危険度 3

 公道を走るトラックに驚いたのか妖怪ホタル街灯の灯が揺れ、アスファルトに伸びる彰人とさぎりの影がぶれた。妖怪ホタルは夜が近づくと勝手に灯るため、妖怪たちの活動時間も教えてくれる。

‘アザミアキヒト’

 カルネモソミも起きたらしい。

「おはよ」

‘どこへいく。夜はクムの時間だ、子どもは家から出ないほうがいい’

「俺もあまり行きたくないんだけど、状況が変わってさ。行ったらすぐ帰るから」

‘遠いのか’

「商店街だから、あと三十分くらいかな」

「ちょっと。アキト、声でかい。外だよ」

 横からさぎりに言われて、口を閉じた。そういえばここは公道であり、住宅地の前だった。高校生が大声で独り言をしゃべっているだけで、田舎の噂のタネになることは明らかだろう。

「こっちは事情を知ってるからいいけど、頭のなかで会話するとかできないの」

「そうなんだけど、つい口に出るんだよ。テスト中でもなきゃ無理」

「じゃあ電話してるフリはどう。ケータイ持ってるでしょ」

「それ採用」

 さっそく耳に携帯電話をあてた。これなら自然体に見える。

‘クムが来たら、私をすぐ抜んだ。わかったな’

「はいはい」

「なんて言ってたの」

「妖怪が出る時間だから、襲ってきたら刀抜けってさ」

「警察に捕まるんじゃ」

「しないって。札(ふだ)もあるし」

 尻ポケットにある財布に軽く触れる。中身は現金とポイントカード、退魔札一枚。退魔札は虫除け妖怪版みたいなもので、持っているだけで弱い妖怪は寄ってこない。襲われても、妖怪にぶつけると目つぶしくらいの効果があるので、その隙に人間が逃げる。

 市役所で発行されるが、高校生以上の学生には生徒手帳と一緒に一枚だけ配られる。部活や塾で下校時刻が遅くなるためだ。なお追加分は有料発行になるため、いたずらに無駄遣いするバカはいない。

「ハギは」

「準備万端」

 不敵に笑う顔になにか企んでいる気配を感じたが、あえて聞かないことにした。

「それにしてもプリンの食い過ぎだろ。俺の分まで食って」

「あのプリンは最高でしょ! また作ってよ。菓心堂(かしんどう)にないんだ」

「あるだろ」

「あるのは焼きプリンだもん。プリンはプレーンが一番」

 菓心堂は音別市の数少ない喫茶つき洋菓子店だ。値段も手頃でパフェとシュークリームが名物。

「俺のはプリンミックスだからハギでも作れるぞ」

「アキトが作るやつがいいのっ」

「わかったよ」

「約束ね」

「はいはい、約束しました」

 ゆるむほほをなでつける。約束ならしょうがない。

「菓心堂のシュークリーム全制覇計画、どこまでいったんだよ。あと半分とか言ってただろ」

「あれね、あと一個。数量限定だからいつも売り切れてて」

「予約して買えばいいだろ」

「あたしが予約して買うのはウルトラスーパーシュークリーム様だけだから」

 数年前、音別祭大食いイベントに菓心堂特製巨大ロールケーキが現れた。菓子名はウルトラスーパーシュークリーム。シュー生地でつくられた筒は電信柱くらいあり、中には菓心堂のありとあらゆる洋菓子が詰め込まれている。今では街の名物になり、結婚式や成人式で記念に食べた集団がローカル新聞に載ることもある。ちなみに外観に反した名称は、店主が溺愛している二歳の孫がつけた。

 さぎりは、これをひとりで完食するという野望があった。

「だけど、ひとりでは無理だろ。死ぬぞ」

「死なないようにトレーニングするから大丈夫。ロールケーキ丸呑みしたって死なない自信あるし」

「そんなのでき……ハギならできるかも」

「でしょ」

‘なんの話かわからないが、楽しそうだな。ろーるけーきとはなんだい’

 カルネモソミも興味津々なようだ。

「ケーキのスポンジを丸めて中心にクリームが入るんだ」

‘すぽんじという餅にくりーむ’

