英雄、その後の顛末

前書き◆【挿話:冒険者街の記憶】編、「英雄シャソラシュバル・後編」後の分岐。

==========


 僕は、青い、青い空間に居た。

 沈んでいき、だんだんと青色は濃さを増す。


 ――まさか、本当に聖なる世が存在するなんて、思わなかったな。


 呟いたはずの声は聞こえなかった。

 鮮やかな青い天井が遠ざかるのをぼんやりと見送る。

 なぜか、この空間には見覚えがあった。隠れ里から始まる記憶よりも以前だったろうか。そんな事、あるわけない。


 そう思ったのは一瞬で、次には目が開いたのを感じた。眩しさが目に染みて閉じる。

 おかしな光景は、見たというには幻想的過ぎた。それとも夢だったのだろうか。

 まだ、意識がある?

 こうしている場合ではない。


 ――リベレス、シルバリース、結界は!


 叫ぼうとして、激しい胸の痛みと共に押し出されたのは空気だけだ。

 誰か居ないのか、結界は、邪竜は――重い頭をどうにか傾けて、視界に入ったのは、白。

 手が掴んだベッドの枠、壁、天井、部屋を区切る薄いカーテン、シーツも、色合いは違えど全て白い。


 なんだ、ここは。

 まるで、夢の中の世界じゃないか。


 違う。

 確かに、僕はこの世界に居た。


「そ、んな……」


 僕は人族の隠れ里で暮らしていた。確かに暮らしていたはずだ。

 両親は知らないが、死んだか、里を出て行く長旅に、おかしな体質の幼子を連れて行けないと残していったに違いないんだ。

 皆は気を使って何も言わず、ただ里の子供だと言って育ててくれた。


 小さな頃……実のところ、その頃の記憶は曖昧だ。

 ある時期以前の記憶は全て、夢の世界で塗り替えられていた。

 親に捨てられたのだと思いたくなかったから、そうなってしまったのだと信じていた。

 夢の中の世界は平和で物に溢れ、両親は優しく、ときに家族で連れ立って遊びに行った。

 とてもとても幸せな夢だったから、それが本物だと思いたかったんだ。


 信じられないことに、死んだはずの今、その世界にいる。白い服を来た人族が現れたのだ。夢の世界では看護師や医者だとか呼ばれる、薬屋の装束をまとった者が。

 周囲が騒がしくなる。僕が原因らしい。

 逃げ出そうにも体は重く、心の震えが認識を躊躇わせる。

 混乱に任せ何が起きたかも把握出来ないまま、近付く薬屋に寄るなと喚いていたような気がする。


 不意に、意識の焦点が合った。

 新たに部屋に居た二人は、白い服をまとっていない。


「……お母さん、お父さん」


 夢の中での呼びかけが口を衝くと、その夢の中の女性が大粒の涙をこぼして僕を抱きしめた。男性の方も、うっすらと目に光を浮かべて僕の肩に手を置く。


「おかえり……おかえりなさい」

「よく、帰ってきてくれた」


 僕も泣いていた。嬉しさとは違う。悲しさとも。

 二人の姿は夢の中よりも、歳を取っているように見えた。

 そのことが、あの夢は現実で、現実だと思っていた場所が夢なのだと告げていた。

 そして、それだけの月日を、この優しい人達と紡いだであろう時間を失ったことを知り、胸が張り裂けそうに痛んだ。


 それと同時に、あの命をかける覚悟は無意味だったのか、その対象である存在も幻だったのか、そんな筈はないと心の中は荒れ狂っていた。


 しかしその夜、僕は再び青い空間に居た。

 そこを通り過ぎると、あの夢の世界を象徴するジェッテブルク山を見上げていた。

 今は、主の姿もなく静かだ。

 けれど、その麓は、剣戟と咆哮に満ちている。


 ――バカな。


 未だ人々は戦っていた。紛れもない、邪竜の生み出した魔物らと。


 ――嘘だ、嘘だ、嘘だ!


 声の限りに叫ぶ。


 ――あれだけ頑張ったじゃないか! なぜ、主が眠りついてさえ、戦わなければならない!


