BAR eternity 「儚き記憶」
冬野 俊
「儚き記憶」
音が一つ鳴った。
そこからは堰を切ったように音階が溢れ出し、曲となって紡がれていく。手の動きは、その奏でられるピアノの音と呼応するような滑らかさで、正確に鍵盤を叩く。
凛とした、心地よい音が店内に響き渡る。
この「
「懐かしいな」
真樹がふと呟く。脳を過ぎったのはあの日、店を訪れた一人の女性客だ。
記憶の海に真樹がどっぷりと浸かっていると、演奏はすでに終わっており、伴奏者がつかつかと真樹の元に歩み寄ってくる。
「オーナー、鼻の下伸びてますよ」
「え? 伸びてた?」
「はい、すごい間抜け面でした。まあいつもの事ですが」
そう言うと、すぐさまカウンターの中でグラスを拭き始めた。
真樹は一つ溜め息を吐いて、ロックグラスの中身を見つめながら呟く。
「儚き記憶だな」
屋内であるにもかかわらず、店内にそっと、優しげな風が一つ通り過ぎて行った気がした。
―時はその女性が訪れた五年前へと遡る。
その日は、ちょうど花見シーズンと重なり、店内にあったのは真樹と進士の姿のみだった。
カラン、とドアチャイムがなる。
真樹は「あれ? 今日は予約はなかったはずなのにな」と戸惑いながらも、カウンター席から立ち上がり来客を出迎えた。
ドアが開く。真っ白なワンピース。黒く長い髪。二重の大きな瞳。そして、透明感のある白い肌。身長は百五十センチ前後だろうか。小柄な女性が何処か申し訳なさそうにゆっくりと店内の様子を伺う。
「あの…」
その口調も何かに怯えているような、弱々しい話し方だった。
「いらっしゃいませ、BAR eternityへようこそ。お一人さまですね、どうぞこちらへ」
真樹が挨拶をしてカウンターに誘導すると、女性はぺこりと頭を下げる。
「あ、はい…」
進士が軽く会釈をして、「いらっしゃいませ、ご注文は何になさいますか?」と促す。女性が「私はよく分からないので…お任せします」と答えると、進士は「かしこまりました」とすぐさまカクテルを作り始めた。
進士が選んだのはモヒートである。このカクテルに欠かせない素材。それはミントだ。
「このミントはオーナーが自家栽培しているものなんですよ」
進士がそう説明すると女性は目を輝かせながら「オーナーさんって何処にいらっしゃるんですか? もしかして会社の社長とか? お金持ちとか?」
進士は悲嘆に暮れたように頭を下げて謝罪した。
「お客様、申し訳ありません。実はうちのオーナーは会社社長でも不動産を所有する富豪でもアラブの石油王でもございません。残念ながらあなたの側にいる髭面の男性こそがオーナーなのでございます。重ねてお詫び申し上げます」
女性は少し面食らったようで、それまでとは少し雰囲気の違う尊敬を含んだような眼差しを真樹に向けた。真樹は進士の言葉に必死に反論する。
「こらっ! 誰が髭面だ! ダンディと言え、ダンディと」
そんな事を言い合っているうちに、カクテルは完成していた。
「お待たせしました、モヒートでございます」
微かに甘い香りと、ミントの爽快な香りが合わさったそのカクテルは彼女が期待していた以上のものだったようだ。彼女はゆっくりと口をつけると、そのファーストコンタクトで動きが止まってしまった。
「美味しい…」
このような光景は、eternityではそれほど珍しくない。進士というバーテンダーが作るカクテルはそれほどまでに完璧であり、人の思考を一瞬、止めさせてしまうほどの感動を与える。
真樹は様子を伺いながら、彼女の意識が戻ってきたところでそれとなく声をかける。
「あの、一つお伺いしたいのですが…」
ハッとした女性は、カクテルグラスを手にしたまま真樹の方を向く。
「はい、なんでしょうか?」
「貴方はもしかして、何か困ったことがあるのではないですか?だからこそ、こちらに導かれたのでは?」
女性は「うーん」と唸りながらある事実を打ち明けた。
「私、実は記憶がないんです。気が付いたらこの店の前に居まして…」
「なるほど」と腕組みをして考え込んだ真樹は「ご自身のお名前は覚えてらっしゃいますか?」とも訊く。
「おそらく
「何を思い出したんですか?」
女性は小さな声で呟く。
「桜とその前に誰かが立っている風景が、今、頭に浮かんできました。そして、それを思い出したら胸が、すごく苦しい感じになって」
桜と一人の人物。まったく手探りだった状態からは確実に前進する情報だった。
パチン。
その言葉に意を決した真樹は突然、指を鳴らした。
このバーでは時折、奇跡が起こる。
亡くなった恋人に会えたり、自身の人生の分岐点に戻ったり、本来ならば起こりえないような事が、実際に人の想いによって実現される。その奇跡の起こる条件が満たされた時、真樹は指を鳴らし、それを合図にして新しい物語が生み出されるのだ。。
そして、女性に向かって一つの提案をする。
「あの、もしよろしければ、桜を見に行きませんか?」