「あ。いや、丸めるけどお餅じゃなくて、ええと。ハギ、ロールケーキってどう説明したらいい」

「おいしい物」

「やっぱりいいです」

 説明に試行錯誤しているうちに駅前通りに着いた。

 駅舎の時計は七時過ぎ。あいかわらず閑散としていて、ひとはバス停でバスを待っている三人しかいなかった。空からしゅるるしゅるると妖怪特有の鳴き声がした。コウモリ似の妖怪が群れで飛んでいく姿を認め、彰人の足は自然とはやくなった。はやく用事を済ませて帰ろう。交差点二つ過ぎたら商店街だ。

「いいか。鋼さんのところまでハギを送ったら、俺は帰るからな。あまりいたくないし、ハギが帰るときは鋼さんがいるんだろ」

「うん」

 商店街というが、実際は田舎の飲み屋通りだ。立ち飲み居酒屋やスナック、風俗店が並び、昔はピンク通りと呼んだ。偉い人がアーケードをつけて音別商店街と改名したが、そのアーケードによって薄暗くなった通りはより怪しさを増す結果となった。昼間から響く酔っ払いの怒鳴り声、おかしな笑い声、汚い路地裏のなにかが這いずった痕、アルコールと香水と泥が混ざった独特な臭い、昼夜問わず姿を見せる妖怪。高校生には明らかに危険な場所だ。目的地がここじゃなければ寄りつきもしなかっただろう。

「あたしも夜は来るなって言われてるけど、今回は事態が事態だからしょうがないよね。あ、あれ。妖怪トカゲの行列。ほらほら、前の子のしっぽくわえて歩くんだよ、かわいいでしょ」

「おい。来るなって言われてるなら行ったらダメだろ」

「アキトに憑いたのが普通の妖怪なら行かないよ。でもそうじゃないし、襲撃まであったんでしょ。これでじゅうぶん緊急事態でしょうが」

「それはそうだけど、いてっ」

 突然、左腕に静電気が走った。

‘止まれ。動くな’

 しかたなく足を止めた。先を歩いていたさぎりも怪訝顔で戻ってくる。

「どしたの」

「ここから動くなってカルネモソミが言ってる」

「あと少しなんだけどな。アキトも一緒に来てほしいし。ほら、あたしひとりで行ってもお兄ちゃんに信じてもらえないだろうから」

「こっちは動けないぞ」

「んん、わかった。お兄ちゃんにここまで来てもらう。もう一回電話してくるから、ここで待ってて」

 さぎりが離れると、また静電気が走った。

‘抜け! はやく!’

「さっきからなんだよ。こんなところで剣なんか抜けないし」

‘レンカランクルだ’

 聞くと同時に彰人は全身が総毛立った。

 いる。

 商店街の奥から冷たい気配が流れてくる。そいつの息だろうか。まるで地吹雪だ。体の芯まで凍えそうだ。

「さむっ。なんだよ、これ」

‘レンカランクルの気だ。かなり小さいがこの先にいる’

「これで小さいって、まじか」

‘そうか。我がトンラウンクルはこれを知って遣わしたのか。この神剣カルネモソミ、身が折れようとも使命を果たすことを誓う。我がトンラウンクルよ、神剣カルネモソミと勇者アザミアキヒトに加護を授けたまえ’

 かっと左腕が熱くなった。いや、カルネモソミの痣が。

「ちょっと、おい。カルネモソミ。話がぜんっぜん見えない」

‘わたしはトンラウンクルに造られた、すべてのクムを帰す刃。わたしがレンカランクルがいる場所に来た。すなわちレンカランクルをクムの地に帰せというトンラウンクルの意志’

「レンカランクルってどんな妖怪なんだよ」

‘レンカランクルは妖怪ではない。トンラウンクルの影、光の対、闇であり死をもたらす。命を吸い、草を枯らし、刀を錆びさせ、病を呼ぶ。それがレンカランクル’

「やばい。逃げないと」

 後ずさるより先に、左腕にひっぱられるように駆け出した。さぎりの驚く声にも応えられない。

「ちょっと待っ、おいっ」

‘いいか、アザミアキヒト。これは宿命だ。宿命から逃げることは誰にもできない。わたしが錆びて折れようと、アザミアキヒトの身が崩れようと、最後までレンカランクルに立ち向かう’

 止まったのは、キラキラ心霊相談所が入っている雑居ビルの前。入口から吐き出される冷たい霊気のせいか、張りつめた雰囲気が漂っている。きしんだ汚いドアをくぐると、妖怪の口に踏み込んだような気色悪さがあった。階段の先もいつもより暗く、妖怪が潜んでいるように見える。

