第五怪 サンジェルマン

 1


 九月が明けて十月。

 とうとう一年も終盤に差し掛かり始めたその時期。世間一般ではなぜかハロウィンに向けての商戦が始まり、どこかしら浮かれた雰囲気が漂い始めた時期。どうにも日本人という民族はどうしようもなくお祭り好きで機を見ては騒ぎたいものである、なんてことを僕が薄々思っていたころ。その事件は起こっていたらしい。

 いつものことながら僕はそれに巻き込まれることになるし、いつものごとく室長にからかわれる顛末なのだが。それはそれでしょうがない。助手としてある程度のことは許容しなければならない。仕方ない。だがしかし、それでも僕は声を大にして言いたい。

 統魔、仕事しろ。


 

 「幽霊を見てしまってね」

 「はぁ……幽霊、ですか……」

 十月の半ばの日曜日、午後三時。

 一般的な学生、もしくは社会人ならば終わってしまう週末に一抹いちまつの寂しさを覚え、十数時間後には始まる一週間というものに対して少しばかりの憂鬱感を覚えるような時間帯。僕は依頼人の話を聞いていた。

 依頼人は中年の男性。どこから僕の話を聞いたのかわからないが、みょうちきりんな事件に遭遇してしまい、僕のことを頼ってきたらしい。妹の小唄こうたから勝手に約束を取り付けたことを聞いた時には兄を何だと思っているのか、と問い詰めたい気分だったが、よく考えてみれば僕の扱いが雑なのは空木家のいつものことだった。僕の地位、低くないか?

 話が逸れた。

 とにかく、困っている人の話はとりあえず聞かないといけない。

 奇妙な事件、現象の裏には『怪』が潜んでいる可能性が高い。そういったことの専門家である百怪対策室室長、ヴィクトリア・L・ラングナーにとっては飯の種であると同時にライフワークの一環でもあるのだ。断ったらどういう扱いを受けるかということは想像したくない。

 ゆえに僕はわざわざ休日に電車に乗って隣町までやってきたのだった。

 待ち合わせ場所はとある喫茶店。

 約束の十分前に到着した僕は少しばかりの一人の時間を堪能たんのうしようと思ってケーキセットを頼み、甘味に酔いしれている状況だった。

 そんな中、突然に声をかけられた。

 「きみが空木君かい?」

 「はいそうですけど。どなたですか?」

 個人的にはかっこよく顔を上げたつもりだったのだが、ケーキを食べながらの男子というのは締まらない絵だっただろう。もうちょっと考えて頼めばよかった。

 そんな僕の考えなんて知ったことではないとばかりに声をかけてきた男性は僕の向かいに座る。

 「初めまして。私ははず智志ともしという。君の話を聞いてね。解決してほしいことがあってこうして相談しに来た」

 ご丁寧にスーツを着込んで名刺を差し出してきながら中年の男性が自己紹介をする。

 他人から見てみたらビジネスの会話をしている二人なのだろうが、片方が明らかに未成年というのはなんとも不思議だろう。……なにか変な誤解を受けなければいいが。

 「これはどうもご丁寧に。生憎あいにく、僕は名刺を持っていないので申し訳ありませんが差し上げることができません」

 「いやいや、まだ学生だろう? 名刺を持っていたらそれはそれで面食らってしまうな」

 くすり、と漏らすように矢筈さんは笑う。

 とりあえず、アプローチは成功だろう。これで少しは冗談が通じる人間だということが分かってもらえたらいい。冗談を言えるということは大事だ。

 「それでは早速ですけど、何が起こっているんですか? いや、どんな『怪』に遭遇してしまったんですか?」

 そして冒頭である。

 幽霊。

 僕も遭遇したことはある。

 あれは解決したというよりも、どっちかというと勝手に解決されてしまったという表現のほうが正確な気もするが、とにかく、経験はある。少しは楽そうだ。

 「なるほど。どんな幽霊ですか?」

 「驚かないんだね」

 「慣れてますから。それに人間の形している方が楽ですしね」

 先日の大根騒動以来、特にそう思う。やはりコミュニケーションとれそうな姿のほうが気が楽だ。解決が簡単かは置いておく。

 「噂通りに肝が据わっているらしいね。では単刀直入にいこう。現れる幽霊は中世のヨーロッパ貴族みたいなやつなんだ」

 ……ヨーロッパに出現してくれ、そんなの。日本に出るなら少しは日本らしい恰好をしろ。

室長じゃあるまいし、幽霊が海を渡ってきたとかじゃないだろうな。

 僕がそんなことを考えている、などといったことを矢筈さんは知る由もなく話を続ける。

 「私は社員こそ少ないが一応は会社の社長でね。最近オフィスを新築したんだが、その場所に幽霊が出現するようになってしまったんだ。おかげで社員は不気味がるし、私も変な噂が立つんじゃないかとひやひやしてしまっているんだ」

 経営者というものも楽ではないらしい。室長はそうでもないだろうが。

 「私も現代人だ。初めは幽霊なんて信じてなかった。社員達を叱り飛ばしたものだ。しかしね、先週見てしまったんだ」

 「幽霊を、ですか」

 「ああ。あれは間違いなく幽霊だった。貴族の格好をしているだけでもおかしいのに、あれは音もなくいきなり出てきて、しばらくしたらいきなり消えてしまったんだ。そんなの、幽霊しかいないだろう?」

 「そうでもないですよ。世の中には一般人からしてみたら不思議なことは沢山ありますから」

 人狼に変身できる少女とか、超能力者で吸血鬼のなりそこないの少年とか、オタク文化に染まってしまった魔術師とか。

 そういったものの近くに存在している僕からしてみたら驚くようなことでもない。

 いきなり出現して消える、なんていうのも暇を持て余した魔術師の悪戯という可能性を捨てきれない。あくまでも可能性ではあるが。

 もしくはマジックアイテムの仕業か。

 空間転移の術式は高度なものだということは室長から聞いているが、姿を消すのはそう難しいことでもないらしい。統魔でしっかり勉強した魔術師ならできて当然、ぐらいの認識らしい。

