第六怪 ぬりかべ

  1


 人間の記憶なんていうものはいい加減で、あいまいなものだ。

 突然に道がなくなってしまったり、道ができたとしても大して違和感を覚えないこともある。

 ある突然工事が始まって、建物ができたとしよう。出来上がった後に、以前そこに何があったのかを思い出すことはできるだろうか? 僕はできない。

 記憶は上書きされてしまって、そこにあるのは現在の姿だけだ。現実が過去を上塗りしてしまう。

 記憶に留めておくには記録しておくしかない。

 記憶は当てにならない。

 だが、この記録というやつも時には疑わなければならない。

 記録は作ることができるからだ。

 僕の住んでいる町は少しばかり古いものらしく、記録には事欠かない。

 しかしながら、僕は知ることになる。

 記録も記憶も、結局のところあてにはならないということを。



 「ねえねえ空木うつぎ君、伊勢堂いせどうに新しいスイーツが出たんだって。寄って行かない?」

 授業終了後の放課後。わざわざ僕の席にまでやってきて、開口一番に笠酒寄かささきはそんなことを言い放った。

 「行かない。今日はまっすぐ室長のところに行く」

 僕は誘いを一刀両断にする。女心? なんだそれは? 知ったことじゃない。

 「ふふーん。そうくると思って、ヴィクトリアさんに許可は貰っているんだよねー」

 誇らしげにこっちにスマホの画面を見せてくる。

 〈コダマと笠酒寄クンは伊勢堂に寄って新製品をチェックしてくること。ついでに買ってくるように。逆らったらお仕置き。百怪対策室室長びゃくかいたいさくしつ ヴィクトリア・L・ラングナー。〉

 メール画面にはそういった文面が映し出されていた。

 簡潔に、そしてやることはこの上なくわかりやすい。

 くそ。お見通しだったようだ。

逆らったりしたら何をされるのかわからない。

 特に今は笠酒寄も一緒になっているので手に負えない。

選択肢は初めからなかったのだ。

 だったら最初からこのメールを出せと言いたい。中途半端な希望ならちらつかせないでほしい。

 「……わかった。帰る準備するから待っててくれるか?」

 「うん!」

 元気はとてもよろしい。

 僕は嘆息しつつ、教科書やらノートやらをかばんに詰めだしたのだった。



 本日は伊勢堂に寄っていくということで普段とは違う方向に向かっている。 

 伊勢堂。

 この町でも有名な洋菓子店である。

 婦女子には圧倒的な人気を誇り、その店主の繊細な顔立ちからそっちの方面でも人気が高い。

 一説によると、というか噂によるとその甘いマスクで二股、三股は当たり前のようにやっている、なんてこともささやかれているのだが、これは同業者やらもてない男の嫉妬しっとやらひがみ交じりでもあるだろう。

 何にせよ、味の評判は良い。

 とろけるような濃厚な甘さのものから、さっぱりとしたフルーツ系まで多種多彩な品ぞろえをしている。その営業努力は正当に評価されるべきだろう。

 ……どうしても店主が話題を集めてしまうが、わざわざ他の町からも買いに来る人間も多いということからその実力のほどはうかがえる。

 かくいう僕も夏休みから何度も室長に買いに行かされているうちに味を覚えてしまい、それなりに通っている。 

 男子高校生ならラーメン屋にでも行っていろ、という声もあるかもしれないが味の嗜好しこうは人それぞれなので大目に見てほしい。

 大体、男子ならガッツリしたものが大好きだというのは偏見だと思う。いまどきそんなジェンダー論を振りかざすような人間には『脳みそが昭和時代』の称号を贈りたいと思う。

 話が逸れた。

 現在僕は笠酒寄と二人、伊勢堂に向かっている。

 室長は新発売の製品を買っていかないと恐らくは百怪対策室には入れてくれない。

 その上に、もし何かの間違いで中に入れたとしても待っているのは想像を絶する室長のお仕置きだ。

 僕は自ら地雷原に突っ込んでいくようなタイプではないので、ここは素直に室長の命令に従っておくことしたのだった。

 ……別に僕も伊勢堂の新製品が気になっているとかではない。決して。

 そんな自己弁護を心の中でしながら僕は笠酒寄と一緒に伊勢堂を目指しているのだった。

 他人から見たらいちゃついて一緒に帰っているカップルに見えるのかもしれないが、内情はそんなもんである。

 きわめて現実的な打算によって僕たちは伊勢堂に向かっているのだ。そこには甘酸っぱい青春のひと時なんていうものはない。言ってしまえばお得意先に向かっている平社員その1、その2ぐらいの感じだ。

 ゆえに僕はさっきからすれ違う人々から受ける生暖かい視線については断固抗議したい所存である。

 九月に入ってからなにかと笠酒寄が学校でも僕に絡んでくるので、カップルのように扱われているが、僕たちを繋いでいるものは恋愛感情なんかではなく、百怪対策室という存在なのだ。

 それがなければ僕たちはこうやって一緒にいることはない。

 『怪』が僕たちを繋いでいるだけだ。

 「空木君空木君、こっちの道から行くと近いんだよ」

 僕の考えを遮るように笠酒寄が指をさす。

 女の子らしい細い指が指すそちらは古い住宅地だ。

 昔からの住民が暮らすこの町でも一番昔の面影を残している区画になる。

 「僕はそっちを通ったことがないから、道が分からないよ」

 「大丈夫。わたしはよく通ってるから。それに昔はわたしこっちに住んでいたんだよ」

 「へえ、そうなのか」

 てっきりあの立派な家にずっと住んでいるものだと思っていた。

 いや、確かに立派な家だったが、新しい感じだったのできっと引っ越しでもしたのだろう。

 家を建てるのを機に同じ町内で転居したということか。

 となると、昔から裕福というわけではなかったということか。それとも、なにかの理由があって引っ越しをしたのか。 

 ……詮索するのはやめておこう。誰にだって聞かれたくないことの一つや二つはあるものだ。笠酒寄が自分から話すというのならともかく、僕がそこまで踏み込んでしまうのは礼を失するというものだろう。

