第10話 行き止まり

 空間跳躍の闇を抜けて降り立ったのは、鬱蒼とした木々の狭間……つまるところ森のただ中であったが、ハクノはその光景に目もくれず、がむしゃらに駆ける。

 狭い獣道、飛び出る枝に服を引っかけ転倒し、それでもなお逃げるように。

 気付けば空は赤く染まり、間もなく日も沈む頃合いになってハクノは息も絶え絶えに足を止めた。そのまま近くの大きな樹に背を預け、ずるずると座り込む。

 喘ぐように息を継ぐと、木々の隙間から、遠く赤く焼ける空が見えた。

「……痛い」

 呻くように呟く。

 何が痛いのか。

 足……屋内仕事用の靴で駆け回ったのだから当然だろう。特に踵がじんじんと痛い。

 腕……何度も枝に引っかけて転んで、所々血が滲んでいる。痛いのも当然だろう。

 胸……荒れに荒れた呼吸が喉を刺激して咳き込む。とても痛い。

 でも、それ以上に。

「……痛いよ」

 身体の痛み以上に、ただただ泣きたいくらいの何かが胸を締め付ける。

 呼吸も整わず、夕焼けの空とそれを覆う木々の葉が涙で歪む。

「痛いよ……苦しいよ……」

 なぜあんなことを言ってしまったのか。自問し、けれど答えは出ない。

 否、答えは知っている。

 ――ただの独占欲だ。

 それは、あまりにも独り善がりな答えで。

 けれど、それがどう芽生えた感情かも理解できなくて。

 そんな答えで以て、セレナの善意を踏みにじり、私は逃げ出した。

「……痛い……」

 ズキンと、刺さるような痛み。もちろん、実際に刺されたわけではない。だけど確かに、ハクノの胸は痛んだ。

 もうあの人達に会わせる顔がない。

 それは彼とも別れること。

 ――それはイヤだ。

 でも今の私を見せたくない。

 戻りたい。

 帰れない。

 会えない。

 会いたくない。

 会いたいーー

 ぐるぐると回り続ける、出口のない思考。

「……いたいよ……」

 抱えた膝に顔を埋め、ただうわごとのように声を漏らす。すすり泣くような小さな嗚咽はしかし、周囲の木々に吸い込まれ、どこにも響くことはなく――。


 いつしか森は、夕焼けの赤色から先も見通せぬ闇色へと、その様相を変えていた。

 夜。

 つまりは、獣の時間。

 通常、火を焚くなどの獣避けの手段を講じての夜営か、そもそも夜の森には入らないのが原則であるし、ハクノだってその知識はある。

 だが、あるだけだ。

 知識は経験を通じて知恵となり、初めて知力と成るとされる。

 そして、この白い少女には圧倒的に経験が不足している。なにせ、まだほんの数日である。

 何より、千々に乱れた精神こころと堂々巡りする思考あたまにそのような余裕はないし、着の身着のままの彼女に真っ当な装備もまた、あるはずもない。

 だから。

 ――ガサッ。

「っ!」

 その茂みが鳴らす音に気付けた頃には。

 既に逃げ道は、ない。


 ***


 時間は少し遡る。


 山の稜線に陽が差し掛かり、森林の闇はその色を一層濃いものへと変える。

 あと数刻もすれば完全に闇に閉ざされるだろう。

 月明かりもない。

 夜の森は野性動物の天下である。

 大征伐でこの地方の主だった魔獣は殲滅されたとはいえ、森に生きる野生の獣も十分に脅威であり、如何に冒険者といえど何の対策もなければ危険極まりないのは常識である。

 そんな中、闇をも意に介さず木々の間を跳び跳ね、小さな影が往く。飛び移る枝をほとんど揺らさずに進む様は、伝説に語られる"シノビ"のようでもあった。

「まさかこっちにあの子が跳躍んでくるとは思ってなかったですヨ」

 呟きも微かに、一括りにした若草色の後ろ髪を靡かせるその体躯は、人族の子供くらいか。

 小振りのボウガンを背負い、音もなく人影は進む。

 ウィンディ・ヴェルデ。