 が、いまそれを告げて、余計に混乱させるのもまずいだろう。依頼人には素直に室長のところまで来てもらう必要がある。

 「それじゃあ、僕が助手を務めている人の元に案内しますよ。その人が本当の解決人です」

 そう言って、僕はケーキの最期のひとかけらを口の中に押し込む。ゆっくり味わえなかったのは残念だが仕方ない。コーヒーはまだ半分以上残っていたがこれは諦めよう。

 立ち上がろうとした僕に待ったをかけるように矢筈さんは手を挙げる。

 「どうしたんですか? なにか疑問点でも」

 「いや、疑問点はない。しかし、ちょっと時間をくれないかと思ってね」

 なんだろう? こういう時にはとっとと案内してくれというのが普通の反応だと思うのだが。

 それとも相手のテリトリーで話をするのは嫌、とかだろうか。それなら室長にご足労願わないといけなくなってしまうのでおそらく依頼料が増える。同時に僕のストレスも増えるのでご遠慮願いたいものだが。

 「ここの抹茶パフェはなかなかのものでね。こういう機会でもないと食べられないんだ」

 どうも威厳を保つということも一筋縄ではいかないようだ。

 「今度にしてください。室長は暇人だけど気まぐれなんです」

 「おごるよ」

 「三十分ぐらいは大丈夫でしょう」

 速やかに座り直してウェイトレスを呼ぶ。

 あっさりとモノに釣られる僕であった。



 思いっきり抹茶パフェを堪能してから矢筈さんと一緒に百怪対策室に向かう。

 高校生と中年の男性が一緒にパフェを食べているというのはなんとも形容しがたい光景だったとは思うが、知ったことじゃない。食べるものぐらいは自由にいきたい。

 途中、経営者としての苦労話なんかも聞けたので得した気分でもある。

 高校生という身分にはまだまだ遠い世界だが、やはり、人生経験のある人間の話というやつは面白い。いつもくだらない与太話を垂れ流している室長にも見習ってほしいぐらいだ。

 そうこうしているうちに何事もなくハイツまねくねに到着する。

 矢筈さんには少しばかり不似合いな安っぽい階段を上って、百怪対策室の扉の前までくる。

 いつものようにインターホンを押す。

 キン、コーン。

 代わり映えのしない音がする。すぐにいつものようにノイズ交じりの室長の声が迎えてくる。

 「だれだ?」

 「百怪対策室助手兼、使いパシリの空木コダマ十六歳です。依頼人を連れてきたので開けてください。あと室長のおやつは昨日買ってきて冷蔵庫に入っていますからね」

 この数か月で僕も学習している。室長とのどうでもいいやり取りは省略するに限る。

 「そうだな。本当にコダマだったらこの間の大根のモノマネを……」

 「絶対にやりません」

 被せていく。やりたくないことは拒否する。特に大根関連は僕にとって思い出したくないことなのだ。夢に見る。というか見た。

 「その反応、本物のコダマのようだな。入れ。鍵は開いてる」

 ぶつり、と音声は途切れる。

 いちいちこういうことをしないと人を入れられないのだろうか? めんどくさいことこの上ない。ため息が漏れる。

 「なかなか君も苦労しているみたいだね」

 「ありがとうございます……」

 出会って数十分の人にさえも同情されてしまった。どうして僕はこうなるのだろうか。

 室長に関わっているからしょうがないのだろうが。

 中に入る。

 初めての矢筈さんは予想通りに広すぎる空間に驚く。しかし、フリーズしたり、逃げ出そうとしない辺りはやはり大人の貫禄であろう。それともあの二人が特別なだけか?

 靴を脱ぎ、応接室の前まできてノックする。

 「入れ」

 思いやりもへったくれもないぞんざいな口調の返事が来た。

 気にせずに入室する。

 いつものようにジャージに白衣でソファに座ってくつろいでいる室長がいた。今日は一人らしい。笠酒寄はいないようだ。

 僕は矢筈さんに室長の対面に座ってもらうように促し、室長の隣のソファに座る。

 普通はこういう構図になる。

 笠酒寄が百怪対策室に寄り付くようになってしまってからはあまりなかったが、それまではこういう図になることが多かった。久しぶりだ。

 「初めまして、矢筈と申します。本日はご依頼したいことがありましてお伺いさせていただきました」

 丁寧にあいさつをした後に矢筈さんは名刺を取り出して室長に渡す。

 それを同じく優雅に室長は受け取る。

 「私はヴィクトリア・L・ラングナー。この百怪対策室の室長です。どうぞよろしく」

 そう言うと室長は白衣のポケットから名刺を取り出して矢筈さんに渡す。

 「室長、名刺持ってたんですね」

 「当たり前だ。これでも事業主だからな」

 それもそうか。しかし、百怪対策室の業種はなんになるのだろうか? サービス業であることには間違いないだろうが。

 「僕にも室長の名刺もらえませんか?」

 「いいだろう。ほれ」

 どんな名刺なのか気になったのでもらってみる。正直、なんだかんだと渡してくれないか、渡す代わりになにか無茶なことをやらせられるんじゃないかと思っていたのだが、杞憂だったらしい。たまには素直なこともあるようだ。

 もらった室長の名刺を眺めてみる。

 〈百怪対策室室長 ヴィクトリア・L・ラングナー〉

 味もそっけもない白い名刺にただそれだけ書いてあった。

 「これ、名刺の意味ないですよ」

 「ある。キミにはわからないだけだ」

 わかりたくない。というかわかってしまったらそれはそれで問題があるような気がしないでもない。

 とりあえずゴミ決定なのだが、目の前で捨ててしまったら後で何をされるのか分かったものじゃないのでとりあえずポケットにしまっておく。

 「それではお聞かせ願いましょうか。あなたが遭遇した『怪』について」

 名刺交換も終わり、室長は本題に入る。

 「ええ。ヨーロッパ貴族風の格好をした幽霊を見てしまいまして、それの解決を依頼したいと思っております」

 簡潔に、そして目的ははっきりと。こういうわかりやすい話し方ができるようになりたい。間違っても、何かにつけて横道にそれるような話し方はしたくない。室長のほうを見ながら僕はそう思う。なんで室長と矢筈さんが逆じゃないのだろうか? 世の中は理不尽だ。

 ふむ、と室長は何かを考えるように指をあごに当てて黙ってしまう。流石に室長でも手がかりがなさすぎるのだろうか? 

