第三怪 生き人形
朝、登校して下駄箱を開けると封筒が入っていた。
(いきなりかよ……)
とりあえず、この場で開けるわけにもいかないのでトイレに直行する。
もちろんラブレターという可能性は考えない。僕にそういった甘酸っぱいイベントは起こらない。ここ最近確信したことだ。
個室に入って開封する。
中には予想通りに手紙が入っていた。
内容はこうだ。
〈相談したいことがあります。放課後五時に物理準備室で待ってます〉
一方的すぎないか?
こちらの都合とかはどうでもいいのだろうか。
行かないと室長になんていわれるのかわからないので行くが。
まだ九月だっていうのに、なんでこんなにも僕の周りには変なものが溢れているのだろうか? でてこい神様。
あといつの間にか僕の下駄箱を妖怪ポストみたいな扱いにしたやつもでてこい。こっちには見当はついている。
きーん、こーん、かーん、こーん。
まずい。HRが始まってしまう。取り合えずは放課後まではこの件に関しては保留だ。
僕はダッシュで個室から出ると教室に向かった。
放課後。
いつもならそのまま
いつも通り
「わかった。ヴィクトリアさんには
「依頼人は女子かどうかわからないし、女子だとしてもイチャイチャなんてしないし、そしてお前以外に誰が僕の下駄箱に珍妙な噂をくっつけてくれるんだよ」
「知らなーい」
なんか
僕、何かしたか?
まあ、女心と秋の空というぐらいだし、そのうちに機嫌も治るだろう。
「とにかく、余計なことは言わずに僕が遅れてくるっていうことを伝えてくれればいいんだよ。頼む」
「……わかった」
やはりなんだかいつもの感じではない笠酒寄は渋々という様子で教室から出ていった。
「面倒は勘弁してくれ……」
はぁ。
ため息がかさむ。
午後五時。物理準備室前。
普段、物理準備室は科学部が使うために鍵はかかっていないが、今日は外で実験しているらしいので施錠してあるはずである。
しかし、僕がドアに手をかけてノブを捻ると簡単にドアは開いた。
せまっ苦しい準備室の中には一人の女子が佇んでいた。
「あなたが空木コダマ君?」
儚げで、どこか幽霊を連想される彼女はそう聞いてきた。ロングヘアが余計に柳の下の幽霊を連想される。
が、そんなことで動揺する僕ではない。これでも普通の高校生よりも大分修羅場をくぐってきているのだ。
「そうです、空木コダマ。『怪』の専門家への取次窓口ですよ」
余裕たっぷりに僕は答える。
初対面であるならば、ハッタリを利かせるぐらいのほうが上手くいくことが多い。
なによりも信頼というものがそのままイコールで結果につながりやすい『怪』の世界は特にそうだ。
「そう……。ドア閉めてくれるかしら?」
か細い声で要求してくる。
とりあえずは従っておいた方がいいだろう。
これが僕を捕獲するための罠だとしても目の前の少女からなら余裕で逃げ切れる自信がある。
僕はそっとドアを閉める。
途端に彼女は僕の方に走り寄ってきた。
(!)
まずい、これはもしかして本当に罠だったパターンか⁉
くっそ、こんなところで捕まってしまったら室長にどんないじり方をされるかわからない。
反射的に僕は身構える。
しかし、彼女は殴ってくるわけでもなく、蹴ってくるわけでもなく、僕に縋りついてきた。
「お願い! 私のお母さんを助けてほしいの!」
涙ながらに懇願する彼女はいままでの幽霊のような顔ではなく、確かに生きた人間の顔をしていた。
ちなみに僕は身構えたまま縋りつかれて混乱したまま動けなくなっていた。
「お願い……お願い……します」
とうとう彼女は半泣きになっていた。
「あ、はい。わかったんでとりあえず離れてもらっていいですか?」
「ごめんなさい、もうちょっとだけ」
あーはいはいそうですか。
2
「ごめんなさい。取り乱したわ」
泣きつかれたまま数分。やっと少しは落ち着いたのか幽霊みたいな少女は僕から離れてくれた。シャツに涙と一緒に少しばかりの鼻水までくっつけてくれたが、寛大な心で勘弁してやろうと思う。できると思う。できたらいいな。
彼女は相変わらず存在自体が儚い感じだったが、目が赤くなっている分、先ほどよりも人間味は増していた。
「自己紹介するわ。わたしは桃ノ
どうやら年上だったらしい。
まあ、全体的に大人びた佇まいだし、それは予想できたことではある。
「それで、桃ノ瀬先輩、あなたの用件はなんですか? こんな僕なんかに『助けて』だなんてよほどに追い詰められているみたいですけど」
『怪』への関わり方は様々だが、泣きながら懇願されるというのは初めてだ。
大抵は『なんだかよくわからんし、納得できない』程度の認識なのだが。
彼女の場合はどんな関わり方をしてしまったのだろうか?
いや、おそらくは、彼女の母親は、だ。
「ええ、そうね。わたしはもう、頼れるものはあなたぐらいしかいないの。『あれ』はきっと貴方のような人にしか処理できないモノだわ」
人のことを産業廃棄物処理業者みたいな言い方をしないでほしい。
そう捉えられても仕方のない部分もあるかもしれないが、僕や室長は少しばかり普通の人は認識していないことを認識しているというだけの話なのだから。
しかし、『あれ』か。
名前を言いたくないぐらいに嫌いなのか、それとも表現できないぐらいに珍妙なものなのか。
どっちにしても、僕がえらい目にあうことは確定なのだが、できればソフトな感じのやつを希望したい。どうせ叶わぬ願いだろうけど。
「『あれ』というのは一体なんですか?」
とっとと核心を尋ねるに限る。
室長ならあーだこーだ言いながら与太話を展開させるところだったろうが、彼女はそうではなかった。
「人形よ」
「はい?」
「人形。それがわたしのお母さんに憑りついているの。もう、わたしにはなにもできないわ」
人形ときたか。
室長にも話は聞いたことがあるし、専門家から話も聞いたことがある。とはいうものの、彼らは正確に言うとゴーレムだが。
だが、憑りついている、という表現。つまりは霊的な『なにか』が根本にはあるということだろうか?
まさか幽霊退治まですることになるとは思わなかった。まあ、まだ幽霊と決定したわけではないが。
「あんなものがあるなんて想像もしてなかったわ。このままじゃお母さんもわたしも養分にされるだけ」
自分の身体を抱くようにしながら彼女は声を震わせながら呟く。
大分参っているようだ。
とはいうものの、一応確認しておくことはある。
「その人形はどうやって手に入れたんですか?」
「わからないわ。お母さんは骨董市で一目ぼれして買ってきたらしいんだけど、詳しいことはわからないの」
出自不明。
となるとなかなかに厄介かもしれない。
マジックアイテムや呪いの品がなにかの拍子で一般市場に出回ってしまうことはわりとあることらしい。そういったものの回収を専門にしている統魔の部門もあるとは聞いたが、よほどの被害がでるか、予想される場合でないとなかなか動かないらしい。
つまり、精々数人が犠牲になるぐらいの今回は動きそうにないということだ。
向こうも向こうで事情があるのだろうが、こう言いたくもなる。
もっと仕事しろ!