‘宿命だから、危険な夜道を支障なくここまで来た。トンラウンクルの加護を授かることができた。なぜならレンカランクルを帰す事がわたしたちのやるべき事だからだ’

「それじゃ、カルネモソミが来たことも宿命なのか」

‘そうだ。アザミアキヒトでなければ、わたしは今もただの棒だろう’

「そっか」

‘安心しろ。アザミアキヒトだけは死なせない。加護もついている。ただし彼女は今すぐ帰した方がいい。危険すぎる’

 ちょうど当人が追いついたところだった。

「行く気満々じゃん」

「ごめん。突然カルネモソミが」

「やっぱり。そんな風に見えたもん。あのね、おおきい妖怪が近くにいるかも。ケータイにぜんぜんつながらないし、充電の減りがおかしくて」

「うん。だからハギは今すぐ帰れ。上にやばいヤツがいるから」

 幼なじみ同士、目で会話する。

 いるの。いる。そうなんだ。うん。

「わかった!」「えっ」

 駆け出す背中をあわてて引き戻した。妖怪好きだと忘れていた。言うんじゃなかった。


 彰人は人がいないことを確認し、左腕の痣をすっとなでる。痣が消えて、右手に銀の剣があらわれた。カルネモソミだ。刃に光が走る。

‘この上だ’

 返事をするより先に、背中を平手で激しく叩かれる。

「ちょっとちょっと、いい声じゃん!! かっこよすぎ!! アキト、よくやった!! 大変よく憑きました!!」

 離れて歩くよう指示した妖怪好きは、なぜか真後ろにいる。帰る説得はあきらめた。

「聞こえたか。いい声だよな」

「うん!」

 また刃が光る。

‘アザミアキヒト。この娘は気つけに酒を飲んでいるのか。子どもに酒は早い’

「あはははははは!! おもしろい!!」

「カルネモソミ。ハギはこれで素面なんだ」

‘なにっ、本当なのか’

「本当でーすっ!」

 さらに強く背中を叩かれ、彰人は笑うしかなかった。


 彰人たちがロールケーキの説明に悩んでいた頃、キラキラ心霊相談所は緊迫していた。家財がよけられた事務所の床全面を使って封印陣が書かれ、その中央にはタコ壷が置いてあった。社長と社員二人は陣を囲うように立ち、三者三様で警戒している。

「やるぞ」

 寝癖そのままの髪と丸眼鏡、うす汚れた作業着にスニーカーという出で立ちの若社長に、社員ふたりは目で返答した。

 社長の名は鋼判(はがね はん)。「判」は本名ではなく、恩人からつけられた名だ。ここにいる人間はいずれも本名を使わない。

 判は手の中にある小瓶の蓋を開けた。

「頭領!」

「ほいサア!」

 ずるんと瓶口からたくましい山鬼の腕が二本が生え、狭そうに天井を支えた。

 判が使うのは封印瓶である。一見すると複雑な柄がついた小瓶だが、それは判の血液で書かれた封印だ。判がふれている限り中身の妖怪を使役でき、離れると自動的に瓶に引き戻される。

「頭領。あそこの壷の中身が出てこないよう抑えてほしい。一日保てばいい」

 小瓶がしゃべった。

「呼んだと思ったらそれだけかイ、判。ワシなら山の向こうまで投げることもできるゾイ。それとも‘でこぴん’でチョイとやるかイ」

「投げたらやばいやつなんだ。ここで封印するから逃げないように抑えててほしい。今、厳龍のおっさんを呼んでるから。朝日川からヘリで来るから、はやくても夜中過ぎだろう。それまで頼みたい」

「つまらンナア。そんなことでワシを呼んだのかイ」

「お。相手は最強だぞ、やっぱり頭領じゃなきゃ。それに秘蔵の献上酒やったろ。どっかの神様が飲んでる酒だ、うまかっただろ」

「あれはうまかったナア」

 基本的に妖怪は使役を嫌がる。鬼や龍といった大物ほど顕著だ。しかし彼らは酒や肉など貢ぎ物があれば協力を惜しまないわけで、頭領もそういう類の妖怪だった。おかげで事務所には酒瓶がゴロゴロしている。