女性は「えっ」と真樹からの質問を聞き返す。
「先ほど、あなたは桜の風景を思い出されましたよね?でしたら、実際に桜の咲いている場所に行けばもっと何かを思い出すかもしれません」
真樹は店の奥側の扉の前で、二回ノックをする。そしてドアに近づき、ゆっくりとノブを捻る。そして、開け放つ。
その扉の先には、一つの空間が広がっていた。
時間は夜だ。真っ暗で静かな空間の中で、一本の桜の木が月光に照らされ、まるでスポットライトを浴びているように際立っていた。時折、風が吹き抜けると、ピンク色の花びらが散って風の流れに乗り、鮮やかに飛び交っていく。
女性は多少の驚きを覚えながらドアを通過する。
「さあ、もっと近づいてみましょう」
真樹は女性の手を取り、桜に向かって歩み寄ろうとした。
だが、それと同時に真樹の脳内にひびが入ったような痛みが走った。
「あっ、痛たたっ」
桜、三鷹なつみ、夜の風景。
慌てて真樹は女性の手を離し、自分の頭を抱え込んだ。それでも痛みは治まる様子がない。
桜と三鷹なつみ、そして、この月明かりの下の夜の風景。
そうだ、これは実際の風景だ、
女性は「大丈夫ですか?」と心配そうに真樹を気遣っている。真樹がその記憶の意味に辿り着くと、頭痛からもようやく解放された。そうだ、この風景は虚栄ではない、現実だったものだ。
「あ、ああ、大丈夫です。なつみさん」
女性は真樹の口からようやく自分の名前が呼ばれたことに、溢れ出た嬉しさから一筋の涙をこぼした。
三鷹なつみは実在した女性だ。しかも、以前の真樹の人生に大きく携わっていた人物だった。
「申し訳ありません。なつみさんの事を、今の今まで忘れているなんて」
なつみは首を横にブルブルと振り「とんでもありません」と否定した。
「事情は伺っていました。真樹さんには以前の記憶がもう既に無いことも、今は違う人生を歩んでいると言うことも。だから、ここで思い出してもらえるとは私自身も予期していませんでした」
「でも、何故?」
「これは私がお願いしたことのなのです。あなたのさらに上の立場の方に頼んで。たとえ、私のことを思い出してもらえなかったとしても、最後にあなたに会いたいと」
耳を澄ますと、小さな虫たちの鳴き声が心地よいほどに、自然と脳内に響いてくる。風に撫でられた草たちもさやさやとした控えめな音を立てていた。
月は朧げな光の道筋を地上に届けながら無言でこの様子を見下ろしている。
「そうでしたか」
真樹が桜の木を見上げると、遥か遠い昔の出来事が、鮮明にフラッシュバックしてきた。
※
昭和十五年春―。
その時も、二人はその桜の木の前で鮮やかに咲き誇る花を眺めていた。
「なつみさん、私はあなたに言わなければならないことがあります」
真樹は神妙な面持ちでなつみと向き合っていた。
「どうか、心を落ち着けて聞いてください。どうやら…私は肺をやられてしまったようです。恐らくは余命幾許もありません」
なつみは驚きを含ませながら真樹を見つめる。
「そ、そんな。何故なのです?何故あなたなのです?」
「これはもう神様の悪戯としか…。そして私があなたに、唯一できることと言えば、もう身を引く事以外ありません。どうか、私の事を忘れ、生まれ変わったつもりで、違う人と幸せに暮らしてはもらえませんか?」
「真さんはそれで構わないのですか?」
「私は…構いません。もし私と今、夫婦になったとしても、間もなく未亡人ですよ? そのような事はとてもさせられません」
なつみは真樹の元に駆け寄り、その身体を胸の中に預けて、身体を震わせて、泣いた。
真樹は掛ける言葉が見つからずにそのままなつみの肩をそっと抱きしめているだけが精一杯だった。
暫くして、なつみはその身体を引き離し、真樹の顔を見据える。
「真さん」
「なんですか?」
真樹はいつものように優しげになつみへと微笑みを向ける。
「私は、幸せですよ? たとえ、あなたが病であっても、私はあなたと一緒になれれば幸せになれるのです」
「やめてください、なつみさん。そんなわけないでしょう。あなたは美しい方で気立ても良い。未亡人にならなければ、もっと良い人と巡り合えるはずです」
「私はあなた以外の人の妻になるつもりはありませんよ」
真樹は押し黙った。
「何故そこまで…」
「何故でしょうか、それは私にも分かりません。ただ…」
なつみは真樹の右手を、両手で包み込むように握る。
「ただ、あなたはまだ、こうして生きているでしょう。この温もりを私は感じることができる。そして、一緒にこの桜を見ているじゃないですか。この一時を私は少しでも長く感じていたいのです」
確かに、短い時間かもしれない。でも、それが火花のように微かな瞬きであったとしても、この人は側にいてくれるという。
今度は真樹がなつみの胸に顔を埋めて泣き出した。
なつみは子供を慰めるかのように優しく真樹の頭を撫でていた。
※
