第二十一怪 鵺


 統魔の隠蔽いんぺい班はきちんとクルマを用意してきてくれていた。

 乗り心地は、ヘムロッドさんの所有しているモノよりも数段劣るものだったが文句を言うべきではないだろう。

 そんなことよりも、僕には気になっている事があった。

 とりあえず、他に誰も聞いている心配がない車内に移動するまでは黙っておこうと思った話が。

 「……ヘムロッドさん、なんで八久郎やくろうさんに連絡したんですか?」

 久道院くどういん八久郎。一九〇センチを越える背丈に、筋肉質の肉体をした、オカマの魔術師。

 彼(彼女?)によって、室長は時間ごと凍結させられる憂き目に遭ってしまったのだ。

 いわば、直接的に現状を招いた人物だともいえる。

 そんな八久郎さんに、なぜヘムロッドさんが話を通しに連絡したのだろうか?

 直接統魔に連絡するだけでも十分そうだが、それを選択しなかったということは、何かがあるのだろう。僕の知らない何かが。

 「なに、八久郎は未だに統魔日本支部が自由に動かせる最高戦力であることには変わりないからね。話を通しておいたほうが何かと都合が良い。……あとはね空木クン、八久郎だって心の底からヴィクトリア憎しで動いたわけじゃないんだ。それはわかってほしい」

 わかってる。僕だって、それなりに物事はわかっているつもりだ。

 それでも、どうしようもなく相反する思いが生じてしまう。

 なぜ八久郎さんは室長を見逃してくれなかったんだ? 統魔の定めたルール? それは恋人の忘れ形見を持っていることさえも許してくれないようなガチガチのルールなのか? 

 ……だったら、そんなルールはないほうがいいんじゃないか? 

 そんな風に考えてしまう。

 ぐるぐると、そんな風に相克する考えが頭の中を回っていると、左手にぬくもりを感じた。

 見れば、笠酒寄かささきが手を重ねていた。

 「空木君が考えてる事、なんとなくわかる。でも、今は考えてもしょうがないんじゃないかって思う。今は殺生石を追わないと」

 ……悔しいが笠酒寄の言うとおりだ。

 目の前の大事に気を取られていると、目の前の小事をしくじる。

 今現在は放っておくしかない。

 だが、殺生石の一件が終わったらきっちりと説明してもらおう。

 結局、僕はそんな風に問題を先送りした。



 

 「……ところで、目的地はわかってるんですか? あの、ぬえ? が逃げた場所とか僕には見当もつかないんですけど」

 「問題ないよ。ほら」

 前を見たままで、ヘムロッドさんはポケットから妙なモノを取り出す。

 小瓶に入った……爪、だろうか。

 が、しかし。普通の爪なんかじゃないことは一目でわかる。

 なんといっても、ついさっき指から引き剥がしたかのようにわずかな肉と、血液が付着しているからだ。ちょっとしたグロになってしまっているが、もうすでにこの程度では動揺しなくなってしまっている。悲しい耐性だ。

 「うわー、グッロいですね。剥がしたてですか?」

 「そうだね、笠酒寄クン。ついさっきやりあった人虎ワータイガーの一体から拝借してきた」

 なんつう痛みを伴った拝借だ。っていうか拝借じゃなくて強奪じゃないのか?

 心の中でだけそう突っ込んでおく。

 つーか、笠酒寄。お前は平気なのな。こういうのは女子のほうが嫌がりそうなものだけど、意外に笠酒寄お嬢様は興味津々でいらっしゃるようだ。

 「これが、行き先を教えてくれるんですか?」

 そうは見えない。呪い殺すためのアイテムだと言われたほうがいくらかは信じられる。

 「正確に述べるなら、この生爪に宿っている“つながり”が案内してくれるんだよ」

 とうとう生爪って言った。せっかくそのワードを避けてたのに。

 くっそ、余計に気持ち悪くなってきてしまった。

 それでも、どういう仕組みになっているのかは聞いておいたほうがいいだろう。

 いざという時に僕や笠酒寄が使えるように。……聞いても使えるかどうかはわからないけど。

 「“つながり”って、なんですか?」

 「ふむ、そうだね。日本語で表現するなら“絆”かな? 親族でも仲間でもいいんだが、とにかく一緒にいる存在にはそういうつながりが発生している。今追っている鵺にも一緒に行動していた仲間がいただろう?」

 二体のトカゲ人間と、人虎。なるほど。

 「その一体から拝借してきたこの爪はね、鵺とのつながりをまだ保持している。それを使って、導いてもらっているんだよ。役に立つね、肉体っていうヤツは」

 ゴーレム法の権威の発言だと違う意味に取られかねないが、黙っておこう。

 じっと、小瓶に入っている生爪を見る。

 見えない何かに引っ張られるように、爪は一定の方向に向かっていた。

 ……まさか自分の爪をGPS代わりにされるだなんて、あの人虎も予想していなかっただろう。合掌。死んでないけど。

 「さあて、見えてきたね。おそらくあの施設だ」

 ヘムロッドさんはハンドルを回して、山道のほうに入っていった。

 入る直前、山の頂上にホテルのような何かを僕は見た。

 鵺が逃げ込んだのはあの場所なのか?

 考える間もなく、ヘムロッドさんが運転するクルマが立ち入り禁止の看板を跳ね飛ばしたので僕は法律を守って欲しいと抗議する羽目になってしまった。

 ……なんでこうも魔術師は日本の法律を破りたがるんだ。それとも器物破損の概念がないのか?



 「ふむ。ここから先はクルマでは無理だね。まあ、私のクルマじゃないから壊しても問題はないのだけど、色々と後から面倒くさいことになるのは勘弁願いたいからね」

 借り物をそんな風に評価しながらヘムロッドさんはクルマを停めた。

 統魔の予算が心配になってしまうような発言の後に、ヘムロッドさんは速やかにクルマから降りる。

 どうやらここからは歩きになってしまうようだ。僕と笠酒寄もヘムロッドさんにならって降車し、先に続く狭い道を見た。

 本来はクルマが通れるぐらいには道幅があったのだろう。しかし、どうやら長期間放置されてしまっているようで、現在はその三分の二は植物に覆われてしまっていた。

 辛うじて露出しているアスファルトもかなりボロボロだ。一体どのくらいの期間手が入っていないのか気になってしまう。

 確かに、このひどい道をクルマで通行するのはかなりの無謀だろう。そのまま谷底に落下してしまっても文句は言えない。……死にはしないだろうけど、痛いのは嫌だ。

 しっかりと施錠してから、僕達は枝やら這っている蔦やらを踏みながら登り始めた。

 数十分後、目の前にはなんともうらぶれた感のある建物が姿を現していた。

 っていうか廃墟だろ。

 所々にはヒビが入り、縦横無尽に植物が這い回っているのはなんとも不気味だ。

 ホラー映画とかの舞台にしたら、さぞかしB級な作品が撮れることだろう。

 「この中だね」

 小瓶に入ってる生爪の反応を確認してヘムロッドさんはそんなことをのたまう。

 予想はしていたんだけど、気は進まない。散々ホラーな体験はしてきているんだけど、未だに苦手なんだ。

 待っているのはホラーじゃなくて、十中八九バトル展開だろうけど。

 「……わかりました。待ってるのは鵺だけなんでしょうか?」

 「だろうね。そうじゃないなら山道で奇襲を仕掛けてきてもよかった。ここは多分、前線基地のようなものだろう。本拠地じゃない」

 更に本拠地があるのならば、そこに戻られる前に決着はつけたい。

 笠酒寄に目で合図をしてから、僕達は建物の中に足を踏み入れた。

 



