朝露

 露の降りる朝方は、霧が濃密に一帯を包ませている。その先には木々が萌え、若葉の色味を柔らかくしていた。まだ昇りきらない朝日は森の向こう。ゆるやかな影が落ち、草花は充分と湿っていた。

 その柔らかな土と朝露の光る草の下では、小さな昆虫が静かに過ごしていた。まだ気温の上がらない時間帯はゆっくりと歩いて、朝日が霧を縫うのを待っているみたいだった。

 花々の薫りは霧がその場所に閉じ込めて、そしてゆるゆると辺りに広げ始めている。咲き始めた花弁は新しい生命を纏って、そっと魂の唄をうたっている。自然を讃えるその唄はとても心地よく、囁くように響いていた。

 森を抜けた先には船頭小屋があり、そこでは船頭のおじさんが早くもコーヒーを淹れて湯気を上げている。これから小船を用意するために帽子をかぶり、椅子から立ち上がるとドアを開けた。その先に、水平線から曙を朝陽が現れ始める。

 カモメたちは空を滑空し、何匹かは凪いだ水面に揺られている。

 ピンク色の朝陽がその滑らかな水面にきらきらと光りの路をつくり船頭の目をまばゆく細めさせた。桟橋の影がくっきりと伸び、横付けされる小船はかぽかぽと浮きとともに静かな朝の音を鳴らす。

 見上げると、よく晴れた空にカモメが鳴きながら仲間たちと飛んでウォーミングアップをしているようだ。それらの鳥たちの影が朝陽によって空にヴェールを描く。他の飛ぶ鳥たちの羽根を鮮明に透かす朝陽は彼らの羽根を少し曙色に染め上げている。

 今日は定期船を出す日だ。

 彼は道具をもって桟橋へ歩いていくと、用意を始めた。

 海の向こうから見えるいくつもの島々も朝を迎えて、木々の輪郭も手に取るようにはっきりとしてきている。向こうの大きな島でもきっと村人が朝の準備を始めているころだろう。

 彼は一通りいつもの準備を終えると、一度小屋に戻って朝ごはんを食べることにする。いつもの習慣をこなしていく。

 連絡機で昨日、この島に住むアルダールが船を使いたいと言っていたので、何か荷物運びなどがあることだろう。

 ドアの鐘が鳴らされた。

 彼は顔を上げてドアを見た。

「ボルンさん」

 アルダールの声で、こんなに朝早くから彼女がやってきたのは珍しいことだった。

「ああ。入っていいよ」

「おじゃまします」

 ドアが開けられ、アルダールが笑顔で入ってきた。

「おはよう」

「ああ。おはよう。今日はずいぶんと早いじゃないか。なにか良い発見でもあったのかい」

「ふふ。ええ」

 彼女はバケットを持って彼の腰掛けるテーブル横まで来ると他の椅子に座った。

「素敵な夢を見て、なんだかいても立ってもいられなくてボルンさんにもおしゃべりしたくなっちゃったの」

 彼女は自分が体験した不思議なことを話し始めた。

「妖精を?」

「初めてよ。ここに来て何年か経つけれど、この島は本当に不思議なところなのね」

 彼女はもともと向こうにある大きな島の村人で、彼女が今住んでいる家は彼女の実家の持ち物だ。常にいるわけではなく、植物研究のためにあの家を借りながら島中を歩き回っている。それで時々酒を持ち込んで一緒に飲みながらこの島についてを彼に聞いたりする。年に五回ほど研究結果をまとめるとそれを持って大きな島から出る小型機で研究所本部のある国へ行く。

「その妖精の報告をするために今回は出るのかい」

「ううん。それは内緒。今回はいつもの買出し。何か欲しいのがあったら言って。買ってくるわ」

「ありがとう。そうだなあ」

 彼は棚を見回すと言った。

「ちょうどチーズを切らしたからワンホールお願いするよ」

「あといつものオリーブの実ね」

「ああ」

 大きな島はオリーブとレモンがよく成る。彼女の実家でもパン屋の傍らオリーブを育てていて、彼女もよくその時期にはこの島の家を留守にして向こうへ向かっている。

「それと、はい。今年分の薬草よ。今年はよく成ってたわ。きっと霧が濃い年だからね」

「助かるよ」

 彼はその袋を受け取ると、今淹れおわったコーヒーをカップに注いで彼女に出した。

「今回はタンポポコーヒー」

「いただきます」

 あけられたドアから朝陽が差し込んで、彼らはドアから望む朝陽を見つめた。

「妖精というのは、わしも見たことがなかったなあ」

「この貝殻から出てきたの。ヤドカリじゃなくて、小さな女の子。旅をしていたみたいでね、魂を探しているというのよ」

「流離いの妖精か。ずいぶん逞しいや」

 その妖精は実は今浜辺でカモメの選別に入っていて、小さく動き回っているのだが、それも朝陽に紛れて砂浜がきらきらとしているので、その光りに紛れて彼らの目には映ってはいなかった。まだこの島にいるつもりなので、今のところどのカモメがどんな行動をするのかを覚えておくつもりだった。

「本当は、いろいろなところにそういう妖精はいるのかもしれないわ。私たちが気づいてないだけで。まあ、お酒を飲んでいたからもしかしたら夢だったかもしれないけれど、そうとも思えないの。今でも鮮明に思い出せるもの。彼女の薄羽も、愛らしい目も透き通ったクリスタルのような声も」

 その妖精は今、両手をぶんぶんと振ってさらさら光る砂を巻き上げながらカモメに飛び掛る練習を始めていた。

 もしかしたら小船が今日出ることを知れば、それに乗って島を渡るのかもしれないのだが。


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