ⅲ 初心
僕は眼を開ける。カーテンを開けると、朝日が無駄に大きいビル群の隙間から街を照らし始め、人々を起こしにやってくる。僕はいつも通り、家事をこなす。布団をたたみ、洗濯物を回し、歯と顔を洗い、ご飯を作る。静かな時間に響き渡る生活音は、僕の密かな楽しみだ。外からは自動運転車が走る音が響き、電車やモノレールが稼働する音に喜びを感じる。家々から聞こえる掃除機の音、朝食の匂いは、彼女ほどではないが、とても僕の心を穏やかにさせる。
ポストに入っていた新聞を取り出し、見出しを読む。未来世界と言ってもまだ紙媒体は現役で、馴染みのあるものだ。今日の見出しには、
『殊力者と超力者の抗争激化 共存の夢は何処へ』
と書かれていた。ここ数年、よく見かける記事だが、まだまだ抗争が終わることはなさそうだ。ここらではあまり聞かないが、警戒しておかなければならないだろう。僕はともかく、彼女が傷つくのはいやだから。
僕は朝ごはんを食べ終わり、残りの家事を片付けて、家を後にした。
――今日の講義をすべて終え、僕は、湯沢南がいるであろうテニスコートへと足を運んだ。広大で見通しの良い構内の中、そのテニスコートへ向かう学生が多く見られ、あの話しはとても広く広まっているのだと思った。
(もしかしたら、太一くんもいるかもしれない。いたら、話しをしてみよう)
そう考えながら、昨日よりも膨張した人混みに流れを任せ、向かった。
そして、ついたそこは、何かのライブ会場かと思うほどの人に囲まれたテニスコートだった。人が多いため、熱気もすごく、精神的に暑さを感じる。
(もう完全に見世物になってるよ、湯沢さん)
僕は人混みを避け、近くの棟の講義が行われていない教室から見ることにした。考えることは一緒な人たちもそれなりに多く、教室にも結構な人がいた。
「湯沢さん、いいよな~」
「だよな~あの程よい胸! ゆさゆさしたいよな~」
「俺はあの尻だな。張りがあって触り心地よさそうだよな~」
近くの男子学生二人がそんな会話をしていた。むむ、確かに、昨日は全然意識していなかったが、よく見るとかなり良いスタイルだ。あのスタイルを好きにしたいという欲にまみれた男子学生たちが、必死にテニス勝負に挑んでいると思うと、なんだか笑えてきた。呑気にそんなことを考えていると、後ろの方から大きな舌打ちが聞こえた。ああ、もしかして……
「お、おい」
「げ! お、俺たち、次の教室に行かなきゃな! 行こうぜ!」
先ほど話していた学生たちは足早に退散していった。なるほど、彼がここに来たんだ。僕は後ろを振り返り、その人に話しかけた。
「やあ、こんにちは。津南くん」
「よう、狭間。お前も、あいつを見に来たのか」
「まあね。あの張り紙を見たら、誰だって気になるよ」
「そうだよな……」
当然のことながら、彼は元気がなかった。なので、元気がないことについて話しを聞くという体で、彼とラウンジで話すことが出来た。ラウンジにつき、自販機で飲み物を二つ買って、一つは彼の前に置く。僕の奢りであることを伝えて。
「それで、なぜ元気がないのかな?」
「ああ。実は、あいつと別れたんだ。俺が振られる形でな」
知ってた。しかし、そのことは顔に出さず、初めて聞いたかのような反応をする。
「そうなんだ……その、原因とかっていうのは?」
「実は、一昨日、俺たちが狭間に転んでぶつかっただろ? その日のうちに、そのことについて話したのさ。俺は、「もう人が多い所では走るような勝負事はやめよう」って言ったんだが、あいつは、「やめたくない」って言ってな。平行線のまま話しが進むと、挙句の果てにあいつが、「どうしてもやめるならもう別れる」って言ったのさ。俺は、ただああいうのをやめればいいだけなのに、なんでそんな別れるところまで行くんだと、腹が立ってな。そのまま帰っていっちまった。明日になれば頭が冷えてくれるだろうと思ったのさ」
「それで、次の日、あの張り紙を見つけたってことだね」
津南太一からしたら、あの張り紙は完全に絶交の証になってしまったということだ。湯沢南、なんともエグイことをする。そんなこと好きな相手にされたら、誰だってへこむ。現に、あの元気で情熱的な津南太一が、ここまで暗い顔をしているのだから。津南太一は続ける。