 傷つけ、傷つけられる彼らに手を伸ばすが、どちらにも触れることはできない。

 周囲に振りまかれる赤色で、地面だけでなく空気まで染められていくようだった。


 その只中で、なにもできず叫び続けていた。

 目の前の光景は見る間に様相を変える。魔物が絶えたかと思えば、人が押し返され、それを踏み留めて、やはり赤が大地を彩り続ける。

 終わりなく繰り返される激しい攻防を前に、現実ならば喉から血が出るほど喚き続けていたはずだが、声が枯れることはなかった。


 無力感からではあるが徐々に落ち着いてくると、聖魔素を集めているような感覚が、全身を巡っていることに気付いた。

 座り込んだ自分を見れば、ぼんやりと人の形を保っているが薄っすら青い。あの青い空間で作られたものなら当然だろう。

 しかし、どこかで記憶のある質だと感覚を手繰れば、結界石だ。


 ――まさか、こっちで人の姿を作るには、こちらの力を使う?


 慌てて青い空間に戻れば体はその一部に戻り、思った通りに結界石との繋がりは途絶えた。この感覚は何かとの疑問を確かめる前に、今度は意識が呑まれる。


 目を開けば、淡い朝の光が部屋を優しく照らしていた。

 今しがたカーテンを開いたらしい、窓際に立つ人影が駆け寄る。


「……起こしちゃったわね」


 母親の、すまなそうな微笑みには安堵が滲んでいた。それは僕が再び目覚めないのではないかという不安だと、今は知っている。

 昨晩は子供時代の思い出話を聞き、二人がどうしていたかに軽く触れた。

 僕は中学生のときに車に轢かれてから目覚めなかったのだと言われて、その時のことを薄っすらと思い出してしまった。


 夢は、あちらの世界の方だったのだと、嫌でも理解してしまった。


 それでも再び、あの場所を夢に見た。

 夢とは思えない生々しさで、人も魔物も倒れていく。

 自分自身で設置した結界石があるのだから時が戻ってはいない。様子を見ていれば、進みすぎてもいないことは分かった。

 紛れもなく、リベレスらと共に邪竜封印に奔走した後日だ。


 ――それが、この結果なのか。


 戦いを見ていることしかできないのはあまりに辛かった。ただ座り込み眺めていると、徐々に感情が抜け落ち、虚ろになっていくようだ。

 そのせいか、次の晩から青い空間の先へ進むことはなくなった。




 退院して家に戻った。部屋は記憶そのままだ。夢を見なくなって自分の部屋に立てば、ここで過ごしていた実感もより強く戻った。

 あちらのことが幾ら気になろうと何もできないのだから、僕はこちらの生活に戻らなければならない。まずは両親との空白期間を埋めることから始めよう。

 僕が不安そうにすると、特に母親が心配するから努めて笑顔を浮かべるようにする。

 二人も随分と苦しんだろう。

 もう、夢のことは忘れてもいいはずだ。


 本来なら僕の精神は中学生で止まっているのだろうか。

 少なくとも両親はそう考えている。語り掛ける口調は、幼かったときの夢のままだ。


「目覚めたら大きくなってたなんて、びっくりしたでしょう?」


 確かに、既に目線の高さは両親とほぼ変わらない。体は細く背も伸びきったとは言えないが、寝たきりでも成長はするらしい。

 学校のことなど先々をどうするかという話し合いをするためもあったのだが、当時の友達の誰々は遠くの大学に行ってしまってといったことを母親は気遣いながら伝えてくれる。

 だから気掛かりがあるなら、どんなことでもいいから聞かせてくれと言った。

 目覚めてから僕が塞ぎ込んでいるらしいのが、学校の友達に置いていかれたと悩んでいるのではないかと考えたらしい。

 そこは心配しないでと伝え、事実の一部を話すことにした。


「意識がなかったのに変だと思うかもしれないけど、事故に遭ったのがそんな最近には思えないんだ。たまに夢は見てたんだよ」


 それがあまりに長いから、朝が来ないのはおかしいと不思議に思ってたんだと笑ってみせた。

 それを聞いた母親は、目を潤ませて父親へと目くばせする。


「やっぱり、そうだったじゃないの。私たち間違ってなかったのよ」


 生命維持を切ることについて周囲からあれこれ言われたようだ。