 かつん、かつんと先を行くヘムロッドさんの靴音が建物内に反響する。

 中は想像通りにがらんと、はしていなかった。

 どうやらホテルかなにかだったようで、それなりには高級だったであろう家具の残骸やら、調度品が散見された。

 今現在においては単なるゴミと見分けが付かないぐらいにはボロボロになってしまっているが、元々は価値のあるものだったのだろう。諸行無常を感じさせてくれる。

 「笠酒寄、何か聞こえるか?」

 「ううん、わたし達以外の音はまだ聞こえない」

 尋常じゃない聴覚を発揮する笠酒寄は生体レーダーみたいなものだ。だが、こういった入り組んだ建物内なんかではその精度はがくっと落ちてしまう。

 それでも、僕なんかよりもよっぽど頼りにはなるが。

 「空木クン、笠酒寄クン。おそらく鵺は最上階だろうが、一応は用心しておいてくれ。罠をしかけている可能性は十分にある」

 フロントの中をのぞき込みながら、そんな忠告のような言葉が飛んできた。

 「罠?」

 「そうだ。敵は単独、もしくはごく少数だろうが、待ち伏せをしてはいけない法律はないからね。いや、数で不利だからこそやるんだが」

 なるほど。合成獣キメラのときと同じか。

 あのときは仕掛けていた人物が魔術師として二流だったおかげでしょぼい罠しかなかったが、今回もそうだとは限らない。

 てぐすね引いて待ち構えている可能性の方が高いのだ。

 そうなってくると、もっと慎重に歩を進めたほうが良さそうに感じてしまうのだが、先頭を歩いているのはヘムロッドさんであり、後ろでは笠酒寄がレーダーとなっている。

 そして、距離があるのならば僕の能力で捕縛するだけの話だ。

 正直、そう易々やすやすとは奇襲されない自信がある。

 「ふむ、流石にエレベータは使用不可能か。となると階段を上るしかないか」

 カチカチと何度かボタンを押してから、至極残念そうにヘムロッドさんは言った。

 僕としても、エレベータが使えるのならば使いたい所だったが、密閉空間に罠が仕掛けられている可能性を考えると、使用自体は躊躇していただろう。

 結局、エレベータが動いていようがいまいが、階段だったのだろうけど。

 しかし、ここでも同じ問題が発生してくる。

 階を移動する手段が階段しかないのならば、そこを無防備なままで放っておくだろうか? 僕の解答はNOだ。

 敵が通るとわかってる場所にはたんまりと罠を仕掛けておく。相手は仮にも殺生石なんて代物しろものを盗んでいるんだ。そのぐらいの頭は回るだろう。

 確実に、何かはある。

 従業員用のドアを開けて、見つけた階段を見ながら僕はそんな風に考えた。

 「……どうしますか? 絶対に罠はありますけど、まさか天井をぶち抜いて上の階に移動する、なんてことは言いませんよね?」

 室長ならやりかねないが。

 「ふふ、そうだね。罠は確実。なら、私達が引っかからなければ良いんだよ」

 言うが早いか、ヘムロッドさんはポケットからペンを取り出していた。

 そのまま階段の手すりに迷うことなく何かを書いていく。

 Emeth

『真実』を意味するその言葉は、ゴーレムの核になるものだ。

 そして、ヘムロッドさんはゴーレム法の権威でもある。

 ぎぎり、と頑丈そうな鉄の階段がきしんだ。

 「さて、お前にかかっている魔術を全て開示しろ」

 ヘムロッドさんの命令に従って、ゴーレムと化した階段がまた軋む。

 よくよく観察してみると、浮かんでいた錆がぐねぐねとうごめいて文字を形作っていた。

 気持ち悪っ!

 僕の後ろで笠酒寄も表現しがたいうめき声を上げていた。 

 生爪は平気でもこういうのはあまり得意じゃないらしい。こいつのダメなラインがわからない。

 そんな風に引いてしまっている僕達を置いて、ヘムロッドさんはさっさと解読作業に入ってしまっていた。

 「……なるほどね。仕掛けたのはそれなりにはできる魔術師みたいだね」

 「それは、なんとも嫌な感じですね」

 相手が魔術師だというだけでも嫌なのだが、その上に鵺という妖怪までいるのだ。これで上機嫌になるほうがどうかしている。

 いや待て、鵺自身が魔術師じゃないという保証もない。その場合、多少は楽になる。

 どうやっても、一度に出来ることの限界はある。

 二人なら同時に攻撃される可能性もあるが、一人なら行動は一つしか取れない。分身でもできるっていうのならばともかく。

 「解呪ディスペル

 階段に触れているヘムロッドさんの手がほのかに光った。

 いやまあ、何かの魔術を行使したのだろうが。

 「階段に仕掛けてあった魔術的な罠は全部解除した。行こうか」

 あっさりと敵の目論見は破綻した。

 まだ階段以外の罠は残っているだろうが、注意を払う場所から階段が除外されてしまったのは大きい。

 ヘムロッドさん、笠酒寄、そして僕の三人の目から完全に逃れての不意打ちはほぼ不可能だろう。

 仕掛けた人物には申し訳ないが、ちょっとばかりずるをさせてもらおう。

 「上る順番はどうしますか?」

 「私、空木クン、笠酒寄クンでいこう」

 「わかりました」

 「はーい」

 ほのぼのしてるが、要は魔術的な罠はヘムロッドさんが見つけて、その他は反応して躱せということだ。力業にもほどがあるが、純粋な人間がいないこの三人だからこそやれることだろう。

 かつん、というヘムロッドさんが階段に足を乗せた音で廃墟攻略は始まった。

 最奥に待つのは鵺か、それとも魔術師か。それとも両方か。


 2


 ずず、と音を立てて壁が迫ってきていたのだが、僕はちっとも慌ててはいなかった。

 能力を発動する。

 後ろでまとめている髪が浮き上がって、発動したのは確実だった。

 そのまま、迫ってくる壁に巨大なこぶしをぶつけるイメージ。

 ばごん、という音と共に、あっさりと壁は破片に変化してしまった。

 階段を上って二階。いきなり襲ってきた罠だったのだが、肩すかしもいいところだった。

 これなら矢でも撃たれたほうがなんぼかは脅威だっただろう。

 「見事だね。即応能力としては一流の魔術師が用いる魔術と遜色ない」

 「ありがとうございます」

 眺めていたヘムロッドさんが褒めてくれるのはうれしいのだが、素直には受け入れづらい。

 ……僕個人の考えとしては、あまり魔術とかそういうオカルトの世界にどっぷり浸りたくはないのだ。平凡、平穏、そういった単語のほうに僕はかれてしまう。

 現状、その望みは叶えられそうにもないけれど。諦める気にもなっていない。

 「つまんない。わたしも暴れたいのに」

 笠酒寄お嬢様はご不満らしい。

 が、そんな不穏な発言は無視するに限る。コイツは単に暴れたいだけだ。人狼を制御することは出来ているようだが、精神面は多少の影響を受けていると見える。

 「それで、どうしますか? このまま階段で上りますか? それとも天井でもぶち抜いていきますか?」

 一旦階段から出ようと提案したのはヘムロッドさんだった。

 なぜかは教えてくれなかったのだが、意味のないことをする人ではないので僕と笠酒寄は大人しく従った。

 これで、『なんとなく』とかいう理由だったらかなり脱力することになってしまうけど。

 「そうだね、空木クンの提案も悪くはないんだが、建物自体がもろくなっている可能性があるから天井は止めておこう」

 ごもっとも。

 僕の能力だと対象は一つにしか発動できないし、笠酒寄じゃあぶち抜いた天井の破片に埋まってしまう可能性がある。

 となると、やはり階段を上ることになるのか。

 延々と階段を上るというのはうんざりするのだが、無駄に体力を使ってしまうよりもいいだろう。少なくとも、何らかの戦闘になることは確定しているのだから。

 そう考えて僕はきびすを返したのが、ヘムロッドさんは微動だにしなかった。

 ?

 「ヘムロッドさん? 階段を使うんじゃないですか?」

 「いや、使わない」

 「はい?」

 なんじゃそら。

 意味が分からない。

 階段も使わず、天井をぶち抜いていくわけでもない。

 ならどうやって上の階に移動するというのだろうか?

 疑問を浮かべている僕と笠酒寄を放置して、ヘムロッドさんはかつかつと靴を鳴らして窓のほうに寄っていった。

 滑らかな動作で鍵を解除して、そのままからりと窓を開ける。

 え、まさか?