 僕の推測が正しかったのかはわからないが、室長はしばらく考えた後に矢筈さんに質問を始めた。

 「出現した時間はわかりますか?」

 「私が見たのは日の暮れるころ。他の社員もそのぐらいに見たと言っています」

 「なにか喋ったり、動いたりは?」

 「その場から動くことはありませんが、何かしらの動作をすることはあるようです。生憎と私は目撃していません。あと、どうもこれは私にはわからなかったのですが、フランス語を話すようです。目撃した社員の一人が言っていました」

 「……」

 室長は再び黙り込んでしまう。

 何かわかったのだろうか? それとも何も絞り込めないから考え込んでいるのだろうか? 

表情からは読み取れない。

 「もしかして、なのですが。近くに新築の建物があったり、道路工事をしていたりしますか?」

 なぜか頭痛をこらえるように室長は矢筈さんに尋ねる。こんな室長は初めてみる。

 「ええ、私自身のオフィスを新築したばかりです。……そういえば、幽霊が出始めたのはオフィスを新築してからですね」

 ぐう、とこれも初めて聞く室長の声だ。

 なんとも形容しがたい、あえて形容するならば腸捻転を起こした蛙はこんな声を出すのではないかと思う。

 「室長、どうしたんですか? なにか心当たりでも?」

 めずらしく僕の質問にも素直に室長は答えてくれた。

 「サンジェルマンのアホの仕業だ」

 だれですかそれ?



 「誰なんですか? そのサンゼルランって」

 「サンジェルマンだ。統魔の設立以前に存在していた魔術師、いや錬金術師だ」

 とっくにくたばっているがな、と室長はなんとかいつもの調子を取り戻そうとしているのかタバコを咥える。

 火を点ける動作自体は優雅なものだったが、表情のほうは苦虫をかみつぶしたかのようだ。

 「どうも厄介やっかいな人みたいですけど、死んでいるのに、なにをできるっていうんですか?」

 流石さすがにどんな魔術師でも死んでしまったらそれまでだ。いや、何らかのマジックアイテムを作成していて、それが『怪』を引き起こしている可能性もあるか。

 「そうだな、ある意味ではサンジェルマンの遺物になるのかもしれないんだが、サンジェルマン自身でもある。困ったことにな」

 なんとも要領を得ない回答である。

 「サンジェルマンというのは、あの不死伝説のサンジェルマン伯爵ですか?」

 何か知っているのか矢筈さんが入ってくる。なんだか有名人の話でもしているかのようだ。

 もし当たりなら矢筈さんがなぜそんなことを知っているのかということが不思議だ。

 「ええそうです。その不死伝説の元凶が今回の犯人ですね」

 答える室長は苦々しい表情を崩さない。過去にサンジェルマンと何かあったのだろうか?

 「結局、犯人は何なんですか? サンジェルマンの遺物でありながらサンジェルマン自身でもある。そんなモノって存在するんですか?」

 「あー。そうだなぁ。そこから説明しないとな」

 室長は至極面倒くさそうに呟く。

 それから、矢筈さんのほうに「ここから聞いた話は他言無用でお願いします。そうしないと貴方の身の安全が保障できません」などと脅しをかける。依頼人に脅しをかけるというのは前代未聞なのではないだろうか。いや、室長のことだから過去にやらかしている可能性は否定できない。

 ふう、とタバコの煙を吐きながら室長は語る。

 「そもそもサンジェルマンの不死伝説自体がとあるマジックアイテムによって引き起こされている『怪』なんだ。サンジェルマンの石。そう呼ばれるマジックアイテムが元凶だ。そもそもこれはどういったアイテムなのか? そういう疑問が当然あるだろう」

 こくこくと僕はうなずく。

 矢筈さんも真剣に聞いている。どうも現代人ながらも『怪』に毒されてしまっているようだ。

 室長は続ける。

 「サンジェルマンという人物は優秀な魔術師だったんだが、いかんせん人間だった。特に錬金術に長けていたヤツは最期の最期でとんでもないことを考えた。コダマ、なんだと思う?」

 いきなり僕に話を振られても困る。

 そんな錬金術師だか、魔術師だかの思考回路なんてわかるはずがない。

 「もしかして、不老不死でしょうか?」

 答えられずに困っていた僕の代わりに矢筈さんが答える。こういうところはやっぱり大人だ。

 「その通り。ある種人間の根源的欲求である『死の回避』、それに没頭したのです。その結果として哲学者の石とか賢者の石とか呼ばれる物質も作ったようですが、これは不老不死をもたらさなかった」

 「一般的には賢者の石が不老不死の効能を持つといわれていますが?」

 「ええ、あまりにも有名になり過ぎてしまったので、サンジェルマンの石のほうを隠すために統魔という組織が広めた話です。賢者の石には不老不死の効果はなかった。よって優秀なアホはその頭脳を用いてアホなことをしでかしました。自分自身を分割して鉱石に閉じ込めたのです」

 はい?