 「んじゃあ笠酒寄、道案内頼むよ」

 「まっかせて!」

 元気よく請け負って笠酒寄は僕を先導するように狭い路地に入っていった。

 何の疑いもなく僕はそのあとについて行った。


 2

 

 さて、僕の感覚が正しければすでに数十分はこの辺をうろつきまわっている。

 この迷路のように入り組んだ道の中を延々と僕たちはさまよっているのだ。

 さっきから先を行く笠酒寄の元気がない。

 入るときには意気揚々いきようようとしていたのに、今はもうおろおろしているのが後姿からでも伝わってくる。

 「笠酒寄、ちょっと止まってくれ。これは異常だ」

 流石に僕もおかしいことには気づいている。

 びくりと肩を震わせて足を止め、こちらを振り向いた笠酒寄は今にも泣き出しそうだった。

 ……少しばかり心が痛い。

 くそ、もっと早く声をかけてやればよかった。

 「う、空木君……わたし、わたし……」

 目の端にちょっぴり涙を浮かべるのはやめてくれ。何もしてないのに謝りたくなってしまう。いや、この場合は何もしなかったことがいけないのか。

 「大丈夫だ。怒ってないよ。それよりも現状を再確認しよう」

 なるべく優しく提案する。

 泣きそうになっている女子は刺激しない方がいい。妹という存在がいるとこういうことも学べる。

 ……普段はくそ生意気なだけだが。

 事の始まりはこの区画に入ってから数分経ったころからだ。



 「あれ? ここふさがっちゃってるね」

 前を行く笠酒寄が唐突にそんな声を上げたので僕は横に並ぶ。

 三メートルほどのブロックべいが行く手を遮っていた。

 今まで僕たちが進んできた道を完全に終わらせる形でそれはあった。

 「そりゃ道がふさがるぐらいのことはあるだろ。こんな狭い路地が入り組んでいるのならなおさらだしな」

 「それもそうだね。じゃあこっちに回って行こう。行き止まりっていうわけじゃないんだしね」

 そう。僕たちが歩いている道は幅こそ狭いものの、一本道というわけではない。

 いくつもの分岐点が存在しており、そのためにちょっとした迷路のようになっていた。

 ……慣れている奴以外は迷ってしまうだろうな。 

 そんな感想を抱いてしまうぐらいには複雑な構造だった。

 ともあれ、来た道を戻るぐらいのことではないので僕たちは横にそれたのだった。

 ……流石にブロック塀を乗り越えていくという選択肢はない。

 身体能力的には可能だろうが、不法侵入をやらかすことになってしまう。

 まだまだ学生の身分で犯罪者になってしまうということは避けたい。僕も笠酒寄も。

 そういうわけで再び笠酒寄の先導で僕たちは歩き始めた。

 


 「あれ? こっちもふさがってるね」

 再び壁に遭遇したのは五分もしないうちだった。

 再びブロック塀だ。高さもさっきと同じぐらい。

 一斉工事でもしているのだろうか? だとしたら住民はかなり不便な思いをしているに違いない。

 「この辺って工事多いのか?」

 「うーん、そんなことはなかったんだけどね。最近はあんまり来てなかったからそのせいかも。大丈夫! わたしに任せて!」

 「へいへい」

 別に制限時間があるわけでもない。

 室長はとにかく伊勢堂の新製品が食べたいだけなのだ。

 確実に入手するほうが先決だ。

 いくらか元気は無くなったものの、それでも鼻歌でも歌いそうな笠酒寄に導かれて僕は歩き出した。

 


 「……ここも、だね」

 「そうだな。この辺の区画整理でも始まっているのかもな」

 再びブロック塀に僕たちは遭遇していた。

 過去二回と同じようなものに。

 しかも今回は交差点の二か所がふさがっている。

 僕たちが来た道を戻るか、それとも残っている道に進むかしかない。

 「どうする? 戻ってみるか?」

 「うーん。でもこっちに行けばもうすぐ抜けられるはずだからこっちに行こうか」

 笠酒寄はふさがれていない道を指さす。

 確かに。僕の方向感覚的にはそちらが伊勢堂の方向だ。

 もうそろそろけっこうな距離を歩いているし、抜けてもおかしくないのは間違いない。

 妙な場所だったが、そろそろお別れらしい。

 まったく、情報収集の大切さというやつが身に染みる。

 とはいえ、あくまでも場所というものは有限だ。いつかは終わりがやってくる。

 多少は時間のロスがあったが、とりあえず伊勢堂に到着することぐらいはできそうだ。

 新製品が残っているかどうかはともかく。

 その時にはなんとでも言い訳はできるので心配しない。

 そんなわけで僕たちはやっとのことでこの迷路から解放されると思って歩みを進めたのだった。



 「……こんなのって……ある?」

 「どうだろうな。少なくとも僕はないな」

 今度は完全に行き止まりだった。

 やはり三メートルほどのブロック塀が道をふさいでいた。

 三方を囲むように。

 「戻るしかない……ね」

 意気消沈してしまっている笠酒寄は見ていて面白いものではなかった。

 そうだな、とだけ伝えて僕はきびすを返した。



 「そんな……」

 絶望。

 笠酒寄がそんな形容がふさわしい声を出す。

 僕たちはたしかに来た道をたどっていたはずだった。

 しかし、そこには三メートルほどのブロック塀がしっかりと存在していた。

 ……これはない。

 たとえ笠酒寄が道を間違えていたとしても、僕まで間違っているということは考えにくい。

 この場所には覚えがある。それに、僕は方向感覚がいいほうだ。

 確かに僕たちはこの場所で今現在ブロック塀がふさいでいる方角からやってきた。

 こんなのはまっとうな現象ではありえない。

 ふらふらと笠酒寄は仕方なくといった風情でふさがれていない道に進みだす。

 これは……まずい。

 いくら鈍くてもわかる。

 この事態は歓迎できるものではない。

 そして場面は冒頭に戻る。

 

