危険度 4
さぎりは闇のなかで、あたりを見渡していた。音もない、光もない、どこまでも闇だ。目を閉じても開けても暗く、細い糸が全身に巻きついていることさえ気づかない。
ヨシヨシ。生ケ贄ラシクオトナシクシテイロ。
男とも女ともわからない声がやさしく語りかける。
「生け贄って」
オマエハ生ケ贄トナッタ。オマエノ肉ノ器ハ我ノ器二ナリ、ソシテ。
「はい!」
ンギャッ!?
声が言い終わらないうちに、さぎりは包んでいる糸の束を両腕いっぱいに抱きしめた。実は、動かなかったのは糸を監視していただけだった。
糸の主は完全にうろたえる。今まで与えられた生け贄は必ず泣きわめいて暴れたものだ。しかしこの生け贄は、泣くどころか糸をたぐりだした。いったいどういうことだ。おかしい。なにごとだ。
放セ! オマエハナンダ!
「うふふふふふ。きみの本体はどーこーかーなー」
右に引き上げ、左にねじり上げ、とうとう毛で覆われている獣をさぎりは捕らえた。どうやら糸と思っていたものは体毛で、牛や馬をはるかに超えるおおきな体格のようだ。これは登りがいがある。
獣はよじ登りだしたさぎりを振り落とそうとした。しかし絡まりやすい毛が災いしてまったく落ちない。
「元気元気。よーしよし、おちつこう。よーしよし。だいじょうぶ」
なだめるとおとなしくなったので、さぎりは移動しながら手探りで観察をはじめた。長くてやわらかい毛は猫みたいだ。登っても登っても背中に届かないのは、象より大きい獣なんだろうか。動き方から、たぶん左手方向に頭がある。低いうなり声は犬に近い。これらをまとめると、毛の長い巨大なオオカミ妖怪だろう。それも人と会話ができて、人間の生け贄が捧げられてきた、強く恐れられた妖怪だ。
ところが、うなり声とは別の声が上から降ってきた。
来ルナ! アッチ行ケ! シッ! シッ!
子どもの声で、来るなと怒りながら移動していく。さぎりは声を頼りに追いかけた。かなり近づいたとき、指が硬いものに当たった。目をこらすと、それは獣の口端から生えていた牙で、その向こう側にちいさな影があった。見つけた。さぎりはバッタを捕る手際で子どもを捕らえる。
「つかまえた」
鼓膜も破れんばかりの断末魔が上がった。
北海島のほぼ中央に位置する氷雪山系。万年雪に覆われていた美しい峰は今や妖怪被害によって腐りまたは立ち枯れて黒一色だが、ふもとの樹々は青青と繁っている。その黒と緑の境目に朝日川大学病院は建っていた。閉校した大学を改築して妖怪研究を主軸とする医療施設になり、妖怪や退魔術の研究のほか、全国の妖怪に関わった重症患者が収容される。
古い病棟の廊下を、一台の車椅子が進んでいく。押すのは白装束の若い男、車椅子にはパジャマ姿の少年が小さな箱を大切そうに抱えて座っている。年季の入った床面は所々で歪み、わずかな段差に車輪が揺れた衝撃で少年はハッと頭を上げた。
「やべっ」
彰人は覚醒するなり手元を確認した。寝ていても両手はケーキボックスをしっかり持っていたようだ。よかった。落としたら今までの苦労が水の泡だ。
「あ。起きた」
白装束が声をかける。青白い肌のやつれ顔、眼鏡もないが、紛れもなく鋼判だった。退魔士修行を再履修中のため、修行を抜け出してきたのだった。
「なんか眠くて」
「寝てろ寝てろ。アッキーは一週間近く寝込んでたし、起きても休む暇なかったからな。さぎりに会ったら殴るくらいしていいぞ。その権利はアッキーにあるから」
ははは、と苦笑いした。
いくつかの渡り廊下を抜けて、薄暗いエレベーターフロアに着いた。そこにいた集団が彰人に気づいて視線を向けた。背広、白衣、頭から布を被った人、僧侶。一番手前に立っていた神父が振り返る。
「鋼」
退魔士協会会長補佐の海照(かいしょう)神父。細身のせいで小柄に見える。眼鏡の下から彰人に向けて穏やかに微笑んだ。
「字見くん、体調はだいじょうぶかい」
「あ、はい」
「今回は協力してくれてありがとう。この人たちも同行していくけど、気にしないでいいからね」