 僕の予感は的中して、ヘムロッドさんは軽やかに窓から身を躍らせた。

 「ちょ、ちょっと! ヘムロッドさん⁉」

 慌てて僕はヘムロッドさんの安否を確認するために窓に駆け寄る。

 窓から身を乗り出すようにして下を見る。

 僕が見たのは、壁に『立っている』ヘムロッドさんだった。

 さも当然と言わんばかりに余裕の表情でヘムロッドさんは重力に逆らって立っていた。

 えぇ……なにそれ。

 「建物自体を痛めずに、その上で罠も回避しやすくなる。この方法でいこう」

 いや、まあ、そうなんだろうけど。

 「……いや、僕や笠酒寄は壁にひっつくなんてことは出来ませんよ」

 虫じゃないんだから。いやヘムロッドさんも虫じゃないけど。

 おそらくは魔術なんだろう。

 しかし、生憎と僕も笠酒寄も使える魔術なんて無いに等しい。

 室長ならあっさりとヘムロッドさんが使っている魔術を真似して、ひっつくことぐらいは鼻歌交じりにやるのだろうが、僕達には不可能だ。

 「安心したまえ。魔術は私がかけるから、キミ達は飛び出してくれば良い」

 安心できない。

 くそ、なんでこうも室長といい、ヘムロッドさんといい、精神的な無茶を平気でさせようとしてくるんだ⁉ ちっとは僕みたいな凡人の感性というヤツを考慮して欲しいんだけど。

 「ミサキ、行きまーす」

 僕が躊躇していると、そんな呑気な笠酒寄の声が聞こえた。

 振り向く間もなく、僕の隣をなにかがすごい勢いで通り過ぎる。

 笠酒寄だった。しかも手足が人狼化している。

 勢い余って三、四メートルほど飛び出していたのだが、ヘムロッドさんが指をさすと、まるで重力が壁から働いているかのように、笠酒寄は地面ではなく、壁に着地(?)した。

 見事な三点着地だったので、このまま映画のワンシーンにしてもよかったのかもしれないが、やっているのが女子高生なので、今一つ締まらないだろう。

 コイツはコイツで、なんでこうも躊躇ためらいがないんだろう。僕の周りは感性がイカれているヤツばっかりだ。

 「空木くーん。早く早くー」

 すげー気軽に言ってくださるなぁ! 笠酒寄お嬢様は!

 二階とは言っても、もし着地をミスってしまったらそれなりにひどいことになる。確かに僕はなりそこない吸血鬼ではあるのだが、それでも痛いものは痛いんだ。未だに純粋な人間だった時の感覚を引きずっているのは愚かなことだと言われるのかも知れないが、それでも、僕は笠酒寄ほど思い切れない。

 というわけで、僕は不格好にも窓から這い出るようにして脱出した後、魔術によって壁にひっついた。

 おおう、妙な感じだ。

 まっすぐに立って前を見ているというのに、空が見える。

 一瞬、平衡感覚がおかしくなりそうになるが、多少のふらつきを覚えたぐらいで徐々にそれは緩和していった。

 「なに、始めは慣れないだろうが、そのうちに順応するよ。人体というモノは思っているよりも適応力が高いからね」

 僕もそうであることを望む。

 結局、ヘムロッドさんの言は正しかった。

 程なくして僕はきちんと壁に立つという常識外の状態に対応してしまったし、特に罠にひっかかることもなく最上階までたどり着いてしまったのだから。

 現在僕達は再び窓から室内に入り(今度は窓ガラスをぶち破ることになってしまったけど)、ちゃんと床の上に立っている。重力も正常に働いているので全く問題は無い。

 ……重力がしっちゃかめっちゃかになってしまったので、精神状態はあまりよろしくないかもしれないけど。知ったことじゃないか。

 最上階はどうやら倉庫のようだった。

 あちこちに雑多な品物が置いてあり、視界は悪い。……僕にはあまり有利な状況とは言えない。

 まあ、笠酒寄とヘムロッドさんがいるのだからあまり関係はないだろうけど。

 「ふむ」

 感嘆とも、安堵とも言えない、微妙な感じのヘムロッドさんの呟きだった。

 「どうしたんですか? あまり良くない知らせですか?」

 思わず尋ねてしまう。

 「いや、鵺が潜んでいることは間違いないんだろうが、どうしたものかと思ってね」

 「見つけてぶちのめして、殺生石を取り返すだけでいいんじゃないですか?」

 いっつもそんな感じだし。今更知的な推理をご披露という状況じゃないだろう。すでに犯人は明らかになって、隠れ家まで追い詰めているんだから。

 「そうだね、最終的にはそういう風になってしまうのは間違いないんだけどね」

 間違いは無いのか。それもそれでどうかとは思うのだけど。

 じゃあ、ヘムロッドさんは何を考えて足を止めているというのか?

 「待ち伏せ、とかですか? それとも実は助っ人がいるとか?」

 「その可能性は低いね。私達が壁を歩いて来ている時点で仕掛けたほうが勝率が高い。その好機を逃すような甘い相手じゃないだろうしね」

 ごもっとも。

 となると、なぜヘムロッドさんは何かに対する懸念を示しているのかがわからなくなってくる。

 何が待っているというんだ?

 「う~ん、よくわかりません。とりあえず進んでみたら良いですか?」

 「……そうだね、考えていても埒があかないね。進もう」

 笠酒寄の考えなしの提案もたまには役に立つようだった。

 ようやっと、ヘムロッドさんは一歩踏み出した。

 途端、僕達は真っ黒な霧に包まれていた。

 「な⁉」

 「えっ」

 「ちっ!」

 初めて聞くヘムロッドさんの舌打ちが聞こえたのと同時に、僕の視界は真っ黒に染まってしまっていた。

 



 見えない。

 真っ黒だ。

 視界は黒一色に染まってしまっている。

 どうなってるんだ?

 つい先ほどまで僕達は一緒に居たというのに、今はその残滓(ざんし)さえも感じることができない。

 他者の気配。そういったものが一切感じられなくなってしまっていた。

 確かに今は真冬で、冷え込みも非常に厳しいが、僕はそれ相応の格好をしていたのでそこまで寒さは感じていなかった。しかし、今感じているのは別種の寒さだ。

 孤独。

 そういった類いの情感から発生する類いの寒気を僕は感じていた。

 ほんの数十秒。たったそれだけの時間。それでも僕の背筋に冷たいものが走るのには十分だった。

 「へムロッドさん、どこですか⁉」

 大声を上げてみるが返事はない。

 相変わらず真っ黒な霧は存在しているし、二人の気配も感じられない。

 くそ、どうなってるんだ?

 うかつに動くこともできない。

 下手に動いて僕だけで敵に遭遇してしまったらどうなってしまうのかわからない。

 まとわりつくように迫ってくるこの黒い霧も問題だが、二人とまったく連絡が取れないというのもまずい。

 行動方針を僕がきめあぐねていると、不意に霧が晴れた。

 まるで、風に散らされてしまったかのように。

 だが、僕の脳みそは更に混乱を極めることになった。

 なぜならば、僕は廃墟みたいな建物の倉庫にいるのではなく、九月の始めに笠酒寄と戦った、あの稲木公園にいたのだから。

 ?

 疑問符しかでてこない。

 待てコラ。なんで僕がいきなり稲木公園にいるんだよ! しかもなぜか時刻は夜だ。あまり昼間と変わらない様に見えるが、それは僕がなりそこない吸血鬼だからに過ぎない。

 室長曰く、吸血鬼の視力は本来夜間に発揮されるべきなのだそうだ。ゆえに、昼間は日光を

まぶしく感じてしまうんだとか。

 いやいやいやいや、現実逃避している場合じゃない。

 時間も場所もぶっ飛んでしまっている現状を分析する方が先だ。

 何はともあれ、情報が不足している。

 とにかく何でも良いから情報を仕入れないと。

 そんな風に考えて、僕は辺りを見回して気付いた。

 ジャングルジムの上に誰かがいた。

 ソイツは、ごく普通の学生服に身を包んでいた。

 ソイツは、男のくせにポニーテールだった。

 ソイツは、どこかひねた目つきをしていた。

 ふわりと、むかつくぐらいの優雅さでソイツがジャングルジムから飛び降りる。

 「やあ、こんばんは。初めてだけど自己紹介はいらないよね? だって、キミは僕の事を誰よりも知っているはずなんだから」

 くつくつと愉快そうにソイツは笑う。

 ああ、知ってる。なんと言っても――

 「だって僕はキミなんだから」

 ソイツは、僕だった。


 3


 満月をバックにして、僕そっくりの姿をしたソイツは笑う。

 にやにやと、僕の神経を逆なでするような笑い方で。

 うわ、僕が笑うとこんなに気味が悪いのか。

 自分でもショックだ。これからはあまり笑わないようにしよう。っていうか、五里塚ごりづかのやつが言ってた意味が今になってわかった。

 ソイツが浮かべている笑顔は、まるで陶器にひびが入っているかのようだ。

 人間味が感じられない。まるで、人形が人間の模倣をしているかのようだ。

 ただ単に、表情筋をこう動かせば笑顔と定義される表情になるからそうしている、というようなおもむきを感じさせる。

 おかしいことがあった、楽しいことがあった、そういう感情にもとづいて笑っているんじゃなくて、相手に不快感を与えるためだけにコイツは『笑顔』という状態を作っているのだ。