 もし死んでいたら、あっちで僕はどうなったんだろう。


 振り向いた両親の顔から緊張がほぐれ、自然な笑顔が浮かんでいた。

 まだ僕は生きている、目を覚ますと信じ続けてくれたんだ。その僕が家に戻って来たことを心から歓迎してくれている。

 胸が熱くなった。

 もう二人に、辛い思いをしてほしくはない。


「どんな夢だったか、聞いてもいい?」


 気を取り直したように母が尋ねる。


「変な怪獣がいて、魔法みたいなものがあって、仲間と一緒に悪い奴と戦ったんだ」


 この世界で、そんなものは物語の中だけのことだ。


「ゲームが好きだったもんね」


 母親が懐かしそうに言うと、父親が身を乗り出した。


「もちろん全部取ってある。遊ぶか?」


 言いながら立ち上がり、すぐに携帯ゲーム機を持ってきてくれた。


「こんな感じの夢だったんじゃないか」


 父は昔懐かしの名作をリメイクしたゲームを起動する。

 勇者が王様から簡素な装備を渡されて魔王討伐の旅に出るゲームだ。


 小さなキャラクターが動く画面を覗いていると、事故に遭う前に遊んでいた記憶が戻った。なのに懐かしさも楽しかった気持ちも浮かばない。

 このゲームの魔王のように、敵に意志があるなら、まだしも楽だったろうに。

 そんな恨み言が湧き上がり、胸の奥が痛む。


「……うん、こんな感じだった。いろいろ混ざってたけどね」


 どうにかそう伝えると、父は笑いながら切り出した。


「高校は行き辛いというなら、こういったものを作る専門学校でも行ってみるか?」


 父親なりに色々と将来を考えてくれていたらしい。

 後に様々な、取り寄せたという資料を渡された。




 日中は自室で一人、それらを見てはネットを調べたり、勉強しなおす日々が過ぎる。通っていた中学から卒業証書をもらうこともできた。いつまでも、取り返しのつかないことを嘆いてはいられない。

 両親の為にも――――両親。


 僕は、愚かだ。


 隠れ里の人々の顔が思い出された。

 一人一人が僕の親となり兄弟となってくれた。

 どこからか迷い込んだ記憶もない僕を、厄介払いすることなど考えもせずに受け入れてくれただけでなく、その後の方針にも一丸となって協力してくれた。

 恩を返そうと思った。

 研究院での働きで。

 少しは返せたと思っていた。

 恩を返すどころか、新たに気心の知れた仲間と居場所まで得て、死ぬまで支えてもらっていたのだと気付かされた。


 俯くと、零れる涙が学習机に丸い跡をつける。その小さなドームの向こうに、ジェッテブルク山と、今も戦い続けている仲間だった人々の姿を思い浮かべた。

 このまま逃げていいのか。逃げられるものか。この頭に記憶と、胸に彼らへの想いがある限り。




 ◆◆◆




 動作確認のため、モニターを睨む。製作中のゲームの原型が完成した。

 至極シンプルなRPGだ。


 確かに過ごしたあの世界で、ただ生活するだけのものだ。ただし危険な環境だから、それがこちらでの非日常となる。

 なにより――あの世界を知ることが出来る。誰かと、僕が見たものを共有したかったのだろう。


 あれから専修学校で学びつつ、一度は見るのを止めたあちらの夢も、気持ちに折り合いをつけるために見続けて来た。

 それで時の進みが違うことに気づいた。向こうの方が流れは若干だが早いらしい。

 初めは、ただただ魔物と人々が殺戮を繰り返す場面を飛び飛びに見ているようだった。それが人の数は増え、戦士とは違う装いの者が混ざるようになり、陣地が構築される。

 覗いている間は感じないが、翌晩には家が建っているなど明らかに前日とは大きく違う光景があった。


 邪竜を封じた後でさえ消えない力を見せつけられてなおも、人々の目から希望が失われたようではない。

 その内、人夫とも呼べない一般の人々が集まりだしていた。驚いたことに、本格的に拠点づくりを始めるつもりでいるらしい。

 あれだけの被害を受け、絶望を見せられて、尚も人間は立ち向かおうとしている。

 そして、研究院で共に活動した者たちも訪れた。


 ――リベレス、生きていたのか!


