第十二怪 ヴィクトリア・L・ラングナー


 1


 合成獣キメラ退治から数日。

 弐朔にのり高校の教室で、僕は退屈な世界史の授業を受けていた。

 正直、世界史を選択してしまったのはちょっとした失敗だと思っている。

 覚えることが多すぎる。

 その上に、あっちこっちに話題が飛んでしまうので地理も覚えないといけないというのは労力が二倍どころではなく、三倍、四倍にはなってしまっていると思う。

 ……地理のほうにすりゃあよかったな。

 何度目かもわからない、そんな考えが僕の頭の中の大半を占めていた。

 制服の内ポケットの中に入れているスマートフォンが振動した。

 どうせまたお知らせメールだろうと思って、僕はそのまま板書を写しながらも、教師のしょうもない話をノートの端にメモし続けた。

 


 授業が終わって、ノートやら筆記用具を全部しまってから、スマートフォンを確認する。

 室長からのメールだった。

 〈これを見たら至急、笠酒寄かささきクンを連れて百怪対策室に来い。学校はサボれ〉

 無視してしまおうか、なんてことも一瞬だけ考えてしまったが、室長が『至急』という言葉を使うのは非常に珍しい。

 こういうときには無視するとひどいことになるのはわかっている。

 となれば僕がやることは一つだった。



 「ねえ空木うつぎ君、本当に何も言わずに学校抜け出してきてよかったのかな?」

 走りながら笠酒寄が僕に訊いてくる。

 荷物を持った状態で、しかもけっこうな速度で走りながらなのだが、僕と笠酒寄の身体能力なら全く問題ない。

 早足で歩きながら会話しているぐらいの感覚だ。

 「しょうがないだろ。上手い言い訳が思いつかなかったんだから。僕とお前で同時に体調が悪くなるなんてことも、あらぬ誤解を生むだけだしな」

 僕たちが付き合っていることはけっこう知られている。

 となると、デートするために学校を抜け出そうとしていると思われるだろう。

 どっちにしろ、こうやって実際に抜け出してしまった以上は噂にはなってしまうだろうけど。

 後日の生徒指導室への呼び出しが怖い。あとクラスの噂も。

 平日の真っ昼間に高校生が荷物を持って走りながら会話しているというのは不気味だろうが、幸いにもあまり人とすれ違うことはなかった。

 昼飯は百怪対策室に到着してから食べることにしよう。

 走っているから、弁当はひどいことになってしまっているだろうが。

 はぁ。

 今日の弁当の中身にフルーツ系のものが入っていないことを祈る。



 ハイツまねくね二〇一号室。

 いつものようにインターホンを押す。

 キン、コーン。

 この音もだいぶ聞き慣れてしまった。

 ブツ、という音。

 室長が出た音だ。

 『コダマか? 入れ』

 そのまま音声は切れてしまった。

 おかしい。

 いつもならここで室長から僕に対するからかいが入ってくるはずなのだ。

 それが今日に限ってないというのはおかしい。

 笠酒寄のほうを見ると、信じられないものを見た、という表情で固まっていた。

 「……変だよな?」

 「……変だね」

 僕と笠酒寄の認識が一致していることを確認してから僕はドアを開けて百怪対策室に入った。



 百怪対策室の中はいつも通りだった。

 応接室に入ると、室長がデカいスーツケースを脇に置いて真剣な顔で地図を見ているのを除いては。

 いつもなら大抵はタバコをふかしながら漫画を読んでいたり、アニメを見ていたり、ゲームをしていたりする室長が真剣に仕事の準備らしきものをしている。

 夏休みにもこんなことはなかった。

 「し、室長? 何があったんですか?」

 動揺が思わず声に出てしまった。

 「ああ、先日の合成獣は覚えているな? アレが製造された場所がわかった」

 隣の笠酒寄がムッとするのがわかった。

 あの時には笠酒寄は合成獣とのバトルには不参加だったから、僕から顛末てんまつを聞くしかなかったのだ。

 次の日にはかなりしつこく訊かれた。

 僕は結局何も出来なかったようなものなので話したくはなかったのだが。

 なので、一応は合成獣を退治したことは笠酒寄も知っている。

 人から聞くのと、実際に体験するのでは全くの別物だろうが。

 まあ、そのことは置いておこう。

 今はもっと大事なことがある。

 「製造された場所って……そんなのわかるんですか?」

 「ああ、あの合成獣の固有波長を追っていったらしい。統魔の分析班と調査班も少しは仕事をしているみたいだな」

 製造された場所、ということはあの合成獣みたいなのが大量に居る可能性もあるだろう。

 正直、そんなのは統魔のような組織が担当するべきだと思う。

 しかし、こうやって僕たちが呼び出されたということは、百怪対策室に統魔から依頼が来たということだろう。

 依頼があって、それを室長が受けた以上は助手である僕は手伝わないといけない。

 しかし、笠酒寄は無関係だ。

 危険地帯に自ら飛び込んでいくようなことはしなくてもいいだろう。

 「ふん、考えていることはわかるぞ。だがコダマ、おそらくその製造施設には合成獣はいない。いや、まだいないと言った方が正確か」

 「? どういうことですか室長。合成獣の製造施設なんですよね、そこ」

 「そうだ。だがな、合成獣というモノは意外に安定するまでに時間がかかるんだ。合成したモノが多ければ多いほどな。私が始末したモノみたいなレベルの合成獣なら半年はかかる。そうホイホイ造れるモノじゃない。もし未完成のやつを出したら、最悪暴走して合成獣に殺される」

 つまり、今は向こうの戦力が整っていないということか。

 「なら、統魔の隠蔽いんぺい班とか専門の人たちが行くべきなんじゃないですか? 僕たちみたいなのに依頼しなくても」

 「それなんだがな、どうにも現在、統魔もごたついているらしい。早急にける人員がいないそうだ。ヘムにも訊いてみたんだが本当らしい」

 室長は肩をすくめる。

 被害が拡大しないようにするためには拠点がわかっている間に強襲を仕掛けるしかないということか。

 組織内のごたごたで上手く動けないのは魔術師の世界でも一緒のようだ。

 「笠酒寄も……連れて行くんですか?」

 「そうだ。今回、人手は多い方がいい。それに笠酒寄クンの能力を私は高く評価しているんだ」

 うれしいような、うれしくないような。

 当の笠酒寄はうれしそうだが。

 「大丈夫だよ。任せて。わたし強いから」

 子供みたいな笑顔で笠酒寄はそう言ってくる。

 強いのは骨身にしみている。

 未だにあの人狼状態の笠酒寄とのバトルは夢に見る。

 それでも僕は……

 「わたしは、空木君に守られているだけは嫌。わたしも空木君を守ってあげたい。男女平等、でしょ?」

 返す言葉がなかった。

 普段から僕が使っている言葉を使われるというのはなんともくすぐったいものだ。

 「……わかった。だけど、もし危ないと思ったら、お前は真っ先に逃げろ。僕と室長に付き合って死ぬ必要は無いからな」

 笠酒寄はほんの少しの間、僕の顔を見つめていた。

 そのうちに、ふ、と笑ってこう言った。

 「空木君もヴィクトリアさんも死ぬ必要なんて無いよ」


 2


 なぜか百怪対策室に置いてあった僕と笠酒寄の私服に着替え、室長のクルマに乗り、途中に休憩を挟みながら五時間。休憩は一時間程度だったから移動時間は四時間ほど。 

 そんな道のりを経て、僕たちはとある山の麓に来ていた。

 整備された道はなくなっており、クルマで入ることが出来るのはここまでのようだ。

 「ここが目的地ですか? ……製造施設とかが有るようには見えないんですけど」

 「クルマで入れるのはここまでというだけだ。目的地はもっと上だ」

 後部座席から質問した僕に対してぞんざいに答えながら、室長は既にデカいスーツケースを持ってクルマから降りていた。

 慌てて僕と笠酒寄も降りる。

 鍵もかけずに室長はそのまま山頂へと続くと思われる山道に入っていく。

 「ちょっと室長、鍵かけなくていいんですか? クルマ盗まれちゃいますよ」

 「問題ない。私の許可が無い生物が入り込んだら栄養にされる仕組みになっている」

 そんなことになっていたのか、このクルマ。っていうかコイツ生物か。

 室長周辺のモノにはうかつには触れないと思っていたのだが、まさか人を乗せるクルマにまでそんなたぐいの仕掛けをしているというのは、もはやいたずらが過ぎるを通り越している。

 絶対に今までに死人が出ている。

 「空木君、将来クルマ買うときにはヴィクトリアさんに細工してもらおうね」

 「お前の中では僕と結婚することと、クルマ買うことは確定なのかよ……」

 ひそひそと、僕にだけ聞こえるように笠酒寄は突っ込みどころ満載のことを言ってくる。

 なんだか、佐奈平さなひら君との接触以来、やけに押しが強くなってきている。

 女子と付き合うのが初めての僕にはちょっとばかり引いてしまう部分もある。

 そこを許容できてこその男なのだろうか?