 矢筈さんが意外に魔術なんてものに関して詳しいことに感心していた僕は心中ながら間抜けな声を上げてしまった。

 「これらをサンジェルマンの石と呼んでおり、統魔においてもB指定、つまりは魔術師でさえも許可のない所持は禁止されており、基本的には統魔が管理しています。また許可なき場合の破壊は厳しく処罰されます」

 つまりは今回の事件の原因をどうにかしようと思ったら統魔に喧嘩けんかを売ることになってしまうわけだ。

 統魔は指定のついた魔術師、物品の管理に関しては厳しい。そんな組織に真っ向から喧嘩を売ってしまったら最悪は殲滅せんめつ指定、つまりは殺される。

 魔術の世界に生きる存在が統魔を敵に回すのはまずい。わかりやすく言うと情報とインフラを押さえられて、指名手配犯になるようなものだ。僕にも詰みだということがわかる。

 結論。どうしようもない。

 統魔に報告したらどうにかなるのかもしれないが、その場合は矢筈さんの身に危険、まではいかなくとも何らかの不利益が生じる可能性はある。

 魔術に関する記憶を抹消するためになんらかの措置を講じることは容易く想像できる。

 そうなった場合、会社の経営に関しての記憶まで保障されることはない。もちろん、その場合の損害の補償もだ。

 『怪』の大本おおもとはとっくに死んでおり、『怪』自身をどうにかしようとすると統魔に喧嘩を売ることになってしまう。放っておいてもいつかは統魔が気づいて矢筈さんは不利益をこうむる。

 なんてこった。

 とんでもないことをしてくれたものだ、サンジェルマン。

 室長がさっきから苦々しい表情なのも納得できる。

 依頼を解決したくでもできないのだ。

 こういった場合に他をあたってくれ、と断れるのならばいいのだが『怪』の専門家なんていうものはそうそういるものではない。少なくとも僕は室長しか知らない。

 困った。僕にはどうやって矢筈さんを助けていいのかがわからない。

 それは室長も同じだろう。

 性格は悪いものの、プロフェッショナルである以上は成果を挙げないといけないという信念を持つ室長にとっては非常に不愉快な事態である。こういった事態は初めてなのでどうなるかはわからないが、とりあえず僕の身の安全を確保しておいた方がいいだろう。なんとなく嫌な予感がする。

 「ど、どうも今回の事件には僕の活躍の場はないみたいですね。ははははは……」

 乾いた笑いになってしまった。演技が下手過ぎる。

 というか、完全に誘導を間違っている。

 こんなことを言えばむきになるのが室長だというのに。

 案の定、室長はなにかぶつぶつ呟きながら考え込んでしまった。

 単語を取り出してみると『バレないように』とか『アレなら……』とか『いざとなったら』などである。今すぐ応接室のドアを蹴り破って逃げたい。

 矢筈さんもどこか心配そうな顔だ。

 心配しないでください。なるようにしかなりません。心配するだけ無駄です。

 そう助言してあげたかったのだが、今の室長は導火線に火が点きかけの爆弾と同じである。少しでも刺激するようなことは避けたい。

 ここは可及的速やかに百怪対策室から退避するのが正解だろう。巻き込まれて火傷(火傷どころか全身が吹っ飛びかねないが)するのはごめんだ。

 「や、矢筈さん。室長も今回は少しばかり手こずるみたいですから今日のところはいったんお開きということにして後日、対策を練ってみませんか?」

 問題の先送りという愚行を犯す僕であった。

 しかしながら、それを許してくれるような室長、否ヴィクトリア・L・ラングナーではなかった。

 「まてコダマ。いい案を思いついたぞ」

 ニタリ、と室長が嗤う。

 なんとも嫌な笑みだ。

 矢筈さんまで表情がこわばっている。

 「ふふふ……なんでこんなことに気づかなかったんだろうなァ。サンジェルマンがアホならもっとアホをぶつければよかったんだ。ふふふ……」

 よほど気分がいいのか、滅多に火を点けることがない、とっておきと言っていた葉巻を室長は白衣のポケットから取り出す。

 そんな大事なものをポケットに入れていたのか……。

 じょぎん、とこれもポケットから取り出したギロチンカッターで端を落としてから慎重にライターで反対の端を炙る。

 火がしっかりと灯った葉巻を咥えて、ふかしだす。

 すさまじい煙が部屋の中に充満する。

 未成年のいる場所で喫煙しないでください。

 そう諫めたかったのだが、いまの室長になにかを言う勇気は僕にはない。

 正直、マッドサイエンティストにしか見えない。

 「さて、コダマ。方針は決まった。あとはサンジェルマンの石を確認しにいくか」

 フハハハハハ! などと高笑いするのはやめてほしい。金髪白衣にジャージの少女が葉巻を持って哄笑しているのはなんとも名状しがたい。少女という歳ではないが。

 せっかくの日曜だというのに、僕の今日の〆はどうも穏やかにはいかないらしい。

 どうしてこうなった。


 

 三人で矢筈さんのオフィスに向かう。

 まさか室長の運転するクルマに再び乗る日がこんなに近いとは思っていなかった。

 やたらに上機嫌の室長以外の僕たちは静かだ。というか今の室長が上機嫌過ぎてついていけない。

 「なんだぁ~コダマ。どうしたどうした? あのはた迷惑なサンジェルマンだけではなく、統魔にも一泡吹かせられるというのになんだその顔は。もっと笑え! こういう風にな」