 ならば僕は仲間を守れはしたのだ。嬉しくて彼女の側へ近付き、ささやかな満足感は霧散した。

 すっかり彼女の頬はやつれ、目の周りは隈が影を落としたように縁取っている。

 どんなに苦しくても、いつも凛としていた雰囲気の欠片もない。

 僕は勝手に死んだ。

 否応なくではあるが他の多くの者も。

 後に残された者が背負うものの重みが、どれほどのものかを考えもせず。

 それは、こちら側の両親の気持ちにも重なる。


 ――いつまで僕はこうして、去った世界のことに囚われるつもりだ。

 ――いつまでもなにも、こうして見続けられるなら、何かできることがあるに違いないだろう!


 精神は相反する想いに板挟みとなり磨り減っていく。 


 そうして街の枠が出来て、畑が広がり家が建ち並び、ジェッテブルク山へ新たな道が作られる光景を見続けてきた。結界柵で囲まれているとはいえ、こんな場所に人々が移り住もうとする逞しさに賞賛と、少しの羨望を送ることしかできないまま、人類の成し得ることを眺めてきた。

 魔物らと戦う組織が発足し、うまく共存しているようにさえ映った。レリアス王は、様々な対策を立てているのだろう。

 冒険者街ガーズとして歩み始めたこの場所で、僕も出来ることを探し続けた。


 探すといっても見て回れるだけだ。それも、この街だけ。王都の様子も気になるのに、ジェッテブルク山周辺からは出られない。近くのジェネレション領へさえもだ。

 山を離れると聖魔素の気配が弱まってしまう。視界も薄れていくことで、祠の結界石を基点としているのだと確信することはできた。

 僕にまつわる謎の現象は、元の肉体が結界石と合わさり引き起こされたようだ。

 聖獣という存在を眺めていると、彼らの契約とやらに似ていると思えた。




 世界に魔物が残るようになったことは、様々な変化を起こしたらしい。魔技などガーズ内で目にできることに限っても、研究院の活躍は変わらず素晴らしいものだった。聖魔素の研究には行き詰まりを感じていたが、それで邪魔素にも手を伸ばしたことで、人々の暮らしも一変したのだ。


 驚いたことに、兵たちの力は格段に上がった。特に対魔物機関に属する冒険者たち。数人がかりで相手取っていた、あのケルベルスを、たった一人の人間が叩き切る。特別な訓練を受けたわけでもないのにだ。

 無論、肉体が人間の枠を超えて頑丈になるわけではないようだが、魔技の発明がこうも戦いを変えるとは。

 これならば邪竜が復活しても、山の中へ追い落とすのに時間はかからないだろう。

 そんな期待は一瞬で冷める。


 ――なにを暢気なことを……それでは繰り返すだけだと知っているじゃないか。


 次に復活されれば、どれほどの酷い変化を起こすのか。

 嫌なことばかりが浮かんでは、なんの対策を思いつけるわけでもなく、時間は無為に過ぎていく。


 街の体裁が整い冒険者街ガーズと名付けられた場所を、ジェネレション高爵の息子が取りまとめている。

 そして冒険者ギルドに、シルバリースによく似た者が現れた。彼女よりも大きな杖を持っていたが、振り回す姿もよく似ている。

 さらにはカイの面影を残す者が現れ、なぜか他の冒険者から追いかけられて山中へ逃げていく。


 ――仲間の子たちが、再び集っているんだ。


 そのことは力を与えてくれたけれど、戸惑いも生んだ。

 もう子供の世代なのだ。

 かくいう僕も学校で出会った女性と恋に落ちて結婚し、娘を持った。

 時の流れは、こうも早かっただろうか。


 その戸惑いは、ゲームのストーリーとキャラクターへ若干の変更を行わせた。

 そして『英雄シャソラシュバルの軌跡』と命名する。

 自分自身のことではない。次代であるべきだと思えたのだ。


 使命感や罪悪感から見守り続ける、あの世界のあの場所。

 ガーズは平和だった。

 街の基盤もしっかり出来上がり、人々が当たり前に暮らす街の一つとして根付いたから、行商人も定期的に訪れる。

 研究院の優秀な技術者、リベレスらが生み出した道具は、邪竜の力を上回ったのだろうか。現に、長い時が経とうとも最上の結界石は想像以上の効果を保ち続けており、尚も逓減した様子さえない。