 しかも、僕そっくりの姿で。

 ……こんなに不愉快なことはない。

 真似をされるっていうのは心理学的には親近感を抱くらしいのだが、今の僕が抱いているのは嫌悪感だけだった。

 いや、嫌悪の情だけじゃなくて、怒りも同時に沸いているのだけど。

 「――お前は、一体何だ?」

 「僕はキミだよ。知ってるんだろ? そっくりなのは外見だけじゃない。中身だって同じなんだよ。……もちろん、“心”だってね」

 寸毫すんごうも笑顔を崩すことなく、僕そっくりのソイツは言う。

 同じ? そんな訳あるか。

 こんな、にやにやと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべるようなヤツと僕を一緒にして欲しくはない。

 そもそも、僕が二人も居てたまるか。

 例え双子だったとしても、精神までが同じということなんてない。

 とういうか、僕はこんな人の不安をあおるような事は言わない。

 不安が、どれだけ人の心をむしばんでしまうのかを知っているから。

 目の前のコイツには、その配慮が感じられない。

 いたぶって、楽しんでいる。

 故に、当然のことだが目の前のコイツは僕じゃない。

 おそらくは、何かしらの魔術によって発生しているだけのものだろう。

 なら、手加減する必要も無い。殺しはしないけど、それなりに痛い目にはあってもらう。その後に僕を元の場所に戻してもらったら良いだけの話だ。

 決めたら、あとは実行あるのみだ。

 ぶわり、とまとめている僕の髪が浮かぶ。

 首をやってしまうと死んでしまいかねないから(生死の概念があるのかは知らない)、とりあえず手に狙いを定めて、一気にねじる。

 ごきん! という鈍い音と共に、僕そっくりの『何者か』の右腕はめちゃくちゃな方向に曲がった。

 同時に僕の右腕も同じような音を立ててひん曲がった。というよりも振り回された。

 「あ? う……ああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 一瞬遅れて痛みがやってくる。

 思わず能力を解除して、膝を突いてしまう。っていうか、視線自体が外れてしまったのですでに能力は行使できなくなってしまったのだけど。

 いや、そんなことよりもだ。

 どうなってるんだ? 僕が能力を使えるように、アイツも同じような能力を使えるっていうのか⁉

 めちゃくちゃに捻られてしまった右腕はすぐに再生が始まる。

 だが、こういうタイプの再生には時間がかかる。

 案の定痛みはあまり引かず、再生するとき特有の異様なかゆみもやってこない。

 「おいおい、そんなに乱暴にするなよ。僕はキミだって言ったじゃないか。僕はキミで、キミは僕。お互いに大事にし合おうぜ? お互いがお互いなんだからさ」

 『何者か』は全く痛みを感じさせない口調でそんなことを言ってくる。

 痛みがあるうちは集中できないので能力は行使できないが、相手の動きがわからないというのはまずいので歯を食いしばって僕は顔を上げる。

 『何者か』の右腕は確かに曲がらない方向に曲がってしまって、だらりと下がっているだけだった。

 今の僕と同じように。

 違いがあるとすれば、僕は膝を突いていて、向こうは嫌な笑みを浮かべて立っているままということだろうか。

 形勢としてはまずい。

 こっちはこの程度の痛みで行動不能に近い状態に追い込まれてしまっているのに、向こうは全然そんなことはないようだ。

 ……なにが、“キミは僕”だ。痛みに対する耐性が全く違うじゃないか。

 もし、僕と同じ能力だっていうのならば視線に依存している可能性は高い。

 なら、痛みに強いかどうかは大きなアドバンテージになってくる。

 まずい。圧倒的に僕が不利だ。

 このままだと、好きなようにいたぶられてしまうのは目に見えてる。

 ぎりり、と奥歯をかみしめる。

 根性見せるときだろ!

 自分を叱咤するのは苦手だが、そんなことを言ってる場合じゃない。

 個人的には、精神論なんてのは古くさいっていうスタンスを取っていたかったのだけど、打開策が思いつかないのだからしょうが無い。

 全力で、僕そっくりの『何者か』に向かってダッシュする。

 相手が何らかの能力持ちだっていうのならば、接近戦に持ち込んでしまうのがいい。

 なり損ないとはいっても吸血鬼。そうそう遅れは取らない。

 手が届く距離までは数秒。そして、そこからは殴るだけだ。

 未だに動いてくれない右腕は使えないので、慣れない左手での打撃。

 素人のテレフォンパンチとあなどるなかれ。僕の身体能力から繰り出される一撃は、見てから反応できるような代物じゃない。

 「やめなって。暴力はあんまり好きじゃないんだ。それはわかってるんだろ?」

 あっさりと、『何者か』は僕のパンチを躱す。

 ついでのように、足をひっかけて転ばしてくる。

 勢い余って転げそうになってしまうけど、そこはなんとかこらえた。

 それでも、体勢は崩れる。

 「ぐ!」

 思いっきり腹に鈍い痛みが走る。

 膝蹴りを入れられたとわかったのは、地面に倒れてからだ。

 「ほら、そんなもんじゃないだろ? 僕はだれよりもキミのことをわかってるんだから」

 顔を蹴られる。

 意識が吹っ飛びそうになるけど、叫ぶことによって回避。

 同時に、動く部分をフル活用してヘッドスプリングみたいに体勢を立て直す。

 器械体操なんて苦手だったんだけど、身体能力の向上はそういう部分も克服してくれていた。

 お互いの距離は、三メートルほど。

 僕にとっては間合いの中だと言ってもいいのだけど、それは相手も同じのようだ。

 ……どうやら、格闘能力は向こうに分がある。

 能力も同じようなモノ、身体能力は互角ぐらいだろうけど、技術の差は明らか。

 まずい。

 手詰まりに近いんじゃないのか、この状況。

 躊躇した一瞬だった。

 一気に相手が間合いを詰めてくる。

 「っ⁉」

 体を捻って、襲ってくる前蹴りを躱す。

 がつん、と頭部に衝撃。

 視界がくらくらするが、何が起こったのかは理解できた。

 前蹴りを躱された瞬間、向こうは無理矢理体を回転させて僕の頭を蹴ってきたのだ。

 無茶苦茶にもほどがある。人間だったら関節がイカれてしまっても当然と言えるような動きだ。

 だが、人間じゃないなら問題も無い。

 火花が散っている視界の端で何かが動くのがわかった。

 とっさに伏せる。

 鋭い風切り音と共に頭上を何かが通過していった。

 もはや、迷っている時間は無い。

 伏せた状態からブレイクダンスでも踊るように足払いをかける。

 ばしん、という感触と一緒に、足を払われた『何者か』は宙に浮いた。

 チャンス!

 立ち上がる勢いそのままに、頭突きをかます。

 どうやら腹に当たったようで、感触は固いものじゃなかった。

 それでも、『何者か』は派手に吹っ飛ぶ。

 当然だろう。僕に全力で頭突かれてしまったのだから。

 最悪、内臓破裂とかになりかねない。

 派手な音と共に、ジャングルジムに叩きつけられた『何者か』は力なく地面に落ちるが、すぐさま立ち上がってくる。

 なんてタフなんだよ! 人狼並みかよ!

 が、『何者か』は立ち上がっても襲いかかってはこなかった。

 ただ、今までと変わらない嫌な笑みをまだ浮かべていた。

 警戒は解かない。何かしらの能力を保有しているのは確実なんだ。しかも、それはある程度の距離を無視して発動できる。

 「……ふふ、ちょっとは素直になってきたみたいじゃないか。僕は僕が素直になってくれてうれしいなァ」

 ひびが広がるように、『何者か』の笑みが深くなる。

 くっそ、めちゃくちゃキモい。

 なんなんだよ、コイツは。

 「お前、何なんだよ?」

 思わず、考えていたことが漏れてしまっていた。

 「何を言ってるんだよ。言ったろ? 僕はキミだって」

 いや、わかんねーよ。電波かお前は。

 これ以上の問答は無意味そうだ。

 改めて僕が接近戦を仕掛けようとした瞬間、『何者か』は言った。

 「思ったことはないのかい? “僕は確実に優れている存在だ。そんな僕はもっと横暴に振る舞っても良いはずだ”ってね」

 足が、止まる。

 「お前……」

 「何度も言わせないでくれよ。僕はキミで、キミは僕。なんでも知ってるし、隠し事はできない」

 僕そっくりのソイツは、まだ笑みを崩さない。

 どこか……キスファイアと重なるその笑みを。

 「疑問なんだろう? 何で自分が凡庸ぼんようなアホ共の為に身を粉にして、苦しい思いをして、痛い思いをして解決してやらないといけないのか、って」

 ソイツは、流れるように続ける。

 「僕は、特別なんだよ。身体能力は人間の領域を越えてるし、そんじょそこらの存在じゃまったく敵わないような能力だって持ってる。そんな僕がなんで平凡な人間なんかにへーこらしないといけないんだ? 単純な能力の比較なんて意味が無い、なんてのは劣っている人間が提唱するだけの言い訳だっていうのはキミの考えだろう?」