 疑問はつきない。

 ともあれ、室長を見失うわけにはいかないので、僕と笠酒寄は室長について山に足を踏み入れた。



 ずるずるとスーツケースを引きずりながら室長は山道を進む。

 途中、足を止めることもあったが、それは方向を確認しているだけのようだった。

 コンパスと地図を取り出して眺めていたから、多分そうだろう。

 ストッキングが伝線してしまうことを気にしている笠酒寄にあきれながら(そもそもズボンを履いてこいという話だ)、僕たちは一時間近く山を登っていった。

 特に疲れると言うこともない。

 人間やめているとこういうときには便利だ。

 日も落ちてしまい、暗くなってきても支障は無い。

 元々日光がある間はかゆくて全力を発揮できないので、僕と室長に関しては夜の方が都合がいい。

 その辺りの兼ね合いもあって、昼間から出発したというのもあるかもしれない。

 やがて、開けた場所に出た。

 いや、開けた場所というよりも、そこは……

 「……学校?」

 隣の笠酒寄が不思議そうに呟く。

 そう、僕たちの前に現れたのは学校だった。

 しかも木造校舎で、外観はかなり年季のはいった感じのだ。

 肝試しにでも使ったらさぞいい感じに盛り上がることだろう。

 だがしかし、僕たちは肝試しに来たわけではない。

 合成獣の製造場所を強襲しに来たのだ。

 つまりはここが……

 「合成獣の製造所、だな。廃校になった小学校を利用しているのはおそらく見つかりにくくするためか。こんな場所を訪れる人間なんていないからな」

 室長に先を越されてしまった。

 こういう時には決めたいものだが、そうはいかないらしい。

 室長はスーツケースを地面に投げ出し、そのまま校舎のほうに向かって行く。

 「ちょっと室長、このスーツケースどうするんですか?」

 「それは元凶を放り込んでおくために持ってきたやつだから今は必要ない。たたきのめしてから、ここまで連れてくるからな」

 なんだろう。静かな怒りを感じる。

 こういう時の室長には逆らわないに限る。

 僕と笠酒寄は無駄口を叩かずに室長の後についていった。



 校舎玄関。

 ここは廃校になっている小学校のはずだ。

 しかし、中に入ってみてわかった。

 なんらか、人の手が入っている。

 外からはわからなかったが、中はきれいなものだ。

 今からでも小学校として使用しても問題ないぐらいには整備されている。

 なるほど。たしかにこれは何者かがここを使用しているのは間違いないみたいだ。

 廃校になっているのに手入れされているのは不自然すぎる。

 文化財か何かに指定されているのなら不思議はないが、そんな案内などは全く無かった。

 使われなくなって、その後には放置されているだけのはずだ。

 いや、今は何者かが使っているのか。

 もうこの際、この校舎ごと焼き払ってしまった方がいいじゃないかと思ってしまう。

 使われていない学校なんだし、消火をきちんと出来れば問題はないような気もする。

 多少は事件になるかもしれないが、どうせ事後処理でなんやかんやと処分する羽目になるのだから手っ取り早くていいと思うのだが。

 僕はそんなことを考えて、そのまま室長に伝える。

 「コダマ、万が一、元凶が焼け死んでしまったらどうする? 今回の件では殺しまでは許可されていない。その場合は統魔の追求をキミが受けてくれるんだろうな? 最悪、拘束指定や殲滅せんめつ指定もあり得るぞ」

 う。

 依頼は合成獣を無断で製造している魔術師、もしくはそれに準ずる人物、または存在の確保だ。元凶をどうにかしたはいいものの、百怪対策室がダメージを受けては本末転倒だ。

 やはり、元凶を生け捕りにするしかないみたいだ。

 なるべく殺さず、というのが統魔の理念らしいが、こういう時ぐらいは手段を選ばずに依頼してほしかった。

 それなら辺りを焼き払ってしまうだけでいい。

 いつものことながら、簡単に解決というわけにはいかないらしい。

 結局、いつものように直接対峙するしかないようだ。

 ……覚悟を決めよう。

 今回は初めから室長もいるし、その上に人目を気にして能力を出し惜しみすることもない。

 圧倒的に有利な条件なのだ。

 「ほら、さっさと行くぞ。とっとと元凶をぶっ飛ばして、統魔に連れて行って、その上で自分のやったことをひどく後悔させてやる」

 僕の紆余曲折うよきょくせつを経た思考なんて知ったことか、とばかりにいつものようにいたずらっ子のような笑みを浮かべて室長は意気揚々と校舎の奥に進んでいく。

 笠酒寄と顔を見合わせてから、僕たちは室長の後を追った。

 

 3


 「コダマ、そのサボテンには近づくな。爆発するぞ」

 「へ?」

 言われたときにはもう遅かった。

 ちょうど僕の目の高さの場所にあったサボテンはすさまじい膨張ぼうちょうを起こして、その身を弾けさせた。

 「あっっぶねぇ。ちょっと室長! もう少し早く忠告してくださいよ!」

 ぎりぎりのところで僕の能力発動が間に合った。

 弾けて、四方八方にそのトゲの生えた自らを炸裂させようとしたサボテンを、僕の能力で無理矢理押しとどめたのだった。

 十分に爆発のエネルギーが散ってしまったことを確認してから能力を解除する。

 バラバラとサボテンの破片が床に散った。

 「何ですか、これ? 爆発するサボテンなんて初めて見たんですけど」

 「ああ、古典的なトラップだな。『びっくりサボテン』と呼ばれる嫌がらせアイテムだ」

 ごく平坦な口調で室長はそんな風に説明する。

 これが嫌がらせアイテムで済んでしまうということに僕は驚愕きょうがくしていた。

 びっくりどころじゃないだろ。

 「……嫌がらせじゃ済まないでしょ。最悪、失明しますよ」

 「統魔の学舎、というか『白林檎しろりんごその』ではよく見かけたな。引っかかる方が悪い。魔術師ならば常に注意深く事物は観察せよ、というのは第一の教えだ。ま、普通に失明したぐらいならばすぐに処置したらどうにでも出来るから安心しろ」

 全然安心できない。

 例え再生するとしても目玉にサボテンのぶっとい針が刺さるのは嫌だ。

 想像するだけで寒気がする。

 絶対にその『白林檎の園』とやらには行くことはないだろうが、死んでも行かない場所に記録しておこう。

 「さっさと行くぞ。いたずらアイテムなんぞにかまっている暇はない」

 

 

 「ヴィクトリアさん! 大変です! 廊下に沈んでます! 廊下で溺れちゃいます!」

 僕たちの前方でレーダーのように周囲の音を聞きながら進んでいた笠酒寄が、悲鳴を上げてズブズブと板張りの廊下に沈んでいく。

 とっさに僕は能力を発動して、笠酒寄を上に引っ張る。

 なんとか引き上げることは出来たものの、まるで廊下が底なし沼になったかのように笠酒寄が沈んでいくというのはシュールだった。

 「……室長、これも統魔ではよくあることなんですか?」

 非難の色をにじませて室長に訊いてみる。

 「私に文句を言っても仕方が無いだろう。仕掛けたのは私じゃないからな。が、察しの通りにこいつもよくあるトラップだな。『馬鹿呑み床』。正体は擬態したスライムだ」

 スライム? 

 それって、あのスライムだろうか。

 なぜか日本のRPGでは雑魚キャラとして認識されているが、本来は非常に厄介な相手である、あのスライム?

 よりによって、こんな時に現れなくてもいいと思う。

 どうする? やるなら火をもちいるのが有効らしいが、そんな用意はしていない。

 いや、室長なら魔術で出来るのか?