 結界石が効果を何倍も強力にし、保とうとする「蓋」と呼んだ仕掛け。

 それは邪竜がジェッテブルク山から直接操ることのできる、特別太い魔素の道に仕掛けたものだ。奴が目覚める前に危険を冒して山腹や麓を掘り進め、取りこぼしが無いように慎重に探り当てた。

 その特に魔素の濃い魔脈沿いに、街道用のものより大き目の結界石を、聖魔素が邪魔素の流れを阻害するように配置した。

 均等に反発してくれるならば、両者が形を保とうとする力となる。それが次の復活までの時間稼ぎではなく、半永久的な成功となったに違いない。


 ならば、今さら僕に何ができる。

 時を経るごとに、世界を去った亡霊が理を捻じ曲げてまで関わるべきではないのではないかとの考えに支配され始めていた。

 いや、そうではない。どんなに言い繕おうとも、我が子の誕生から、選択してしまっていたのだ。

 僕自身が何よりも守りたいと思う存在を得てしまったために、希望的観測も多分に含まれていた。

 だからゲームとして形にしたのは、誰が知らなくとも僕が生きていた証として、心に区切りをつけるためだった。ただの記念であり、英雄と呼ばれた、自分であって自分ではない男に対する弔いの意味合いもあった。


 だから、そうしている内に、不穏な変化が起きていたことに気付けなかった。気付こうとさえしなかった。

 再び、異変は訪れる。


 冒険者ギルドの誰も気が付いていない――兆候が表れた。

 あの場にいた者しか、知らないことだ。空っぽになった魔脈の地下深くを歩き回ると、仕掛けに歪みが生じているのを発見した。魔脈の壁にヒビが走りマグを吐き出そうとしている。

 それは邪竜が復活後に起こした変化だったはず。なのに復活前に目に見えている。

 叫んだところで、誰に届くこともない。

 結界は損なわれてない。正しく機能していた。だから、表層へ出てくるには時を要しただけだ。

 皮肉なことに、僕らが「蓋」と名付けたその通りになっていた。


 なぜ、もっと早く調べなかった。

 もう終わったのだと思おうとしていた。


 今さらと思いつつ、あたりを調べて回る。

 幽体のようなものらしいのに、人が生身で行ける場所にしか行けないことが苛立たしい。

 できることなら邪竜の魔泉に潜ってみたかったのだが、邪魔素が濃すぎて無理だった。結界石を置いてあるから近くまで寄ることはできるものの、やはり眺める事しかできない。


 干渉する術はないかと考えて、聖獣の契約と呼ぶ現象に似ていると感じたことを思い出す。


 ――祠の結界石に、元の体の質が紐づけられた。まるで人と聖獣の契約のように……ならば。


 僕は死を意識することなく死んだ。生きたまま取り込まれたといってもいい。この幽体のような姿は聖魔素そのもので、魔技のように自らの意志で形にしているはずだ。

 ならばと祠の結界石に触れて念じれば、手が石の中に沈む。物体を通り抜けられないはずが、この結界石ではできる!

 石の中に全身を沈みこませると、内側から手を外へ出しつつ念じた。


 ――元の姿を取り戻せ。


 石の外に出た指が、青い膜に覆われている。

 それが人の色を取り戻すと、現在の体よりも大きな手になった。

 見慣れた、人族だったときの手だ。


 ――体の全てが聖魔素になるならば、僕自身が武器になれる。


 希望が見え、さらに手を伸ばそうとした。

 しかし結界石の聖魔素が、物凄い勢いで現出部分に集まっていく。ぼんやりとした姿を作るときの比ではない量だ。慌てて手を引いた。

 あるはずのない心臓が胸を激しく叩く。


 ――なぜだ……なんで今さら、こんな希望を見せる!


 頽れて地面を殴ったところで、衝撃も反動も返ってはこない。

 先ほどの感覚に意識を研ぎ澄まし、この石を作るのに旅して集めた聖魔素量を思い返す。あの魔素量ならば、この石が崩れるほどのものではない。

 だとしても、下手をすれば復活を手助けしてしまう可能性は高まる。


 こちらに伝える術にはなり得る。

 たとえば地面に文章を残すという程度ならば、結界に影響しないだろう。しかしそれでは聖者以外に近寄れない。どうしても、祠から出る必要がある。


 既に地下には兆候がある。どのみち復活が近いならば、少し早めることになろうとも、伝えるべきではないのか。しかし国や研究院は、少しでも復活を引き延ばすことを目的としてきた。

 伝えるべきか否か。

 選択に迫られ、今さらな疑問が浮かぶ。


 ――そもそも僕は、なぜ、この世界にいた?