 僕は何も返さない。

「クラスの奴らだってそうだよ。あいつらは所詮人間。僕や室長みたいなとんでもない存在についてくることはできない。……例外は笠酒寄ぐらいなものだけど、アイツは馬鹿だからね」

笠酒寄。その名前が出た瞬間、僕の中でどす黒い感情が燃え上がるのを感じた。

 「人間社会なんてのは大声を上げることができる愚者の尻拭いを善人が引き受けているだけに過ぎないんだよ。そんなのは善人が、賢人が損じゃないか。なら、多すぎる愚劣を間引いてしまえば、少しは社会も良くなるんじゃないのか?」

 ああ、そうだ。夏休みにキスファイアとやり合った後に、そんなことを考えてしまったことはある。

 だけど、僕はそれを自ら否定した。

 結論としては、僕は特別というよりも単にちょっと違っているだけ、とうものだった。

 そう、身体能力が優れているとか、念動力があるとか、そういうのはちょっと違っているぐらいのものでしかない。

 そう結論づけて、片付けたはずだった。

 終わったはずだった。封じ込めたはずだった。捨てたはずだった。

 その考えは、二度と至らないと決めたはずだった。

 なのにコイツは、その考えを、僕しか知らないはずの僕が考えたことを知っている。

 ぞっとする。

 『怪』なのだろうか? 妖怪とかの類いなのか? だとしたら、どういう『怪』なんだ?

 僕の考えを看破してしまうぐらいだから、“サトリ”とかの読心の能力を有しているタイプか?

 わからない。向こうは僕を知っているようでも、僕は全くコイツを知らない。

 不安は膨らむ。だが、それ以上に笠酒寄を馬鹿だと侮辱されてしまったのは……許せない。

 「ん? なんだよ、笠酒寄を馬鹿にしたのを怒ってるのかな? でも、それだってキミが思ったことだろ? キミのことなら何でも知ってるんだよ」

 「……そうみたいだけど、知ったことじゃないな。彼女を馬鹿にされて怒らないほど僕はクソ野郎じゃないんだ」

 にらむ。

 それはもう、視線で人が殺せるのなら殺せるぐらいには。

 人の心を好き勝手に暴いて、それをなぶって悦に入ってるようなヤツは嫌いだ。

 いや、正確には他人を格下と断じて好き勝手に蹂躙じゅうりんするようなヤツは、だ。

 コイツは、間違いなく当てはまってる。

 もしかしたら、コイツはかつての僕なのかもしれない。未来の僕なのかもしれない。

 でも、知ったことか。

 今の僕は、しこたまむかついているんだ。

 ぶっとばす!

 そうと決めたら行動は早かった。

 足元の土を抉るように掴んで投げつける。

 握り潰しておいたので、砕けた塊は煙幕のように空中で広がった。

 僕も相手もお互いに視認できなくなる。

 これでいい。これが狙いなんだ。

 そのまま土煙の中を突っ切るように突進。

 土煙を抜けた瞬間、能力が襲ってくるのはわかっていた。

 だから、僕は動く左腕を突き出すようにして突進した。

 左腕があらぬ方向にひん曲がる。

 痛みが走る前に、『何者か』が能力の対象を移す前に、すでに僕は至近距離まで近づいていた。

 「くったばれぇえええええ!」

 両腕が使い物にならなくなってしまっているので、使えたのは頭だった。

 相手の顔面のど真ん中に額を衝突させる。

 メシメシと相手の鼻骨が折れる感覚が伝わってきたのだけど、今だけは闘争心が増幅しただけだった。

 『何者か』はジャングルジムに寄りかかるように背中をつく。

 逃すか!

 今度は突き刺すように前蹴りを食らわす。

 柔らかな内蔵が、なんとも不快な感触をくれる。

 知ったことか!

 再びの頭突き。

 頭突き、頭突き、頭突き、膝蹴り、膝蹴り、膝、膝、頭突き。

 最後にもう一撃全力の頭突きをかますと、『何者か』は後頭部を派手にジャングルジムにぶつけた。

 最早見られた顔じゃなくなっている。僕も垂れてきた血で片目は塞がっている。

 それでも、残った目は相手から全く離していなかった。

 白目をむいて、『何者か』は崩れ落ちた。

 ぴくりととも動かない。 

 荒い息をつきながら、僕はそれを見下ろしていた。

 「……なんだったんだ、お前は」

 結局、最後までそれはわからなかった。

 しかし、どうしたものだろうか?

 なぜ夜の稲木公園にいるのかさえもわからないし、そもそも何がどうなっているのかが把握できていない。

 唯一の情報源らしき人物も、今は気絶している。流石に死にはしていないだろう。

 まいった。どうしようもない。

 このままこの場所でぼーっとしているわけにはいかないのに。

 途方に暮れそうになっているそのとき、僕の耳は微かな音を、いや声を聞いた。

 「……ん。……ぎ……くん。うつぎ……ん」

 笠酒寄の声だ。

 間違えるはずもない。

 はっきりとは聞こえないけど、笠酒寄の声だった。

 「笠酒寄? 笠酒寄なのか⁉」

 叫ぶけど、返事はない。

 何処なんだ? 何処から呼んでいるんだ?

 「空木君! しっかりして!」

 今度ははっきりと聞こえた。

 何処から僕を呼んでるんだ、笠酒寄?

 「こっち!」

 僕の目の前に、ほのかに輝く炎のようなものが突如として出現した。

 笠酒寄の声がしているのは『これ』からか?

 僕は手を伸ばす。

 炎のようなものに触れた瞬間、僕の意識はフェードアウトした。



 「空木君! 空木君! しっかりしてよ!」

 笠酒寄の声が聞こえる。

 同時に、僕の胸に連続して衝撃がやってくる。

 まるで、殴りつけられているかのように、っていうか殴っていやがる。

 「……おい笠酒寄、なんで僕の胸をそうも執拗しつように殴ってくれているのかな?」

 「空木君⁉ 起きた! よかったぁ!」

 涙目で笠酒寄が抱きついてくる。

 ぐえ、人狼のパワーでやってやがるから首が絞まる。

 みっともなく暴れることで僕は笠酒寄をなんとか振りほどく。

 そこで、僕は自分が床に寝ていることを知った。

 どうなってるんだ?

 一体何が起こったんだ?

 周りを見てみれば、笠酒寄の他にもヘムロッドさんが居た。

 というよりも、僕が稲木公園に飛ばされる直前にいた、あの倉庫らしき場所だ。

 夢、でも見ていたって言うのか? 僕が? なんで?

 どうにも腑に落ちない状態だったのだが、ヘムロッドさんがゆっくりと近づいてきたことで思考は中断された。

 「おはよう空木クン。どうやらキミは自分に打ち勝ったようだね。これで鵺は恐るるに足りないな」

 鵺……そうだ、鵺だ。僕達は鵺を追っているんだ。

 先ほどの激戦が嘘のように、起き上がった僕の体に痛みはなかった。

 「聞きたいことは山ほどあるだろうから、行きながら説明しよう」

 そうしてくださると助かりますね。

 心の中だけでそう言って、僕は立ち上がった。


 4


 黒い霧みたいなのに包まれてしまって、わたしはなんにも見えなくなってた。

 空木君も、ヘムロッドさんも見えない。

 「空木くーん! ヘムロッドさーん!」

 大声で呼びかけてみるんだけど、返事はない。

 しぃんとしているだけ。とっても寂しい。

 さっきまで一緒だったのに、二人ともどこに行っちゃったんだろ。離れられるようなスペースはなかったんだけどな。

 きょろきょろ周りを見回してみるけど、全然霧が晴れないからなんにも見えないのと一緒だ。

 うーん、どうしよ。

 腕を組んでむむむ……と考えていると、わたしの人狼イヤーが物音を捉えた。

 ……くすくすくすくす。

 物音じゃなくて笑い声だった。

 しかもなんかイヤな感じの。女の子の声だったけど、絶対に性格悪い。

 「でも、行ってみるしかないよね」

 手掛かりはないし。

 あんまり考えるのは得意じゃないから、こういう時には行動あるのみだ。

 人狼は解除しないままで、わたしは声が聞こえた来た方に歩き出した。

 適当に。



 今までわたしの視界を邪魔してた黒い霧がいきなり晴れた。

 もうすっごく唐突に。

 でも、晴れたのは良いけど、その場所は変な場所だった。

 大きな体育館みたいな場所。

 その一面に、空木君の写真が貼ってあった。

 所々、わたしの家族の写真とか、ヴィクトリアさんの写真とかも混じってるけど、メインは空木君だ。

 それが、壁だけじゃなくて天井にまで貼ってあった。

 ちょっと、これは気持ち悪い。

 それに、この写真。

 全部、わたしが空木君と一緒に居たときの写真だ。

 それなのに、わたしは写ってない。

 どういうことだろ?