さて、そんなことは横に置いて、直面している問題に取り組んだ方が建設的だろう。
「ええと、桃ノ瀬先輩。その人形とやらがどんな事態を引き起こしているのかということを教えてくれますか?」
とりあえずは現状の確認だ。
何が起こっているのか? それは本当に『怪』なのか? そういうことの確認も大事だ。
夏休みに『怪』でもなんでもないものの相談にいったら室長にこっぴどく馬鹿にされたことはまだ覚えている。あの時の二の舞は御免だ。
「『あれ』はうちの家族になろうとしているわ」
「はい?」
「もうお母さんは完全に騙されてしまったし、わたしも時間の問題だと思うわ」
「え?」
「わたしも騙されてしまったらもう異常に気付ける人はいないわ。うちには滅多に人が来ないからきっとわたしもお母さんも『あれ』をずっと家族だと思い続けるしかないわ。そんなの考えただけで悪寒が走るわ……」
「あの、すません、先輩。よくわかりません」
僕の言葉で若干トリップしていた桃ノ瀬先輩は我に返ったのか少し恥ずかしそうにしながら髪をかき上げた。
「そうね、いきなり過ぎたわね」
そういう問題ではないと思う。
そうは思ったが言葉には出さない。信頼が大事だ。
「お母さんはあの人形をわたしの妹だと思っているの」
死んだような眼をして桃ノ瀬先輩は事情を説明しだした。
「買ってきたときには普通の人形だったわ。ちょっとサイズは大きめだったのだけど、昔からお母さんは大きめのぬいぐるみとかが好きだったから特に気にしてなかったの。でも、だんだんと、お母さんは『あれ』を人間のように扱い始めた。少しずつ少しずつ、でも確実に。初めはわたしもちょっと演技過剰なんじゃないかって思ってたぐらいだったわ。でも、ある日、人形に対してお母さんが怒っていたの。『お片付けできないんだから
なるほど。起きている現象はわかった。
だが、問題が一つある。
「失礼な質問になってしまうと思うんですが、お母様が精神疾患を発症してる可能性は?」
僕の質問に桃ノ瀬先輩は自嘲気味に笑った。
「そう思うわよね。わたしもそう思ったわ。だから人形を捨ててきたの。お母さんの隙を見てね。電車で数駅いった先のゴミ捨て場に捨ててきたの。これで少しはマシになる。そう思って帰ってきたわたしを迎えたのは人形の前におやつを並べているお母さんだったわ」
「人形が複数あったという可能性は?」
「もう四回もやったわ。まったく同じ人形が骨董市に五体以上も並んでいて、それをいくつも買うかしら? それに、家中を探したけど、他に人形はなかったのよ」
どうやらこれは百怪対策室に持ち込まれるべき案件のようだ。
なによりも早く解決しないと先輩は無理心中でも図りそうだ。
「わかりました、桃ノ瀬先輩。専門家のところにお連れしますよ」
時刻は午後五時三十分。
そういえば依頼人は笠酒寄の予想通りに女子だったな、なんてことを僕は考えた。
3
ハイツまねくね二百一号室。
いつもの百怪対策室の扉の前。
なぜか桃ノ瀬先輩はやたらに怯えていた。
ガタガタと、ぶるぶると。
「桃ノ瀬先輩、確かに表札からは異常なまでのうさん臭さを醸し出してますが、入っただけでとって食われるわけじゃないですよ」
入った後は保証しないとは言わない。
事実でも伏せておいた方がいいこともある、ということだ。
「ご、ごめんなさい。もしかしてこの中にあの人形がいるかもしれないと思ったら急に震えてきちゃったの」
怯えすぎだ。っていうかなんで何の関係もない百怪対策室にまで人形がいるとおもっているのだろうか? それだけ精神的に弱っているということでもあるのか。
「大丈夫ですよ。ここには一流の結界が張ってあって室長の許可がないとどんなものでも侵入できなくなってる、そうですよ」
「そ、そうなの?」
「そうらしいですよ」
一応は納得してくれたのか桃ノ瀬先輩は震えるのはやめてくれた。
アパートの扉の前でぶるぶる震える女子を連れているというのは絵的にもまずい気がするので、先手を打っておいた。
インターホンを押す。
キン、コーンといういつもの音。
ザ、という音がしてノイズ交じりの室長の声が迎えてくれる。
「だれだ? 放課後に女子とイチャイチャして青春を謳歌してしまっているポニテ少年か?」
訂正。いきなり迎撃された。
あと笠酒寄はあとで説教だ。
「違います。いや、コダマなのは確かなんですけど、イチャイチャなんかはしてませんし、依頼人に会って事情を聞いていただけですから青春も謳歌してません」
「本当か? 思春期真っ只中の少年がそうそう事務的になれるとは思わんな」
「本当ですって。あとで本人に聞いてもらってもいいですよ」
「ふーん。まあ、しかし女子と一緒だったのは否定しなかったな」
「確かに依頼人は女子ですよ。でも話を聞いただけですよ」
「いいだろう。その辺は中でゆっくり聞いてやる。空いてる、入れ」
もはや恒例になってしまったやりとりもやはり疲れる。
「さ、桃ノ瀬先輩、入りますよ。あんまりここにいると遭難しますよ」
「そ、遭難……?」
しまった。怯えさせてしまった。
どうにも僕はなにかやり遂げたら、なにかやらかさないといけない呪いにでもかかっているのだろうか?
「……僕と一緒に入ったら大丈夫ですから。安心してください」
「う、嘘じゃないわよね?」
青い顔をして悲壮感溢れる顔で訊くのはやめてほしい。なにも悪いことをしていないのに罪悪感が襲ってくる。
入るだけでこんなにも苦労するとは思わなかった。
入ってからもだいぶ苦労した。
桃ノ瀬先輩はいきなり逃げ出そうとするし(室内が広すぎることに驚いたらしい)、靴を脱ごうとしないし(すぐに逃げ出せるようにらしい)、とにかく普段の何十倍もの時間がかかってしまった。
やっと応接室の扉を開けると、そこにはにやにやしている室長と機嫌の悪そうな笠酒寄がいた。
「ようコダマ。女子連れとは良いご身分だな。まったく羨ましいな」
室長は開口一番これである。
頭痛をこらえながら僕は反論する。
「依頼人なんですから連れてこないことには始まらないでしょう? 室長が直接話をしなくても解決できるっていうのなら別ですけど」
「コダマが解決できるようになればいいだろう?」
「もうそれ助手じゃないですよ……」
もはや室長の競合他社になってしまっている。本末転倒にもほどがある。
というかこんな事態になっている元凶を先にどうにかしよう。対症療法ではらちがあかない。
「笠酒寄、僕はお前に遅れてくるって伝えてくれっていったよな? そしてお前はわかったって言ったよな?」
「……知らない」
ぷいっとそっぽを向く笠酒寄だった。
なんでこんなに不機嫌なんだ? 生理か?