 岩腕族の信仰の中に、聖なる世に住まう大いなる者の意思が、時に生きしものに宿るとされるものがあった。

 炎天族には、獲物の血肉を赤く燃える夕日に捧げるものがある。


 青と赤。それぞれが聖邪の魔素を表しているのだろう。

 人類が、なんとはなしに認めた自然現象を神格化する。それが習慣として残る。別段おかしなことではない。

 しかし、その神秘の中に身を置くことになるなど誰が想像するだろう。


 ――それに僕は、なぜ、未だにこの世界に干渉できるんだ?


 完全に別世界だと思っていた。まさか、あの世と呼ぶものが、こちらでいうところの聖なる世であり、それを挟んで繋がっているのだろうか。

 魂というものが在り、死して肉体を離れ、循環するものだとしたら。

 僕の体は死んだものとして、再生された?

 いや今思えば、事故に遭った当時のままの年齢で現れたようだった。


 死と生の狭間――そんな曖昧な存在だった迷った魂に起きた、歪な転生だったのだろうか。

 だから、ここで死んでも、辛うじてベッドに命を繋がれた体に戻ってきた。だが、今でもここに来れるのは、僕の魂は完全には戻れず、その狭間に半ば同化してしまったのではないのか?


 僕が知ることはないのだろう。

 所詮は欲に呑まれた、たかが一人の人間に過ぎないのだから。

 人智を超えたもの。人はそれを、神の御業と呼ぶしかない。


 諦めかけたとき、雷が落ちたような衝撃に打たれた。

 その神とは、どちらのものだ?

 弾かれたように結界石を見てから、すぐに青い空間に戻る。


 ――もし、この場所が、どちらの世界のものでもあるなら!


 別の場所を意識して彷徨うと、探しているものは自然とそこに現れた。

 青い空間が渦巻くようにして穴を広げて見せた向こうは、まぎれもなく僕の部屋だ。

 そして思った通り。ベッドには、眠る自分の姿がある。あちらで生きていると思っているときに、ずっと眠っていた。だから当然といえばそうなのだが、これが幽体離脱といわれるものなのだろうと、現実として突きつけられるのはなかなかの衝撃だ。


 そういえば、向こうとは時の流れが違うようだが、見ているものが早回しなどになったことはない。あちらに目を向けている限り、あちらの時の流れの中に意識はある。

 なのに戻れば、大抵はいつもの起床時間だ。時には、わずかな昼寝中に見ることもあるし、夜中にトイレに目が覚めたこともあるが、その間の時間と夢での体感時間には開きがある。

 この青い空間が調整しているとしか思えない。


 ――幽体といわれるものなんて、日本の言葉で言いはしたが、こうして肉体を見れるなら……。


 穴から自室へと手を伸ばした。

 やはり人の形をとった手は、ぼんやりと青い。

 その理由があまりに衝撃的で、声にならない叫びを上げて、すぐに手を引っこめた。


 ――僕の、体から?


 聖魔素のない世界で、何を元に形づくろうとしたのか。

 理由は分からなくとも、ベッドに横たわる肉体から引きずり出されたのは分かった。その質が何故か、結界石と同じだということも。

 あちらに比べれば随分と弱々しくはある。しかしそれは紛れもなく、こちらでも聖魔素を使えるという事実だった。


 それを知ったところで、手立ては多くない。


 あの無限に思えた結界の力も減っていく。

 陽炎のようなものでも、人の姿を作って街を歩くことは膨大な力を必要とする。つまり、結界をも弱らせてしまう行為だ。それに気付いてからは、青い世界から覗くだけに留めた。


 恐らくは、一度だ。

 肉体を再現するほどの、大きな力を使えるとしたら。




 考えに考え、考えあぐねる内に、時は無情にも過ぎていく。

 執着は消えないが、後先を考えずに戻るには、歳を取り過ぎてしまっていた。


 もう一度、あの場所へ――そう、考えていたはずだったのに。

 娘が育つまでと言い訳を重ねて、何年も過ぎてしまった。


「おとうさん!」


 嬉しそうに呼びかけてくれる、あどけない笑顔が過って、どうしても、青いカーテンの向こうへ踏み出せなかった。両親の苦労と悲しみを、妻と娘にも押し付けることになるのではないかと。