 そんなことをほざきながらクハハハ! と室長は笑う。まるで悪役だ。

 僕と矢筈さんは後部座席に座っているので表情までは伺うことはできないが、恐らくはひどい顔をしていることだろう。見たくもないが。

 「ヴィクトリアさんはいつもああなのですか?」

 隣からささやくように矢筈さんが訊いてくる。

 「あんな感じといったらあんな感じなんですけど、今日は特におかしいですね」

 過去にサンジェルマンと何かあったのだろうか? いや、統魔設立以前に存在していた、と室長は言っていたからサンジェルマンの石関係でか。

 とはいうものの、あまりにも普段の様子と違うので気にはなる。

 なので訊いてみることにする。

 「室長。なんだかずいぶんとご機嫌ですけど、過去にサンジェルマン関係で何かあったんですか?」

 「ああ、統魔に所属していた時代にあのアホ関係で何度隠蔽いんぺい処理に駆り出されたことか。そのたびに私達は徹夜で事後処理の羽目になったからな。今でも統魔の隠蔽班は毎年発見されるサンジェルマンの石専用の人員を割いているぐらいだ」

 なるほど。統魔時代から悩まされていたらしい。それはいい。しかし、

 「ちょっと待ってください室長。毎年発見されているってどういうことなんですか?」

 「それがサンジェルマンの不死伝説の元になっているんだ。サンジェルマンの石は統魔で管理しているだけでも数百。未発見のものはまだまだあると推定されている。一説には人格を数千に分割したらしいからな」

 『怪』の原因になりそうなものがそんなにあるというのは考えるだけでも恐ろしい。しかし、なぜそれがサンジェルマンの不死伝説につながってくるのだろうか?

 「人格を分割したことによって、それぞれの石が持っている知識や性質は違ってくる。そして、別に一人の人間じゃないから同時に存在できる。その上に、鉱石ゆえに運搬は簡単だ。つまりは、だ。死んだあと数十年してから石の能力が発動した場合、何が起こると思う?」

 今回の室長はいつにもまして饒舌じょうぜつだ。よほど苦汁をなめさせられたらしい。

 「さあ、結局ぼくはサンジェルマンの石がどういうことをやらかすかっていうことは聞いてませんから、わかりませんね」

 「ああ、そうだったな。すまんすまん。石は発動すると生前のサンジェルマンの幻影を生み出す。そしてそいつは石に分割された知識やら考えやらを勝手に披露しだすんだ」

 なるほど。ということは今回の『怪』はそのサンジェルマンの石の能力が発動した結果の産物ということか。矢筈さんが目撃したのは幽霊じゃなくて、サンジェルマンの幻影だったわけだ。

 そして、サンジェルマン自身が死亡した後に石が発動すると、世界各地でサンジェルマンを目撃する人が出てくるわけだ。しかも大量に。

 「石を回収しきれないから、いつまでもサンジェルマンの幻影は世界のどこかで出続けている。そして、それを目撃した人がサンジェルマンが生きていると誤認する、ということですか?」

 「その通りだコダマ。サンジェルマンの遺産というか最後っ屁に付き合わされる私達の身にもなってみろ。統魔がやらかしたことでもないのに、その尻拭いだ」

 自分たちがやったことでもないのに、後処理をしないといけないということはたしかに嫌なものだろう。しかも相手は自分たちの先達せんだつにあたる存在だったとしたらなおのことか。

 矢筈さんがそういった魔術師の不始末による被害にあってしまったというのは不幸だと思う。

 一般人に害を及ぼすのは魔術師として失格だろう。僕は一応魔術師見習いなのでセーフらしい。どういう理論だ。

 「それじゃあ、そんな石をどうしたらいいんですか?」

 『怪』を解決すること。それが今回の目的だ。室長のうっぷん晴らしではない。その辺はわかっていると思うが、一応は確認しておく。

 「簡単だ。石を破壊すればいい。過去の検証から分かっているが、砕いた石は分割されたサンジェルマンを維持できない。今回は出没した場所にある石を砕いてやれば、それで終わりだ」

 簡単といえば簡単だ。室長が直接ぶっ壊してもいいし、やりにくいなら僕の能力を使ってもいい。破壊するだけならばコトは容易に運ぶだろう。

 しかしながら、統魔のほうが解決していない。

 B指定以上のモノに対する干渉は厳しい処罰の対象だ。それを室長はどうにかするつもりなのだろうが、一体どうするつもりだろうか? 

 訊いてみたかったが、聞いた瞬間から共犯にされる恐れがあるので訊けなかった。

 クルマは滞りなく進み、矢筈さんのナビでなんの障害もなく僕たちは到着した。

 サンジェルマンの石があると思われる矢筈さんのオフィスの前に。


 5


 矢筈さんのオフィスはかなり豪奢な作りだった。

 中身はともかくとして、見た目はボロアパートの百怪対策室とは比べるまでもない。圧倒的大差で敗北だ。比べられるような業種かどうかは知らないが。

 だが室長は建っている立派な建物のほうではなく、その周りをぐるりと囲んでいる塀のほうをずっと観察していた。

 実は僕もそうだった。

 なぜかというと、矢筈さんのオフィスを囲む塀には大小様々な石が埋め込んであったからだ。

 色とりどりの、原石もあれば磨き抜かれたぎょくもある。よくよく見てみれば、琥珀まで埋まっている。ちょっとした原色鉱石図鑑だ。

 こういった系のモノには弱い。少しばかり見蕩みとれてしまう。

 子供の頃に昆虫図鑑を眺めて胸をときめかせていたころが思い起こされてセンチメンタリズムに浸りそうになる。

 が、そんな僕にはお構いなしに室長は一個一個埋まっている石をつぶさに観察していっていた。

 そのたびに「ちっ」とか「外れか……」などと言ってるのはきっとサンジェルマンの石を探しているのだろう。金目になりそうな鉱石があったら盗もうと考えている、なんてことはないと信じたい。うん。