はーいと答えた鋼に、温和から一転して「お前は気にしろ」と冷徹に釘を刺したので、彰人は笑いそうになった。この二人は仲のいい同期だと聞いている。
小太りの背広がえらそうな咳払いを見せた。会長補佐は仕事の顔つきになる。
「すみません。字見くん、紹介します。こちらは本土の北海島妖怪対策本部局の山城長官。今回の件で直々に視察に来てる。長官、彼が字見くんです」
彰人は会釈したが、長官はじろりと見るだけ。
「で。これからこの子を下に連れていくのか。死にかけた子をわざわざ呼び出すとは、何様のつもりなんだか。あきれるな」
白髪まじりの白衣が長官にすり寄った。
「はい、はい、長官のおっしゃる通りです。でもここで根源の機嫌を損ねてはさらなる危険がおよび」
「そんなことはわかっておるっ。海照、これで揃ったんだろう。早く行ってこんな茶番は終わらせるぞ。いいか、わたしは忙しいんだ。本土の仕事を置いて、わざわざ来てやってることをよく覚えておけ」
エレベーターの扉が開いた。白衣を従えてズカズカ歩く小太りに、彰人はすっかり嫌気がさしていた。ただ、長官の言葉は悪くても内容は否定できない。実際に死にかけたから。
彰人は憑依されたさぎりを見たところで気を失い、病院のベッドで目が覚めた。駆けつけた鋼や周りの人たちから謝罪を受けたり事の顛末を聞かされ、自分が一週間も昏睡状態だったことと、事態が解決していたことを知った。
根源がさぎりに憑依したとき、そこにいた退魔士三人は指一本動かせなかった。憑依によって人体が炭化した例はなく、ましてや根源の憑依例などあるはずもない。状況に対して手の施しようがない絶望に加え、さぎりだったものから発せられる霊圧は尋常ではなく、自身の霊体を守るのが精一杯。気をゆるめたら霊体は粉々になり死に至る。生き物は霊体が壊れると植物状態に陥るか即死するのだ。唯一の幸運は炭人形がまったく動かないことだった。憑依完了していないのだろう。ただし楽観視はできない。完了前でこの状態ならば、こいつが外に出たら音別も朝日川のように妖怪が徘徊する廃墟になる。それだけは絶対に回避しなければならない。しかし誰も声すら出せず、使役する妖怪さえ確認できない。ここまでか。
鋼が膝をついたとき、白銀の影が飛び出した。それは炭人形にまたがって胸部に銀色の剣を突き立てる。とたんに人形は大きく跳ね、暴れ、もがいた。刃はゆるむどころか深く食い込み、とうとう柄まで入ると炭人形はふたたび動かなくなり、霊圧も波のように引き、安堵する息が漏れた。
鋼は助けてくれた人物に礼を言おうとして、息を呑んだ。人物の名前、彰人と言いかけたとき光が四散し、元の姿に戻った二人が折り重なって倒れていた。
退魔士協会は一部始終を見ていた三人の証言と彰人の霊体がほぼ破壊されていたことから、白い人物は彰人の持っていた剣が憑依したのだろうという結論を出した。それでも一週間で意識が戻ったのは奇跡としか言えない。
「あんな山伏に任せるから、子どもが犠牲になったじゃないか。だから私は反対したんだ。学もないただの山伏に務められるわけがない」「はい、おっしゃる通りです」
文句しか言わない背広となだめる白衣の声に、彰人は持っている物を投げつけたい衝動をなんとか抑えた。話から、山伏というのは厳龍山伏のことだとわかった。あの人は本部長なんかよりよほど大人だと思う。
意識回復した翌日、鋼さんと話していると、朝の妖怪予報でおなじみ厳龍山伏が来たので驚いた。テレビで見ているやさしいおじさんのような雰囲気はなく、山伏相応の威厳と風格で、退魔士協会のボスだと名乗った。同行者の海照神父と、やさしいお婆さん尼僧は補佐と紹介された。三人は揃って彰人に土下座しただけでなく、厳龍山伏から事の顛末を聞かされた。責任者の口から当事者に詳しい話を伝えるのがモットーだと。
「一番悪いのは角(かく)でも鋼でもない、管理を怠っていた本部だ。恥ずかしいことに、ワシたちみんな油断していたんだよ」