 3


 同じ壁が何度も現れる。

 しかも先ほどは存在していなかった場所にまであるというのは立派な『怪』だ。

 まさか単なるお使いでこんなことになってしまうだなんて思ってもみなかった。

 「笠酒寄、お前はこれが『怪』だと思うか?」

 「……うん。流石にこれはないよね」

 同意を得られてうれしい。

 が、しかし、今はこの状況を打開することの方が先決か。

 とりあえず、ぶっ壊すか。

 僕は壁の前に立つ。

 見た目には単なるブロック塀にしか見えない。

 高さが少しばかりあるのは異常かもしれないが、特別なものを感じるかというとそんなことはない。

 構成しているのが普通のブロック塀なら破壊するのは簡単だ。

 向こう側に何があるのかはわからないが、とりあえずさっきは通り道だったのだから民家があるなんてことはないだろう。

 「ふっ!」

 鋭く息を吐きながら蹴りを放つ。

 しかし、僕の右足がブロック塀に当たることはなかった。

 当たる寸前に蹴りは止まった。いや、僕が止めたかのようだった。

 もちろん僕にはそんな意思はみじんもない。

 なんなら全部ぶっ壊してやる、とまで思っていたぐらいだ。

 それなのにできなかった。

 いや、やらなかったのか?

 わからない。

 とっさに何かしらの反撃が来るかもしれないと思って後ろに飛んでブロック塀から距離をとる。

 ……笠酒寄から見たらさぞかし間抜けな光景だったことだろう。

 「空木君、どうしたの?」

 心配そうに笠酒寄も声をかけてくる。

 どうもしてない、と言いたいところだが、言えない。

 この塀自体になにかしらの仕掛けがしてあるのか、それとも……。

 考えてもわかるものではないだろう。

 所詮は高校生の浅知恵だ。

 「いや、僕自身はどうもしてないけど、これは僕たちの手に負える代物じゃないみたいだ。室長に連絡しよう」

 こういうことに関しては専門家を頼るに限る。

 僕は鞄からスマホを取り出すと室長の番号を呼び出して即かける。

 四コールでつながった。

 『どうしたコダマ。伊勢堂の新製品が売り切れていたのか? その場合にはチョコ&カスタードシューを六個買ってこい。配分は私が四つ、笠酒寄クンが二つだ』

 「僕の分はどうなったんですか? ……ってそうじゃなくて! 室長大変です。『怪』がでました」

 自分の専門のことよりも先に伊勢堂の新製品を心配しているあたりは室長らしいといえなくもないだろうが、今まさに渦中の人物である僕には少しばかりいらだたしかった。

 ……たぶん室長はわかってやっているだろうが。

 『依頼人の話を聞いたら百怪対策室に来い。解決はそれからだな』

 「今回遭遇したのは僕と笠酒寄です。ちなみに解決しないとたぶん伊勢堂には行けません」

 『なるほど。閉じ込める系、もしくは迷わせる系か。あと考えられるのは空間転移系だが、最後のやつは可能性が低いだろうな。そんな術式を組んだらわかるし、そもそも携帯が通じるとは思えないからな』

 話が早くて助かる。

 その理由が助手の僕と知り合いの笠酒寄を心配して、というものであることを祈る。

 決して、一刻も早く伊勢堂の新製品が食べたいというものではないと信じている。たぶん。

 「閉じ込める系……ですね。さっきから塀に道をふさがれてます。しかもさっきまでなかった場所にまで出現しています」

 ほう、と室長は電話の向こうで声を漏らす。

 なにか心当たりがあるのだろうか?

 「とにかく現在、僕と笠酒寄はこの区画から出ることができない状態です。どうしたらいいですか?」

 電話の向こうで室長はしばらく沈黙していた。

 何を考えているのかはわからない。

 もしかしてこんな状況でも報酬が必要とか言い出さないだろうな?

 だとしたらこちらは新製品を人質(?)にとるしかない。そんなことを考えた。

 数十秒の沈黙の後に室長は口を開いた。

 「コダマ、笠酒寄クンにはどんなモノが見えているのか訊いてみるんだな」

 ぶつり。

 そんなアドバイスのような、皮肉のような一言を最後に室長との通話は切れてしまった。

 「……なんなんだ、それ?」

 わけがわからない。

 しかし、意味もなくそう言ったことをさせようとする人ではない。

 特に『怪』が関わっているのならば室長は割と真剣だ。

 一応指示には従ってみたほうがいいだろう。

 「なあ、笠酒寄。お前もこの塀が見えているよな?」

 「う、うん。見えてるよ」

 見えているようだ。

 嘘はついていないだろう。そんなことをしている状況ではないことぐらいは笠酒寄もわかっている。 

 となると、室長は何が言いたかったのだろうか?

 ふと、僕は気づいてしまった。

 塀のほうを見る笠酒寄の視線がなんだか中途半端な場所にあるということに。

 視線の先を追っていくと三メートルぐらいはあるコンクリートのブロック塀の地上から三分の二ぐらいの場所になる。

 ……そんな場所を眺めてどうしたっていうんだ?

 何か妙な点でも見つけたのだろうか?