 このままではここを通ることが出来ない。

 回り道をしていってもいいのかもしれないが、そこにもコイツが擬態して潜んでいないとは限らないのだ。

 ならばここで対処してしまうのが一番いいだろう。

 「どうやって対処するんですか? まさか泳いでいけ、なんてことは言いませんよね?」

 「泳ぐわけないだろう。第一、私は泳げない。こうするんだ」

 ぽいっと室長はタバコを投げる。

 タバコはさっき笠酒寄が沈んでいった場所にぽとりと落ちると、そのままズブズブと沈んでいった。

 次の瞬間、床だけでなく壁も一緒にグニャグニャと波打ち始めた。

 何が起こっているのかはわからない。ただ気持ち悪いだけだ。

 だが、なんとなく、苦しんでいるような気がする。

 動きが、なんとなくだが悶えているように見えるのだ。

 やがて、床も壁も灰色に変わり、その上に波打った状態で固まってしまった。

 「ど、どうしたんですか? タバコに見えたんですけど、何を放り投げたんですか?」

 強力な毒物でも使ったようにしか見えない。

 「『馬鹿呑み床』は非常に繊細なんだ。毒、というか刺激物に弱い。ニコチンやタールなんて摂取してしまったらたちまちの内に死んでしまう。だから白林檎の園では常に何からの刺激物を携帯しているのが常だったな。懐かしい」

 室長がタバコを常に携帯している言い訳にしか聞こえない僕は、心が汚れているのだろうか?

 「つまり、用心していない馬鹿を呑み込んでしまうから、『馬鹿呑み床』なんですか?」

 「そうだ」

 ……誓って白林檎の園には足を踏み入れない。



 見た感じ、トラップである。

 『びっくりサボテン』、『馬鹿呑み床』。二つの妙な嫌がらせトラップをかいくぐって、たどり着いたその先にはこれまた大きな鏡があった。

 おおよそだが、三メートルぐらいはあるだろうか。

 全身を見ることが出来るので、姿見すがたみと表現した方がいいのかもしれない。

 そんな鏡があった、鏡そのものが扉になっている感じだ。

 僕たちはだんだんと校舎の奥に進んできているのだが、ここを通らないと先には進めない。

 ……多分、これも洒落にならないようないたずらアイテムなんだろう。

 もうわかってきた。

 「見て見て、空木君。でっかい鏡!」

 うん、笠酒寄。お前はこの数分で何を学んだ?

 やけにはしゃいで鏡の前で服装チェックを始める笠酒寄だった。

 「これはどういうアホなアイテムなんですか?」

 笠酒寄には聞こえないように、こっそりと室長に尋ねる。

 「『堕落の鏡』。自分が非常に美化されて映ってしまい、身だしなみを整えるということをサボってしまうようになる、というアイテムだ。白林檎の園では鏡はすべてこれだ」

 ……もう潰れてしまった方がいいんじゃないかな、白林檎の園。

 嫌がらせマスター養成所か。

 誰がそんな魔境にしてしまったのかは知らないが、責任を取って全部回収するなり、破壊するなりしてほしい。

 ぽわんとした感じで鏡に映った自分に見とれている笠酒寄を見ながら、僕はそう思う。

 「……今まで気づかなかったけど、もしかして、わたし美少女?」

 完全に術中にはまってるじゃねえか。

 「オラァ!」

 跳び蹴り。

 僕の『いい加減にしろ!』という思いを乗せた一撃を食らって、『堕落の鏡』は粉々に砕け散った。

 「ああぁ! ひどい!」

 「うっさい! お前ちょっとは緊張感を持ってくれよ! 敵地に乗り込んでいるんだぞ!」

 「身だしなみは大事!」

 「時と場所と場合を考えろ!」

 「夫婦めおと漫才してないで先に進むぞ」

 言い合う僕と笠酒寄を室長がたしなめて、僕たちはなんとか先に進み出した。

 


 「一つ、確実なことがある」

 「なんですか室長。白林檎の園がろくな場所じゃないってコトですか? それなら所属していた当時に気づいてほしかったですね」

 嫌みを込めて言い返したものの、室長はみじんも堪えてないようだった。

 「ちがう。この場所に潜伏している奴は少なくとも統魔で学んだことがあるが、腕前は大したことがない、ということだ」

 「魔術師界隈ではありふれたモノじゃないんですか?」

 「そうでもないんだ。どれも統魔の課程を修了した者だけに進呈される物品だからな。危険度は低くても、そうそう手に入るものじゃない。少なくとも、薬草学、付与魔術、錬金術。幻影魔術に精通してないといけないからな。そんな大層な魔術師がこんな場所でこんなしょぼいトラップを仕掛けるわけがない。つまりは、統魔の課程は修了したものの、自分では侵入者用のトラップを作れないへぼ魔術師、というわけだ」

 それは……助かる。

 強大な魔力を持った大魔術師を相手にして、生きるか死ぬかの死闘を繰り広げたくはない。

 しょぼい魔術師なら、僕の能力で決着がつくかもしれないし、それがダメでも室長と笠酒寄、そして僕の攻撃をしのげる奴がそうそういるとは思えない。

 今回は移動時間だけが長い一件になりそうだった。

 「ふむ。ここがおそらくは研究室ラボだな」

 目の前にあるのは講堂の入り口だ。

 重厚な扉は固く閉ざされており、開きそうもない。

 「どうします? 別の入り口を探してみますか? それともどうにかして開けてみますか?」

 「……面倒だ。こうする」

 スタスタと入り口に近づき、室長は大きく拳を後ろに引く。

 バッッッッッガァン。

 金属がひしゃげるすさまじい音と共に、変形した扉は奥に吹っ飛んでいった。

 吸血鬼の一撃を受けてしまっては、どんなに重厚な扉でも関係なかったようだ。

 「出てこい、愚か者。今から殴って、ふん縛って、その上で暗くて狭い場所に閉じ込めてやる」

 僕は心の底から相手に同情した。



 4



 元は講堂だったであろう場所だが、今はもう三流ホラーの舞台のようになっていた。

 所々にある大きな培養槽ばいようそうの中には多種多様の奇妙な生物やらその破片やらが浮かんでいた。

 その上、至る所に血痕のようなものもあり、更には無数のケーブルが床を、壁を這い回っている。

 ごうんごうん、という何かの駆動音のようなものも聞こえる。

 「当たりビンゴ、間違いない。ここが合成獣の製造施設だな」

 タバコを取り出して、火をともすと、室長は奥にずんずん進んでいく。

 「室長、ちょっと待ってくださいよ。肝心のつくっている奴はどこに居るんですか?」

 「そんなは決まっている。一番奥で震えていることだろう」

 振り向きもしないで室長は答える。

 何かしらの確信があるのだろうか。

 とりあえずついて行こう。

 ……笠酒寄、その辺のものに興味があるのはわかったから、いじるのはやめておけ。

 室長の後を追おうとしたその時だった。

 猛烈に嫌な予感を覚えて、瞬時に僕は横に跳んだ。

 一瞬前まで僕がいた場所に電撃のようなものが殺到して、弾ける。

 ぞっとする。あんなものを食らっていたらしばらくは動けなくなってしまうところだった。

 慌てて笠酒寄を見ると、笠酒寄も後ろに飛び退いていた。

 どうやら僕だけじゃなくて、笠酒寄も狙われたらしい。

 「笠酒寄、大丈夫か?」

 「うん、平気。飛んでくるのわかったし」

 あっけらかんと笠酒寄は返事をする。

 予感とかじゃなくて、察知していたらしい。

 喧嘩したら僕は負けるだろうな、これは。

 あとは心配するだけ無駄だろうが、室長か。

 「室長、大丈夫でしたか?」

 「ああ、この白衣を貫くだけの威力はなかったからな。問題ない」

 「え、それ、そんなに防御力高いんですか?」

 「防護の魔術を施してあるからな。伊達や酔狂でいつも着ているわけじゃないぞ」

 少なくとも、白衣を選んだのは室長だと思う。センスは言い訳できない。

 しかし、被害こそなかったものの、攻撃を受けたという事実はくつがえせない。

 確実に、こっちを排除するつもりだ。

 僕と笠酒寄は室長のそばまで走る。

 あんまり身を寄せ合っても動きにくくなるだけなので、それなりには距離を保って、しかしながら、とっさにフォローできる距離をとる。

 「どうしますか? 室長。どっから攻撃してきたのかとかはわかりませんけど、このまま膠着こうちゃく状態を続けるつもりはないんでしょう?」

 「当然だ。というか現状、すでに膠着状態じゃないんだがな。笠酒寄クン、探してくれ。対象は人間だ」

 「わかりましたー。じゃあ、静かにしててくださいね」

 あ。

 半径五百メートル圏内なら何が起こっているのかがわかってしまう人狼の聴覚。

 この講堂ぐらいの範囲なら相当によく聞こえることだろう。

 つまり……

 「あっち! あのセンス悪い衝立ついたての向こう側にいます!」

 びしり、と勢いよく笠酒寄がセンスの悪い衝立(極彩色)を指さす。

 「コダマ、やれ。あとは私がやる」

 「はいはい」

 呆れ半分、相手に同情半分だ。

 能力を発動して、勢いよく衝立を奥に吹っ飛ばす。

 真っすぐ吹っ飛んでいくはずの衝立は何かにぶつかって、進路を変更する。

 問題はぶつかられた側だった。

 どうも顔面からいってしまったらしい。

 変な声を上げた後に、そのまま顔を押さえてうずくまってしまっている。

 そんな隙だらけの状態に室長は疾風はやてのように駆けよる。

 右手を変形能力と硬質化で文字通りの手刀にして、首元に当てる。

 「動くな。私はヴィクトリア・L・ラングナーだ。統魔にいたことがあるなら、『略奪者』の異名ぐらいは聞いたことがあるだろう? 命よりも大事なモノまで奪われたくなかったら大人しくしろ」

 怖すぎる。

 その上、脅し方が堂に入っている。

 うずくまっていた人物は室長の脅しが効いたのか、ぴくりとも動かない。

 「よし、いいだろう。そのままゆっくりと立ち上がれ。妙な真似をしたらこのまま首を掻っ切って、その上で死なない程度に治療してから運ぶ」

 室長に言われるがままに、うずくまっていた人物はゆっくりと立ち上がる。

 その際に両手を挙げるのではなく、手を組むようにして立ち上がったのは魔術師のしきたりかなにかだろうか?

