第4話悲しい雨音

 アマネさんは決して自分から紘一さんに話しかけることはありませんでした。しかしある日、本のページをめくる拍子に、その中に書かれてあった小説のセリフを呟くようにして言いました。


「……毎日来てるみたいだけど、暇なの?」

 紘一さんは個室に備え付けてあった高校野球中継を見ていました。あまり興味がないのか、ときどきあくびをしています。じっと本を見下ろしている彼女が呟いた問いに気づいていないみたいです。

 そんな彼の態度に、アマネさんは少しムカッとしました。

「……暇なの?」

 今度は本を閉じて、顔を紘一さんに向けて声がちゃんと届くようにして。


「ああ、僕?」

 アマネさんはわずかに頷きました。顎をちょっとだけ引いて、それから少しだけ頬を膨らませました。それは毎日、彼女の顔を見ていた人にしか気づかないような、わずかな違いでした。

 きっと、看護師の方やお医者さんにはいつもの静かなアマネさんにしか見えなかったでしょう。

「黙読から朗読に切り替えたのかと思った」

「……そんなことしない」

 テレビに映る高校野球は、炎天下の中で9回裏を迎えて、3-2。最後の攻撃を迎える高校が負けていました。


 守備側がワンアウトと取ったときに、テレビ画面から歓声が上がりました。それは静かな病室には大きすぎて、アマネさんは驚いてまた本を広げました。

しかし 黙ったままの紘一さんが気になり、アマネさんはちらりとテレビを覗き見ました。攻撃側のベンチが映されると、泣いている選手がいます。


「さっき、暇かって聞いたよね。実はそれは僕にもよくわからないんだ。研究所の人たちは、本当は君がどうして雨を降らせるのかどうでもいいみたいでさ。ただ、打ち上げの日に雨が降らなければそれでいいって思ってる。だから、僕は君が悲しむことがないように話し相手になってるだけなんだよ。話し相手に……なってないかもしれないけど」

 アマネさんは本に目を落としたまま。野球の解説をするアナウンサーの声が病室に響きます。それから1分ほど間を置いて。


「……なんであんなに一生懸命なんだろう」

 ふとアマネさんが呟きました。

「え?」

「……高校野球。だってずっと笑っていられるのは優勝する1チームだけなんだもの。なんだか、かわいそう」

 アルプススタンドが映されて高らかに、金管楽器の音が鳴り響いています。そのときに、まるで演奏の一部であるかのように、金属バットの音が聞こえて―――歓声の中で、高く高くボールが空に映し出されます。


「いいよね、甲子園って」

と、紘一さんは言いました。

 攻撃側の高校の思いを一心に乗せた真っ白なボールはまるでロケットみたいに空を突き進んだ。


 けれど。

 やがて失速して、外野手のミットに吸い込まれて行きました。甲子園のバックスクリーンに2アウトを示す赤い電光が灯ります。

「ねえ、甲子園行こっか」

 また紘一さんはぽつりと呟きました。

「……今から? 私が外に出たら雨降るよ?」

「雨ってさ、別に悪いことばっかりじゃないと思うんだ。例えばさ、今負けてる方のチームのために雨を降らせたら再試合とかなっちゃうかもしれない。ベンチで泣いてる彼らを救えるかもしれない。こんな、雨降って欲しくないと思ってるやつらのところにいるよりは、降って欲しいって思ってるところにいたほうがいいよ」

 けれど、紘一さんは本気でそう思っていたわけではありません。試合の終盤に雨を降らせても再試合にはならず、そのときの点数で試合が決着します。だからその言葉は何も彼らのために言っているわけじゃなくて、病室にいるばかりのアマネさんを外に出してあげたかったのです。

しかし紘一さんにもアマネさんにも、それが叶えられない願いであることも充分に理解していました。


「……この間ね」

 紘一さんの勧めに、アマネさんは困ったような笑みを浮かべました。

「この間、廊下を歩いてたら車椅子に乗ってた男の人の前に、右手にキャリーバッグを引いて、左手にボストンバッグを持った女の人が立ったの。そして『このまま病院抜け出して結婚しましょう』って。ああ、いいなあって少しだけ思った」

「それ、どうしたの?」

「男の人は病院服と車椅子のままでその人と出て行った」

「すごいね。ダスティンホフマンみたいだ」

「……誰、それ?」

「昔の映画にそんな有名なシーンがあるんだよ。結婚式に乗り込んで、花嫁をさらっていくんだ。でもね、その映画のラストで、さらった男は『ああ、しまった』って顔するんだよ。勢いでやっちゃったけど、まずいことしちゃったなあって。その女の人はどうだったんだろうね」

「よかったなって思ってて欲しい」

「せっかくならさ―――やってみる? 僕らも」

 けれど、アマネさんは恥ずかしそうに笑いました。

「でももう……負けちゃった」


 二人が話し込んでいる間に、攻撃側は3アウトになって、両チームがホームベースを挟んで整列をしています。帽子で顔を隠して泣いている選手ばかりがテレビ画面に映し出されて、アマネさんは少しだけもらい泣きをしていました。

「負けちゃったから、もう甲子園に行っても駄目だよね。ここ、抜けだして甲子園行ったってあの人たちは救えないんだね」

「……うん」

 アマネさんはテレビから聞こえるサイレンの音にかき消されてしまうほどの小さな声でぽつりぽつりと呟きます。


「知ってたよ、最初から。今甲子園に雨を降らせても試合が先延ばしになるわけじゃないし、もしまた試合して勝ったとしても今度悲しむのは相手の方だもの。でもね、本当は雨で誰かを助けられなくてもいい。たくさんの人に迷惑をかけてもいい。ねえ、コーイチ君、私お外出たい。本当はお外に出たいよ」

 そのとき、晴天だった病室の窓の向こうでさあ、と雨音が聞こえてきました。雨足はあっという間に強まって、やがてテレビに映し出されていた甲子園のバックスクリーンにも雨が降りかかっていました。

 職員の方々が、内野グラウンドに青いビニルシートを敷いています。

 

 紘一さんは次の試合が翌日に順延されたことを知らせる文字が電光掲示板に映し出される様子を、唇を噛みながら見つめていました。

 そしていつかきっと、アマネさんの不思議な力の正体を解き明かそうと心に誓ったのです。

 それは二人が初めて病室で出会ってから、ちょうど三か月が過ぎた日のことでした。


 

 

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