 気になる。

 「なあ、どうした? 何かあったのか?」

 僕の声にハッとしたように笠酒寄はこっちを見る。

 それから再び塀のほうを向いて、そのまましゃべり始めた。

 「えっとね。このぐらいの高さだったら、普通にジャンプして乗り越えられないかなって」

 まあ、なりそこないの吸血鬼と人狼なら可能なのかもしれない。

 しかし、人に見られる可能性のあるこの場所ではそういったことはできない。

 「アイディアとしてはありなのかもしれないけど、誰に見られているのかわからないんだからやれないだろ」

 「そうかな? あのぐらいの高さなら空木君ぐらいの身長の人はジャンプしたら手が届くんじゃないかな? 男の人ならジャンプしなくても届く人いると思うし」

 「どんな人類だ。十倍の重力の惑星出身かよ」

 「二メートルちょっとぐらいだし、いるでしょ、そのぐらい」

 「は? 何言ってんだよ。明らかに三メートル以上はあるだろ。あのブロック塀は」

 「え? レンガじゃない? あれは」

 ……なんだろう。食い違っている。

 そして、それはこの『怪』において核心的な部分のような気がする。

 「……笠酒寄、僕たちの行く手をさえぎるこの塀、お前にはどんな風に見えてる?」

 「え? 二メートルちょっとぐらいのレンガの壁だけど?」

 「本気で言ってるのか?」

 「この状況で冗談は言わないよ。わたしは」

 笠酒寄の目を横から見てみるが、とても冗談を言っているようなものではなかった。

 なるほど。

 僕には三メートルはあるブロック塀。

 笠酒寄には二メートルぐらいのレンガの壁。

 観測者によって見えているものが違う。

 それこそがこの『怪』の重要な部分か。

 しかし、どうやってここから解決に持って行ったものだろうか?

 僕の頭の中は疑問符で一杯だ。

 正直、どう動いていいのかさえもわからない。

 そんな風に行き詰っているときに僕のスマホが着信音を奏でた。

 表示されている名前は室長だった。


 4


 『何かわかったか? コダマ』

 ごく静かに室長はいきなりそんなことを訊いてきた。

 どこまでお見通しなのだろうか。

 「僕にはブロック塀に見えていましたが、笠酒寄にはレンガの壁に見えています。しかも、高さまで違っています」

 ありのままに現在確認できている事実を伝える。

 『それなら正体はぬりかべだな。脱出する方法は簡単だ』

 ぬりかべ。

 聞いたことがある。というか日本人で知っていない人間はいないだろうというぐらいにメジャーな妖怪だろう。

 確かに今の状況には合致している。

 僕たちは壁に行く手をさえぎられているのだから。

 「どうやって退治したらいいんですか?」

 『おいおい、物騒なことを言うんじゃない。ぬりかべはほとんど無害な妖怪だ』

 この区画に閉じ込められている身としては無害とはいいがたい。

 そんな僕の心境には気づいていないのか、室長は続ける。

 『そもそも妖怪という存在はだな、人間が勝手に怖がっているだけの場合がほとんどなんだ。彼らは生態として超常的な現象を起こすものの、敵対しない限りは基本的には友好的だ。これに関しては一般的な生物と一緒だな。まあ、日本の超越的存在というものは……』

 「その話は戻ってから聞きますから、打開策を教えてくれませんか?」

 長くなりそうだったのでぶったぎる。

 こういう時にまで豆知識を披露したくなるのは魔術師のさがなのだろうか? 年齢のせいで説教臭くなってしまっているのか。

 『ふん。知識欲のない奴め。そんなことではこれからの人生はハードモード一直線だぞ』

 「ありがたいご忠告は受け取っておきますから、とっとと打開策を授けてくれませんか? いい加減にここから脱出しないと新製品どころかシュークリームのほうさえも危ういですよ」

 『それは困るな。仕方ない、教えてやる』

 もったいぶってないでさっさと教えてほしい。

 『コダマ。笠酒寄クンに隠していることがあるだろう? それを告白するんだ』

 なんですと?

 意味不明な答えが返ってきた。

 なんだそれ。隠していることっていったいなんだ? 多すぎて見当もつかない。というか僕の人生に起こったこと、そしてその時に感じたこと全部を白状しない限りは隠し事がゼロになるなんてことはない。

 室長は一体なにを考えているのだろうか? こんな人気ひとけのない路地で延々と人生語りをしろとでも言うのだろうか? どんな羞恥プレイだ。そんなことを望んだ憶えはない。というかなんでそんなことをしないといけないんだ? ああそうか、この状況を打破するには必要なのか。

 だったらしょうがない。ここはひとつ赤裸々せきららに僕の半生を語ることに……。

 「なるかぁ!」

 一喝。

 たとえ電話越しの室長であっても思わず耳をふさぎたくなるような大音声だいおんじょうで叫ぶ。

 健全な男子高校生が同級生相手に自分のことを包み隠さずに話すだなんてことはあってはならない。あってもらったら困る。

 「なんですかそれ! 一体どんな権限があって僕にそんなとんでもない要求を押し付けようっていうんですか? 横暴です! 僕はそういった横暴に対しては断固として戦うことをここに宣言します! 言ってしまえばアレです! 僕は全国の男子高校生の代表として宣言してもいいくらいです! 日本国憲法において思想の自由は保障されているはずです! それを無視しようだなんていい度胸ですね! 相手は日本国ですよ!」

  『何を勘違いしているんだコダマ』

 完全に混乱状態に陥っていた僕のしっちゃかめっちゃかのたわごとに室長はかなり冷たい反応を返してくれた。

 しかし、そのおかげで少しは冷静になることができた。

 「……すいません。取り乱しました」

 『いい。録音しているからな。後で一緒に聞こう』

 「……勘弁してください」

 こういうことに関しては隙のない室長だった。

 「それよりも、僕が勘違いしていることって何ですか?」

 僕の勘違い。それがわからないことにはまた同じことを繰り返すだけだ。

 今度はしっかりと室長の言葉をきちんと最後まで傾聴することにしよう。

 『別にキミが笠酒寄クンに伝えていないことを全部開示する必要はない。キミが笠酒寄クンだけには絶対に教えられないと思っていることを教えてやればいい。それでぬりかべからは逃れられる』

 はて? 僕が笠酒寄には隠していること?