勘弁してほしい。
「なんだ? 痴話喧嘩か? 男女の仲をどうこう言うつもりはないが仕事には持ち込むんじゃないぞ」
心底楽しそうに室長は言う。
煽っている本人が言うんじゃない、と主張したい。
「とにかく話を聞いてください。かなり桃ノ瀬先輩は参ってるみたいなんですよ」
室長にさえ怯えている桃ノ瀬先輩をなんとかなだめてソファに座ってもらう。
笠酒寄は室長と向かい合うように座っていたので自然に僕が室長の隣、桃ノ瀬先輩が笠酒寄の隣に座る形になった。
なんか向こう側がピリピリしている気がするが、もう気にしないことにする。というか完全に笠酒寄が僕に寄せる視線が痛い。僕が何をした。
「さて、ではキミの話を聞かせてもらおうかな。たぶんコダマに話した内容と同じことになるだろうが、一応私が直接聞いてみないとな」
いつものリラックスした姿勢で今日は黄色い、どこかで見た覚えのあるパイプを咥えながら室長は言った。
今日は煙草の葉が入っていないらしく、煙は出ていない。
そうして、桃ノ瀬先輩の話が始まったが、僕が聞いた時と内容は変わらなかった。
しいていえば何度も言葉に詰まっていたことぐらいだ。これは百怪対策室の雰囲気に気後れしていたものだと思いたい。決して隣の笠酒寄から僕に放たれる視線に引いていたわけではないと信じたい。
「話はわかった。どうやら人形を媒介に霊が憑りついているようだな」
桃ノ瀬先輩が語り終わると室長は迷わずにそう宣言した。
「今のでわかるですか?」
あんなものでわかるのか疑わしい。
「ああ、わかる。何度か私も解決したことがあるしな。典型的な子供の霊だな」
「子供なんてことまでわかるんですか?」
そんな情報は含まれていなかったと思うが。
「そうだな、人形っていうのは依り代になりやすいんだが、子供の魂というものはまだ確固たる自分を形成していないんだ。ゆえに自分の肉体が変わってしまっても受け入れやすい。魂っていうのは媒介に疑問を抱くと離れやすくなってしまうからな。大人の魂は定着しづらい」
「はあ……」
いままでの『怪』で子供の霊を扱ったことはないので今一つピンとこない。
「それと、『家族』として振る舞おうとしていることだな」
たしかに桃ノ瀬先輩のお母さんは人形を娘と認識しているということだった。
「寂しいのさ。霊もな」
死んだ方が寂しがる。不思議なものだな。
述懐するように室長は言葉を漏らした。
「さて、私は使うものを取ってくるから待ってろ」
「あ、僕も行きます」
「倉庫は立ち入り禁止だといったはずだぞ」
「……はい」
こうして室長は倉庫に行ってしまい、僕と笠酒寄と桃ノ瀬先輩が残されるという僕にとっての地獄が始まった。
4
「……」
「……」
「……」
三人とも喋らない。
というか僕は喋れない。下を向いたまま黙っている。
下手に口を開こうものなら人狼パンチが飛んできそうな雰囲気だ。
何でこんなことになっているのだろう。
くそ、室長め。いつか仕返ししてやる。いつになるかはわからないけど。
「……」
しかし、沈黙がこんなにも攻撃的なものだとは思っていなかった。
沈黙という行為は防御的な行動だと思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。今の僕にはこの上なく効いている。じわじわと首を絞められるような感じだ。
耐えきれなくなって僕は桃ノ瀬先輩のほうをちらりと見る。
桃ノ瀬先輩は白目をむいていた。
「うおぁ! ちょっと! しっかりしてください!」
慌てて先輩の肩を揺さぶる。もちろん手加減してだ。
「……ぅ……ん」
なんかとか目を覚ましてくれた。
危なく百怪対策室の中で死者を出すところだった。
これはいけない。
このままいつ帰ってくるかもわからない室長を待っているというのは非常にまずい。
意を決してぼくは笠酒寄に質問する。
「なあ、笠酒寄。なんでそんなに不機嫌なんだよ? 気に入らないことがあるならいえよ。できうる限りの改善はするから」
「……知らない」
なんだかわからないが、すさまじくご機嫌斜めのようである。
一体僕が何をした? そして、僕だけならいいが、桃ノ瀬先輩まで巻き込むな。僕もお前も普通の人間ではないが、先輩は一般人だ。
正直いって人の懐柔は得意ではない。
僕はあまり人と仲良くするということが苦手ではあるし、女性との接点もあまりない。
妹と母親は女性というカテゴリよりも先に家族というカテゴリに入ってしまう。
困難なミッションだが、やらないと僕自身だけではなく、桃ノ瀬先輩も危うい。
「知らないってことはないだろう? 明らかに普段と違うじゃないか」
なるべく刺激しないように問いかける。できているかどうかはわからない。
気分は爆破物解体班だ。
「言ってくれよ。そんなに僕とお前は信頼できない関係なのか?」
しばらく笠酒寄は黙っていた。
桃ノ瀬先輩はなぜか笠酒寄のほうやけにまっすぐ見ていた。相変わらず幽霊っぽい感じだったが。
「……空木君が桃ノ瀬先輩と抱き合っていたのはなんでなの?」
しばしの沈黙後に笠酒寄は静かに、しかし、しっかりとした意思をもって僕に告げた。
お前見てたのかよ。
っていうかどこにいたんだ。
扉は閉めていたはずだぞ。
「わかるよ。だって桃ノ瀬先輩の匂いが空木君からするもん。何やってたの?」
くそ、人狼の嗅覚はそんなことまでわかるのかよ。
しかし、誤解は解いておきたい。
「抱き合ってなんかいないよ、それは本当だ。桃ノ瀬先輩に聞いてもらってもいい」
「それならなにしてたの?」
正確に言うと縋りつかれて涙と鼻水をくっつけられていたのだが、それは桃ノ瀬先輩の名誉にかかわることなので言いたくはない。
しかし、言わないと笠酒寄の機嫌は直ってくれないだろう。直ってくれる保証もないが。
どうしたものか。
そんな風に僕が言葉に詰まっていると、救いの手は意外な場所からやってきた。
「笠酒寄さん、空木君はわたしに縋りつかれて、困惑していただけよ。きっとその時に匂いが移ってしまったのね。責められるべきは空木君じゃなくて、初対面の人にそんなことをしたわたしなのよ」
いままで存在感が希薄だった桃ノ瀬先輩だった。
「先輩……」
「いいの。このまま笠酒寄さんと空木君がぎくしゃくするぐらいならわたしの醜態ぐらいはいくらでも晒して構わないわ。あなたたちが険悪になっているのは嫌だもの。それにわたしも遠慮したい状態だったしね」
百怪対策室に到着してから十分に醜態は晒していたと思うのだが、なんだかいいことをいってる感じなので黙っておく。
静かに、まるで諭すように先輩は続ける。
「笠酒寄さん、あなたがどんな思いでいるのかはわたしにはわからないわ。でも、空木君だって人間なのよ。あなたにそんな態度を取られ続けるのは辛いんじゃないかしら?」
僕と笠酒寄、あとついでに室長は人間ではないが、ここでいっているのはそういうことではないだろう。
きっと精神の在り方だ。
「ほんの少しだけあなたより生きているだけのわたしだけど、だからこそあなたの気持ちも少しはわかるつもりだわ」
笠酒寄は何も言わない。
黙って聞いているだけだ。
「言いたくないのかしら? それとも言ってしまうことで自分の中の嫌な部分を見たくないのかしら? でもね、それもあなたなのよ」
ぎゅっと口を引き結んで笠酒寄は先輩の言葉を聞いている。
その心情は僕にはわからない。
「わたしは今、空木君や室長さんに助けを求めている弱い人間なのよ。それは事実。認めるしかないわ。私一人ではどうにもならなかったもの。わたしはわたしにはできないことを期待しているけど、それは責められるばかりのことではないと思っているの。そうやってお互いに助け合うのが人間じゃないかしら?」
「……先輩になにがわかるんですか?」
笠酒寄が初めて桃ノ瀬先輩の発言に返した。
弱々しくだったか、それはたしかに桃ノ瀬先輩の言葉に対してのものだった。
対して先輩は涼しい顔で返す。
「わからないわ。だってあなたは何も言ってくれないもの。空木君に伝えたいことがあるなら言わないとだめよ。彼、鈍いみたいだから」
イイカンジのことを言いながら僕をけなすのはやめてほしい。そういうのは室長だけで十分だ。
再び、笠酒寄は黙ってしまった。
ついでに僕も何も言えない。いや、正確には桃ノ瀬先輩のほうには反論したい部分もあったのだが、ここは何も言わない方がいいだろうという判断を下したのだった。
笠酒寄はしばらく逡巡していたようだが、やがて、小さな声で言った。
「空木君、あとで頭撫でて」
「ああ、わかったよ。いくらでも撫でてやるからそれで機嫌直してくれよな」
「……うん」
まったく、なんともよくわからない結果だ。
だが、これでなんとか機嫌は直りそうだからいいだろう。
それもしても室長が遅い。倉庫になにかを取りに行くだけでこんなに時間がかかるものだろうか?