そもそもの始まりは、角を含める若い退魔士たちの小競り合い。常人にはない力を持てば未熟者ほど自慢したがるもので、新人研修のために集まった面々が暇つぶしに退魔能力を張り合いだした。終いには根源の封印が解けるかという話になった。
根源が退魔士協会本部に封印されている事は島民誰でも知っている。協会関係者はその場所まで知っているし、封印の解除に挑む者が毎年出ていてもそれを黙認していたほど、のんびりとした状況だった。その封印は、厳龍をはじめ幾人もの封印のエキスパートが施し、完全封印まで一ヶ月以上かかったこと、途中で殉職者も出たほど強靭な作りだった。ゆえに若輩者が施す術では埃を払うことさえ無理だったのだ。
ところがその日、角の施した術で封印陣にヒビが入った。
同時に建物中に警報が鳴り響いた。しかし厳龍自身はもちろん、警備員までも警報器の故障かと思った。飛び上がったのは現場にいた若者だ。目の前の巨大な封印に入ったちいさな穴から見る見る亀裂が走っていく。封印が壊れる。根源が解放されてしまう。パニックに陥った集団は四方八方に逃げだした。角も気が動転し、中央に設置されていた根源入りの壺をどうにか抱えると、どこか遠くに捨てにいく一心で駆け出した。壼から漏れだす霊圧が抑えられたのは、壼にかけられていた力が残っていたおかげだった。そして角が事務所に飛び込んだ頃、本部でやっと事態が明らかになる。程なく角の式神が厳龍に到着。ヘリで特殊部隊が音別に駆けつけた時は、すべてが終わった後だった。
本部の最深部破壊、音別市の事務所半壊、高校生の重傷者二名を出した大惨事は、表向きは封印から逃げた妖怪による妖怪事故として処理され、ローカル新聞にさえ載らなかった。載っていたら今頃は北海島だけじゃなく大和国中が大騒ぎしていただろう。大事件を公表せず、しかし被害者である彰人にはできる限り保障すると厳龍が言ったので、それでいいと思った。自分も平穏な日々を壊したくない。
ただ、そこで話が終わらなかったから、今ここにいるわけだが。
話を終えた山伏が腰を上げたとき、電話で中座していた神父が病室に戻ってきた。困惑の表情で彰人をちらりと見たので、見られたほうはどきりとする。
「どしたよ、海(かい)ちゃん」
「おまえの姪御さんがな」
「なにがあった」
「心配するな。結論からいって悪い話じゃない。ただし、こっちが先だ。会長、春さん、いいですか」
ひそひそひそ。三人は病室の隅で相談し、激しく動揺を見せ、それぞれ同じ表情を浮かべて彰人を見る。患者の隣で退魔士がいらついた。
「なんだよ、三人で。さぎりの話なんだろ、早く言えよ」
「ワシから話す。話は早いほうがいい。判も一緒に聞け」
改めて、厳龍は彰人の脇に腰を下ろした。
「字見くん。君は昏睡状態から起きたばかりの未成年だし、なにより今は絶対安静が一番の薬だ。だがしかし、事態が変わったらしい。聞いたとおり鋼さぎりさんのことだ」
「俺でもできることがあれば協力します。カルネモソミもいるし」
「ありがたい。ただ、今回は君の剣に頼るわけではない。あの子は今、封印の間という場所に収容されている。一時的な隔離部屋みたいな場所だ」
強い妖力を浴びると人体は変化することがある。彰人の憑依痣もそのひとつだ。ほかに瞳孔の形、髪や肌の色、聴覚や声が妖怪のようになる事例もある。いずれも数日で戻るが、一生そのままのことも多い。そのため隔離部屋で数日過ごして様子を見るのだ。
横から鋼が付け足した。
「隔離部屋と言っても普通の和室なんだ。封印陣で囲むように造られてて、だいたいの退魔士なら一度は入ってる。俺も仕事で憑依されると直行するし。窓もなくて監視つきだけど、飯もうまいしテレビもゲームも風呂も自由。なんなら傷病手当も出る」
「ゲームまであるんだ」
「暇つぶしにいいからな。許可が下りるまで一日か一ヶ月かわかんないし。『まじょゆう』とか。知ってるだろ」