 なんだそれは? 見当もつかない。

 室長の声は続く。

 『ぬりかべの、いや、ぬりかべの作り出す壁の正体は人が心に作っている壁だ。教えたくない、接触したくない、関わりたくない。そういった心の働きが壁を生み出し、ぬりかべはそれを利用して人間の行く手を阻む。いうならば、ぬりかべという『怪』の原因は壁に道を阻まれる本人なんだ』

 僕は黙って聞いてる。

 笠酒寄も横から口を挟まずに黙って僕と室長のやり取りを聞いている。もっとも笠酒寄に聞こえているのは僕の声だけだが。

 『本来、ぬりかべは孤立している人間の前に現れる。孤立している人間というのは大抵、心の中に強固な壁を作ってしまっているものだからな。やりがいがあるんだろう。だが、複数の人間がぬりかべに遭遇してしまった場合は違う。その人間たちの間にある壁を具現化させる。見る人間によって壁が違うのはそのためだ。今回はコダマと笠酒寄クン、それぞれがお互いに対して作っている壁が具象化しただけだ』

 「僕と笠酒寄、それぞれの……心の壁……」

 『そうだ。それを多少なりともどうにかしないことにはぬりかべからは逃れられない。とはいってもどうにかできたらそれで終わりなんだがな』

 「どうすればいいんですか?」

 僕にはどうしたらいいのかさっぱりだ。

 心の壁なんて言われても、思いつくことはない。

 笠酒寄には正直に僕のことは伝えているつもりだ。特別に隠していることなんてものには心当たりがない。

 『はぁ……鈍いな、コダマ。いいだろう。笠酒寄クンに代わってくれ』

 ? なんだろう、すごく見下されてしまった気がする。

 もやもやしたものは残るものの、あとで何かされても困るので大人しく笠酒寄に僕のスマホを渡す。

 「室長が笠酒寄に代わってくれってさ」

 「え? う、うん。わかった」

 意表を突かれたのか笠酒寄はあたふたと僕のスマホを耳に当てて「もしもし、ヴィクトリアさんですか? 笠酒寄です」なんてのんきにあいさつをしていた。

 果たして、笠酒寄に代わったからといってなにかできるのだろうか?

 笠酒寄も確かにいくつかの『怪』には関わってきたのだが、それでもどちらかというと一般人の側だ。

 僕や室長、そして統魔の人々みたいに完全に逸脱しているわけではない。

 人狼の力も制御できていることだし。

 そんな笠酒寄に室長はなにをさせるつもりなのだろうか?

 笠酒寄はしばらく、「はい」とか「えぇ!」とか「そんなぁ」とか相槌を打っていたのだが、そのうちに顔を真っ赤にしてしまった。

 一体何を吹き込んだ? 室長。

 茹蛸ゆでだこのように真っ赤になってしまった笠酒寄は「わかりました……」となんとも情けない声をあげながら、スマホを耳から離した。

 通話は終わったのだろうか?

 室長は一体笠酒寄に何をさせるつもりなのだろうか? 

 ……とりあえずスマホは返してほしい。

 だが、笠酒寄は僕にスマホを返すことなく、あろうことが両手で握り締めた。

 「おい、笠酒寄。あんまり乱暴に……」

 「空木君! 言いたいことがあります!」

 僕の抗議の声はこれまでに聞いたことのない真剣な笠酒寄の声にかき消されてしまった。


 5


 初対面以来の笠酒寄の丁寧語に少しばかり僕は驚いていた。

笠酒寄がこの場面で僕に告げたいことというのはなんだろう?

 まだまだ付き合いの浅い関係だが、多少は笠酒寄のことも知っているつもりであるものの、予想はできない。

 ……こんな状況でもなければゆっくりと聞いてやってもいいのだが。

 「おい、笠酒寄。いまはこの『怪』、っていうかぬりかべをどうにかすることのほうが先決だ。その他のことだったらここを抜け出してから聞いてやるから」

 特に時間的な制限はないのだが、室長にからかわれる理由を作ってやる必要はない。

 「今聞いてもらいたいの。この『怪』から解放されるためにわたしの話を聞いて」

 「どういうことだよ? 笠酒寄」

 さっきの室長の電話で告げられた内容に関することだろうか? 

 僕にはよくわからない、あまりにもざっくりした内容だったのだが。

 もしかして笠酒寄に対してはもっと具体的な内容を説明してくれたのだろうか? 

 だとしたら男女平等の精神に基づいて室長には徹底的に抗議しようと思う。

 そんな僕の心情などもちろん笠酒寄が知るはずもなく、真っ赤な顔をこっちに向けながらなにかもごもごと言っていた。

 「……の」

 聞こえない。

 辛うじて最後の一音は聞こえたものの、それで何を言ったのかわかるはずがない。

 「なんだよ? 聞こえないぞ。もっと大きな声で頼む」

 つい、僕は笠酒寄のほうに耳を向けて少しばかり近寄ってしまった。

 「わたし……空木君のことが……」

 多少は聞こえるようになったものの、まだ少しばかり聞こえづらい。

 僕はさらに笠酒寄の、具体的には口のほうに耳を近づけるようになる。

 身長差が少しあるのでやや身体を折る感じになってしまう。

 「……きなの」

 「あん? ? 何の関係があるんだ?」

 「好きなの!」

 いきなりの最小音量からの最大音量を食らってしまい思わずのけぞる。

 耳がキンキンする。

 「おい! いきなり大声はやめてくれよな! 僕も普通の人間よりも耳はいいんだからな! ダメージ大きいんだ……ぞ?」

 ここまで条件反射的に抗議して、やっと僕の脳みそは笠酒寄の言葉意味を解釈する作業を終了する。

 好き?

 好きっていったのか?

 笠酒寄が? 僕に?