 「どうかな、空木君。私のオフィスは」

 なんとも誇らしげに矢筈さんが胸を張る。

 そのオフィスのせいで『怪』に巻き込まれているんですけどね、とは突っ込まない。そういうのは野暮というものだ。

 男であるからには自分の城を持ちたいという欲求はあるだろうし、それをどのように叶えようと違法でない限りは批判されるいわれはない。

 「素晴らしいセンスだとおもいます」

 ゆえに僕は当たり障りのないことを言うのだった。

 そして矢筈さんがどれだけの苦労をしたのかという話が盛り上がり始めた時に、室長が声を上げた。

 「あったぞ、コダマ」

 僕も矢筈さんも流石にそちらのほうに向かう。

 室長は門部分から入って裏側に回っており、ちょうど門から一メートルほど離れた場所に埋め込まれたきれいな水色の石を見つめていた。

 「室長、それがサンジェルマンの石ですか?」

 「ああ、そうだ。トルコ石を使用しているようだな。ふふん、馬鹿め。今に見ていろ」

 獲物をなぶる捕食者というのはこういう顔をするのではないだろうか。かなり凄絶せいぜつな笑みを浮かべて室長はご満悦だ。

 「でも、それホントにサンジェルマンの石なんですか?」

 もし違っていたら大事おおごとだ。間違いでやりました、では済まないようなことが起こるような気がしている。

 「間違いない。なんならもうすぐだから確かめてみるか?」

 「何をですか?」

 「本物かどうか、だ」

 言い終わるかどうかと同時に石が淡く輝く。

 注目していたからこそ分かったぐらいにほのかに、だ。

 少しして、石の前方三メートルぐらいの場所に人影が現れていた。

 中世ヨーロッパ貴族風の服装。

 理知的な顔立ち。

 そして優雅な立ち姿。

 恐らくは生前のサンジェルマンだろう。

 ということはこの石が間違いなく、本物だということだ。

 映し出された幻影は僕にはわからない言語で何かをこちらの説明しているようだ。矢筈さんの部下の話によるとフランス語らしいが。

 身振り手振りも交えているが、さっぱりわからない。

 「室長、なんて言っているんですか。これ」

 「テーブルマナーについて熱く語っているな」

 なんだそれ。魔術とか、錬金術とかじゃないのかよ。というか室長がフランス語を分かったことの方が驚きかもしれない。

 「まったく。こんなくだらないことの為に人格を分割するとはな。ふん、いいだろう。私が引導を渡してやる」

 幻影に向かって室長はびしり、と指を向けて宣言した。

 あー、嫌な予感がする。

 具体的に述べるなら僕がひどい目に合う予感がする。しかも痛い系。

 「ところで矢筈さん。保険には入っていますよね?」

 ここで突然室長は矢筈さんのほうに水を向けた。

 「ええ、入っています。ここは私の大事な場所ですからね」

 一片も動揺せずに矢筈さんは答える。

 「完璧だな。これで遠慮はいらん」

 クククク、と悪役めいた笑いをやってくれる室長だった。意外と笑い方のバリエーションは豊富だったらしい。

 ところで、一つ気になることがある。

 「室長、この石はなんで突然発動したんですか?」

 そう、サンジェルマンの石がなぜ発動したのかということだ。

 マジックアイテムならば効果が出るにはなんらか条件がある。まさか三人以上に注目されることが条件なんてことはあるまい。矢筈さんは一人でサンジェルマンの幻影を目撃しているし他の目撃者も都合よく複数で目撃した、なんてことはそうそうないだろう。

 ならば、なぜだ?

 「ああ、それなら空を見てみろ」

 空? 僕は言われたとおりに空を見上げる。

 赤と紫のグラデーションが雲を染めて、まるで抽象画のような光景が広がっていた。

 わからん。

 「すいません。わかりません」

 首を戻して素直に感想を伝える。

 はぁー、と室長は長い溜息を吐いた。

 「サンジェルマンの石の発動は夜と昼の境界の時間、つまりは黄昏時たそがれどきだ。この時間に近くに人間がいると石は幻影を生み出す」

 なるほど。しかし、なんでまたそんな時間なのだろうか。

 質問は思いついたらすぐするに限る。

 「黄昏時、逢魔おうまときは存在が揺らぎやすいんだ。その時間帯には魔術の発動に必要な魔力も減る。つまりは節約術だな」

 けっこうみみっちい理由だった。

 伝説にもなっている割にせこいなサンジェルマン。

 「とにかく、こいつをどうにかするのは今夜だな」

 「え、今やらないんですか?」

 「馬鹿者。悪いことは夜にこっそりとやるものだ」

 やっぱり悪いことなのか。



 というわけで夜である。午後九時。

 あの後にもなんやかんやと室長の悪だくみが展開していたのだが、それは割愛する。あえていうならばあの人を放っておくとこの町ぐらいならぶっ壊れるということがわかった。統魔、仕事しろ。

 しかしながら、依頼人である矢筈さんの『怪』を終わらせるために僕はこうして矢筈さんのオフィスの近くの喫茶店にいるというわけだった。

 なぜこんなところにいるかということの詳細を僕は聞いていない。

 ただ単に、「見つけたやつをぶっ飛ばせ」と命令されただけだ。一応それ以外にも多少はあるものの、核心の、どうやって統魔の目をごまかすかということは聞いていない。

 アバウトすぎるだろ……。

 一応は異常が起きたら知らせてくれる腕時計を貸してもらっているが、それも当てになるのかどうかわからない。なぜこうも世の中というものは僕に厳しいのだろうか? 管理者に問いただしたい。