嫌な予感がして僕はドアの方を見る。
ドアは閉まったままだった。
室長もいない。
杞憂だったか。
「ふふふ、甘いなコダマ。言ったはずだろう、壁に耳あり障子に目あり、天井にヴィクトリアあり、とな」
声は天井から降ってきた。
上を見上げる僕の動作はきっとギシギシと音がしていたことだろう。
見上げた応接室の天井には室長が張り付いていた。
さも、そこにそうやって存在していることが当然である言わんばかりの態度で。
ぶわりと僕の髪が持ち上がる。
ひらりと僕の必殺の視線をかわして室長は床に降り立つ。
いたんならさっさと登場しろこの野郎。
「ふう、やはり
ニヤリ、と僕のほうに嫌な笑顔を向けることも忘れない。
めちゃくちゃ腹立つ。
一旦、保留しよう。仕返しは後日考えることにする。こめかみがぴくぴくしているのがわかるが、どうにか抑えよう。
「それで、解決するためのアイテムはあるんですか? 全部嘘っぱちで、ずっと天井に張り付いていたとかだったら流石に怒りますよ」
「安心しろ。きちんと持ってきたうえで空間転移術式を使って張り付いていただけだからな」
そういうところに尽力するよりも僕の心労を慮ることに尽力してほしい。
「ところで、桃ノ瀬クンのほうはいいのか?」
「はい?」
桃ノ瀬先輩のほうを見るとまた白目をむいていた。
「先輩⁉ ちょっと! 大丈夫ですか? しっかりしてください!」
5
気絶した桃ノ瀬先輩がやっと目を覚ましたので本題に入ることにした。
「それで室長、今回はどうやって解決するつもりなんですか?」
いまだに青い顔をしている桃ノ瀬先輩の代わりに僕が質問する。
流石に天井に蜘蛛みたいに人間(吸血鬼)が張り付いているのはショックだったようだ。
……実は笠酒寄のほうもけっこうひいていたように見えた。
「そうだな。どう解決すると思う?」
こういう物言いをする人物は速やかにくるぶしに謎の激痛が走って歩くことも走ることもできなくなってしまえばいいのにと思う。ついでに痛みでタバコも喫えなくなってしまえばいい。
「はい! 天狗倒しの時みたいにお札を貼って封印したらいいと思います」
いつもの調子に戻った笠酒寄がいつものように室長の反撃を恐れない発言をする。
「うーん、単なる悪霊的なものならそれでもいいんだが、今回の『怪』は桃ノ瀬クンの御母堂に対しての認識汚染を行っているからな。単なる封印だとそれが解決できない」
認識汚染。つまりはなんらかの精神的影響を与えているということだ。
なるほど。封印してもただ単に与える影響が消えるというだけでそれまでの影響がなくなってしまうということではないということか。
「それじゃあ、その認識汚染ごと消滅させてしまうようなアイテムでも使うんですか?」
「アホかコダマ。そんな代物は統魔が厳重に管理しているに決まっているだろうが。少しは頭蓋骨の中身を使え。詰まっているのは綿じゃないんだろう?」
笠酒寄には普通なのに僕に対しては
なんだこの差は。助手とその他の違いか?
「そんなことを言ってもやばいアイテムかなり持ってるじゃないですか」
「うまく隠し持っていたとしても、使ったら統魔の回収部隊がやってくるぞ。最悪キミも処罰の対象になってしまうな」
それは勘弁してほしい。
夏休み以来、統魔の回収部隊にはもう関わり合いになるものかと決めているのだ。
統魔が定める魔術師以外に対する指定は以外にはA、B、C、Dと四つあるが、B指定以上は持ち出されただけで容赦のない回収が行われ、不可能な場合は徹底的な破壊工作が行われる。
例えば僕の住んでいる町ぐらいならなんのためらいもなく地図上から消してしまうだろう。初めからなかったかのように。
それは困る。住んでいる町を消されてしまっては非常に困る。
となると……。
「精神汚染を取り除くものとあの人形自体をどうにかするものを併用するのかしら?」
「そうだ。桃ノ瀬クン、いいカンをしているな」
「ごめんなさい。解決していただける方に失礼な口のきき方でしたね」
「気にするな。わたしは見てくれがこうだからな。慣れてるし、キミは依頼人だ」
言おうとしたことを桃ノ瀬先輩に先を越されてしまった。しかし、室長もわかっているなら少しは年相応の格好をしてほしいものだ。事情を知らない人間が見たら中学生が
「コダマ、なにか良からぬことを考えていないか?」
「い、いえ。そんなことはありませんよ」
エスパーか。
僕が顔に出やすいだけなのかもしれないが。
しょうもないことをやってないで話をとっとと進めよう。
「結局何を使うんですか?」
二つの品物がテーブルの上に置かれる。
小さな陶製の人の形をしたものと、つまようじのようなものだ。
「さっぱり意味が分からないんですけど。なんですか? これ」
素直な感想が出てしまうぐらいに拍子抜けするようなものがでてきた。
なんだこれ? はっきりいってゴミにしか見えない。
「片方はマジックアイテムだ。精神汚染を解除するためのな。そのつまようじみたいなやつだ」
やっぱりつまようじゃないか。
しかし、片方? もう片方のこれは一体何なんだろうか?