 結局のところ、僕は自分勝手なままだ。


 このままでは、一度の力をも使う前に、手立てはなくなってしまう。

 誰かに託すことができたならどんなにいいか。

 そう投げやりに思うほど、疲れきっている。そして、その考えは頭を離れてくれない。

 こちらの体からでも、少しは魔素を操れることを考える。

 あちらでは結界石に僕だった肉体が残されている。干渉できる鍵は僕の魂に附随する魔素の質。僕が望めば、中身が僕自身でなくとも再現は可能だろう。


 ならば、いっそ託せばいいのではないか。

 錆びついていない熱意を持った、若い誰かを――。



 ◇



 完成したゲームが商業ベースで発売された。

 数知れないタイトルが発表され、幾つもの名作が生まれている。そんな世の中でどれだけ通用するかは分からない。フリーゲームとは違い厳しい判断が下されるだろう。

 しかし打てる手は打った。当然ながら僕の力ではない。

 父が出資すると言い張り、人を雇い素晴らしい絵と音楽をつけることも出来た。他の交渉事も全て父の伝手だ。

 情けない話ではあるが、これまでの誕生日やクリスマスプレゼントにお年玉を、まとめて渡したいと真剣に言われては断り切れなかった。


 結果は意外なことに、そこそこの販売数だったらしい。奇しくも僕は、自由にできる金を手にしてしまった。心のどこかで、こんな甘い計画はうまくいくはずがないし、失敗してほしいとさえ願っていた。

 自ら作り出したものについて、ネット上で様々な感想が上がるのを、不思議な気持ちで眺める。

 ユーザー登録をしてくれた者のゲームプレイ記録を得て、ファンサイトなどを監視し動向を見守る。一年もすれば話題にも上らず、接触時間は激減した。それでも残る幾人かの候補者を選択し、迷いながらも興信所へ依頼した。

 そして、聖魔素の力を付与する……もう、後戻りはできない。


 あちらを覗く度に僅かながらでも時が跳ぶなら、早めに向かわなければと思いつつ、引き延ばしてきた。なにか対策が出来るのではないかと模索はしたが、向こうで開発される可能性もある。

 しかし何かが街にもたらされたようには見えず、有効な手立ては浮かばない。


 プレイヤーがゲームを起動すれば僕に知らせ、スタートすれば結界石と繋ぐ仕掛けを施した。

 しかし決断が遅すぎたのだ。

 迷っている内に、熱心だったユーザーのアクセスも途絶えがちになる。


 ――もはや、手遅れか。


 やはり、今晩こそ自ら赴こう。

 まだ午前中だ、仕事へ集中するためモニターを見る。

 その時、仕掛けの警告音が鳴った。

 同時に鼓動が高まり、額に汗を噴く。


「今しかない」


 何故、今になってと思いながら、震える手で仕掛けを起動した。

 すぐに横になり、青い空間へと意識を飛ばす。




 とうとう、見ず知らずの誰かを送り込む日が来てしまった。

 幾らなんでも、行った直後に邪竜復活では何もしようがないだろう。準備を整えるだけの期間を考えれば、これ以上引き延ばす猶予はない。


 ――大丈夫だ。僕の始祖人族の体がある。人族の弱点はないのだから、後はゲームの通りにギルドに所属して状況を知り、人類の敵と戦う道筋に疑問を抱くことなく受け入れてくれれば……。


 たとえ失敗しても……恐らく仮初の体を失えば、青い空間に戻るはずだ。

 無論、そうであってほしいと願っているに過ぎない。


 その後、僕は、聖邪を分けられた彼の姿を見て青褪めることとなった。




 ◇◇◇




 身近な者を守りたいばかりに、知らぬ誰かを同じ地獄へと落とした。

 その報いは数年後に訪れる。



「お父さん、私ね、いい人が出来たの」



 挨拶に訪れるという相手と対峙することになり、目が合うなり勢いよく頭を下げた人物を見て、驚きに口を押さえた。

 これが報いだというなら、僕に反対どころか、文句の一つさえ言うことなど許されはしない。



 最愛の娘が、英雄に奪われるのだから。



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