 立ち上がった人物は、やせぎすの男性だった。

 年のころは四十ぐらいだろうか。

 ローブのようなものをまとっていること以外は平凡な外見だった。

 「コダマ、こいつの腕を折れ。足はやめておけ。引きずっていくことになる」

 うわー。容赦ねえ。

 逆らったら僕がひどい目に遇うのでここは従うが。

 「や、やめてくれ! 痛いことはしなアアアアアアァァァ!」

 なんか言いかけていたが、途中から僕が能力を使って腕を折ったのでわからない。

 良心は痛まない。

 見た目は平凡でも、こいつは何人も殺(あや)めた合成獣を作った人物なのだ。

 わかりやすい悪人は助かる。

 少なくとも、わかりにくい悪人よりも。

 腕を折られて、身をよじっている痩せぎすの男の髪を下から引っ張るようにして、室長は動きを押さえ込む。

 「質問に答えろ。最初はお前の名前、次はどうやってあの合成獣を造ったのか、だ」

 見た目中学生女子に尋問される四十ぐらいのおっさん。

 奇天烈きてれつな光景だ。

 「ひ、ひぃぃぃぃ! わかった、わかりました! 答えます! だから殺さないで!」

 「これ以上質問に答えないつもりなら、指先から刻んでいく」

 「な、名前は阿次川あじかわ雑路ぞうろ! 合成獣は奇妙な人物からもらった魔術書を参考にして造りましたぁ!」

 本職さながらの脅しに屈したのか、男、いや阿次川は極めて簡潔に、そして怯えながら答えた。

 すうぅ、と室長の目が細くなる。

 「ほう、そのもらった本とやらはどこにある? 隠し立てするとためにならんぞ」

 「ふ、服の中に入っています! だ、だから殺さないで!」

 必死に阿次川は懇願するが、室長は全く聞いていない様子で、阿次川のローブの中をまさぐる。

 そのうちに一冊のやけにごつい装丁の本を取り出した。

 ついでに、阿次川の首筋に手刀を解除した右手で一撃を入れて気絶させる。

 情けない声を上げて阿次川は気絶して、床にぶっ倒れる。

 とりあえず、犯人は確保したので僕も笠酒寄も室長のほうに寄っていく。

 あのとんでもない合成獣を造り出した本、とやらが気になってしまったのだ。

 室長は本を閉じたまま、ためつすがめつ見ていた。

 「室長、何か特別な本なんですか? 呪いがかかっているとか」

 所持してしまったら合成獣を造り出したくなってしまう本、とかあっても不思議じゃない。

 「いや、魔術を施されてはいないな。単なる教本に近い。ただ、統魔が出来る前の、な」

 「へ?」

 「コダマ、何を驚いているんだ? 統魔が設立される以前にも弟子に自分の魔術を伝えるために教本を製作していた魔術師はいる。ほとんどは統魔設立の際に統廃合されてしまって、残っていないがな」

 そのうちの一つだろうな、なんてことを室長は言いながら本を開く。

 「まったく、どこのどいつだ? こんな迷惑なモノを残し……」

 ペラペラとページをめくっていた室長の手が最後のページで止まった。

 信じられないものを見た、といった様子で目を見開いている。

 「ヴィクトリアさん? どうしたんですか? お腹痛くなっちゃいました?」

 笠酒寄のアホな質問にハッと我に返った室長はぱたんと本を閉じた。

 「いや、なに、懐かしい名前を見たものだからな。コダマ、笠酒寄クン。とっとと帰ろう。後の処理は統魔の隠蔽班がやってくれるだろうが、一旦、百怪対策室に帰ってからにしよう」

 すたすたと室長が先に戻り始めてしまったので、気絶した阿次川は僕が背負っていくことになってしまった。



 来た道を辿たどり、玄関から出たときにはなんとも言えない開放感があった。

 緊張し続けていたせいだろうか?

 ともあれ、今回は終わったのだから早く休みたい。

 クルマまではまだ歩かなくてはいけないが、先にこの阿次川をスーツケースに閉じ込めておいた方がいいだろう。暴れられても困る。

 とりあえず、阿次川を背負ったまま、僕はスーツケースの前まで来る。

 「室長、これ開けてくれませんか? トラップとか仕掛けてあったら困るんで」

 返事がない。

 振り返ると不思議そうな顔の笠酒寄がいた。

 「あれ? 室長は?」

 「え? あ、ホントだ。いないね。さっきまでいたのに」

 周りを見渡してみると、室長は玄関先にぼうっと立っていた。

 「室長―! 何やってるんですか? 早くこの怪しいスーツケース開けてくださいよ!」

 遠くにいるから少しばかり大声になってしまう。

 周りは山なので近所迷惑とか考える必要も無い。

 僕の大声になんとか気づいたのか、室長はむかつくぐらいに悠然とこっちに歩いてきた。

 「何やってたんですか? もしかして、まだ合成獣の製造者はいる、とか言い出さないでくださいよ?」

 「そんなわけ無いだろう。資料は回収したんだからもう無理だ」

 ……なんだか返しにいつもの毒がない。

 どうしたっていうんだ?

