6.巫女の奉納
「今年も綺麗に咲いたな」
機嫌を直したらしいクロが感嘆符を上げる。
アオに下ろしてもらった私も、暫くの間呆けていた。
小雨が花びらを濡らして、谷底を這うような風が枝を揺らしている。
葉が擦れあう音よりも更に軽い、花びらが互いを撫でる音。それは花だけを先に咲かせる桜にだけ許された音と言っても良い。
灯りなどないのに満開の桜が闇の中に映えていて、確かこれは「花明り」というんだっけ、と昔読んだ本の内容を思い出す。
「綺麗ですね」
「だろ?こんな場所にあるから、人には知られてねぇんだ」
「知られたとしても、此処まで来れる人は少ないと思いますけど」
アオは私を下ろした後、桜の木のすぐ近くにある大きな一枚岩のところに行って、そこの枯葉や泥を払っていた。
やがて満足したように背筋を伸ばすと、私達を手招きする。
「さぁ、此処に座って」
岩の上には綺麗な紋様の入ったゴザ、所謂花ゴザが敷かれていた。
さっきはそんなもの持っていなかったのに、何処に隠し持っていたんだろう。
私が疑問に思っていると、その表情に気付いたアオが微笑した。
「昨日運び込んだんだよ」
「あ、なるほど」
お酒とお茶とタッパーが並べられ、私たちはそれを囲むように座る。
クロが袂に入れていたにゃんこ火も出てきて、楽しそうに辺りを飛び交っていた。
「さて、早速餡子を頂こうかな」
酒を杯に注いだ途端に、アオはタッパーに手を伸ばす。
そして蓋を外して中を覗き込んだ後、妙な表情になった。
「はて、これは?」
「ん、どうした?」
クロも横から覗き込んで、きょとんとした顔を作る。
「何これ?パンか?」
「小倉サンドです」
私が作ったのは小倉サンド。トーストの内側にバターを塗って、たっぷりの餡子を挟んだ一品だ。
餡子とトーストの組み合わせは、あんぱんとはまた違う美味しさがある。
私の説明を聞いたアオは妙な顔つきのままで、恐る恐る小倉サンドを手に取った。
何度か諮詢しながらも、思い切った様子でそれを口の中に放り込む。
私も緊張しながらアオの表情を伺っていたが、数秒後に谷底にアオの声が響いた。
「これは美味しい!」
「でしょう?」
「餡子にこんな食べ方があるなんて。皆、牡丹餅とかしか持ってこないから知らなかったよ」
「そりゃこんな妙なもんを奉納しようとは思わないだろ」
クロも手を伸ばして、一口齧る。
「うわ、甘い……」
「クロは嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど、甘いのそんなに好きじゃない」
「クロネコは贅沢だね。じゃあボクに渡したまえ」
「やだ。やらねぇ」
顔を逸らして、無心に食べ始めるクロ。
素直じゃないなぁ、とアオは肩を竦める。
一応牡丹餅も作ってきたけど、アオはトーストが気に入ったようだった。餡子の他には卵焼きやウインナー、粉吹き芋、甘く煮た豆など、所謂「オーソドックスなもの」も入っている。
派手で奔放と見られる私だが、お弁当の具は古典嗜好である。ミートボールは許すけど、チーズ入りコロッケは許さない。
「クロ、甘いの苦手だったらおにぎりもありますよ。時間ないからコンビニで買ったやつだけど」
「コンビニのは嫌いだから、こっちでいい」
「じゃあこれはにゃんこ火にあげようかな?食べる?」
いつの間にか私のすぐ傍にいたにゃんこ火におにぎりを見せたが、にゃんこ火は牡丹餅を咥えると、どこかに飛んで行ってしまった。
「……うーん、ツナにしたんだけどなぁ」
「そういう問題ではないと思うよ」
アオが冷静にツッコミを入れた。
「それにしても美味しいね。この……」
「小倉トーストサンド」
「そうそう、小倉トーストサンド。折角だから、桜の木にもあげてこよう」
一つ掴んだと思うと、アオは岩から飛び降りて地面に立つ。
そして両手で大事にトーストサンドを抱えるようにしながら、桜の根元へと歩いて行った。
「クロ、桜にもあげてくるって?ご神木かなにかですか?」
「違うよ。あいつの伴侶だよ」
「桜さんというんですか?」
「違うって。昔、此処は夫婦神だったんだ。二人は奉納される餡子をたらふく食っては、あの木の下で春まで冬眠していた。でもある時、アオの嫁さんはそのまま冬眠から起きることなく死んだ」
神にも死は訪れる。
不老長寿であれど不死身ではない神様達にとって、死は私達の感じるそれよりも理不尽なものかもしれなかった。
その死は例えば、他の神が口に含んで吐き出した水のせいかもしれないし、産んだ子供の持つ牙によるものかもしれない。人間では理解出来ないような死でしか、神に致命傷は与えられない。
「けど死んだ嫁さんは、そのまま自分が眠っていた桜の木になったんだ」
「クロは会ったことはあるんですか?」
「ない。姉様は仲が良かったらしいけど。でも此処に花見に来た時に、桜の木が泣いていた」
アオは桜の根本に腰を下ろして、愛おしそうにその木肌を撫でている。その後姿は嬉しそうだった。
「アオが冬眠するために眠る桜の木になれて、嫁さんは最初は満足だったんだよ。でも、桜の木になったせいで、花が咲いている時にしか意思の疎通が出来なくなった」
「でも蛇が冬眠から目覚めるのって……」
「桜が散った後だ。桜はアオに会いたくて、この谷底で泣き叫んでた。だって自分の足元にはアオがいるのにさ、会って話することが出来ないんだ。アオだって、まさか嫁さんが桜になってるなんて思わなかった」
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