 奇妙な口癖の弓手アーチャーで小人族。

 先の対魔獣防衛戦にて、その弓術で幾体もの魔獣を葬ったあと、風のように去った小さき冒険者。

「早く見つけないとあの子、喰われちゃうですヨ」

 事も無げに呟き、ウィンディは駆ける。

「……まぁ、喰われて死んだ方がある意味幸せかも、ですヨ」

 漏らす言葉に感情はない。

 見据える瞳にも、また。

 そして、程なく辿り着く。

 立ち尽くす、白き少女へと。


 ***


「……っ」

 大樹を背にハクノは立ち上がり、右へ左へと視線を動かす。

 彼女が悲鳴を上げなかったのは、単にまだ息が上がっていただけであるが、それが幸いしてか、周囲の気配らは未だ襲い来る様子はない。もっとも、時間の問題だが。

 ジリジリと、周囲の気配は間合いを詰める。


 ――こういう時どうすればいい?

 息を整え、考えを巡らせる。

 ――彼はどうしていた?

 数少ない記憶を辿り。

 ――そもそもこういう事態にならないように動いていたのでは?

 思い当たるのは当然の帰結。故に、対処など知る由もなく。

 ――どう、すれば。

 食い縛った歯がカチカチと音を鳴らす。

 怖い。

 それは初めて自覚した感情――すなわち、恐怖だ。

 目覚めて、初めての一人きり。

 そして、自分ただ一人に敵意を向けられるのもまた。

 忙しなく視線を動かし、だけど何をすればいいのか混乱は深まるばかりで。

 ――死ぬ……?

 思考は、自らに襲い掛かるだろう結末に至る。

 ――逃げ出して、何も出来ずにここで終わる……?

 茂みを揺らす音は鳴り止まない。威嚇なのか、明確に足音をたて近付く獣。

 グルル……という唸り声も大きくなり始める。

 落ち着いて。落ち着いて……!

 やれること、できたことを思い出せ。

「……できる、ことを」

 掠れに掠れた声と共に意を決し、右手をかざす。

 あの時はやれた。だったら、今度も。

 が、しかし。


 ――多分、自分が何をどれだけできるかってのは把握できてないんだと思うわ――


 不意に、セレナの言葉が脳裏に響く。

 ……あぁ、そのとおりだ。

 突き出した右腕は情けなく震えるばかりで。

 ガクガクと膝は笑い、もたれていなければ座り込んでいただろうほどに力は入らない。

 結局あの時のような力は一向に纏まらず、手は意味もなくかざされただけ。

 やり方が、分からない。

 あの時と何もかも違いすぎて。

 彼女の言うとおり、自分に何ができるのか自分で全く分かっていなかった事実を、ハクノは容赦なく叩き付けられた。

 そうだ。彼と共に外へ飛び出したときも、彼の元へ跳躍んだときも、彼が弾き飛ばされたときのあの光も……今、彼の元から逃げ出したのも。

 全部、身体に刻まれたものが機能しただけ。ただの偶発、あるいは"暴発"だった。

 かざした右手を力なく落とし。

「……ぅぁあ……」

 少女はその両手で顔を覆い、泣く。

 他にできたことは思い付かない。

 他にできることに思い当たらない。

 空間跳躍ぼうにも、彼らの顔がちらついて集中できず、機能しない。

 為す術は、早くも、尽きた。

 その様子を、獲物が抵抗を諦めたと踏んだのだろう。唸り声はその音量を微かにあげる。

「……うぅ、ひっく」

 もはやこちらを見向きもしない餌ならば、あとは早い者勝ち。

 襲い、殺し、貪り喰うのみ。

 それが自然界の習わしであり、生態系である。

 隙だらけの獲物であるが、それでも油断なく目前のニンゲンを見据え。

 咆哮。

 直後、逸る獣が茂みを飛び出し――


「ほいっと」


 横合いから飛来した一条の矢が、その脳天を鮮やかに貫いた。

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