 動作自体に異常はないのだが、明らかにいつもの調子の室長じゃない。

 スーツケースもすんなり開けてくれた。

 「ほれ、さっさとソイツを放り込め。中からは開けられないから逃げられる心配も無くなる」

 僕がスーツケースの中に阿次川を入れる、というか下半身をはみださせるように置くと、ずぽん! と阿次川がスーツケースの中に呑み込まれてしまった。

 ついでにふたも閉まる。

 こわ! なにこれ⁉

 ちょっとどころじゃないホラーだ。

 「さ、クルマに戻って、百怪対策室に帰ろう。今日は疲れたしな。統魔に行くのは明日でいいだろう」

 「いいえ、ここでその製造者と資料を回収するわ」

 「「「!」」」

 突然のことに僕も室長も笠酒寄も驚く。

 だが、その声には聞き覚えがあった。

 するすると優雅な歩き方でその人物は僕たちの目の前に現れる。

 どうやら死角になる部分に潜んでいたらしい。

 筋骨隆々で見上げなければならないぐらいの長身。

 そして、その女性のような美しい顔。

 今日は、以前見たイブニングドレスではなくて、やけに頑丈そうなコートと皮のズボンだったが、このやけに響くバリトンボイスとはよく合っていた。

 久道院くどういん八久郎やくろうさん。またの名をミサトさん。

 室長と同じ魔術師、そして、統魔に所属する魔術師だ。



 5



 八久郎の姿を認めて、コダマは少しばかり安堵していた。

 てっきり、阿次川の仲間か何かがやってきたのかと思ってしまったのだが、知り合いだったということで緊張がゆるんでしまったのもあるだろう。

 笠酒寄も同じだった。

 しかし、ヴィクトリアだけは警戒を強めていた。

 「何の用だ、八久郎。私はお前を呼んでいないぞ」

 「ご挨拶ね、ヴィッキー。アタシはアンタに呼ばれないとここに来ちゃいけないのかしら?」

 「その通りだ。これは私が、統魔に、直々じきじきに受けた依頼だからな」

 「冷たいわねぇ。でもね、アタシも統魔直々のご命令なのよ。……だから回収した物品はここで渡してもらうわ」

 二人の間の空気が張り詰めていく。

 コダマも笠酒寄もその空気に呑まれてしまって、一言も発することが出来ない。

 ただ、黙って二人の魔術師のやりとりを聞いていることしか出来なかった。

 「統魔直々に、だと? だったら証明できるのか? 最悪、お前は何者かが八久郎に化けているだけなのかもしれないからな」

 あくまでヴィクトリアは厳しい目つきのままで八久郎から視線を外さない。

 「……疑り深いのね。はい、証明よ。アンタはこれでわかるでしょ?」

 ヴィクトリアの方に八久郎は何かを放り投げる。 

 それは大きく傷が入れられた白い林檎が描かれたペンダントだった。

 統魔においては、その紋章は最優先命令を受けていることを示していた。

 同時に、表立って実行できない命令であることも。

 「なるほど。本当に統魔の命令を受けてやってきた八久郎のようだな。それで、『対魔術師戦専門部隊』隊長のお前がなぜここにやって来た?」

 初めて聞く八久郎の肩書きにコダマと笠酒寄は驚愕きょうがくする。

 ただのオカマではないとは思っていたが、そんな仰々ぎょうぎょうしい肩書きを持っているとは全く予想していなかったのだ。

 二人にはかまわずに、ヴィクトリアと八久郎はあくまで静かに、しかし、一触即発の雰囲気のままで会話を続ける。

 「さっきも言ったでしょ? ヴィッキーがここで回押収したモノと、合成獣の製造犯、両方を回収しに来たのよ」

 あくまで平穏な言い方で八久郎は告げる。

 しかし、その目は強い覚悟を秘めていた。

 「……お前に回収してもらわなくとも、私が直々に統魔に持って行ってやる」

 「ダメよ。場所はここ。回収するのはアタシ。従わない場合にはアンタを拘束指定に認定、その後に拘束して無力化するようにも命令されているわ」

統魔においての拘束指定とは、言い換えれば終身刑である。

拘束指定になった魔術師が捕らえられた場合には、専門の施設に収容され、そのまま活動できないように封印されてしまうか、精神を破壊されるかの二択である。

 生きてはいるが、活動はできない状態にされてしまうのが拘束指定である。

 「室長! とっとと渡してください! 室長が拘束指定なんかになる理由はないですよ!」

 拘束指定という言葉を聞いて、コダマが思わず叫ぶ。

 夏休みに戦うことになった狂気に呑まれた人間のことを思い出していた。

 だが、ヴィクトリアは動かない。

 黙って、一歩も動かない。

 「……これが最後通牒よ。回収したモノと合成獣の製造犯、両方をアタシに渡してちょうだい。それでアタシは統魔に戻って、報告して終わり。アンタにはちゃんと報酬は満額支払われるし、何かケチをつけられる心配も無い。アタシが保証する」

 ほんの少しだけ、期待を込めるように八久郎は告げる。

 ヴィクトリアは沈黙したまま答えない。

 そんなヴィクトリアを見て、八久郎はぽつり、と語る。

 「ヴィッキー。アンタがどうしたいのかは多少なりともわかるつもりよ。でもね、アンタには守るべきコたちがいるんでしょ? 過去だけじゃなくて、現在を見なさいな」

 糾弾きゅうだんすると言うよりも、それはさとすような口調だった。

 「コダマちゃんや笠酒寄ちゃんを放っておくの? そんなのは無責任じゃない。アンタは置き去りにされる辛さを十分知ってるはずでしょ? なら、答えは決まっているじゃない」

 八久郎の説得に、ヴィクトリアはコダマと笠酒寄の方を見る。

 その瞳はなにかを逡巡しゅんじゅんするように揺れていた。

 しかし、その内にその揺れも収まる。

 「……ダメだ。犯人は渡せても、この本は渡せない」

 「室長⁉」

 ヴィクトリアの選択にコダマが悲痛な声を上げる。

 それはヴィクトリアが拘束指定になることを選んだということだった。

 ヴィクトリアの答えを聞いて、八久郎の声に怒気が混じる。

 「……ヴィッキー。アンタ何言ってるのかわかってるの? コダマちゃんや笠酒寄ちゃんをないがしろにしてまで死んだ人間にすがるつもりなの?」

 「お前に何がわかる! 百年以上経っても、私はあいつを忘れられないんだ! いや、忘れることなど出来るものか!」

 絶叫。

 コダマが初めて見るヴィクトリアの姿だった。

 まるで泣き出す寸前の少女のような姿。

 決して、ヴィクトリアがコダマにも笠酒寄にも見せなかった姿だった。

 八久郎はただ、悲しそうにそれを見ていた。

 「……わかったわ。久道院八久郎の権限において、現時刻をもってヴィクトリア・L・ラングナーを拘束指定に認定。拘束を開始」

 「やってみろ。できるものならな」

 八久郎の宣告とも取れる言葉に、ヴィクトリアが返し、魔術師同士の戦闘が始まった。

 「氷槍千現ひょうそうせんげん!」

 八久郎の言葉に従うかのように無数の氷の槍が出現する。

 『氷乱ひょうらんの八久郎』。

 久道院八久郎の異名である。氷の魔術を得意とし、数々の拘束指定、殲滅指定の魔術師に勝利してきた八久郎は、ある意味では日本支部が動かせる最強の魔術師である。

 八久郎の指揮によって、ヴィクトリアめがけて氷の槍が殺到する。

 「間欠泉ゲイザー!」

 ヴィクトリアの言葉によって、地面から勢いよく熱湯が噴き出す。

 氷の槍は熱湯によって、その穂先から溶けていく。

 溶けることなく残った槍も、槍が溶けて変化した水が付着し、冷やされて凍り付き、穂先をにぶらせる。

 無数とも思えた氷槍同士がくっつき、氷の壁を作る。

 殺到する氷槍は壁に刺さっては砕けるか、壁になるということを繰り返す。

 すぐに八久郎が魔術で作り出した氷槍は尽きた。

 そびえたつ氷の壁をヴィクトリアは駆け上がる。

 頂点に達すると、すぐに八久郎の姿を確認する。

 直線距離にして二十メートル。

 ヴィクトリアが氷槍を防いでいる間に八久郎は距離を取ったようだった。

 しかし、ヴィクトリアにとって、二十メートルの距離を詰めることは一瞬である。

 「氷蛇招来ひょうじゃしょうらい!」

 八久郎の後ろに巨大な氷の蛇が出現する。

 ヴィクトリアを一呑みに出来そうなその蛇は、爆発的な跳躍力を見せて、ヴィクトリアに襲いかかった。

 (ちっ、デカいな)

 純粋な魔術の腕前で比較した場合、八久郎はヴィクトリアよりも圧倒的に上手うわてである。

 特に攻撃魔術において、八久郎を凌(しの)ぐ魔術師はそうはいない。

 世界中を探しても片手の指で足りるだろう。

 勝っているのは身体能力とこれまで数々の敵から『奪って』きたもの。

 そうヴィクトリアは確信していた。

 氷の蛇の突撃を跳んでかわす。

 「ジュア・ブローダ!」

 意味の無いように聞こえる言葉は、とある魔術師が独自に開発した魔術方式である。

 空気そのものを固めて、それなりの耐久度をもった状態にしてしまうこの魔術は開発した魔術師しか使えなかった。

 固めた空気を蹴り、その反動でヴィクトリアは急降下する。

 同時に変形能力と硬質化能力を併用し、右腕を三メートルほどの刃にする。

 急降下の途中には巨大な氷の蛇がいた。

 一閃。

 ヴィクトリアの右腕によって、氷の蛇は胴体を両断される。

 魔術によって創造された氷の蛇は、その魔術が乱れてしまうと存在を維持できない。

 ヴィクトリアの一撃によって、その魔術の構成が断たれてしまった氷の蛇は瞬時に水に還る。

 その水が落下するよりも早くヴィクトリアは着地する。

 右腕も元の状態に戻している。

 八久郎はすでに次の魔術の準備に入っていた。

 「……流るるもの、みにくし。流るるもの、其は不全ふぜんなり……」

 基本的には魔術師同士の戦闘において、詠唱が必要な魔術を用いることは少ない。

 詠唱が必要な魔術は強力な反面、多大な隙を晒してしまうからだ。

 逆に言えば、詠唱さえ終わってしまえば、そこで勝負が決してしまうことがほとんどである。

 八久郎が勝負を決めるつもりだとヴィクトリアは悟った。

 全力で距離を詰める。

 吸血種の身体能力は一瞬で八久郎に接近し、その首を落としているはず、だった。

 しかし、その突進が止まる。

 ヴィクトリアの右足が凍り付いていた。

 (設置型の拘束魔術! 始まる前に仕掛けていたか)

 瞬時に判断する。

 迷うことなくヴィクトリアは手刀と化した右腕で右足を切断する。

 派手に血が噴き出すが、関係ない。

 噴き出した血がすぐに右足を再構成する。

 再び、ヴィクトリアは駆ける。

 手刀の間合いに入った瞬間、ヴィクトリアは八久郎の喉を狙って手刀を突き出す。

 人間である八久郎は、この一撃で戦闘不能に陥るはずだった。

 ガキン!