 「それは思い出。あたしと、空木君の思い出。大切な思い出」

 耳元でささやくみたいなそんな声がした。

 「!」

 びっくりして振り向くと、そこには女の子がいた。

 けど、ただの女の子じゃない。

 だって、わたしにそっくりなんだから。

 「なぁに? そんなに自分の姿にびっくりする? ふふ、変なの」

 ねちゃぁ、とかそういう音がぴったりの笑い方で、わたしにそっくりの女の子は笑う。

 うえ、キモい。

 あんまりわたしとしては関わり合いになりたくないタイプなんだけど、見過ごせないことがある。

 「なんで、わたしの姿してるの?」

 著作権? 肖像権? とにかく勝手にわたしの姿を真似しないで欲しい。

 だって、わたしはわたしで、他の誰でもないんだから。

 「なんで? なんでってなんで? あたしはこの姿。だってあたしなんだもの」

 うっわ。これって喧嘩売られてるのかな? ううん、あんまり早々(はやばや)と決めつけちゃうのは良くないよね。だって、なにかの事情があるのかも知れないんだし。

 「えぇっと、言ってることがよくわからないかな?」

 「なァんだ、馬鹿じゃないの? あんなにわかりやすく説明してあげたのに。顔だけじゃなくておつむも足りてないんじゃないの?」

 ぶち。

 これはもう怒って良いと思う。

 正々堂々と喧嘩売ってきた以上、わたしはすごすご引き下がるような女子じゃない。

 どっちかって言うと、先制攻撃仕掛けるタイプだし。

 押さえ込んでいた人狼の力を少しだけ解放すると、ざわざわと手足に狼の毛が生えてくる。

 威圧感としてはバッチリだと思う。だって、これで殴られたりしたらとっても痛いし。

 「へぇ? それで、どうするの? あたしをぶっとばす? そんなこと出来ないよ」

 ……暴力はあんまり良くないとは思うんだけど、多少は痛い目を見てもらうことが決定した。

 相手は一応女の子の(っていうかわたしの)姿をしているから、手加減した一撃を放つ。

 「はっずれー」

 ひらり。そんな音が聞こえそうなぐらいなほどの華麗さでわたしの姿をした女子は一撃を躱していた。

 え?

 「ふふ、知ってるんだよ? あたしの一撃は必ず右から。左手はあんまり使いたくないもんね」

 顔を寄せてきて、わたしにそっくりの女子はささやく。

 甘く、そして、冷たく。

 「!っ」

 振り払うみたいに左手でぐと、後ろに飛び退くことでそれも躱されてしまう。

 うそ……けっこう全力だったのに。

 まだ完全には人狼状態じゃないけど、手足は人狼の力を発揮できる。

 人間じゃあ、避けられない。わかっていても、避けられる速度じゃない。

 それなのに、この女子は避けた。

 そして、わたしは気付いた。

 その手足が銀色の毛に覆われていることに。

 冬だっていうのに、半袖にスカートだったから余計にその違和感はすごかった。

 「……え?」

 空白。

 一瞬、理解が追いつかなくて頭の中が真っ白になった。

 相手はそんな隙を許してくれるような感じじゃなかった。

 すごい音を立てて右手が襲ってくる。

 手の先まで人狼化してるから、その鋭い爪なんかが当たったらひとたまりも無い。

 全開モード!

 わたしの頬を狼の毛が覆う。

 髪が変化して頭の上で耳を作る。

 人狼を全開にしたおかげで、相手の動きも多少ゆっくりと見えるようになる。

 全開はちょっと疲れるけど、緊急事態だからセーフ!

 という言い訳をして、わたしはのけぞって爪を躱す。

 普段のままだったら絶対にそのまま倒れちゃうような姿勢になるけど、そこは人狼全開モードのおかげで耐える。

 そのまま、元に戻る勢いをつけて殴りつける。

 だけど、肝心の一発は当たらなかった。

 正しくは、受け止められてしまった。がっちりと、それはもうこの上なく。

 ぎりぎりと爪が食い込もうとしてくるけど、生えている毛のおかげでそれは防げる。

 問題なのは、振りほどけないこと。

 今のわたしの力でもだめ。おんなじぐらいに力が強い。

 っていうか、目の前の女子も頭の上に獣耳が生えてた。

 この子も人狼⁉

 「驚いてるの? 当たり前でしょ。あたしはあなた。だったら人狼の力が使えても何の問題もないし、なんならもっと上手く使えても良いと思わない?」

 掴まれてしまってる右手の代わりに、左手での貫手ぬきて

 これも、掴まれちゃった。

 「習ってた空手、こういう時にも使い物にならないんだからしょうもないよね。ホント、なんで女の子に空手なんてさせたんだろうね、うちの親」

 そんなことは空木君にも言っていない。なのに……この子は知ってる。なんで?

 両方とも腕を取られちゃって、拮抗状態になっちゃう。……まずいかも。

 立ち技はそれなりに得意なんだけど、投げや極めは練習したことない。

 普段なら人狼のパワーで押し切っちゃうんだけど、相手も人狼だとそういうわけにもいかないみたいだ。

 すごく、イヤな予感がする。

 「ねぇ、言ってるじゃない。あたしはあなた。同じ能力で、同じ記憶で、そして、同じ考えを持ってる。ま、ほんの少しだけあたしは自分に素直なんだけどさ」

 そう言って、またねばっこい笑みを浮かべる。

 わたしはそんなに変な顔しない!

 とっても不愉快だ。

 だから、何が何でもわたしはこの子をぶっ飛ばそうと思う。

 両手を掴まれてるなら、足がある。

 地面ごと相手の顔を抉るように蹴り上げる。

 「こっわ。そうやって空木君に近づく女の子は全部ぶっ飛ばすの?」

 また、躱されちゃった。

 向こうは飛び退いたから両手は自由になったけど、全部避けられてるのはショックだ。

 人狼の能力に目覚めてから、ううん、小さい頃から他の子よりも運動神経はよかったから、男子と喧嘩することがあっても大抵は勝っちゃってた。流石に中学生になってから殴り合いの喧嘩はしたことなかったけど。

 だから、女子と殴り合いになっても勝てるつもりだったんだけど、目の前の相手はひと味違うみたいだ。

 向こうの言っていることを信じるとしたら、とってもまずい。

 わたしは、わたしとの戦い方なんてモノは知らない。考えたこともない。

 空木君やヴィクトリアさんとは毛並みが違う。だって、狼だ。

 獣なんだ、わたしの能力は。

 「ほらほら、あんまり考え込んでも無駄なんじゃない? だって、あたしはケダモノ。ううん、『あたしたちは』、ケダモノ」

 また、その顔だ。

 見てると不愉快になってくる顔。

 自分以外には全く価値を見いだしていない顔だ。

 「そぉんなことないよぉ、あたしにだって、執着するものはあるよ。空木君とかさ」

 空木君。その単語でわたしの心臓がどきんと跳ねる。

 「図星? まあ、そうだよね。自分以外に知ってるはずがないもんね。……どれだけ自分が暗い女かってことは、さ」

 口の中がからからに乾いてく。 

 緊張のせいで、上手く喉が動いてくれない。

 「言ったでしょ? あたしはあなた。だから知ってる。あなたが空木君に近づく女にどんな感情を抱いているのかっていうことも知ってるんだから」

 言わせちゃダメだ!