「こっちの形容しがたい物品はただのインテリアだな。魔力は一切宿っていないが、だからこそ役に立つ」
「ちょっと待ってください。精神汚染を解除するほうはわかりますけど、もう一つのほうは何に使うんですか? まさかこれをぶつけて人形を退治するとかいうわけじゃないですよね」
「そんなわけないだろう。対峙して退治するのはキミの役目だ、コダマ」
「悪霊退治の経験なんてないんですけど」
「正確に言うと退治じゃないな。追い出すだけだ。依り代からな」
何をすればいいのかがさっぱりわからない。
「室長、いい加減に遠回しな言い方はやめて説明してくれませんか? 桃ノ瀬先輩が不安になってしまいますよ」
「やれやれ、最近の若い者はすぐに結論結論だ。そういったことだと物事の本質をとらえる力というものが培われないということがわからないのかねえ」
「伊勢堂の限定ケーキ」
「しょうがない、説明してやろう」
こういうところは単純である。
日中は全身に走る僕以上のかゆみに耐えながら外出しなければならない室長にとって開店から十五分で売り切れてしまう伊勢堂の限定ケーキは滅多に手に入らない逸品なのだ。
「まずはコダマが依り代になっている人形を破壊する。すると人形に憑りついている霊は容れ物を探すことになる。人型でないと入りづらいので近くにあるこいつに入ることになる」
そう言って室長は人っぽい形の変なのをつまみ上げる。
「霊魂が定着するまでにはしばらく時間がかかるからな。精神汚染を行う余裕はない。あとはその間に私が知り合いのところに持って行って浄霊してもらう。一日もあれば充分だな」
なるほど。追い出してわざと入り込ませるというわけだ。
「そして精神汚染のほうについてはこっちのつまようじを使う。対象の肌に刺すと精神汚染を解除してくれるありがたいアイテムだ。私はこれしか持ってない上に使い捨てだから大事に使え」
そんな貴重なアイテムなのにつまようじ呼ばわりされるのはひどい。
というか製作者のことを考えると悲しくなってくる。
「ああ、そうそう。注意事項だが、このつまようじは一回刺したら他の生物を絶対に刺すな」
「なんでですか? 使い捨てなんでしょう? なにも起こらないんじゃないですか?」
僕が不思議に思ってそう訊くと室長は珍しく嘆息して答えた。
「使い捨てなのはたしかなんだが、これの用途は精神汚染の解除じゃない。精神汚染を他に移すことだ。二回目に刺された生物は一回目に刺した生物から吸い取った精神汚染を全部移される」
なんという嫌がらせ。
前言撤回。このアイテムの製作者は相当に歪んでいたらしい。
「二回刺さなければただの便利なつまようじだ。慎重に使え」
それはそうだが、確実にこれは一般人が所持していてもいいモノではない。
となると僕が持っていくしかないだろう。
依り代の破壊に、桃ノ瀬先輩のお母さんの精神汚染の解除、そして終わったら容れ物に入った悪霊を持ち帰る。それが今回の僕のミッションのようだ。
……血みどろ生臭バトル展開よりもましか。
「了解です。それじゃあ桃ノ瀬先輩、お家に案内してくれますか? 解決は早い方がいいでしょう?」
「わかったわ。大体三十分ぐらいはかかるけどいいかしら?」
「問題ありませんね」
となると到着するのは七時過ぎになるか。
解決して百怪対策室に戻って自宅に戻るまで、となるとかなり遅くなるかもしれない。
家にはこっそり戻ればいいか。
うちには門限はないし、割と自由にやれているからその辺は助かる。
じゃあ行きましょう、と先輩に声をかけると桃ノ瀬先輩と一緒に笠酒寄も立ち上がった。
「わたしもいく」
「なんでだよ。お前の家はそこそこ厳しいんだろ? 怒られる前に帰ったほうがいいんじゃないか?」
「空木君がさっき約束してくれたこと守ってくれるまで帰らない」
「……今度やってやるから」
「だめ」
頭痛がしてきた。
やっつけ仕事でやっても笠酒寄は納得しないだろう。
押し問答をしているのも無駄だ。
「わかったよ。三人でいこう」
「うん!」
はぁ。ため息もつきたくなる。
「それじゃあ室長、行ってきます」
一応は声をかけておく。
「ん、容れ物だけ持って帰ってくればいいからな。あとは好きに青春していてくれ」
限定ケーキに唐辛子でも仕込んでやろうか。
その場合はかなりの怒りを買うだろうからやめておいた方が得策か。
とっとと悪霊捕獲に行くとしよう。
フラフラと危なっかしい足取りの桃ノ瀬先輩をひやひやしながら見つつ、僕はそう思った。
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桃ノ瀬先輩の言ったとおりにちょうど三十分で到着した。
外観は思ったよりも普通だな。
それが僕の感想だった。
『怪』に侵食されてしまっている家ならもっとおどろおどろしい見た目を想像していたのだが、外から見た様子ではとても普通の家だった。壁一面にびっしりとツタが這っているということもないし、窓ガラスが割れているわけでもない。重々しい雰囲気などもなく、庭が荒れ放題になっているということもない。平凡さという意味では僕の家とどっこいどっこいのような気がする。
しかし、ここは『怪』に乗っ取られそうになっている家だ。
いわば、向こうの縄張りだ。
そう考えると少しばかりは気を引き締めていかないといけないという気持ちにもなる。
「上がって頂戴。そしてあとはお願いするわ」
門扉を押し開けながら桃ノ瀬先輩はそういった。
無論、そのつもりだ。そのために僕は笠酒寄の視線にも室長の毒舌にも負けずにやってきたのだ。誰かほめてくれ。
「笠酒寄、中はどうなってる?」
一応、中に入る前に確認しておく。
「……テレビを観てるみたい。二人いるみたいな内容だけど一人しか喋ってないよ」
「サンキュ」
礼を言うと笠酒寄の頭の上に形成されていた耳が解けて髪に戻る。
人狼の能力が便利過ぎてなんだかずるい気もするが、『怪』に対して用心しすぎるということはないのでここは慎重になっておく。やることは単純だが、油断すると何が起こるのかわからない。人狼の時のように油断した結果死にかけるなんてことは勘弁だ。
「行くか」
先導している桃ノ瀬先輩はすでに玄関のドアを開けていた。
すでに中に入っている桃ノ瀬先輩に続いて僕が。それに続いて笠酒寄が入る。
中もいたって普通の家庭だった。
正直な話、乱雑にモノが散らかっているような状態を勝手に想像していたのだが、予想に反して桃ノ瀬家はきれいに片付いていた。
「お母さん『あれ』を自分の娘だと思っていることは全く問題がないのよ」
僕の疑問に答えるように先輩が呟いた。
自分を家族だと思わせること自体が目的なのだろうか?
『怪』の目的というものは大事だ。原因があるためには目的がなければならない。つまりは目的が分かれば解決方法も見えてくるというわけだ。
とはいうものの、今回の『怪』はすでに半ば終わっているようなものだ。
淡々とした作業の結果終わる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
因果関係に説明がついてしまえばそこまで恐れることはない。よほどの規格外でもない限りは。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を進む。
リビングと思しき部屋の前で桃ノ瀬先輩が足を止めた。
「たぶん、お母さんも、『あれ』もこの中よ」
これで中にいるのが知らないおっさんとかだったら確かに困る。そうなってくると泥棒退治になってくる。余計なことはしたくない。
「お母さん、学校の後輩が遊びに来たわ」
こんこん、とノックをして先輩は中に呼びかける。
「あらそうなの? いらっしゃい。どうぞ」
中からは柔らかな女性の声が返ってきた。
ドアが開けられ、僕たち三人は部屋の中に入った。
ごくごく普通のリビング。
ただ一つ異様なのは中央にあるテーブルの上にはお菓子があり、それが椅子の上に置かれた人形の前に並べてあるということだ。
人形、とはいうものの、僕が創造していたよりも大分大きい。
全長六十センチはあるだろうか。いわゆるドールというやつなのかもしれない。
小作りの顔は人には不可能な静止した美を作っていた。着ている服は豪奢なドレスなどではなく、一般的な少女が着るようなごくごく普通の服を合うように小さくしたものを着せられている。
生き人形。そんな言葉が僕の脳裏をよぎった。
とはいうものの、ここで怖気づいているようでは室長の助手は務まらない。
「先輩、さっき打ち合わせしたとおりにお母さんをここから連れ出してください」
小声で桃ノ瀬先輩のお母さんには聞こえないように呟く。
先輩は何も言わずに、立ち上がって僕と笠酒寄に挨拶をしているお母さんに声をかけた。
「お母さん、二人ともお母さんの手芸作品を見たくてきたの。ちょっとみせてくれないかしら? 伊里花はわたしが見ておくから」
あらそうなの? めずらしいわねえ、と桃ノ瀬先輩のお母さんはニコニコしながら部屋から出ていった。恐らくは自室にでも手芸作品とやらを取りに行ったのだろう。
出ていったと同時に桃ノ瀬先輩が僕の方を振り向く。
「今よ。どのくらいかかるかはわからないけど、そのうちには帰ってくると思うわ」
もちろん僕も時間をかけるつもりはない。
物言わぬ人形に視線を集中する。
まとめている髪が浮き上がる感覚。能力が発動する。
ふわりと人形が浮き上がり、そのまま歪に変形する。
耳障りな音を立てて人形がバラバラになる。
第一段階はクリア。あとは桃ノ瀬先輩のお母さんの精神汚染を解除するだけだ。
思ったよりも楽な仕事だった。ふぅ、と息を吐きながら、帰ってきたらとっとと第二段階を済ませようと僕はドアのほうを向いた。
だがしかし、まだ『怪』は終わっていなかった。
「空木君! あれ!」
笠酒寄が何かに気づいたのか声を上げる。明らかに焦っている声音だった。
慌てて人形のほうに振り返る。
ねじれて、ひしゃげて、ちぎられてバラバラになった人形のパーツが元の状態に戻ろうとしていた。
逆再生を見ているかのようにねじれが戻り、ひしゃげが戻り、ちぎれたものがくっついていった。
なんだこれは?