 ヴィクトリアの必殺の手刀は八久郎を守るように出現した三日月に阻(はば)まれていた。

 (三日月護法陣! くそっ、まだ三人潜んでいる!)

 三日月護法陣は防御の魔術である。

 三人の術者が連携してく。

 これを破るには強力な解除魔術か、術者の集中を途切れさせるしかない。

 「……変転するものよ、うつろうものよ、汝望みたりしは永遠なりや……」

 八久郎の詠唱は続いている。

 解除魔術を展開している時間は無いとヴィクトリアは判断する。

 「行け!」

 ヴィクトリアの白衣の裾から四条の光が飛び出す。

 それは本来対魔用に拵えられた刃であった。

 一本は八久郎に向かい、三日月護法陣に阻まれる。

 残りの三本はそれぞれ違う方向に飛んでいく。

 「がっ」

 「ぐ」

 「ぬうぅ」

 うめき声が三つ。

 おそらくは三日月護法陣を布いていた魔術師たちだろう。

 しかし、術者の集中が乱れた今、三日月護法陣は崩れた。

 再び張るには時間がかかる。

 ヴィクトリアが八久郎を戦闘不能にするのにかかる時間よりも、それは長い。

 「……静止せよ。全たる一に我がかえす。我が身、我が魂と共に永劫の果てに封ぜよう……」

 八久郎の詠唱は終わろうとしていた。

 しかし、三日月護法陣が消えた今、八久郎を守るものは、ない。

 「許せとは言わない。これは私のわがままだ。だが、負けてもらうぞ八久郎」

 ヴィクトリアの手刀が八久郎の喉を切り裂く……はずだった。

 しかし、再びその手刀は現れた三日月に阻まれていた。

 「な……!」

 驚愕にヴィクトリアの目が見開かれる。

 「……死すら許さず、生さえ許さず。ちることも許さず、果てることも許さず。ただれ。氷劫ひょうごう永瞬えいしゅん

 発動した八久郎の魔術がヴィクトリアを一瞬で氷塊に閉じ込めた。

 驚愕の表情のまま、ヴィクトリアは八久郎の魔術によって、静止した。

 「室長ォ――――――――!」

 コダマの叫びはむなしく響いただけだった。


 6


 「そんな……室長……なんで……」

 「ヴィクトリア……さん……」

 コダマも笠酒寄も呆然としていた。

 ヴィクトリアは氷塊に閉じ込められていた。

 以前にヴィクトリアが用いたようなただの氷の塊でないことは明らかだった。

 なにしろ中のヴィクトリアが全く動かなくなっている。

 吸血種であるヴィクトリアには単純な冷却は効果が低い。

 普通に凍りづけにされたぐらいなら自力で破ってくるぐらいのことはしてくる。

 それなのに、氷塊の中のヴィクトリアは微動だにしない。

 時間ごと凍らされたかのように、静止していた。

 「アンタ……ホント馬鹿ね」

 八久郎は勝利の余韻よいんになどはひたっていなかった。

 ただ、その胸中にはヴィクトリアを説得できなかった無力感だけが残っていた。

 そんな八久郎の後ろに六つの人影が出現する。

 全員が黒のローブを纏い、顔を隠している。

 初めから、潜んでいるのは六人だった。

 三人で展開する三日月護法陣を二重に使っていたのだった。

 「隊長、お怪我は?」

 一人が八久郎に尋ねる。

 「ないわ。大丈夫。それよりもこっちの被害は?」

 「はい。三名負傷。命に別状はありません」

 「そう……よかったわ。ご苦労様」

 覇気の感じられない口調で八久郎はねぎらう。

 「して、残りの子供はいかがいたしますか? ここで始末しますか?」

 「……コダマちゃんとミサキちゃんは一旦、統魔で身柄を預かるわ。特にコダマちゃんはヴィクトリア・L・ラングナーの弟子として登録してあるから、後任の導師が見つかるまでは統魔で保護。ミサキちゃんは記憶処理をして解放」

 「承知いたしました」

 黒のローブの六人がコダマと笠酒寄に近づく。

 コダマは座り込んでしまっている笠酒寄と黒のローブの六人との間に立つ。

 「抵抗するな、小僧。抵抗すれば痛い目を見ることになる」

 コダマにもそれはわかっていた。

 相手は魔術師との戦闘に長けている集団だ。

 まともにやり合っても勝算はない。

 あるとすれば、六人を一度に無力化し、その後に八久郎も無力化。そして、笠酒寄を連れて逃げるということしかできない。

 ……ヴィクトリアを置いて。

 はっきり言って、その勝算は無いに等しい。

 コダマの能力は一度に一つの対象にしか行使できない。

 六人同時に無力化ということは不可能だ。

 一人のやっている間に残りの五人が襲いかかってくる。

 笠酒寄との連携も今は難しい。

 ぎりり、とコダマは奥歯をかみしめる。

 自分の無力さが憎かった。

 六人は特に警戒もすることなく近づく。

 (こうなったら僕が六人を引きつけている間にどうにかして笠酒寄だけにでも逃げてもらうしかないか……。だけど、きっと統魔は追っ手をかける。笠酒寄だけで逃げ切れるのか?)

 様々な考えがコダマの頭の中で展開する。

 どれも実現は困難だ。

 ここで大人しく従っていた方が一番いいのではないのか、とさえ考えてしまう。

 黒のローブの一人の腕がするすると上がり、コダマに向く。

 (やるしかない!)

 コダマの髪がふわりと浮いた瞬間だった。

 「やれやれ、遅かったか。だが、最悪の事態はまぬがれたようだね」

 「マスターの幸運期待値をかんがみた場合、間に合ったことは僥倖ぎょうこうであると考えます」

 その声はいきなり割って入ってきた。

 八久郎もコダマも笠酒寄も、そして黒ローブの六人も声がしたほうに向く。

 長身痩躯の初老の男性と、メイド服に似た格好をした少女の二人がいた。

 少女の方はなぜか背中にチェロケースを背負っていた。

 「やあ、諸君。こんばんは。こんなところで派手に魔術を使って何をしているのか尋ねてもいいかな?」

 初老の男、ヘムロッド・ビフォンデルフは柔らかな物腰で尋ねる。

 後ろに控えている従者のクリシュナは黙って、チェロケースを背中から下ろしていた。

 「あら、ビフォンデルフ最高評議委員。こんな場所にいらっしゃるなんて珍しいですわね」

 「いやね、私の弟子たちがヴィクトリアに連れ出されてしまったようだからね。迎えに来たんだよ。私は弟子思いの師匠だからね」

 八久郎のけん制に対してヘムロッドは余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で答える。

 「弟子? 貴方のお弟子さんはすでに亡くなっているとお聞きしてるんですけど、間違いだったのかしら?」

 「何を言っているんだ? そこに二人ともいるだろう? 死んでいるように見えるのかね?」

 あくまで飄々ひょうひょうとヘムロッドは答える。 

 どこかいたずらっぽい笑みを浮かべて。

 「コダマちゃんとミサキちゃんのこと? コダマちゃんはヴィクトリア・L・ラングナーの弟子として登録されているし、ミサキちゃんはそもそも魔術師見習いにさえも登録されてないわ」

 「それは今日の朝までの話だろう? 私はね、『今この時間』の話をしているんだよ」

 「……まさかっ!」

 コダマと笠酒寄には話が見えていない。

 コダマには、突然現れたヘムロッドがなぜ自分たちのことを弟子だと主張するのかについて見当もついていなかった。

 笠酒寄も同じく、この偉いらしい紳士が自分のことを弟子だと主張する理由に心当たりはなかった。

 二人の困惑をよそに、ヘムロッドは続ける。

 「本日午前九時をもって空木コダマ、笠酒寄ミサキの両名は私の弟子として登録し直してある。これはきちんとヴィクトリアの同意も得ているし、統魔にも申請して、許可をもらったことだからね。正式な手続きを踏んでいる以上は全く問題がない」