 「ああそうだな。僕も笠酒寄のことは好きだよ。室長に振り回されている体験を共有できる貴重な友人だしな」

 「わたしは、異性として、空木君が好きなの!」

 誤魔化すつもりが一瞬で逃げ道をふさがれてしまった。

 なんてこった。

 やはりそっちの意味でだったのか。

 そうでもないとこんなにも躊躇ちゅうちょすることはないだろうし。いや待て、もしかしたら英語で表現した場合には違うのかもしれない。 

 そうだそうだ。日本語という言語においては『好き』という単語が表す概念の範囲が非常に広い。ゆえに厳密な意思疎通が難しいのだが、この場合もそうかもしれない。

 確認するまでもないことだろうが、一応は確認しておこう。

 「そ、そうか笠酒寄。あの、一応聞いておきたいんだが、英語でいうとlike……だよな?」

 「loveのほうだよ」

 Oh my god!

 思わず出てくるのも英語になってしまう。

 ちょっと待て、落ち着こう。

 僕たちは話すようになってから精々一か月ちょっとぐらいしか経っていない。

 それなのにこう……恋仲というかそういう関係になってしまうのはちょっと早すぎるのではないだろうか? もっとこう男女の関係というやつは時間をかけてゆっくりと育んでいくものではないのか? 

そう、刹那的な感情に身を任せてしまってもろくなことにならないことを僕は今までの人生で学んできたのだろう? そもそも恋愛をするにはまだ僕たちは子供過ぎるのではないか?

 恋愛というものが確かに青春であることは認めよう。しかしながら、僕の中ではそういった甘酸っぱいイベントに関しては完全に視野の外にあったため、脳がどう対応していいのかわかっていない。 

 そもそも笠酒寄が僕のことを異性として好きだからといってそれがどうした、と言われてしまえばそれまでだ。

 だがしかし、僕にとってある意味では笠酒寄は特別なのだ。

 百怪対策室に一緒に行ける関係にある人間の知り合いというものは笠酒寄の他にはいない。

 この先に現れるかどうかもわからない。

 笠酒寄はそんな存在なのだ。

 ゆえに、僕はこの好意に対して応えるのに戸惑っている。

 どうやって対処していいのかわからない。

 正解が見えない。

 笠酒寄はうっすらと涙を浮かべて僕のほうをじっと見ている。

 耐えられなくて、思わず壁のほうに視線を向ける。笠酒寄の顔を直視し続けることはできなかった。

 壁が、変化していた。

 さっきまで整然と並んでいたブロックはところどころに亀裂が入り、ぽろぽろと破片がはがれ始めている。

 その変化に驚いて壁を見上げると、明らかにさっきよりも高さが増していた。

 倍以上の高さになっている。

 ひびが入り、つなぎ目に隙間が目立つようになっているというのに壁はまだ存在していた。倍以上の高さに変化して。

 (なんなんだよ! 一体!)

 笠酒寄の突然の告白に続いて、ぬりかべの方にも起こった変化に僕は戸惑いを隠せない。

 「ねえ、空木君はわたしのこと、女の子として好き? それとも嫌い?」

 そんな僕をどうにもじれったく感じてしまったのだろう。笠酒寄から最後通牒にも似た質問が突きつけられる。

 お前の告白と、『怪』の変化でいっぱいいっぱいなんだよ! と叫ぶことができればよかったのだろうが、僕は頭の中が完全にカオスの様相を呈しており、できなかった。

 こんなにも追い詰められているのは夏休み以来だ。キスファイアとやり合った時にもここまでじゃなかったぞ!

 崩壊が進みながらも、壁はどんどんと高さを増していく。まるで何かを象徴するかのように。

 ぬりかべが具現化するのは心の壁。ならば、この僕の心の壁は、いや、笠酒寄に対する壁がいまのボロボロになりながらも高さを増している状態なのか。

 僕は一体何を守っているのだ?

 「お願い、空木君。教えて。わたしが嫌いならそういって。でもわたしは好きだから」

 笠酒寄は静かに泣き笑いの表情だ。

 ……こんな顔をさせてしまうだなんて、僕はある意味では失格なのかもしれない。

 だが、僕は思い出す。

 人狼が解決した時の笠酒寄の笑顔を。

 あの時僕は思った。

 僕はこの笑顔が好きだ。

 今もその気持ちは変わっていない。

 ……なんだ。初めから答えは決まったいたのだ。

 僕がいつまでも答えないものだからとうとう笠酒寄はしゃくりあげ始めてしまった。

 そんな笠酒寄に僕は手を伸ばす。

 そっと、頭に手を置く。

 言葉は決まっていないけど、伝えたいことはわかる。

 「僕もお前のことが好きだ。お前の笑顔の惚れちゃったんだ。だから泣かないでくれ。僕はお前が笑ってくれている方がいい」

 しばらく僕も笠酒寄も動かなかった。

 やがて、少しは落ち着いたのか呼吸が元に戻った笠酒寄は流れた涙を乱暴にぬぐって、あの時よりも輝く笑顔を浮かべてくれた。

 「わたし、うれしいよ」

 「僕もだ」

 ふと、気になって壁の方を見てみると、きれいさっぱりとなくなってしまっていた。

 あるのは僕たちがやってきた道だけだった。

 

 6


 拍子抜けするぐらいにあっさりとぬりかべは消えてしまった。

 いや、正確にはぬりかべが具現化させていた壁は。

 まったく邪魔されることもなく僕と笠酒寄は古い住宅地区画を抜けて、伊勢堂に到着することができた。

 「何だったんだ……」

 結局、変わったのは僕と笠酒寄がこっぱずかしい愛の告白をしてしまったということだけである。

 なんだそれ。ぬりかべっていうのは嫌がらせの妖怪なのか?

 あの後、二人して気恥ずかしくなってしまい、ここまで最小限の会話しかしていない。

 お互いに顔も見れやしない。

 小学生の恋愛じゃあるまいし、なんだろうこれは。

 いや、僕は別に初恋っていうわけじゃないし、女性というものに対して特には幻想を抱いているというわけでもない。主に妹のおかげで。

 それでもなんだか面と向かってしまうのは避けたい。

 どうにもスマートにはいかないものだ。

 これが百戦錬磨のつわものだったら気の利いたセリフの一つでもかけている場面だったのかもしれないが、生憎と僕は恋愛に関しては素人だった。

 恋人同士がどういう会話をするのかなんて全く知らない。

 恋愛本で勉強でもしておくべきだったか?

