕が無傷で終わるエンドは存在しそうもない。

 まあ、多少の傷は覚悟の上だ。

 今までの『怪』絡みで色々と経験してきた僕なら、どうにかなるだろう。

 「……初めて……人を好きになりました。……初……恋だ、だった、んです」

 とぎれとぎれだけど、それでも泣き出さないのは立派だと思った。

 「わた、し。わたし……今まで、誰にも言え、言えないぐらいに……悩んでて。で、でも、コダマ先輩は、それを解決してくれて。う、うれしくって……好きになっちゃって……わたし、自分でも何をしているのか……」

 ああそうか。僕がこの子に対して今まで強く拒絶できなかった理由がわかった。

 この子は境遇が笠酒寄に似ているんだ。

 狼の呪いに苦しんでいた笠酒寄と、自分のストレスに支配されてしまった少女。

 似ている。違いは僕に出会った順番。

 だけど、それは決定的な違い。

 残酷かもしれないけど、最初かそうでないかの違いっていうのは大きい。

 もし、出会ったのが先だったのならば、僕が付き合っていたのは佐奈平君だったのかもしれない。

 でも、とか、もしもの話をしてもしょうが無いのはわかっているのだけど考えてしまう。 

 それでも、僕は笠酒寄を選ぶのかも知れないけど。

 僕っていう人間はなんともあやふやで、曖昧あいまいで、そしていい加減だ。だから、告白された順番なんてもので結果が変わってしまうのだろうけど、それでいいと思う。

 人間なんてそんなもんだ。

 「君が僕に好意を寄せてくれたっていうのは素直にうれしいんだ。だけど、僕には譲れないものがある。本当にごめん。悪いのは僕だ。恨んでくれて構わないし、好き放題に言って言い。だけど、諦めてくれ」

 痛いのは僕の心か、それとも佐奈平君か。いやいや、もしかしたら笠酒寄が一番傷ついている可能性だってあるじゃないか。

 「…………ぅ、……ぅぅぅううううあああああぁぁぁぁぁぁぁん!」

 恥も外聞も無く、号泣しだす佐奈平君だったのけど、どこか憑きものが落ちたようにすっきりしているように見えたのは、僕の勘違いだろうか。


 7


 「それで、モテモテの空木コダマはどうしたんだ? 女子を泣かせてしまうだなんて、とんだドン・ファンだな。いつの間にそんないい男になったんだ? いやいや、この場合は悪い男とでも言った方が正確か? どっちにしろ、意味合いは似ているようなもんだから問題ないな。女子を泣かせてしまったんだから。やーい、泣かせてやんのー」


 全然違うだろ、と突っ込みたい。

 百怪対策室内、応接室。

 いつものようにいつものごとく室長は定位置のソファでタバコを咥えている。

 火だけは点いていなかったのだけど、フルーツのような香りが部屋中に満ちている。

 「どうしたもこうしたも……佐奈平君は一通り泣いたら自分で帰りましたよ。僕達に気を使ってくれたんじゃないですかね」

 「コダマ、キミは女心がわかってないなぁ」

 そりゃそうなんだけど、そして確かに室長は女性なんだろうけど、言いたい。すごく言いたい。

 (アンタに言われる筋合いはねえ!)

 反撃が怖いので言わないけど。この、人をからかうことには常に全力全開の吸血鬼には絶対に言われたくない。アンタは女心どころか人の心があるのかどうかさえも怪しいじゃないか。