 無理矢理に体を動かして向かっていくけど、あっけなく一撃を躱されちゃう。

 それでも、わたしは追っていく。

 「必死みたいね。でも、だぁめ」

 それを聞いちゃったら、わたしは……。

 「空木君に近づく子、ぜーんぶ殺したいんだもんね。人狼の力で引き裂いて、ばらばらにして、二度と空木君に近づけないように。ヴィクトリアさんも、小唄ちゃんも、佐奈平さなひらちゃんも誰も彼もみーんな」

 力が抜ける。

 わたしが、誰にも言わなかった感情をあばかれてしまった。

 誰にも知られなくなかった感情を、隠しておきたかった感情を、必死に押し殺してきた感情を。

 捨てられなかった感情を。

 「う、うぅ……」

 「なに、泣いているの? ふーん、でもあなたの思ってたことでしょ? 抱いていた思いでしょ? ぶつけたかった感情でしょ? そして、実行したくて、思い留まって、それを繰り返して、自己嫌悪に陥ってる。そうでしょ?」

 ……その通り。何度もわたしは思ったんだ。人狼の力を制御できてるんだから、その力を使って空木君を独占できないかって。

 そう、わたしはとっても悪い子なんだ。

 でも、そんなわたしは空木君と二人で居るときにはその黒い感情から逃れることが出来た。

 楽になることができた。

 だから、わたしは空木君と一緒に居るときには、人狼を忘れることができた。

 でも、それはもう無理みたい。

 こんな風にはっきりと指摘されちゃうと、嫌でも意識しちゃう。

 自分の隠してきた部分を。

 立つことが出来なくなって、わたしは膝をついてしまう。

 もうやだ。

 なんでわたしがこんなことになっちゃうんだろう。

 こんな、自分でも知りたくなかった事実を突きつけられるなんて、誰が予想してたんだろ。

 わかんない。

 今すぐにでも、このまま寝てしまって、夢なのを祈りたい。

 「大丈夫だよ、どうすれば良いのかわかってるでしょ? ……全部殺しちゃえばいいんだよ。空木君に近づく女はぜぇーんぶ。そしたら、空木君もあたしを見るしかない。もし空木君が嫌がっても、止めるにはあたしを殺すしかない。それはそれで永遠の愛じゃない?」

 膝を突いてるわたしに近づいて、“わたし”がささやく。

 なぜか、その言葉はとても、甘く感じた。

 このまま提案に身を任せてしまったら、どんなに楽なんだろ?

 そんな風に考えてしまった。

 「笠酒寄クン。自分自身に負けるんじゃない。キミはそんなに弱いコじゃないだろう?」

 唐突にヘムロッドさんの声が聞こえた。

 どこから聞こえているのかはわからない。でも、確かにヘムロッドさんの声だった。

 声は続く。

 「キミの目の前にいるのはキミが恐れている自分自身だ。鏡に映った自分に呑まれてしまったら、終わりだよ」

 平坦な言葉だった。

 だけど、いつかヴィクトリアさんに言われたことだ。

 いつだったのかは忘れちゃったけど、確かに言われたことだ。

 ヴィクトリアさん……空木君と一緒にいられるのは、ヴィクトリアさんのおかげだ。

 でも、わたしはそんなヴィクトリアさんにも憎しみをぶつけようとしてた。

 そんなわたしは、大丈夫なのかな?

 答えてくれる人はいないだろう。きっとそれは自分で決めることなんじゃないかな。

 ぎりりと歯をかみしめる。

 「ほぉら、あたしと一緒に暴れようよ。ぜんぶぜんぶぶっ壊して、最期にはあたしと空木君だけが世界に残る。それはとっても素敵だと思わない?」

 ……ほんの少しだけ、そう思っちゃう自分がいることを認める。

 わたしには、卑怯で陰湿で、とっても嫌な女の子の部分があることは間違いない。

 でも、それもわたしの一部なんだから。

 「ごめんね。わたし、それは嫌」

 決別なんかじゃない。だって、これもわたしの一部なんだ。

 でも、それに流されるままになってしまうのはもっと嫌だ。

 わたしは悩んでいくんだろう。自分を嫌悪していくんだろう。

 それでいいんだと思う。

 だって、きっとそれは『人間』だから。

 人狼のわたしが、人間でもあることの証明なんだから。

 顔を上げる。

 わたしそっくりの顔が目に入った。

 でも、そろそろ終わらせなきゃ。

 うじうじしてるのなんて、わたしらしくないしね!

 もう一回、人狼を全開にしていく。

 ざわざわとわたしの全身が変わっていく。

 今までは変化が無かった顔の部分も変わっていく。

 ぎしぎしと骨格も変化していく。たぶん、身長もかなり伸びてると思う。服が破けちゃってるし。

 目の前の『わたし』は、見るからに動揺してた。

 完全に人狼になってしまったのは、空木君と戦ったとき以来だから。

 指輪をはめてもらってからも、わたしはこの状態になったことはなかった。

 怖かったから。

 でも、いまは出来ると思った。

 そして、出来た。

 「うそ⁉」

 『わたし』は、びっくりした顔で後ろに下がろうとしたんだけど、もう遅かった。

 完全に人狼化した状態のわたしは、もう追いついてる。

 「ばいばい、わたし」

 どごん。

 打ち下ろした右手には、確かに殴りつけた感触があった。

 だけど、次の瞬間には何もなくなっていた。

 わたしそっくりの『わたし』は跡形もなく消えてしまっていた。

 どうしよう。

 ここからどうやって出たらいいのかわからないんだけど。 

 とりあえず、この体育館みたいな場所の壁を破ってみようかと思った瞬間、わたしの意識は暗転した。




 「目が覚めたようだね」

 いきなり飛び込んできたのはヘムロッドさんの顔だった。

 無表情だけど、その分落ち着く。

 「あれ? 『わたし』はどこですか?」

 うーん、意味不明。

 わたしそっくりの『わたし』。消えてしまった『わたし』の事を訊いたつもりだったんだけど、これじゃあヘムロッドさんには頭がおかしくなったようにしか思えないよね。

 「心配要らないよ。あれはキミの心の中、そのどこかに居るはずだ」

 あれ、話が通じちゃった?

 不思議なこともあるもんだ。

 「は! 空木君! 空木君はどうなりました⁉」

 最後に空木君の姿を見たのは黒い霧に包まれてしまう前だ。

 もしかしたら、まだ霧に捕まってるのかも!

 そんな風に考えているわたしに、ヘムロッドさんは黙って指さすことで応えた。

 指先を追っていくと、空木君が横たわっていた。

 眠っているみたいに目を閉じているけど、なんか苦しそうな表情だ。

 「空木君も笠酒寄クンと同じように自分自身と戦っているところだろうね。これから呼びかける」

 その答えを聞く前にわたしは空木君の隣に移動してた。 

 「空木君、大丈夫⁉ 返事して!」

 嫌だよ、このままお別れになっちゃうなんて嫌だよ!

 空木君の胸を叩く。そうすることで空木君が目を覚ますような気がしたからだ。

 「空木君、起きてよ! ねえ! お願い、起きてよぉ!」

 両手で空木君の胸を叩く。

 何回も何回も。

 「……おい笠酒寄、なんで僕の胸をそうも執拗に殴ってくれているのかな?」

 「空木君⁉ 起きた! よかったぁ!」

 うれしくって思わず抱きついちゃった。

 うっかり人狼の力で。

 解放しちゃってたみたいだ。

 空木君は照れちゃったみたいで、すぐに振りほどかれちゃったけど、わたしは空木君が起きてくれてとってもうれしかった。

 そして、やってきたヘムロッドさんと二言三言会話して、わたしたちは再び鵺を捕まえるために進み始めた。


 5


 「鵺。この妖怪にはね、正体というモノが有って無いようなものなんだよ」

 先を進むヘムロッドさんは唐突にそう切り出した。

 「本来、存在しているということはだね、確固たる自己を持つということなんだ。他と区別できる自己を持つということ。これはね、自我の問題じゃなくて、実は観測時の統一性の問題なんだよ」

 が、どうにもわけのわからない話になりそうだった。初っぱなから高校生にはヘビー過ぎないか?

 「すいません、意味がわかりません」

 「ふむ。例えば空木クンにはボールが見えているとする。しかし、笠酒寄クンには猿に見えてしまっていたとする。……空木クンと笠酒寄クンが見たモノの正体は何だったのかな?」

 ボールを持った猿?

 いやいや、そんな答えじゃないんだろう。

 ……ああなるほど。観測時の統一性っていうのはそういうことか。

 「観測者によって、その形態……いえ、形態に限らず色々なものが変化してしまう。そういう存在なんですね、鵺は」

 「そういうことだ。鵺が映し出すのは見る者が恐れている自分自身である事が多い。もちろん、自覚していてもいいし、していなくても関係ない。ある種、鏡のような存在なんだよ」

 鏡、か。となると、僕が見たのは僕が恐れる自分自身。

 どこかキスファイアを想起させるような僕だったのもうなずける。

 僕は、ヤツに僕自身の『ありえる姿』を見て戦慄したのだから。

 笠酒寄は一体どんな自分を見たのだろうか?