 そんなことをしている奴はいないか。

 いたとしてもそういった人種は玄人ではあるまい。きっと知識だけだろう。

 ……僕にはその知識さえもないが。

 とにかく、僕と笠酒寄は伊勢堂に到着できた。

 明るい内装の店内には色とりどりのお菓子が並べてあったのだが、目的の新製品はやはりというかなんというか……売り切れていた。

 「やっぱり売り切れちゃってるね。どうしようか?」

 「まあ、室長の要望通りにシュークリームでいいんじゃないか? 六個買ってこいって言ってたからそれでいいだろ」

 ちょいとばかり室長の機嫌が悪くなってしまうかもしれないが、買って戻らないともっと悪くなる。僕には地雷を踏む趣味はない。

 僕の分はないらしいが。今日はシュークリームという気分でもないので別にいいが。

 陳列されているシュークリームが六個以上残っていることを確認して、購入する。

 真っ白な箱に詰められたシュークリームを持って僕は伊勢堂を後にした。

 ……店内にいた買い物客や店員さんからなんだか生暖かい視線を感じたが、気のせいだろう。



 ハイツまねくね二〇一号室、またの名を百怪対策室。

 いつものようにソファでタバコをふかしている室長がいた。

 人が『怪』に遭遇しててんやわんやになっていたのに、この人はどうやらずっとゲーム攻略に忙しかったらしい。応接室の端に置いてあるノートパソコンでは攻略途中のゲームが起動していた。

 「新製品は売り切れていたんで、シュークリームを買ってきました。ちゃんとチョコ&カスタードですから確認してください」

 「ああ、ごくろう。しかし、流石にこの時間には売り切れているか。今度は休み時間に行ってきてくれ」

 たっぷりと嫌そうなエッセンスを詰め込んだ顔をしてやったのだが、室長は涼しい顔で切り返してくる。

 ぬりかべよりもお菓子のほうが優先のようだ。

 本当に専門家なのかどうか疑わしくなる。

 いそいそと箱を開けて中身を取り出して更に置き、室長は飲み物を取りに行った。

 三枚の皿と、それに乗ったシュークリーム。そして僕と笠酒寄。

 なにを話していいのかわからない。

 僕と笠酒寄は今、向かい合わせになっているソファの対角線上に座っている。

 いつもなら室長の隣に笠酒寄が座って、その対面に僕が座る形になるのだが、今日は違う。

 なんとなく距離が近いのは遠慮してしまう。

 案外、付き合いたての男女というものなんていうのはこんな感じなのかもしれない。

 周りから見てみたらじれったく感じてしまうのかもしれないが、本人的には精一杯やっているのだ。勘弁してほしい。

 お互いに無言である。

 室長は今日に限ってやたらと手際が悪い。絶対にわざとやっている。

 このまま沈黙を保ってもいいのかもしれないが、それはそれで室長の思惑の通りという気がするのでしゃくだ。ここはひとつ、僕が少しは出来る人間だということを示さないといけないだろう。

 「か、笠酒寄……あのさ……一応僕たちはお互いに告白したわけなんだし、確認しておきたいんだけどさ……僕たち、恋人になるよな?」

 なんだこれ? 

 どこができる人間なんだ? 

 脳みそが腐っているのか、それとも僕は前世でなにか悪いことでもしたのだろうか?

 完全に挙動不審者だ。場所が百怪対策室じゃなかったら通報されかねない。

 そんなヘタレの僕だったが、

 「え、えと、そう……だね。わたしたち恋人になるんだよね?」

 笠酒寄の方も負けじとヘタレだった。

 初々しいを超えてもはや見てて痛々しいレベルになってしまっている。

 初めてのお使いにだされてしまった幼児か? 僕たちは。

 そんな感じでお互いにどこか遠慮がちに笑っているとやっと室長が戻ってきた。

 「やあやあお二人さん。なんとも初々しいな。私も若いころを思い出してしまうな」

 それはそれはこっちの神経を逆なでする顔をしながら室長は紅茶を置く。

 できることならぶん殴ってやりたい。

 百倍返しどころじゃないだろうが。

 室長だけは余裕の表情でいつもの席に座る。

 迷うことなくシュークリームに手を伸ばし、ほおばる。

 「んむ。やはり伊勢堂は間違いがないな。これで新製品が食べられたのなら何も言うことはなかったんだがな」

 美味に酔いしれるのか皮肉を言うのかどっちかにしてほしい。

 「そんなこと言っても『怪』に遭遇してしまったんならしょうがないんじゃないですか? 第一、僕たちが出発した時間にはすでに売り切れていたのかもしれないじゃないですか」

 「それもそうだな。まあ、そういうこともある」

 むかつく。人の貴重な放課後の時間を何だと思っているんだ。

 「ところで室長。ぬりかべのほうは放っておいていいんですか?」

 ぶつけたい怒りを抑えて室長に質問する。

 そう。『怪』は終わっていないのだ。

 僕たちはぬりかべの影響から脱出できたものの、他の人間が囚われてしまう可能性は十分にある。

 そうなったら助けを求めることもできない。

 僕が毎日あの区画を見回るなんてことはできないし、一体どうするつもりだろうか?

 「ああ、コダマや笠酒寄クンだとまたひっかかるだろうから私が行く。今夜には解決しておくから気にするな」

 初めからそうしてくれと言いたかったが、それを言ってしまうと何を言われるのかわからないので僕は黙って室長と笠酒寄がシュークリームに舌鼓(したつづみ)を打つのを観察していることにした。

 なぜこうも女子はお菓子を食べている時にはやたらといい笑顔になるのか?