「結局、真さんが亡くなってからも、最後まで他の人とは結婚しませんでした」
なつみはそう言って無邪気にはにかみながら、桜が散るのを眺めていた。
「辛い思いをさせてしまいましたか?」
真樹は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。だが、なつみに悲壮感は無い。
「いいえ、まったく。人生の最後に、もう一度あなたに会えましたから」
「上手いこと言いますねえ」
「本当のことですよ?」
いつの間にか手を繋いでいた二人は、その温もりを感じ合った。あの時のように。
風が吹く。舞い散る桜が二人の頭上から星屑のように落ちてくる。何処からともなく、ピアノの音が聞こえてきた。
「この曲は…」
「私の好きな曲です。あなたが居なくなってからもこの風景を思い出しながら聞いていました」
心地よいクラシック音楽が展開され、真樹にはこの時間が永遠のものになるような、そんな気がした。
なつみは静かに瞼を開き真樹の表情を見遣る。
「幸せでしたよ」
そよ風に乗って、その囁きが真樹へと届いた。そして、ゆっくりと真木がなつみの方を向いた時、すでにその姿は消えていた。
真樹は、無数の星たちがダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く夜空を見上げる。
「私もです」
この声は、きっと届いている。
真樹はそんな確信を胸中に抱きながら、暫く月光と桜の空間に身を任せて佇んでいた。
そして、時は五年前から再び現在へ―。
「進士、さっきの君が弾いていたのはなんという曲だったっけ?」
進士は「ショパンの
「そうそう、夜想曲だ。思い出した」
「驚きました。オーナーがクラシックに興味を持っていたことに」
「いや、殆ど知らない。この曲だけだ」
進士はカクテルグラスを拭き終え、シェーカーと幾つかのリキュールを選び出してカウンターに置いた。
「オーナー、一つ飲んでいただきたいものがあるのですが」
「急にどうしたんだ?」
「いえ、今ふと、思いついたカクテルがあったもので」
進士はすでに真樹の返事を待つことなくカクテルを作り始めていた。シェーカーにリキュールを手早く注ぎ、なめらかな手つきで降り始める。
ロンググラスに注がれた液体は淡いピンク色だった。進士はそこにソーダを注いでステアし、真樹の前に捧げる。
真樹がそっと口を付けると、柔らかな甘みと花のような香りが鼻腔を突き抜けていった。
「ベースは日本酒か?」
進士は「その通りです」と微笑み、入れたリキュールについても解説し始めた。
「使用している桜のリキュールに合うベースはやはり、日本の酒ではないかと思いましてこのように仕上げてみました」
「名前はどうする?」
「オーナーが先ほど呟いた言葉ではどうでしょうか?」
「呟いたっけ?」
「ええ。『儚き記憶』と」
真樹は、もう一度、そのカクテルに口をつけて頷く。
「分かった。これを新メニューとして採用しよう」
「ありがとうございます」
進士は丁重に頭を下げ、そう感謝の言葉を述べた。
真樹は目の前の桜色のカクテルをじっと見つめ、なつみのことを思い返す。たとえ、儚き、短き記憶であっても、その記憶の中で一瞬は永遠となる。
「さあ、今日もオープンしようか」
「オーナー、頼みますから昨日みたいに可愛い子が来ても口説こうとするのはやめてくださいね」
「お客さんだぞ、するわけないだろう」
「いや、昨日口説いてましたから」
進士は握っていたフルーツナイフに光を反射させ、わざと真樹の顔に当たるよう調整した。
「お、落ち着けよ、なあ、分かったよ。もう口説かないから」
真樹はキリッとした顔を意図的に作り、そう意思を示したが、進士は「それなら良いのですが」とだけ言った。
ドアチャイムが鳴る。
入ってきたのはスラリとした長い足が特徴的な美女だった。
「いらっしゃいませ、今夜は私と飲みませんか?」
そう言った真樹の態度に呆れ果て、進士は「なつみさんが悲しみますよ」と告げた。すると次の瞬間。
バチン。
その美女は誘導しようとしていた真樹の頬を思い切り叩いたのだ。美女の目はその一瞬だけ虚ろな様子で、直後に慌てて正気を取り戻したようだ。
「あ、あれ?すいません!私、何であなたの事叩いたんですかね?本当にすいません」
平謝りする美女に真樹は「だ、大丈夫ですよ」と答える。だが、その平手打ちは思ったよりも強烈であり、うっすら涙を浮かべていた。
「天罰ですよ」
進士が冷たい目で真樹に言い放つ。
「いや、天罰じゃない。確実に今、なつみさんが彼女に乗り移ってた」
真樹は身震いしながら目をこらすと、在りし日のように屈託なく笑う、なつみの姿がそこに見えているような気がした。
了
BAR eternity 「儚き記憶」 冬野 俊 @satukisou
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