 ちらりと横顔を見てみるが、いつもの笠酒寄に見えた。

 ポーカーフェイスの上手いやつめ。

 それにしても、中々厄介な能力を持っているようだ。

 恐れている自分自身。聞いただけでもぞっとする。

 つまりは、自分の一番見たくない部分、いや、認めたくない部分を見せられてしまうわけだ。

 一人では勝てる自信がない。

 僕の場合は鵺自身が地雷を踏んでしまうというファンブルを冒してくれた自滅だったのだろう。

 ……けっこうコントロールに難があるみたいだな。そういうもんなのかもしれないけど。

 「つまるところ、鵺対策は簡単なんだよ。複数でかかる。これに限る」

 ま、そりゃそうだ。

 タイマンなら無敵に近いような能力だろうが、相手が複数だと途端に戦力としてはがた落ちになってしまうことだろう。

 他者の助けがあれば、自分を破る難易度は格段に落ちる。

 誰か一人の恐怖を投影したとしても、それが他の人間にも恐怖の対象である保証は全くない。

 いや、限りなく低いだろう。

 例えば僕が恐れる僕を投影したとする。

 僕は確かに動揺するだろう。

 しかし、ヘムロッドさんと笠酒寄には通用しない。

 容赦なくぼこって終了だ。

 となると、さっきの黒い霧。あれは鵺が僕達を分断するために行使した苦肉の策ということだろうか?

 しかし、すでに一度披露してしまった策が二度通用するようなヘムロッドさんじゃないだろうし、僕も笠酒寄も自分自身に一度は打ち勝っている。

 一度出来たのならば、次はもっとやりやすい。

 相手はすでに王手をかけられているようなものだ。

 「一応忠告しておこうか。もし鵺が何に変化しても動揺しないことだ。相手が複数の場合、鵺が変化するのは知り合いや仲間の姿だ」

 僕や笠酒寄、ヘムロッドさん。もしかしたらクリシュナさんの可能性もあるか。

 が、本人が隣に居る状態で迷うことはあるまい。

 「クリシュナさんはどこに居るんですか?」

 「現在位置は統魔だね。無事に到着している」

 これでクリシュナさんの姿になられても容赦なく攻撃できる。

 ……まあ、しれっとヘムロッドさんはクリシュナさんの位置情報をリアルタイムで把握しているのはちょっと引くけど。

 魔術じゃないよな? だとしたら僕や笠酒寄が室長にかけられている疑いがある。

 「さて、おそらくこの先に鵺がいるだろうね。もしかしたら魔術師も控えているかも知れないから用心するように」

 どんづまりのドア。

 ノブに手を掛けながらヘムロッドさんはそう言い放った。

 「……大丈夫です。準備はできてます」

 「いつでもおっけーです!」

 笠酒寄のヤツはいつも通りに緊張感が感じられない。

 勝手に張り詰めている僕が馬鹿みたいじゃないか。

 「では行こう」

 買い物にでも出発するかのような気軽さでヘムロッドさんはドアを開けた。




 暗い。

 いや、暗いと表現するよりもよどんでいると言ったほうが正確な気がする。

 僕達が黒い霧に襲われた倉庫よりもいくらかは大きい部屋。

 とは言っても、雑多に置かれている品々によって案の定視界は悪い。

 だが、何かがいるのはわかる。

 気配というか、熱量というか、とにかく僕達以外に生物が存在しているような気がするのだ。

 最初に天井を確認してしまったのは、きっと合成獣キメラとやり合ったときの苦い思い出によるものだろう。

 しかし、僕の懸念は外れて天井には何かが突入してきそうな穴はなかった。

 これで上は注意しなくてもいい。助かる。

 視線を落として僕は気配を探る。

 訓練を受けているわけじゃないんだけど、なり損ない吸血鬼の五感が頼りだ。

 「隠れても無駄だ。生憎とわたしは戦闘系がからっきしなんだが、探知やら創造系統の魔術には造詣ぞうけいが深くてね。……そんな箱の影なんかにいないで正々堂々としたまえよ」

 ヘムロッドさんの一言で、何者かが動揺したのがわかった。

 心臓の音が聞こえるわけでもないのだけど、やはり吸血鬼の五感は鋭いようだ。

 そして、人数は一人。

 もしかしたら隠れているのがいるのかもしれないけど、こっちは三人いるのだから不意打ちは成立しづらい。

 そんなことを考えていると、ヘムロッドさんの言葉通りにやけに大きな段ボール箱の影からゆっくりと誰かが出てきた。

 瞬時に僕は能力を発動しようとして……できなかった。

 なぜなら、出てきたのは室長だったからだ。

 百怪対策室の本来の主、ヴィクトリア・L・ラングナーだったからだ。

 「……ぇ」

 漏れた声は僕のだったのか、笠酒寄のだったのかはわからない。

 だが、動揺したのは確かだった。

 「なんだコダマ、笠酒寄クンも。そんな顔をしていると『怪』につけこまれるぞ。ま、コダマの顔に今一つ締まりがないのは今に始まったことじゃないがな」

 室長の姿をした『何者か』はそんなことを言う。

 いかにも室長が言いそうなことだった。

 記憶にある室長と全く同じの、不敵な笑みを浮かべて、『室長』はゆっくりと僕達に近づいてくる。

 本物? いや、鵺? どっちなんだ?

 混乱する。

 室長を助けるために、『怪』を追っていて、室長に遭遇するだなんてことは考えていなかったが故に。

 どうする? どうしたらいいんだ?

 迷っている間に、『室長』はヘムロッドさんの目の前にまで迫っていた。 

 「ようヘム。元気そうじゃないか。百怪対策室を任せてしまった済まなかったな。後は私に返してくれれば良い」

 親しげに、『室長』はそう言って手を差し出す。

 握手を求めるように。

 「浅知恵だね」

 死刑宣告のようにヘムロッドさんは断じると、いつの間にか持っていた金属片を放った。

 空中に投げ出された金属片は、途中で重力に逆らうように停止すると、そのまま『室長』の首に突き刺さった。

 「……かっ……ぁ……」

 「姿形すがたかたちは完璧だね。私、空木クン、そして笠酒寄クンの三人から見た総合的なヴィクトリアの姿を借りることが出来るとはね。……しかし、知っておくと良い。ヴィクトリアは握手が嫌いなんだ」

 僕にはヘムロッドさんの顔を見ることはできない。しかし、その背中からはほんの少しだけ怒気が漏れていた。

 『室長』は、いや、室長の姿を借りた鵺は首に刺さった金属片を引き抜こうとするが、まるで生きているかのように金属片は徐々に内部にめり込んでいった。

 ……えぐい。

 「安心したまえ。そのゴーレムは殺傷が目的じゃない。一週間ほど動けなくなるがね」

 人間だったら死にます。

 っていうか、あの金属片もゴーレムなのか。何でもありだな。

 鵺はまるで首をかきむしるようにして、金属片を取り出そうとしていたが、やがてその動きは停止した。

 興味は無い、とばかりにヘムロッドさんは室長の姿をした鵺を蹴り倒すと、潜んでいた段ボール箱の影に向かっていった。

 動けなくはなっているのだろうが、一応は警戒しつつ僕も笠酒寄も鵺の横を通ってヘムロッドさんの後を追う。

 鵺が潜んでいた場所、そこにはなにかの魔方陣のようなものがあった。

 僕にはそういう風にしかわからない。笠酒寄だって似たようなものだろう。

 しかし、ヘムロッドさんは素早くその隣に何かしらの文字を書き足し始めていた。

 「なんなんですか? それ」

 「転移術式の魔方陣だね。すでに発動済みだ」

 転移? 何を転移したんだ?

 そう考えてから、そんなものは一つしか無いことに気付く。

 「まさか、殺生石⁉」

 「そのまさかだろうね。瘴気をほとんど感じないからある程度は予想していたんだが」

 まずい。あんな危険なモノが行方不明になってしまうのは非常にまずい。

 しかも、おそらく殺生石を狙っていた奴らの手に落ちている。

 僕達は、遅かったんだ。

 後悔しても、取り返しはつかない。

 痛いぐらいに拳を握りしめても、何も変わらない。起こってしまったことを悔やむよりも、対策を練らないといけないだろう。

 ヘムロッドさんは未だに何かを書き足している。

 「なにを……やっているんですか?」

 「追跡だよ。この魔方陣は一度発動してしまうと次は使えないんだが、座標はわかるからね。即席では正確な転移先を辿たどることはできないが、近くまではいける。まだ発動してから時間経過も少ないから殺生石を追うには今しかない」

 希望と言うには余りにもか細い。しかし、僕には十分だ。

 もちろん、隣の笠酒寄だってそうだろう。

 ちらりと見ると、笠酒寄は力強く頷いた。

 「来るかね?」

 一も二もなく、僕達は頷いた。


 



 


 

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