 誰か論文にしたら読んでみたい。僕はしたためるつもりはないが。

 「どうしたコダマ? キミの目の前にあるのはキミの分だ」

 「え? なんですかそれ。こわい。なんか変なモノ食べましたか?」

 「失敬な。キミと笠酒寄クンの付き合い始めた記念日だ。私も少しは祝ってやろうというんだ」

 「はあ、じゃあいただきます」

 「ゆっくりと味わえ。初恋の味だぞ」

 違う、と否定したかったのだがシュークリームにかじりついたところだったので出来なかった。

 笠酒寄は「えぇ……」なんて言いながら顔を赤くしている。

 誤解がだんだん深まっている。

 まあしかし、シュークリームはたしかにうまかった。

 恋の味なんていうモノはないのだろうが、こうやって舌の上で踊っているチョコとカスタードはもしかしたら恋の味に近いのかもしれない、なんてことを僕は思った。


 7


 夜も深まった時分、一人の人物が街灯に照らされていた。

 闇夜の中でもはっきりと目立つ白衣。そして透き通るように白い肌に、うっすらと光るあおい目をした少女だった。

 百怪対策室室長、ヴィクトリア・L・ラングナーであった。

 「……」

 静かに、まるで風のようにヴィクトリアは狭い路地に入っていく。

 そこは昼間に空木コダマと笠酒寄ミサキがぬりかべに遭遇した区画であった。

 迷いなく、というよりも目的地がなく、ただただ歩くことだけが目的であるかのようにヴィクトリアの歩みに迷いはない。

 道が分かれていればどちらかに入り、行き止まりになっていたら戻る。

 そういったことをあてどなく繰り返していた。

 そのうちにヴィクトリアは足を止める。

 いつの間にか目の前には壁があった。

 しかし、それは通常の壁ではなかった。

 書物を抱えた無数のむくろ

 老若男女を問わずまるで絡み合うようにして壁をなし、ヴィクトリアの進路をふさいでいた。

 上を見上げてみるが、高さはわからない。それほどまでに高い。

 「ふん、コダマはブロック、笠酒寄クンはレンガ、そして私は死体か。壁の材質は何かしらの心理的要素を含んでいると考えるのが妥当だな。恐らくは記憶に影響を受けているな」

 面白くもなさそうに呟く。

 ぬりかべが現れることも、コダマや笠酒寄とは違う壁が出現すこともヴィクトリアは予想していた。予想通り過ぎてつまらない。

 (こんなことなら統魔にでも報告してやればよかったな)

 自ら足を運んだものの、思った以上の成果のなさに落胆する。

 何かしらの手がかりが得られることを多少は期待していた。

 しかしながら、この『怪』はどうやら天然ものらしい。当てが外れてしまった。

 怪奇製造者ストレンジクリエイター

 そう名乗る集団が関わっているということはなさそうだった。

 ヴィクトリアはその集団と直接対峙したことはないが、何度か関わっているだろう『怪』を見てきた。

 人外の領域の技術を用いるその集団は統魔にもマークされている。

 それでもなお、全貌はつかめていない。

 どのくらいの規模の集団なのか? 資金源はどこなのか? 『怪』を作り出してばらまいているのはなぜか? わからないことだらけだ。

 わかっているのはその集団は怪奇製造者を名乗っているということだ。

 個人なのかもしれないし、組織なのかもしれない。

 実在は確信できるのに、証拠は全くと言っていいほどにない。

 まるで雲をつかむような話なのだが、曲がりなりにも専門家を名乗っている以上は放ってはおけない。

 ゆえにヴィクトリアはわざとぬりかべの対処法をコダマにも笠酒寄にも教えなかった。

 二人の遅々として進まない恋愛事情をひっかきまわしてやろうという意図がなかったわけではないが。

 とりあえず、今回は外れだったということでヴィクトリアはさっさと終わらせることにした。

 「おい、ぬりかべ。今すぐこの壁を消してとっととこの町から出ていくなら見逃してやる。そうじゃないならお前を退治する。十秒やる」

 言い終わるとすぐにカウントを始める。

 静かな住宅地になげやりなカウントが響く。

 「……ぜろ」

 カウントダウンは終わったものの、依然として骸の壁はヴィクトリアの目の前にあった。

 一ミリも動いていない。

 「交渉決裂、だな」

 言い終わるか否かのうちにヴィクトリアの着ている白衣のすそからやいばが飛び出す。

 しかし、その刃は手に握られるでもなく、壁に突き立つこともなく、ヴィクトリアの後ろに飛んで行った。

 ずぶり、という生々しい音を立てて何もない空間に刃が静止する。

 同時に骸の壁が音もなく消え去る。

 壁が消えたことを確認してヴィクトリアは振り返り、飛ばした刃を回収に向かう。

 空中に静止した後、刃が何かから抜け落ちたかのように地面に落下していた。

 拾ってホコリを払い、再び白衣の内側に刃を収納する。

 「何かを映し出すには元となるものを通さないといけない。それが人間の心の壁なら、対象となる人間を通さないとな。つまりお前はいつも壁を見せられている人間の後ろにいるっていうことはわかっているんだ。だったらどうとでもなる」

 愚かな生徒に諭すようにヴィクトリアは言ったものの、それを聞いていた存在はいない。

 すでに退魔用にこしらえられた刃に貫かれた妖怪は消滅してしまっていた。

 何年生きたかもわからないような超常の存在は、あっさりと吸血鬼に殺されてしまった。

 ヴィクトリアは腕時計で時間を確認する。

 午後十一時を示していた。

 (コンビニにでも寄っていくか。結局、伊勢堂の新製品は喰い逃したからな。コンビニの新製品チェックといこう)

 すでにヴィクトリアの中では解決済みの『怪』よりも未だ見たことのない新製品のほうが優先度は高かった。

 壁の消えた路地を進み、ヴィクトリアは闇に溶けるように路地の出口の方に向かっていった。

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