室長はこんなことが起こるなんてことは一切言っていなかった。人形を破壊するだけで霊は笠酒寄に持ってもらっている人の形をしたなにかに入るははずだ。
つまりは室長にも予想外なことなのだ。何が起こっている?
わからない。頭の中が混乱する。今にもパニックを起こしそうだ。
おそらくそれは笠酒寄や桃ノ瀬先輩も同じだったのだろう。僕たちは一様に硬直して人形が直っていくのを見ているしかなかった。
ものの数十秒で人形は元に戻ってしまった。かけら一つ床には落ちていない。
何事もなかったかのように人形は椅子の上に存在している。
バラバラになどなっていないかのように。なにも起こらなかったかのように。
これは、まずい。僕の手には負えない『怪』だ。
手持ちのカードは精神汚染を解除するつまようじと笠酒寄の人狼、そして僕の能力だ。
破壊しても再生するようなものに対しては決定打に欠ける。
先に精神汚染を解除しても大本をどうにかしないと意味がない。
流石に、これは室長に一回連絡しないといけないだろう。できる保証もないかもしれないが。
じっとりと嫌な汗が出てくる。
「とりあえず、このぐらいでいいかしらねぇ?」
この場には似つかわしくない嬉しそうな声は桃ノ瀬先輩のお母さんのものだった。
戻ってきたらしい。
どうにか抜けだして、室長に連絡を取らなくてはならない。
『怪』を刺激してしまった以上はかなり危険な状態だ。
一応は平静を装いながらも、僕たちは先輩のお母さんの手芸作品を見ることになった。
7
「お母さん、ちょっと二人と一緒に話がしたいから部屋に行くわ」
桃ノ瀬先輩のお母さん謹製の手芸品を見せてもらって数分、先輩はそう発言した。
ナイスアシストです、先輩。
「あらそう? なんの話なの?」
「こっちの笠酒寄ちゃんにわたしの二年生の頃の教科書を譲ろうと思うから、ちょっと見てもらおうと思ってるの。空木君も一緒に見たいそうだから」
「あらあら、空木君も笠酒寄さんも勉強熱心なのねぇ」
無論、そんなことはない。一度室長に連絡を取るために三人で作戦会議をしたいだけである。
嘘をついて柔らかに微笑んでいるこの人をだますのは気が引けるが、事態が室長の想像以上であったからには一刻も早く連絡を取らないと危険だ。
最悪、ここにいる全員が命を落とす可能性だってある。流石にこの年で人生に幕を下ろすつもりはないので生存に対する努力は欠かさないつもりだ。
「それじゃあ、わたしの部屋は上だから行きましょうか?」
「あ、はい」
一応はちょっと名残惜しい感じを演出しつつも桃ノ瀬先輩の部屋に一時撤退する。
できる限り急いで、しかしながら和やかな雰囲気を演じつつ、僕たちは階段を上る。かなり焦っているせいで何度か階段を踏み外しそうになりながらもなんとか先輩の部屋まで到着した。
しっかりとドアを閉めてスマートフォンを取り出す。
室長の番号を呼び出し、即かける。
五秒ほどでつながった。
『だれだ? 現在絶賛二人の女子に囲まれてドキドキ青春ラブコメストーリーの真っただ中にいるコダマか?』
「いや、スマホだからかけてきているのが誰か表示されていますよね?」
『盗まれて悪用されている可能性がある』
「それなら真っ先に名前言ってしまっているから意味ないんじゃないですか? ……ってそうじゃなくて! 大変なんですよ!」
『……どうした?』
いつになくマジなトーンだ。
流石に僕から室長に連絡するという行為がどういう意味か、ということぐらいは察してくれたらしい。
「人形を破壊したんですが、再生しました。元通りになってしまいましたよ」
『どうやって破壊した?』
「僕の能力でバラバラに引き裂きました。間違いなく一度は破壊してます」
『桃ノ瀬クンの御母堂はどうした?』
「まだ精神汚染は解除してませんし、変化もありません」
僕や笠酒寄に手芸品の説明をしているときにも時折人形のほうに『ねぇ、伊里花ちゃん』と呼び掛けていた。あれは演技でできるようなものではなかった。そもそもそんな演技をする必要もないだろう。つまり、まだ人形の精神汚染は続いている。解除さえしてないから当然だが。
しばらくの沈黙。
『なるほどな。その可能性は見落としていたな。手がかりはあったのに見落とすとは私らしくもないな』
唐突に室長はそんなことを言った。
手がかり? そんなものはあったのだろうか? 少なくとも僕はなぜ人形が再生したのかはわからない。
「どうしたらいいんですか? というかどうにかできますか?」
この状況を打開できるならかなりの無理ぐらいはしてやる。
『キミ達だけでは無理だな。私が直接行く。死なずに待ってろ』
それを最後に通話は切られた。
一応は希望が見えてきた。
流石に室長が来てもどうにもならないような事態なら逃げの一手を打つしかないが、とりあえずは待つという選択肢ができたのはありがたい。
『怪』相手に籠城戦というのはぞっとする話だが今はそれしかない。
そんな甘い考えを打ち砕くように下から声が聞こえた。
「あら、伊里花。お姉ちゃんのとこにいくの? 心配だから一緒に行くわ。ちょうど飲み物でも持っていこうと思っていたから」
どうやらあの人形はこちらにやってくるつもりらしい。
目的が家族を得るということならば、桃ノ瀬先輩はなんとか命はとりとめるかもしれないが、僕と笠酒寄は適用範囲外だろう。特に僕は直接手を下した、いわば実行犯だ。情状酌量の余地はないだろう。
「お母さん、飲み物なんていいわ」
桃ノ瀬先輩がドアを開けて下に向かって大きめの声で宣言する。
「大丈夫よ、持ってくるだけだから。伊里花も見るだけって言ってるわ」
返ってきたのはそんな無情な言葉だった。
いや、僕たちにとっては無情なだけで、向こうからしてみたら好意のあらわれなだけなのかもしれないのだが。
室長が到着するまでにはまだまだ時間がかかるだろう。百怪対策室からここまでは三十分はかかる。
桃ノ瀬先輩のお母さんを守りながら応戦するということはかなり困難なことだろうが、やるしかない。とにかく、能力を全開にして破壊し続ければ向こうは再生で手一杯になってしまうことを期待する。……こういうときの僕の期待は必ず裏切られてきたのだが。
焼け石に水だろうが部屋の奥の方に先輩と笠酒寄を退避させる。少しでも人形から遠ざけてターゲットにされないようにだ。
「笠酒寄、人狼の能力は僕がやられるまでは絶対に使うな。お前は先輩を守る最後の砦だからな」
「……うん」
笠酒寄も緊張しているのか表情が固い。
トン、トン、トン。
階段を上る音が聞こえる。
覚悟を決めなければならないらしい。