「頭領、頼む。壷の中身が逃げないように抑えててくれ」

「わかっタア」

 鬼の腕がぐうんと伸び、壺を平手でつぶした。

 誰もが割れたと思ったが、壷は手の脇に無傷で転がっている。ふたたび手は壷をつぶした。転がった。つぶした。転がった。

「どうした、頭領」

「つるつるするゾイ。豆みたいにつるつる逃げるゾイ」

「つるつる……バリアか。角(かく)、解除できるか」

「断る。単純バカの鋼らしい考えだね。シャコ貝状態なら放っておけばいいじゃん。バリアをわざわざ解除する理由くらいは聞いてやるよ」

 角と呼ばれた少年は、壷から目を反らさずに答えた。目は泣き腫らしたように赤いが、聡明な顔つきで陰陽師の衣装を身にまとい、防御の印を結ぶ指先まで凛としている。十代の小柄な少年なので一見すると中学生のコスプレだが、一流の陰陽師だ。見た目に反してなかなかの毒舌だが、ここでは誰も気にしない。

「霊気の漏れが増えてきた。壷が割れるのも時間の問題だ。だから割れないように固定する。しかしつるつるバリアで固定ができない。だからバリア解除」

「それなら漏れてくる穴を塞げばいい話じゃん」

 角は封印札を散らすとすばやく印を組んだ。舞のごとく美しく無駄のない手さばき、彼が一流陰陽師である証だ。才能に恵まれている十代の小柄な少年は年輩者の多い同門から軽視され、それを彼は意地と毒舌という形で対抗してきた。初対面で角を一流を認めた人間は鋼事務所の人間だけで、それこそ角がここに居着く理由だった。

 しかし一流の技でもタコ壷は強固だった。数枚の札が壷に貼り付くも一瞬で黒に変色し散った。

「鋼。塞げなかった」

「んんむううう」

「ねえ。まるごと判の瓶に入れるのは、どうかな」

 背の高いモデル顔の青年が判に笑顔を向けた。男女問わず魅了してやまない人なつこいほほえみだが、見慣れている側はそれが良からぬことを企んでいる顔だと知っている。

 名は彩(さい)。薄い色のシャツとカーディガン、細い腰にぴったりとしたジーンズが似合う。いつも物事に興味を示さず、椅子から立つどころか顔も上げない彼だが、今回ばかりは陣のそばに立っていた。さらにその細い肩には、漆黒の虎とも熊ともつかない巨大な妖怪が乗っていた。タコ壷に向かって血のように赤い眼を光らせ、グルロロロロと低く唸る。

「黒曜(こくよう)もそれがいいって」

「僕も彩さんに賛成!」

 角は彩に心酔している。実際に彩の出す案は無駄がなく解決に至る分析力と、自分をいち早く認めてくれた恩人だからだ。ただ、彩の分析力については、単純に面倒くさがりの性分からきていると、鋼は見抜いている。今回もそうだろう。

「おい、ふたり。冗談やめろ」

「えー」

「鋼。彩さんの作戦が一番いい方法だよ。鋼はいつも適当な封印陣なのに、頭領レベルの妖怪を完ぺきに封印してるじゃん。天才陰陽師の僕でもできないよ。それを鋼はあっさりできるんだから、利用しない手はないよ」

 悩んだ時間、二秒。

「却下。俺の血がどれだけ必要だと思う。頭領の時は輸血寸前だったんだぞ。根源なんかそれこそ俺の身体丸ごと必要だ」

「人間丸ごと。さすが判だね、条件が揃った」「彩さんに賛成」

「おまえらっ。こいつを俺の身体に移して、俺ごとどこかに閉じ込めるんだろ」

「そうなるよね」「鋼は死ぬまで監禁されるね。ばいばい」

「ふざけんなよ! やるわけないだろ、根源なんか身体に入れたら即死するわ! だいたい俺がいなくなったら会社がなくなるか、協会からきたバカが社長になるんだからな! それでいいのかよ!」

 小瓶をぶんぶん振り回すので、揺らされる頭領は「およおよおよ」と笑う。

「冗談だよ、鋼。なんで本気になるのさ」

「ここがなくなるのは困るね」

 口をとがらせた彩を、黒曜が目で笑った。

「じゃあさ。鋼が駄目なら、頭領に預かってもらうのはどう」

「ひいえええっ。いくら角の頼みでも、ワシ、同居は嫌ゾイ。まさか判までワシにそいつと同居しろと言うんじゃなかろうな。そんな鬼のようなことを言われたら、ワシ、泣いてしまうゾイ」