 チェスの詰みチェックメイトを仕掛けるように静かに、しかし、確実にヘムロッドは八久郎に言い放つ。

 魔術師の弟子に関しては、基本的には権利も責任も、その導師にあたる魔術師が有する。

 導師のほうが拘束もしくは殺害されて弟子を管理できなくなってしまった状態は別として、勝手に拘束することは禁じられている。

 「いつの間に……!」

 「なに、ヴィクトリアのほうも今回の統魔からの依頼に関してはきな臭いモノを感じ取っていたらしくてね。ちょうど私も日本に滞在していたことだし、都合がよかった。あとは統魔日本支部におもむいて、ちょいちょいと手続きをしてやれば終わりだ。簡単なことだろう?」

 「手続きの所要時間は二時間三四分。統魔という組織の規模から考えた場合、日本支部の手続き処理にかかる時間は平均よりも長い、という結論です。またマスターが最高評議会に所属していることを申告してからの手続きの円滑さから統魔日本支部の官僚的構造も推察されます」

 クリシュナは全く関係ないことを報告する。

 「そういうわけだ、八久郎。私の二人の弟子たちを連れて帰るから、そこをどいてくれないかな? それとも、私とクリシュナも拘束するかね?」

 ヘムロッドの言葉に反応するようにクリシュナは下ろしたチェロケースの留め金を外す。

 数秒、誰も何も言わなかった。

 この場の決定権は八久郎が握っていた。

 再び魔術師同士の戦闘が起こるのか、それとも何事もなく終わるのか。

 十把一絡じっぱひとからげの魔術師が相手なら八久郎は躊躇せずに戦闘を選んだだろう。

 しかし、ヘムロッドとクリシュナの組み合わせ、そして現状の自分を鑑みた場合、それは愚かな選択だった。

 「いいわ、二人を連れて行かれてくださいな。でも、ヴィクトリア・L・ラングナーはアタシたちが回収するわ。それでいいかしら?」

 「当然だ。ヴィクトリアは統魔の定める規則に違反したんだろう? 違反者を罰するのは組織として当たり前のことだからね」

 肩をすくめた後に、ヘムロッドはコダマと笠酒寄の元に歩み寄る。

 へたり込んでしまった笠酒寄に手を差し出す。

 「さあ、笠酒寄クン。帰ろうか。今日は疲れただろうから、ゆっくり休むといい」

 恐る恐る笠酒寄はヘムロッドの手をとる。

 そして、なんとか立ち上がる。

 次にヘムロッドはコダマの肩を叩く。

 「空木クン、訊きたいことは数多くあるだろうが、それは後で答えよう。今、キミたちには休息が必要だ」

 その一言でコダマの緊張の糸が切れる。

 一気にやってきた疲れに足の力が抜けそうになる。

「おっと、大丈夫かね? 歩けそうにないならクリシュナに運ばせるが、どうするかね?」

 「自分で……歩いて行きます」

 崩れそうになる足に力を入れて、なんとかコダマは踏ん張る。

 「では行こうか。ああ、そうそう。ヴィクトリアの資産については全部私に移譲いじょうされている。百怪対策室も同様だ。あの物件も、諸々もろもろすべて私に所有権は移っている。一応は統魔にも伝えておいてくれ。荒らされても困るからね」

 ヘムロッドは八久郎に釘を刺す。

 百怪対策室に手を出せば、自分と敵対することになる、と。

 八久郎の後ろに控えている黒ローブたちの一人が一歩、八久郎に近づく。

 そして、八久郎にだけ、聞こえる程度の音量でささやく。

 「隊長、このまま行かせてよろしいのですか? 七人がかりならば、いかにビフォンデルフ評議委員といえど……」

 「ん? なにかね? やはり一戦交えるのかい? ならば、諸君らにはクリシュナの『演奏』を聞いてもらわないといけないな」

 パチン、とヘムロッドが指を鳴らすと、クリシュナがチェロケースを開け、中のものを取り出す。

 それはチェロではなかった。

 無骨な外見。

 合金と強化樹脂を用いて構成されているソレはFNミニミと呼ばれる軽機関銃だった。

 帯のように垂れている弾帯は数百発を撃ち出すことが可能であることを示していた。

 総重量は弾を入れれば十キロ程度にもなるソレをクリシュナは片手で微動だにせず構えていた。

 「さて、二百発の『演奏』を聞くかね?」

 ついでのようにヘムロッドの手には何枚かの金属片があった。

 それにはすべて『emeth』の文字が刻まれていた。

 つまりは、ゴーレムである。

 ゴーレムは通常、人型である。

 例外も多少あるが、それでも大きさとしては人間並かそれ以上になる。

 携行できるサイズのゴーレムなどは八久郎も聞いたことがなかった。

 これはヘムロッド独自の魔術だからであり、二百年以上にわたって研究を続けてきたヘムロッドが用いる魔術をすべて知っているのは、ヘムロッド自身だけである。

 ゆえに、八久郎もヘムロッドが持つ金属片がどんなゴーレムなのかは知らない。

 ただ、ここでやり合っても、自分たちが全員死ぬことだけはわかった。

 「部下の非礼をおびいたします。しかし、ビフォンデルフ評議委員はいつまでも日本にいらっしゃるわけではないのでしょう? そのコたちも統魔本部に連れて行くつもりですか?」

 「その心配はないよ。最高評議会なら辞めてきた。そろそろ飽きてきたことだしね。それに、ヴィクトリアが気に入っている国に住んでみたいという思いもあるしね」

 建前であることは八久郎にもわかっていた。

 本来の目的は百怪対策室を守るためだろう。

 ヘムロッドがヴィクトリアと同期である、ということは聞いたことがある。

 その頼みのために、自身の地位を捨て、慣れない国で過ごそうというのは八久郎には理解できない判断だった。

 「ビフォンデルフ評議委員……いえ、ヘムロッド・ビフォンデルフ、一体何を考えているの?」

 わからないからこそ、問う。

 八久郎にとって、底知れなさという点ではヴィクトリアよりもこのヘムロッドの方が圧倒的に上だった。

 「何って……そうだね、友人の頼みは断れない性質たちなんだ。それに、ヴィクトリアには借りがある」

 おぼつかない足取りのコダマを支え、笠酒寄の手を取って先導しながらヘムロッドは答えた。

 そのままヴィクトリアのクルマがある方角に向かっていく。

 途中、ぴたりと足を止めた。

 「八久郎、これはほんの少しばかり長く存在している者の戯言(たわごと)だと思って聞いてほしい。……今回の一件、根は深い」

 八久郎の方を見ずに、しかし、ぎりぎり聞こえるようにヘムロッドは言うと、再びコダマと笠酒寄、そしてクリシュナを連れて去って行った。

 八久郎は去って行った四人を見送ると、氷塊に閉じ込められたヴィクトリアを見やる。

 驚愕の表情のまま停止しているヴィクトリアは、なぜか八久郎自身を見ている気がした。

 「回収班を呼びなさい」

 「はっ」

 忠実な部下は即座に統魔に連絡を取り始めた。


 7


 ヴィクトリアのクルマまで戻ってきたコダマと笠酒寄はやっと、ヴィクトリアが拘束されてしまったのだということを実感する。 

 あまりの唐突さに実感がわいてこなかったのだ。

 しかし、こうして乗ってきたクルマを見ると、今この場にヴィクトリアが居ないということを否応なしに思い知らされてしまう。

 「クリシュナ、お前は私のクルマを運転して着いてきなさい。私は空木クンと笠酒寄クンを乗せていくから」

 「承知しました、マスター」

 クリシュナは迷いのない動作で近くに停めてあったスポーツカーに乗り込む。

 「さて、空木クン、笠酒寄クン。乗りなさい。話はクルマの中でしよう」

 


 クルマが発進してから数分。

 車内の誰も、何も言わなかった。

 百怪対策室に到着するまでの間に、コダマには訊きたいことがあった。

 だが、訊くのが恐ろしくもあったのだ。

 ヴィクトリアがなぜ、あれほどに回収した本に執着したのか。

 それは自分や笠酒寄の安全よりも優先するほどに重要なことだったのか。

 ヴィクトリアが自分たちのことをどう思っていたのか。それを知ってしまうのは正直、恐ろしかった。

 「躊躇ためらうということは、人間だれしもある。しかしね、一歩を踏み出せない者には真実は見えてこないものだよ」

 前を見たまま、ヘムロッドは言う。

 後部座席のコダマと笠酒寄にははっきりと聞こえた。

 それが、コダマの背中を押した。

 「……ヘムロッドさん、今回室長が回収した本。あれは一体何なんですか? あの本は室長にとって何なんですか?」

 「あれは統魔設立以前に書かれた本だということはヴィクトリアから聞いているかな?」

 黙ってコダマも笠酒寄もうなずく。

 ルームミラーでそれを確認すると、ヘムロッドは続ける。

 「そういったたぐいの本はたくさんあるんだけどね、あれはヴィクトリアの師匠が執筆したモノなんだ。もっと言うなら統魔を設立した八人の偉大なる魔術師エルダー・エイトの一人、だね」