「先輩、すみません。ちょっと室内に嵐が吹き荒れるかもしれないので先に謝っておきます。すいません」
「気にしないで。それよりも空木君が無事なことのほうが重要だわ」
ありがたい。
これで部屋をぶっ壊すかもしれないという僕自身の懸念に対して多少の言い訳は通る。
それで後悔の念に囚われることがなくなるかというと、そんなことはないだろうが。
現状を切り抜けることが先決。後悔は後のことだ。
足音がやむ。
部屋の前に着いたのだろう。
ノブが捻られ、ドアが開く。
先輩のお母さんが柔らかな笑みを浮かべて入ってくる。
持ったお盆の上には四つの液体の入ったグラス。恐らくは僕と笠酒寄と先輩、そして、自分の娘だと認識させられている人形の分だろう。
そして、そのあとからふわふわと宙に浮きながらリビングにいた人形が入ってくる。
やはり自立行動もできるか。
危険度は高い。自我を持っている『怪』は非常に危険だ。
ぶわりと僕の髪が浮く。
力を人形に対して行使しようとした瞬間、部屋の窓ガラスが破られた。
ガッシャーン! というすさまじい音と共にそれは部屋の中央に着地した。
金髪。白衣。派手な色彩のジャージ。
間違いなく百怪対策室の室長、『怪』の専門家、ヴィクトリア・L・ラングナーだった。
8
「な、なに? なんなのあなた!」
笠酒寄先輩のお母さんが
そりゃあいきなり窓をぶち破って参上する人物なんて映画の中ぐらいでしか見たことはないだろうから仕方あるまい。
それに対して、今しがたこの上なく派手な登場を果たしてくれた室長のほうは至極落ち着いたものだった。まとわりついているガラスの破片がきらきらと輝いて、なんだか漫画の一コマのようにも見えるあたりとてもシュールだ。
「失礼。私はヴィクトリア・L・ラングナー。いまだにあなたを縛る過去と、過去に縛られているあなたの娘を開放しに来た者です」
意味不明な自己紹介をした後に室長がなにか聞き取れない呪文を唱えると無残なことになっていた窓が修復を始める。
逆再生を見ているかのように破片がくっつき、一枚のガラスに戻り、穴を埋めていく。さっきの人形を思い出させる光景だった。
あっという間に窓は元通りになり、ほんの十数秒前と違っているのは室長という存在が増えたということだけだった。
僕、笠酒寄、桃ノ瀬先輩、先輩のお母さん、室長、そして、人形。六者が集った部屋。
破壊できないあの人形を、『怪』を、室長は一体どうするつもりなのだろう。
誰も動けない。あまりにも突然に登場した室長に圧倒されてしまっている。
僕もまさかこんな登場の仕方をするだなんて想像もしていなかった。
一同が固まっている中、室長は全員を順番に眺めていった。
ん? 眼鏡?
いままで室長が眼鏡をかけているところなんて見たことがない。しかし、今に限ってはやたらと古めかしいデザインの丸眼鏡をかけていた。おかげでみょうちきりんな格好に拍車がかかっている。
一通り眺め終わるとなぜか眼鏡を外してポケットにしまいながら室長は言った。
「さて、今回の『怪』、生き人形とでも名付けるべきだと思うかもしれないが間違いだ。今回の一件は、そうだな『成長する霊』とでも名付けるべきかな」
人形、じゃないのか? だって今こうやって人形が自我を持って行動しているじゃないか。悪霊が人形を媒介にして家族を求めた結果、起こったのが今回の『怪』じゃないのか?
僕の頭の中を疑問が駆け巡る。依然として人形は宙に浮いたままだし、事態は進展していない。しかし、なんだろうか。室長も言ったように、何かを見落としているのだろう。手がかりは登場していた。室長の言葉だが、どういうことだ?
わからない。超自然的現象について、僕はほんのちょっぴりばかり認識しているだけに過ぎない。答えにたどり着いているのはおそらくは室長だけだ。
「さっぱり訳が分かりませんよ室長。成長する霊とか、生き人形とか、もはや頭の中が洪水状態ですよ」
「今回ばかりはキミを馬鹿にできないな。私も早合点してしまったのだからな」
めずらしく僕に対する返事で反撃してこない。そのことをちょっと意外に思ってしまう。
「さて、ちょうど役者もそろっていることだしな。何年も残っていた『怪』を終わらせよう」
手近にあったおそらくは桃ノ瀬先輩のものであろう椅子を引き寄せ、それに座って室長はそう宣言した。
「どうするって、人形は破壊できないんですよ? いや、正確には破壊できるけど再生してしまうんですよ」
先輩のお母さんも人形もいるが、もはや知ったことではない。室長が解決を宣言するということは、終結が宣言されたということに等しい。なら、僕にできることは疑問をぶつけて砕いてもらうことだけだ。
「破壊する必要はない。再生できないように破壊するには桃ノ瀬クンの御母堂を殺さなくてはならないからな。そんな物騒なことをやってまでしなければならないことじゃないんだ」
「どういうこのなのかしら。人形を壊すのになぜ私のお母さんを殺す必要があるの?」
すかさず桃ノ瀬先輩が訊く。流石に母親を殺さないといけないといわれては黙ってはいられなかったのだろう。
「それは桃ノ瀬クンの御母堂が人形の存在を強く強く望んでいるからだ。本当に、心の底からな。母の愛というやつかな」
「偽物の、植え付けられた愛だわ」
「それが今回の私たちの勘違いだ。家族の絆というものをよく知らないがゆえに私は対処を誤った」
君たちには余計なことをさせてしまったな。すまない、と室長は謝る。
間違い? 現状を見るに間違っているということはない気がするのだが。どういうことだろうか。実際に先輩のお母さんは人形を娘と誤認していたし、人形自体もこうやって自立行動をしている。悪霊か、それに類するなにかしらの存在が影響しているのは事実だろう。
そんな僕の内心なんぞ知ったことかとばかりに室長は続ける。
「さて、順番にいこう。桃ノ瀬クン、キミの名前はなんだったかな?」
「癒結花です」
「そして、あの人形はなんと呼ばれている?」
「……伊里花」
少しばかり言いよどんでから先輩は答える。
「さて、ご婦人。あなたの名前を教えていただけますか?」
クルリと椅子を回して先輩のお母さんと人形のほうに向いて室長は問う。言葉こそは丁寧だが、有無を言わせない圧力があった。
「……
中学生ぐらいの見た目の室長に対して中年のご婦人が丁寧語を使うというのはなかなかに妙な図だったが、そんなことは今関係ない。
花。
すべての名前には花が含まれている。
偶然? いや、『怪』には理由がある。理由がないものはただの理不尽だ。これには意味がある。花という文字で何かがつながっている。一体どういうつながりなんだ?
