場面5
初めに気がついたことは、食べなくてもよいということだ。どうやら全てでは、常に人間は健康らしい。そして何より、服が選んでもいないのに自分の理想ぴったりなのだ。いつの間にか服が変わっているらしかった。自分の心境や状況に合わせて、イメージ通りになる。ここには衣・食・住と人間に必要なもの全てが揃ってある。初めはなんとも不気味であったが、これが普通なのだと思うと、今までの地球の暮らしが馬鹿らしく思えてきた。
欲しいものは何でも手に入った。ただなんとなく、頭の中で欲求が芽生えると、いつの間にか目の前の情景がその欲求で満たされている。景色、音、物、感動、悲観、全てが思いままとなった。本当の健康状態である。なんと快適で、安らかな世界。まさしく全てであった。
それはすぐに最悪な環境になった。ここには楽しいや悲しいがいくらでもある。でもここにはウレシイや苦しいが一つもない。ふと生きているときにこんなことを思った事がある。「ああ、こんな仕事は早く終わらせて楽になりたい。何でも自分の金を使って好き勝手やりたい。」と何度も思った。その思いが通じたのが、ここである全てだ。
しかしそれは人間としての終わりを告げていた。とにかくここにはそんな嬉しいや苦しいが一つもなく、退屈なのだ。自分で嬉しくなるようなシナリや苦しくなるようなシナリオを思い描いてみたが、それもどこか駄目であった。予想外なこと、生きるために必要だった人類の知恵や、思考では考えもつかないような事がないと駄目なのだ。欲求によって生まれるさらに大きい欲求や達成感が欲しいので。しかし、この世界にはそれがない。
まるで、無のようだった。
地球ではどうだろう、人付き合いはどこか上手くいかず、人の考えていることに不安を抱き、喜びを感じる。そして死をみて悲しみ、泣く。働いても幸福は訪れず、こんな世界は嫌だと嘆く。何をやっても全ては満たされないのだ。全てが満たされてはいけないのだ。
まるで地獄のようだった。
「無」という地獄。「地獄」という苦しみ。エヌは苦しみの中でさらに苦しんだ。そしてあるとき、彼女にこういった。
「こんな世界にいて、怖く、恐ろしくならないのか。俺にはとても、こんな生活ができそうもない。」
「どうしてでしょう。私はこれが普通であるなら、これが全てと思います。私は中央に入ったことがないので、そういうことがわからないのかもしれません。」
彼女の顔が真剣になる。
「どうしてだ。ここにはなんでもあるようで、実は何もない。まるで「無」だ。植物になったようだ。」
すると彼女は俯いてこう言った。「わからない。会う人みんな、あなたのような事を口にします。そしてまた中央へ戻っていく。」
「俺も、入りたい。ここでは、生きている希望や目標が何もないのだから。まるで自分が存在していないようだ。一緒に、行こう!」
と言うと、彼女は俯いていた顔を上げ、悲しそうにこう返した。
「私にはそれが怖いのです!いまある存在が消えてしまうのが怖いのです。」
そこで彼は、中央に入るとき、自身の記憶が消えてしまうことを思い出した。つまり、本当の意味での死を思い描いたのだ。エヌは首筋に悪感が走った。
「…そうか。」
この言葉しか出なかった。そう言われると、確かにそうだった。しかも尚さら、それを知らない彼女にとっては恐怖でしかない。それでもエヌは、この環境にいることは出来ないと考えた。
「俺はまた中央に入る。」
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