 三杯目のコーヒーを飲み終わったころ、腕時計からチクリとした感触が伝わった。

 ……どうやら始まったらしい。

 会計を済ませて店を出る。

 それなりに広い道路に面しているこの喫茶店からは周辺が良く見える。夜でも僕は吸血鬼のなりそこないなので特に問題はない。

 その視力が妙なものを捉えた。

 人間にしては妙な影。

 しかし、二足歩行をしており、なにか長いものを持っている。

 おかしいのはそれが身長二メートル以上はあって、かなり体格がいいこと。そして、上半身に比べて異常に下半身が小さいということだった。

 人間じゃない。

 ふっ、と消えるように影は路地に入っていく。あっちは矢筈さんのオフィスがある方向だ。

 追ってこいということか。

 もう展開は読めている。この後に僕の胃が痛くなるのだろう。

 「あー、まったく……」

 ちなみに室長は百怪対策室だ。この作戦の実行犯は僕ということになる。

 今度タバコの葉の中に唐辛子を仕込んでやる。

 剣呑な気分になりながら僕は影を追って路地に向かった。


 闇の中、正体不明の影を追って僕は走る。

 見失わない程度に流す感じだ。正直、相手はそんなに足が速くない。

 突然、相手の足が止まった。

 矢筈さんのオフィスの前だ。

 追っていた相手の姿がしっかり見えるぐらいの位置まで近づく。

 二メートルを超える身長。人間に似ているものの、はっきりと違うとわかる体つき。なによりも、その顔は醜悪しゅうあくで、口の端からは鋭い牙が生えていた。

 無理やり人間の形にしたイノシシといった風情ふぜいだろうか。

 薄汚い布をまとっており、形容しがたい悪臭が漂ってくる。

 手に持っていたのはこん棒だった。あれで殴られたら人の頭ぐらいなら簡単に砕けてしまうだろう。ああ怖い。

 いつの間にか僕のほうを向いていたそいつはファンタジーでいうところの食人鬼オーガという奴だった。

 「ガァァァァッッッ!」

 威嚇なのか、何かの宣言なのか吠える。とはいっても僕には何の意味もない。

 正直、この距離なら能力を発動してしまえばそれで終わってしまう。しかしながら、今回は室長から『ある時』を除いて能力は使うな、という制限を受けている。よって、肉弾戦ということになる。

 負けはしないだろうけど、殴られるのは嫌だ。痛いのは勘弁してほしい。

 とっとと指令を終わらせることにしよう。

 食人鬼の懐に飛び込もうと僕が身体を沈めた瞬間、やつは持っていたこん棒を隣にあった塀に振り下ろした。

 派手な破砕音がして塀が砕ける。

 ちょうど、サンジェルマンの石が埋まっていた箇所だ。

 きらきらと月光を反射しながら埋められていた石が飛び散る。

 その中でも水色をしているトルコ石は一個しかなかったのでよくわかった。

 くそ。そういうことか。

 僕は意識をサンジェルマンの石に集中する。

 ふわりと髪が持ち上がり、同時に石が砕け散る。

 あっけないほど簡単に、『怪』の原因は壊れてしまった。

 室長から受けた制限。それは『サンジェルマンの石を破壊するとき以外には能力を使うな』というものである。

 他の石は食人鬼のこん棒の一撃で砕けてしまっているものも多数ある。

 そんな砕けてしまった石の中に砕けたサンジェルマンの石は紛れ込んでしまった。

 あくまでもサンジェルマンの石はこの食人鬼が砕いた、という主張が通るわけだ。統魔にはそれを確かめるすべはない。そもそも、この騒ぎに統魔が気づくということもないかもしれないが。その上に、石は砕かれて普通の石になってしまっている。

 これでサンジェルマンの石を破壊した上に、統魔からもとがめられるということはないわけだ。

 なんともひどい。

 まさかこんな呆れるような手段で解決するとは思っていなかった。力技にもほどがある。

 小さな嘘を隠すには大きな嘘をけばいいという理論だろうか。ダイナミック過ぎてついていけない。

 それはさておき、目の前の食人鬼のほうが優先だろう。だいぶ興奮しており、一刻も早く僕の頭を砕きたいようだ。

 やらせないけど。

 全力で駆ける。

 なりそこないとはいえ、吸血鬼の身体能力なら一瞬で距離をつめられる。

 驚愕の表情なのか食人鬼が奇妙に顔を歪める。同時に迎撃のためにこん棒を振り上げる。

 遅い。

 その時には僕はもう飛び上がっていた。

 二メートルを超える巨体を飛び越えて背後に着地する。

 振り向いてくる食人鬼のあごに突き上げるように掌底を一発。

 骨が砕ける嫌な感触がした。何度やってもこれは慣れない。

 流石にそんな威力の一撃を食らっても立ち上がるぐらいのタフネスはなかったらしく、食人鬼は白目をむいて倒れこむ。

 ちょっと人間より強いぐらいならこんなもんだ。

 確実に食人鬼が気絶していることを確かめると室長に連絡を入れる。

 三コールで室長はでた。

 「終わりましたよ。石のほうもキチンと破壊しました」

 『わかった。私の方から助手がなにかに襲われたという連絡を統魔に入れる。そのうちに統魔の隠蔽班が到着するだろうからそこで待っていろ。たまたま通りがかったと言い通せ』

 「了解です。しかし、こいつどっからやってきたんですか?」

 『ああ、昔手に入れたマジックアイテムだ。量産品だから足がつくことはない』

 「はいはい……」

 それから数十分後、血相を変えた統魔の隠蔽班がやってきて、事後処理を始めた。

 僕はなんだかんだと訊かれたのだが、室長の言いつけ通りにたまたま通りがかったという主張を通した。

 解放されたころにはすでに日付が変わってしまっていた。

 ……これから家に帰るのか。

 考えただけでも憂鬱になるが、まさか週の初めから休むわけにもいかないので僕は走って家路についたのだった。



 「で、結局あの食人鬼は何だったんですか? マジックアイテムを使ったことは聞きましたけど、詳細は教えてもらっていませんから聞かせてほしいですね」

 月曜日。百怪対策室の応接室でのことである。

 もちろんというかなんというか、笠酒寄もしっかりといる。

 入り浸(びた)り過ぎだろ。統魔に目をつけられても知らないからな。

 「『奴隷どれい召喚しょうかんの書』の一つだ。封印した対象を命令に対して絶対服従の状態で呼び出すアイテムだな。そいつを使って石を破壊させた。確実にするためにキミを更に使ったわけだ」