 鬼も鬼みたいなことって言うんだ、と誰もが思った。

「安心しろ、頭領。俺のはおひとりさまひと瓶だから」

「ここはええゾイ。山も良かったが、ここも静かでええゾイ。なにより邪魔者が入らないから落ちつくゾイ。もうちっと酒があれば、もっともっとええが」

 ごとん。

 壷の動いた音に視線が集まった。

 パキン。

 孵化するように、壷の表面にわずかなヒビが走る。

「頭領、あれを止めろ!!」

「白霞(しろかすみ)!! 包んで!!」

「黒曜」

 巨大な鬼の手と、煙のような妖怪・白霞が壷に覆いかぶさり、その上を黒い獣が襲いかかる。

 手がかかる寸前、亀裂から一条の黒い光が伸びた。それは頭領の指の間と白霞を突き破り、黒曜の脇をすりぬけ、四方の壁や天井に当たったかと思いきや、ひとつの束になって扉に向かった。

 止められない。

 逃げられる。

 おしまいだ。

 全員がそう思った時。

「うわああああ!!」

 事務所の扉が突き破られて、まぶしいほどの白銀の光が室内に射し込んだ。黒い光は壷に戻ろうとしたが、白銀が先端を床に縫い付けられ動かなくなる。剣がぎらりと光った。

‘レンカランクル、クムの地に戻りたまえ’

「あったたたた」

 彰人は柄に身を保たせた。息は上がり膝も笑い、階段で踏み外したときに打ったすねはかなり痛い。左足の靴も脱げている。

 階段を数段上がったとき‘行くぞ’と言うなりカルネモソミに引っ張られた。そのため彰人は無茶な全力疾走をさせられた挙げ句、事務所の扉を斬って侵入し、わけもわからず床に切っ先を突き立てている。

 今回は一言言おうと思ったが、カルネモソミが床に縫いつけている影を見て、黙ることにした。影はびくびくともがいて気持ち悪い。

「ア……ッキー」

「は」

 鋼の声を聞いてはじめて彰人は顔を上げた。

 事務所の中いっぱいに書かれた封印陣、その中央には巨大な両手と白い綿と黒い塊が織り重なっており、下からレンカランクルの影が伸びていた。彰人を呆然と見る三つの目線から、最大の術をぶち壊したのは明確だった。言い訳しようがない状況にどっと汗が出る。

「あ……これは、えっと」

「おーい、アキトー。生ーきてーるかー」

 のんきな女子の声に、全員が飛び上がった。

 カルネモソミが震えだした。影が身をよじり、ゆっくりと出口に向かって先端を伸ばしている。抑えられないのだ。

「だめだ、行くなって、おいっ」

‘レンカランクル。我らはあれを捧げていない。贄ではない。理を忘れたか’

「さぎり、来るな!! アッキー、そのまま固定!! 俺たちで止める!!」

 鋼の合図に封印札や聖水が影にかかる。しかし札は焦げ落ち、聖水は床を濡らすだけだった。巨大な豪腕が叩いた。白い煙が覆った。黒い獣が飛びかかった。しかし床を這う影はじわりじわりと舌を伸ばしていく。

 彰人はカルネモソミを抜いて先端を突き刺したかったが、手は動いてくれない。

‘わたしがここを抑えてる。彼らに任せるんだ’

「でも!!」

 入り口まで残り一メートルもない。

 彰人は声を限りに叫んだ。

「ハギ、来るなよ!!」

「来るってば」

 さぎりがひょこりと顔を出した。


 一瞬だった。

 レンカランクルはさぎりが姿を見せたと同時に捕らえ、全身を取り込んだ。きょとんとした顔も覆い尽くし、さぎりの服を着た黒いマネキンとなった。

‘構えろ。来る’

「え」

 カルネモソミの声を追って鋼が叫ぶ。

「……臨戦態勢!!」

 退魔士たちも身構えたが、攻撃は来なかった。さぎりだったマネキンは糸の切れた操り人形のように、床に崩れ落ちたのだった。

 彰人はきつく目を閉じた。

 あの、ばか。

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