「あいつからしたら、転んだ原因は見えない何かにつまずいたかららしくてな。それも、超力者が仕掛けた悪戯だって言ってた。だけど俺は、転んだことがまずかったと思ってる。いくら、身体能力の殊力者だからって、失敗することは絶対にあるだろう。俺だって、動体視力が良くたって、見えないものは見えないからな。それに、逆に今まで超力者からの悪戯がなかったのが不思議なくらいだぜ。今のご時世、殊力者があんな全力疾走で走っていたら、絶対になにかされるに決まってる。だから、おれはあいつのためを思ってやめようと言ったんだぜ。なあ、何か間違ってるか?」
一気に話し込まれ、少し勢いに負ける。彼は彼なりに湯沢南のことを考えての判断だったらしい、ということは分かった。その判断については、全く間違っていない。
「いや、まったくもって、君の考えは正しいと思うよ」
「だよなぁ。俺の気持ち、伝わらなかったのか~……はぁ」
津南太一は大きなため息をつき、机に突っ伏した。昨日の湯沢南の様子だと、完全に伝わっていないだろう。昨日、湯沢南が言ったことを知ったら、津南太一はかなりショックを受けてしまうのは目に見えている。全く、気持ちのすれ違いを修正するのは難しい。
「津南くんは――」
「太一でいいぜ」
「――太一くんは、そこまで湯沢さんのことが好きなんだね」
そう言うと、津南太一の顔が赤みを帯び、にやける。なるほど、反応が面白い。
「ま、まあな。俺はあいつが好きだぜ。ああ、好きだとも」
「きっかけとか、聞いて良いかな?」
「あ、ああ、いいぜ」
そう返答し、思い出をさかのぼるように、顔を上に向け、話し始めた。
「あいつと初めて会ったのは、高校テニスの男女混合大会のころだ。俺はこの能力と、人並みの練習で、部の中ではトップだった。だが、その大会のシングル決勝、俺は僅差であいつに負けた。悔しかった。ただ、ひたすらに。だから、あいつに頼んで連絡先を交換して、部活が休みの日はずっとあいつと打ってた。まあ、そこからは流れだな。俺が告って、恋人になったのさ。懐かしいな――」
懐かしむ津南太一の顔を見て、純愛とも思われるその出会いを聞き、とても歯がゆい気持ちになる。それにしても、高校生の頃から続いていた関係だったことに驚いた。かなり長い付き合いなのに、湯沢南は、勝負事をやめるという一つの事実が原因で、別れを切り出した。後悔はしていると言っていたが、勝負事をやめるつもりはないのは昨日の様子から見て間違いない。僕は出来る限り復縁をしてほしいと思うが、さて、どうしたものか。
「しかし、狭間と宇津木は仲いいよな」
「え? そうかな」
「そうだぜ。俺たちが狭間とぶつかって、気絶した時に、ずっとお前を背中に担いで運んだんだぜ。俺たちが変わると言っても、ただ横に首を振るだけだった。ありゃ、愛がなきゃ出来ないことだぜ。普段、一体どんな絡みをしてんだ?」
僕はその言葉を聞き、一度持った飲み物を飲まずに机に置く。彼女がそんなことをしていたなんて、知らなかった。彼女が愛しているのは、僕の臓器だけで、僕という人格はどうでもよいのだろうと思っていたからだ。
(なんだろう。とても嬉しい)
素直にそう思った。今度帰ってきたら感謝しなければ。僕はとても気分が良くなり、口角が上がるのを感じながら、飲み物を大口で飲み干す。
「なんだ? 思い出し笑いするほどなんか楽しいことでもしてんのか?」
不意に津南太一の声が入り、冷静に戻る。そうだそうだ。まだ話し途中だった。
「特別なことはしてないけど、強いて言ううなら、初心を忘れないようにしてるかな」
最初に彼女に言われたこと。僕は今でも忘れていない。その言葉をいつも胸に留め、普段の彼女と、そして、夜の彼女と向き合っている。 そう初心。……とここで、僕の頭に一つの意見が浮き出た。
「そうだよ。初心だよ」
「ああ、今聞いたぞ」
「太一くんも、初心に帰ってみれば、何かわかるかもしれないよ」
「俺が? ……ああ、そういうことね」
そう。二人が付き合うきっかけになった初心。初心を抱きながら行った勝負事。ちょうど湯沢南が行っていること。テニス勝負だ。なぜ彼女がテニス勝負を張り紙で募集しているのか、分かったきがする。湯沢南は、津南太一を待ってるのだろう。二人の初心が宿った、一番最初の勝負事を、津南太一とするために。
「はあ。しょうがねえな。受けてやるか。あいつの勝負事を。狭間、ありがとな。ちょっと、“勝負事”してくる」
そういった津南太一は、その目に情熱の火を灯し、ラウンジを後にした。続いて僕も立ち上がり、二人分のゴミを捨て、テニスコートへと向かう。彼らの行く末を、見守りたくなったからだ。純情を抱いていたころにしていた、純粋な情熱の勝負事の行く末を。
・あとがき
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