「うん」
まじょゆうこと『魔女と勇者の物語シリーズ』は、王道ロールプレイングゲームで子どもから年寄りまで人気がある。アニメ化もした。
「鋼。そのゲーム、あいつもやってるぞ。あの子の隣でずっと」
「だははは、言葉通りの神ゲーじゃん」
あいつが誰なのか聞く前に、厳龍が咳払いをした。
「字見くん。鋼さぎりさんは収容されてから今までなにも食べてないんだ。ここに来てから一週間以上、飴ひとつ食べない。鼻から胃にチューブを入れても吐くらしい。水をすこし飲むくらいで、あとは点滴だ。憑依されたものがものだけに、むりやり食べさせることは危険すぎてできないままだ」
あの食欲の塊が飴も食べないなんて、想像できない。
「ところが。字見くんが起きたことを伝えたら「アキトのプリンが食べたい」と医師に飛びついたらしい。今、その報告があった。聞くと君の作ったプリンらしい。すまん。起きたばかりの君には大変なことだと思う。ただ、その、鋼さんのためにプリンを作れるなら作ってくれないだろうか。もちろん無理にとは言わない、できるだけでいい」
鋼と彰人は目を合わせ、呆れ、同時に天井を仰いで、吹き出した。
彰人は自分が直接届けることを条件に承諾した。いつもの顔が見たかったからだ。
だから今、プリン入りケーキボックスをさぎりの元へ届けるためにここにいる。給湯室でふらつきながら作ったわりにうまく出来た。これに文句を言うようなら拳を入れるつもりだ。
年代物のエレベーターはゆっくり降りていく。長官は「まだかね」と苛立ちを見せ、気が向いたのか一人の退魔士に目をつけた。
「おい。よく見たら、あれは問題を起こした退魔士の仲間じゃないか。なんであいつがここにいる」
白衣より先に鋼が答えた。
「俺ですか。俺は字見くんの監視担当退魔士に任命されたので、仕事の一貫として付き添ってます。なにか問題でも」
驚いた。彰人は最強レベルの妖怪が憑依しているため監視担当がつくことは聞いていた。それが知り合いであることは単純に嬉しい。
しかし背広は引き下がるどころか、含んだ笑いを浮かべた。
「は。これだから田舎者は話が通じなくて困るね。いいか。私はね、お前みたいな無能退魔士が、協会を管理する立場であるわしの前に、のうのうと姿を見せられるもんだな、とあきれてるんだ。言葉の意味もわからんとは、学がないとはそういうことだ。わかっているのか、お前たちはとんでもないことをしでかしたんだっ」
「長官の言う通りだ。鋼、限界だ。お主は封印の間に入れ。死ぬまであそこにいろ」
僧侶が続けた。校長のように貫禄のある僧侶で、袈裟の裾を軽く払う。
「お主が魔を呼び寄せる性質があるのは皆知っている。わたしの弟子にもいるからな。だが弟子はお主と違って、妖怪を遠ざける生活をし、貯金を貯めたら島を出ると話している。島は好きだが妖怪を寄せては迷惑がかかるからだと。いいか、鋼。皆そうやって周りに気を遣って生きているのだ。その点、お主はどうだ。やりたい放題やって、引き寄せるだけ引き寄せて、とうとう根源まで引き寄せた。今回は運がよかった。死者も出なかった。だが、次は。鋼、退魔を辞めろ。辞めないのなら封印の間に入れ。迷惑だ」「そうだそうだ」「わたしも思ってた」
賛同の声が上がるのを、神父が止めた。
「おやめください。今回の件については、若い退魔士の術で解けたほど陣が脆弱化していたこと。同時に、それらを全員が見落としていたことが問題です。違いますか」
誰もが気まずそうに目をそむける。
「封印を強化すべきは根源です。退魔士一人で解決する問題ではありません。よろしいですね」
異議は出なかった。いつもヘラヘラ笑っている人が、一方的に言われて反論もしないことが、なぜか彰人は胸が重くなった。そこを後ろから髪をぐしゃぐしゃにされた。気にするなよ、と言われるように。
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