 「……どういうことですか?」

 いつも通りにソファでくつろいでいる室長に僕は重ねて尋ねる。

 面倒くさそうに室長は読んでいた漫画から顔を上げる。

 「命令が封印している対象が理解できるものじゃないといけないからな。『塀のあの部分をぶっ壊せ』は理解できても『サンジェルマンの石を破壊しろ』は食人鬼にはちょっと厳しかったからな」

 「大して変わらないように思えますけど」

 「食人鬼は色彩感覚が弱くてな。人間ほどには色が分からない。塀を全部壊されても困るだろ。だから塀を壊して、ダメだったらあとはキミが破壊する。完璧だ」

 僕が食人鬼と対峙することになること以外はですけどね。

 そう言いたかったのだが、正直あの程度のことは夏休みの修羅場しゅらばに比べたらなんということもないので反論できない。悔しいことに。

 室長は気分が乗ってきたのか、さらに続ける。

 「その上に隠蔽工作として成り立つ。結局、統魔としては食人鬼のほうに気を取られて肝心のサンジェルマンの石には気づかなかっただろ?」

 確かにそうだ。

 統魔の隠蔽班の人々も食人鬼を移動させて、塀を元通りにすることに一所懸命になっていて、砕けた石自体には全く注目していなかった。

 目の前の鬼に気を取られてもっと重要なことに気づかなかったということか。間抜けだ。

 「ふふん。これで『怪』も解決したし、統魔のアホっぷりも堪能たんのうできたし、文句はないな」

 青少年の教育に悪影響を与えそうな顔をするには止めていただきたい。

 「こうどなじょうほうせんですね!」

 笠酒寄、お前意味わかってないだろ。っていうか漢字が分かってないだろ。

 だんだんアホになってきてないか? 文系は得意だったはずだろ。

 「まさしく! この情報化社会においてはいかに正確な情報を入手するかによって成果は変わってくる。今回は私の完全勝利だな!」

 ソファから立ち上がり、室長は薄い胸をはる。

 服装がジャージであるせいで盛り上がりがあるのかどうかもわからない。そもそも白衣をどうにかしろと言いたいが。

 まあ、今回は楽な部類だったからよしとするか。

 腹に穴が開いたり、全身火だるまになるのはもう勘弁してほしい。

 前者のほうの犯人はのんきにドーナツなんてほおばっているが。

 ん? ドーナツ?

 「おい、笠酒寄。そのドーナツは冷蔵庫の一番奥にあったやつじゃないのか?」

 「ふぉうはよー。ふぉいふぃふぉ」

 ものを口に入れたまましゃべるな。

 とりあえず笠酒寄が口の中のドーナツを飲み込むまで待つ。

 飲み込んだのを確認したので改めて。

 「……そのドーナツが入っていた箱には僕の名前が書いてあったんじゃないのか?」

 「うん。書いてあった」

 確認したうえでお召し上がりになられていたらしい。

 びしりと僕のこめかみに青筋が走るのがわかった。

 「……一ついいか、笠酒寄? お前の家では他の人間の名前の書いてある食べ物は食べていいことになっているのか?」

 「ううん。それはないよ。でもここは百怪対策室だし、空木君のだし」

 「おまえー!」

 「騒がしいぞコダマ。ドーナツの一つや二つでガタガタ言うんじゃない。けち臭いな」

 「そんなこと言ったってです……ね……」

 「なんだ? 私の顔に何かついているのか」

 いや、何もついていない。

 問題はその手に持っているものだ。

 「室長。つかぬことをお伺いしますが、その手に持っているものは?」

 「ん、これか?」

 何でもないことのように室長はその手に持っているものを僕の方に向ける。

 「これはドーナツという揚げ菓子だ。原型はオランダのオリークックという菓子なんだが、それが伝わっていくうちに変化して現在よく知られているリングドーナツになったわけだ」

 いや、そうじゃなくて。

 「それ、僕が買ってきたドーナツじゃないんですか?」

 室長が持っているのは笠酒寄が持っているドーナツと一緒のやつだ。

 伊勢堂のもっちりきなこドーナツ。けっこう人気商品。僕の好物でもある。

 「そうだな。コダマの名前が書いてある箱に入っていたから恐らくはそうだろうな。まあ、些細ささいな問題だ」

 まったく些細ではない。

 せっかく今日は『怪』が終わったので、ゆっくりと紅茶でも飲みながら堪能しようと思っていたものだ。

 それを……かすめ取られるとは……。

 がっくり来る。膝から崩れ落ちてしまいそうだ。

 これが幼い児童だったら大泣きしているところだ。僕はもう高校生なのでそんなことはしないが。

 だけど、なかなかに効く。

 ちょっと涙が出てきそうだ。出てこないけど。出てこないったらこない。

 「なんだか落ち込んでいるようだが、どうせ三人で食べる気だったんだろう。ちゃんと三個入っていたからな」

 そんなことはない。

 単に今日は三個ぐらい食べたい気分だっただけだ。

 けっして室長と笠酒寄にたまにはおごってやるか、とかそういう気分になったわけではない。

 ……僕がそうだと主張するならそうなのだ。

 「まあいい。私もとっておきのコーヒーを淹れてやる。滅多に飲めるものじゃないから、存分に味わうといい」

 室長はそのままキッチンのほうに行ってしまった。

 残ったのは最後のドーナツと、爛々らんらんとした目でそれを見ている笠酒寄である。

 笠酒寄とドーナツを交互に見る。

 結果、今にも涎をたらしそうな女子というのはあまり見たくないものであるという結論に至った。

 はぁ。どうにも僕はお人よしだ。

 「今度おごれよ」

 「今度ね」

 「わかった。食っていいよ」

 「ありがとう!」

 嬉しそうにドーナツをかじり始める笠酒寄を見て、僕は少しだけいい気分だった。

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