第15話 返上


 足元から這い上がってきた冷や汗が、今度は一気に下がる急降下に見舞われたレイエスは。一瞬の立ちくらみを覚えてはよろめき、椅子の背に手をついてふらついたものを正した。

 キーンと高い耳鳴りがして、再び膝から崩れ落ちそうになるものを踏ん張り。床に落ちた上着の胸元で光ったルナザヴェルダのピンバッチを、ぼんやりと見つめた。


 レイエスが騎士を目指したのは、確かに父へのあてつけであったとも言える。

 けれど大半を占めたるものは、立派な守護騎士となって弟の傍に寄り添いたいがための意地でもあった。


 守護騎士にさえなれば、離れ離れになることはない。弟に、これ以上寂しい思いをさせたくなくて――。

 家に縛られる辛き思いも、せめてもの半分を背負い支えてやれればの一心で、レイエスは騎士道に突き進んだと言っても過言ではなかった。その結果は、これ以上ない最良となった。


 その間に、レイリアの反抗期が少々長引いたのは致し方がないとしても。自らの実力だけで勝ち得た環境。そして、これからという時に――。

 レイエスは、力なくだらりと下がった腕を伸ばして上着を掴んだ。ルナザヴェルダのピン表面が、きらりと艶光ったのが眩しくて切れ長の眼をさらに細めた。


 騎士になる道以外に生きる術を見い出せず、我武者羅に騎士道を突っ走ってきた果てがこのざまかと思うと――。咽が息詰まり、眼を熱くするものを覆い隠した。声にならない後悔や懺悔の念が、人知れず黒の衣に滲む。

 ――逢いに行かねば。間に合わなくなる前に。


 それからしばらくしてから、トゥエルヴ家の御旗をリムジンボディに飾った公家専用ティグは、公主が入院している病院へと向かって行った。


 レイエスが、メディカルセンター内に特別に設けられた回復室の前に到達すると。そこには先客が仁王立ち構えで待っていた。

「――捲瑠まきる様。如何なさいました?」

 法王とて多忙な身であろうに。事件後すぐに立ち寄ってから、まだ半時も経っていない。

 捲瑠は、堅く組まれていた腕を解きながら告げた。

「如何も何も。わしとて呼ばれたがゆえに参上したまで。そちこそ?」

「わたくしも、まだ何も……」

 身に覚えがないとするレイエスは、自らも呼ばれたまでとも述べながら。捲瑠の後ろにぞろぞろと連なる黒服の連中も見定めた。

「これは事務次官。我らがあるじはまだ、意識が完全に戻られておりませんが?」


 公家の政を左右する宮内省の事務次官は、着任して間もない好漢であった。レイエスとさほどかわらない歳若さで、省長の次席に就いた気鋭の新参である。

「代理で参りました」

「代理?」

 誰の、と問う間に。特別回復室から出てきた看護士が割って入った。

「お目覚めです」

 誰が、と問わずとも。誰もが無事の回復を待ち侘び、言動を気にかける者はただ一人。


 招かれた捲瑠と事務次官、レイエスと碎王さいおう、そして公主の第一執事ウィルと、もともと部屋の中にいたアニーの六人は、レイリアが横たうベッドサイドに集った。

「マスター? みんな来たよ?」

 アニーが枕元に顔を寄せては、白いシーツの上から軽く撫でるようにして体を優しく揺らしても。レイリアはまだ深い眠りに身を任せていた。

「……」


 しばしは無反応。一同が顔を見合わせたのちに、レイエスが。ここで初めて、実弟の痛々しき姿に目を細めながらも、その耳元へ囁いた。

「レイ?」

 すると、閉じられていたレイリアの瞼が、ふつと上がった。

「……やぁ」

 掠れ、弱々しいのは先ほどと変わらず。しかしながらレイリアは、ベッドを囲うかにして集った面々の一人一人を、ゆっくり見回し。最後は兄の姿に視線を定めた。

「心配。かけて、ごめん……ね。色々、大変なんでしょう?」

 腰を折り、弟の視線の高さに合わせたレイエスは。普段より幾分と気遣いを含めた優しき口調で告げていた。


「何を言うのです。わたくしは――」

 レイリアは、点滴が施されている左手をわずかに動かして発言の先を制した。

 その時にはすでに、兄からは視線を外して捲瑠と事務次官を見つめていた。けれど眠いのか、眼を閉じながら先を述べるのだった。

「僕、レイリア・フォン・トゥエルヴは――」

 今度はレイエスが、主が呟こうとしているものを遮ろうとした。「レイ!」

 しかしながら、大きく動こうとしたものの流れは、もはや止められなかった。


「本日――ただ今をもって。トゥエルヴ家、家長の座を、レイエス・フォル・トゥエルヴに、返上するよ」

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