 「ちょ、ちょっと待ってください。統魔を設立したのは七人の魔術師で、七人の偉大なる魔術師エルダー・セブンだって室長には聞きましたよ?」

 統魔という組織についてレクチャーされたときにヴィクトリアに教えられたことの齟齬そごに、コダマはうろたえる。

 ヴィクトリアとヘムロッド、どちらかが嘘をついていることになる。

 「なるほど。さすがにヴィクトリアもそれについては教えていないか。なら空木クン、そのことに関しては一旦おいておこう。キミは統魔の魔術師に対して行う指定は知っているかな?」

 唐突なヘムロッドからの質問にコダマはやや戸惑う。

 しかし、これにはきっと理由があると考え、素直に従うことにした。

 「危険度が低い方から、無害指定、観察指定、拘束指定、殲滅指定の四つです」

 ふむ、とヘムロッドは顎をなでる。

 ほんの少しだけ何かを迷っていたようだが、すぐに口を開いた。

 「実は統魔が定める魔術師に対する指定はもう一つある。抹消まっしょう指定、だ」

 コダマも、そしてもちろん笠酒寄も聞いたことはなかった。

 「この抹消指定というものはね、指定された魔術師の一切合切いっさいがっさいを抹消するという指定だ。記録も、痕跡も、業績も全て、ね。そしてこの指定を受けた魔術師に関連する物品はすべて抹消される。破壊できるものは破壊し、破壊できないなら徹底的に隠す。統魔はそうやってきた」

 一度ヘムロッドはそこで言葉を切った。

 短く、息を吐く。

 「そして、この抹消指定を受けた魔術師は三人。一人は未だに見つかっておらず、二人は死んだ。その死んだ二人の内の一人、マヌゴリー・リトレッド・J・ローグアイゼン。彼が統魔設立に最も尽力じんりょくし、私たち白林檎の園第一期生の教鞭を執り、ヴィクトリアの師匠であり、そしてヴィクトリアが愛した男性だった」

 「「!」」

 コダマも笠酒寄も驚きを隠せなかった。

 あのヴィクトリアにそういった話があったとは想像も出来なかったのだ。

 「統魔を設立した彼がなぜ統魔から離反し、そして最初の抹消指定になってしまったのかを私は知らない。しかし、彼を討伐する任務にヴィクトリアが任命されたことは知っている」

 そこで何があったのかも私は知らないな、とヘムロッドは自嘲じちょうするように呟いた。

 「とにかく、抹消指定を受けた彼の痕跡は徹底的に破壊された。彼は数々の著作物を残していたんだが、見つかり次第処分された。そして、統魔は更に彼が存在していた事実も抹消した。偉大な業績はすべて書き換えられるか、消された。あのころのヴィクトリアはひどく落ち込んでいたよ」

 コダマはなぜ偉大なる八人の魔術師が七人になってしまったのかを理解した。

 「それじゃあ、あの本はもしかして……」

 「ああ、ローグアイゼン師の著作だろう。どうやって統魔の手を逃れたのかはわからないが。そして、なぜ人手に渡っているのかもわからない。魔術師にとっても古い上にかなりの時間をかけないといけない術式が中心だから大して役に立つモノでもない。だが、ヴィクトリアにとっては最愛の人の形見のようなものだね」

 最愛の人、という単語にコダマは笠酒寄を見る。

 笠酒寄もコダマを見ていた。

 「まだキミたちにはわからないだろう。こればっかりは失ってからしかわからない。その上にヴィクトリアはその手で最愛の人を殺しているわけだからね。その胸中は他者には理解できないだろうね」

 三者とも、沈黙する。

 沈んだ空気が車内に満ちていた。

 「ヘムロッドさん、室長は貴方に何を頼んだんですか?」

 コダマが質問を変える。

 ヴィクトリアが多少なりともきな臭いものを感じ取っていたのならば、ヘムロッドには何らかの対策を授けているはずだと考えたからだった。

 「ヴィクトリアから頼まれたのはだね、ヴィクトリアが殺害もしくは拘束されてしまった場合、私がキミたちを守ってくれ、ということだ。皮肉なことに実現してしまったのだけどね」

 ほんの少しだけ、ヘムロッドのハンドルを握る手に力が入っていた。

 表面上は平静に見えても、ヘムロッドもやはり旧友を拘束されたということには多少なりとも感じるものがあった。

 「……ヴィクトリアさんはこれからどうなるんですか?」

 弱々しい声で笠酒寄が尋ねる。

 「統魔に回収されて施設で保管だろうね。あの魔術はこの上なく強力だ」

 「……ミサトちゃんの氷、ですか? そんなに強力なんですか? でも、ヘムロッドさんならなんとかできるんじゃないですか?」

 涙声で笠酒寄は訊く。

 しかし、ヘムロッドは首を横に振った。

 「残念ながら、あれはおそらく時間ごとヴィクトリアを凍結させている。術者が解除するか、

死ぬかしない限りは解けない」

 「そんな……だって、ヴィクトリアさんは愛した人の形見を持っていたかっただけじゃないですか……そんなのって……ひどいですよ……」

 こらえきれなくなったのか、笠酒寄はしゃくり上げ始める。

 それをヘムロッドに見せないためにか、コダマの胸に顔を埋めるようにして、静かに涙を流し始めた。

 コダマは笠酒寄をどけようとはしなかった。

 「ヘムロッドさん、室長が解放される可能性はありますか?」

 笠酒寄の頭をなでながらコダマはヘムロッドに尋ねる。

 「ない、とは言えないが、難しい。今回の一件を仕掛けた人物が存在しているはずだ。ソイツはヴィクトリアがローグアイゼン師の著作を発見したら統魔に回収させるつもりはない、と確信していた。その上で八久郎たちを派遣したわけだからね。つまり統魔内にヴィクトリアを排除したい奴がいる、ということだ。ソイツの企みを暴くことが出来ればヴィクトリアを解放できるかもしれない」

 「可能性があるなら、僕はやります。だって僕は室長に救ってもらったんですから」

 「……わたしも、ヒグッ……やる」

 コダマに同意するように、笠酒寄も泣きながら宣言する。

 二人の言葉を聞いて、ヘムロッドは笑みを浮かべた。

 「どうやら、ヴィクトリアは正しく人を救ったようだね。なら私も協力しよう。ただ、時間はかかるだろう。それでもいいかい?」

 「「はい」」

 二人の声はきれいに重なった。



 ハイツまねくね二〇一号室。またの名を百怪対策室。

 明け方になって、コダマたちはやっと戻ることが出来た。

 今はヘムロッドが主になっている百怪対策室のドアを開け、中に入る。

 まるで我が家のようにヘムロッドは迷い無く応接室に入り、紅茶の準備を始めた。

 クリシュナは冷蔵庫の中の使えそうなモノを使って料理を始めていた。

 コダマと笠酒寄はソファに座り、そんな二人の様子を眺めていた。

 やがて、ヘムロッドが紅茶を運んでくる。

 コダマと笠酒寄の前にティーカップを置くと、自分の分も置いてソファに座る。

 「さて、これからは私がヴィクトリアの代理として百怪対策室の室長をやっていこう。最終的な目標はヴィクトリアの解放だが、それには調査が必要になってくるからね。そっちは私とクリシュナに任せてほしい。キミたちには引き続き『怪』の情報を集めてほしい」

 「僕たちに手伝えることはないんですか?」

 今まで通り、という言葉にコダマはほんの少しだけ不満感を覚え、質問する。

 「今回の件、一つ未解決なコトがあるだろう? 合成獣で作ろうとしていた五芒星だ。ヴィクトリアを狙った人物が間違いなく関わっている。それはこれからあの合成獣の製造者に、おいおい統魔が尋問するだろうがね。だが、間違いなくほかにも何かしらの仕掛けはしてある。それは『怪』になって人々に影響しているはずだ。手がかりはある。だから空木クンと笠酒寄クンにはそっちを調べてほしい」

 ヘムロッドの視線はまっすぐで偽りを含んでいるようには見えなかった。

 コダマも笠酒寄も歯がゆい気持ちはあったが、少しでもヴィクトリア解放の役に立つために、今は出来ることをやろうと考えた。

 「わかりました。ヘムロッドさん。僕たちのできる限りをやります」

 「ありがとう。空木クン、笠酒寄クン」

 年の瀬も迫ってきた十二月。

 ヴィクトリアを解放するために彼らは誓った。




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