「子供に名前の一部を受け継がせるということはどこでもあることなのだが、桃ノ瀬クンの家もそうだったようだな。桃ノ瀬クンも、その妹も花の字を継いだんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ室長! 先輩は一人っ子なんですよ? 妹なんているわけないじゃないですか」
「そう、現在の桃ノ瀬クンは一人っ子だ。しかし、姉妹だった時期があったんだ。恐らくはほんの少しの、記憶にも残らないような、いや残さないようにした時期が」
そうでしょう? ご婦人、と室長は奈由花さんに確認する。
訊かれて、奈由花さんはうつむいてしまう。
しばらくはそうしていたのだが、やがて何かを観念したようにぽつりと口を開いた。
「はい。……私は癒結花が一歳三か月の時に死産しました。あの子が私のおなかにいた間は癒結花はお姉さんでした」
「その子につける予定だった名前は?」
「伊里花……です」
9
今現在『怪』を引き起こしている人形につけられた名前が伊里花。十数年前、産まれた時に亡くなった桃ノ瀬先輩の妹さんの名前も伊里花。もし、『怪』が霊的存在だったとしても、その名前を知っているのはおかしい。死産ということだったし、桃ノ瀬先輩の両親ぐらいしか知らないだろう。
「つまりはその人形に入っているのは桃ノ瀬伊里花クンということだ。死産の際にきっちりと魂が導かれずにそのまま奈由花さんと一緒にいたのだろうな」
それを聞いて奈由花さんは顔を両手で覆ってしまった。
すすり泣きの声も聞こえてくる。
「今回の『怪』の肝はだな、最も影響されている人間がそれを歓迎していたということだ。死別したはずの自分の娘と一緒に暮らせるということがどれほど嬉しいか、なんてこと私にはわからないが少なくとも嫌なものではなかったんだろう」
なるほど。
むしろ望んで『怪』の影響を受けて続けていたのか。だが、それでも疑問が残る部分がある。
「室長、でも僕が、その、伊里花ちゃんの入っている人形を壊した時に復元したことの理由が分かりませんよ」
少なくとも今の説明では、『怪』の正体と目的の意味は分かったが、あの現象は説明できない。そもそも室長が出張ってくる事態になってしまったのはあれがあったからだ。
「コダマ、それは愛だ」
「はい?」
唐突過ぎる単語に思考がフリーズしそうになる。なぜいきなりその言葉が出てくるのか?
それで理由付けできるのだったら百怪対策室自体がいらないんじゃないのか? とか身も蓋もない反論が喉まで上がってくる。
しかし、その前に室長はちゃんと説明してくれた。
「復元したのは奈由花さんの娘と一緒にいたいという想いが強かったからだ」
「想いであんなことができるんですか?」
「本体は幽霊だからな。自分を維持したい伊里花クンと娘と一緒にいたい奈由花さんの二人のつよい想いに、『怪』という現象が加わって成し遂げられた一種の奇跡だな」
過ごせなかった家族と一緒に過ごしたいという二人の力で『怪』が起きたというわけか。
「さて、ここからは依頼を果たすとしよう。それに、あまり一般人と霊魂が近くにいることはまずいからな」
室長は椅子から立ち上がって、宙に浮く人形の前に進み出る。
少しだけひざを折って、目線を合わせる。そして聞いたことのない優しい声で言った。
「伊里花クン、キミはこんなにもお母さんに想ってもらえているんだ。それはキミのことをお母さんが一時も忘れていなかったことの証明じゃないか? キミが死んでしまったことを悲しいと思わなくなってしまったんじゃない。キミの幸福を祈っているんだ。決して、キミはいらない存在なんかじゃないんだ」
カタカタと人形の顔が揺れる。
どんなことを考えているのかはわからない。しかし、少なくとも敵意があるようには見えなかった。
「伊里花、お母さんはあなたのことを忘れたことなんてないわ……」
どうやら伊里花ちゃんは奈由花さんに確認したようだった。僕には聞こえないが、彼女には伊里花ちゃんの声が聞こえるのだろう。親子の絆がなせる業か。
ふと、桃ノ瀬先輩のほうを見てみるといつの間にか涙ぐんでいた。
「そうね。わたしは知らなかった。でも、もう忘れないわ。でも、あなたはわたしたちと一緒にいるだけじゃなくて、もっと他の子ともできるはずよ」
ん?
「先輩、伊里花ちゃんの言っていること聞こえてるんですか?」
「うん……聞こえる。わたしにもやっと聞こえたわ」
とうとう涙をこぼしながら先輩は答えてくれた。
やっとこれで、家族がお互いの気持ちを確かめ合うことができたということか。僕と笠酒寄は完全に置いてきぼりだ。必要だったのか? 僕たち。
「さて、あの容れ物のほうは誰が持っている? コダマか? 笠酒寄クンか?」
「あ、わたしが持ってます」
「渡してくれ」
突然の室長からの要請に多少疑問符を浮かべながらも笠酒寄は素直に人型のへんか物質を室長に渡した。
「さて、伊里花クン。キミを魂の輪廻に戻すために私の知り合いにところに連れていこう。ただ、そのままというのはまずいからこいつに入ってくれ」
そう言って人形の目の前に容れ物を差し出す。
キシ、とわずかに人形の首が動いて奈由花さん、桃ノ瀬先輩の順で向いた。
ほんの少し間があった。
そして、人形は吊っていた糸が切れたかのように床に落下した。
「な、なにが起こったんですか?」
室長に尋ねる。
「自分が想われているということに満足して転生することを決めてくれたんだ」
伊里花ちゃんの声が聞こえない僕としては室長が言っていることも本当かどうかわからない。
しかし、奈由花さんと桃ノ瀬先輩の泣き笑い顔を見ればそれが真実だということぐらいはわかる。
「浄霊、するんですか?」
「ああ、輪廻に戻って、また生まれるんだ。そして今度こそ人生というやつを謳歌するんだろう。悲しかった分、きっと彼女は優しくなれるからな」
室長にしては珍しく感傷的な言葉だった。
丁寧な動作で容れ物をポケットにしまうと室長は奈由花さんに一礼して、
「ほら、『怪』は終わったんだ。帰るぞ」
なんてことを言ってきた。
正直何が何だかわからないままに僕たちはそのまま桃ノ瀬先輩宅を後にした。
こうして、家族を想い続けていた少女の霊は家族の想いを得て、新しい生を受け入れることになったのだった。
てくてくと夜道を歩く。もうすでに夜の九時に近い。
百怪対策室に戻った後、笠酒寄を送って行けと命令されて笠酒寄と一緒に歩いている。
なんとも今回は役に立たなかった僕である。結局、室長が言ったように愛の力というやつは偉大だということなのだろう。
「しかしまあ、解決してよかったよな。桃ノ瀬先輩はかなりやばかったんだしな」
なんとなく、感想程度にそんなことを笠酒寄にも聞こえるようにひとりごちる。
同意してもらいたかったのかもしれない。なんとも情けない話だが、僕は自分のやったことが良かったのか悪かったのかわかってないのだ。
「そうだね。家族っていいものだもんね」
「僕は妹に完全になめられているけどな」
「それだけ空木君を信頼してくれているってことだと思うよ」
「だといいけどな……」
散発的な会話が続く。
あともう少しで笠酒寄の家に到着するという地点でいきなり笠酒寄が足をとめた。
「どうした? 地面からいきなり手が出てきて掴まれたか?」
「それこそ『怪』じゃない? って、そうじゃなくて。空木君、何か忘れてない?」
「ん? 忘れてなんか……あ」
桃ノ瀬先輩宅に行く前の百怪対策室でのやりとりを思い出す。
そういえば約束していた。
「後日ってことじゃダメか?」
「だめ。今やって」
ぐ、くう。こういう時は三十六計逃げるに如かずなのだが、僕には笠酒寄を振り切れる自信がない。覚悟を決めよう。
「……わかったよ。ほら来い」
「うん!」
どのくらいやることになってしまったのかは秘密だ。
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