 「結局、自分が勝手に思慕しぼを寄せているだけで、相手は大層迷惑していた。そういうのはかなり堪えるじゃないか。キミだってそうだろう?」

 そりゃそうだ。

 勝手に好きになっただけの話なんだろうけど、それでも自分が好意を寄せているのならば相手からも好感情を寄せて欲しい。そのぐらいの機微ぐらいは鈍い僕にだってわかる。

 「そんなこと言っても、僕は笠酒寄と付き合っているわけなんですから……まさか二股かけるわけには行かないでしょう」

 「場合によってはそれもアリだとは思うだがなぁ」

 「ギャルゲーのやり過ぎですよ」

 現代日本で二股かけて許されるのはよっぽどの変人か、よっぽどの……やはり変人だ。

 僕はそこまで逸脱したくはない。

 超能力者でなり損ない吸血鬼という時点で十分逸脱しているのから、人間性という点では平凡でありたい。それだけが、僕を人間に繋ぎ止めている要素なのだから。

 「とにかく、この話はこれで終わりですよ。佐奈平君にはこれから僕よりももっといい人が現れるでしょうし……」

 「初恋って言うのはな……越えられない壁なんだよ」

 「はいはい。一般論をどうもありがとうございます」

 この場に笠酒寄がいなくて助かった。

 本日の笠酒寄お嬢様はおうちの事情とやらで欠席。

 とは言っても、現状百怪対策室に持ち込まれている『怪』はないので開店休業状態。僕や笠酒寄がいてもいなくても変わらない。

 優雅な仕草でライターを取り出すと、室長はやっとタバコに火を点ける。

 深く吸って、白い煙を吐き出す。

 「コダマ、キミの初恋っていつだ?」

 突然の話題は、先ほどまでのものと関連性はあるが、別に聞いても聞かなくてもいいようなものだった。

 無視する、という選択も出来たのだけど、僕はなぜか素直に答えてしまう。

 「小学生の時に、近所のお姉さんだったと思いますけどね。もう社会人になってるし、数年以上会ってないからわかりませんけど」

 ごく普通のお姉さんだった。

 当時の僕からしてみたら大層大人びて見えてのだけど、それは僕自身がまだまだ小学生というくちばしの黄色い状態だかったからなのだろう。 

 彼女は普通に高校生で、普通に生活してて、普通に自分より年下の小学生に接していただけだったんじゃないだろうか。

 そう考えると、今回の件に似ている部分もなくはない。

 僕はいつものように『怪』の解決のために動いて、佐奈平君はそこにありもしない僕の現像を見て、そして惚れてしまったのだから。

 別に室長にそこまでの推察が組み上がっていたという保証はないのだけど、もしかしたらあり得るかも知れない。 

 この人は、未だに計り知れない部分が多いし。

 「平凡だ。あまりにも平凡過ぎていじりようがないな。もっと小学生の内から熟女に目覚めているとか、ロリコンだったとか、そういう変態性を隠してないだろうな? あらかじめ言っておくが、私に隠し事はしないほうがいいぞ。後でほじくられたときに恥をかく羽目になるからな。……ああ、BLもありだな」

 なぜ初恋の話という、ちょっとばかりの甘酸っぱさを感じさせるようなことから、こういう方向性に持っていこうとするのか。僕には全く理解できない。いや、したくない。

 「平凡で悪うございましたね。僕は普通の高校生であることを希望しますから、それでいいんですよ。切った張ったの鉄火場に回されてしまったり、美男美女に言い寄られて爛れた日々を送るのは室長にお任せしておきたいですね」

 皮肉、というにはちょっとパンチ力が足りない。けど、今はこれで十分だ。 

 まだ大分長いタバコを灰皿に押しつけると、室長はイヤな感じの笑みを浮かべた。

 「ほうほう、なるほど。キミは平凡でありたい、ね。下手したら私でも手を焼きそうな超能力者の少年は言うことが違うな。おお怖い怖い。私みたいな可憐な少女なんて一ひねりにされてしまいそうだから、用心のために防御用の魔術を更に用意しておくかな」

 ……多分、用意されるのは防御用の魔術じゃない。おそらくは攻撃用だし、僕が室長に勝てるビジョンなんてのは見えない。

 開始の合図と同時にぶん殴られて終了してしまいそうだ。

 「ふふ、何を見ているんだコダマ。色々と妄想が捗るお年頃だからしょうが無いかもしれないが、あまりそういう目的に私を使うのはおすすめしないぞ。知られたら一生涯いじられる羽目になるからな」

 「……見てません。絶対にそれはありません。誓ってありません。厳密に確立を定義することは出来ないかも知れませんけど、ソレが起こるのならば小唄が理想の妹に変貌へんぼうする確率のほうが高いと断言できますね」

 からからと室長は笑う。

 何がおかしいのかはわからない。

これ以上の話は切り上げることにして、僕は室長の対面のソファに腰を下ろす。

 「……で、わざわざ僕をからかうためだけにここに留まらせているわけじゃないんでしょう? どういう『怪』が持ち込まれているんですか?」

 なにも百怪対策室に持ち込まれる依頼は僕を通してのみじゃない。

 室長の知り合いが持ってくることもあれば、貼り紙からもやってくる。

 そして、あのうさんくさいホームページからも。

 「ちょっとは鋭くなってきたな、コダマ。ちょうど笠酒寄クンもいないことだし今日中に終わらせてしまおう。持ち込まれた『怪』は発生場所が男子校でな。……どうも次々に誘惑をかける美女が出現しているらしい。コダマ、キミは今から潜り込んで調査だ。見つかり次第拘束する」

 ……やっぱり僕は、頭の痛くなるような事件に関わってしまう運命からは逃れられないようだ。

 嬉々として他の学校の制服を取りだした室長を見て、つくづくそう思った。

 

 

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