閑話
高爵令嬢は婚約破棄を夢見る
固い決意が、男の優しい顔立ちをクヌギのように力強く変えていた。
育ちの良さを隠せない細く長い指が優雅に持ち上がり、冷たい言葉と共に一点へと突きつけられる。
新春の若芽のように柔らかな髪が、その力強い動きにふわりと揺れた。
「高爵令嬢コエダ・ショコラティエル……ボクは、貴女との婚約を破棄する!」
場はシンと鎮まる。
首長の第三子息である男は、国の継承に関して期待されているわけではないが、それでも、伴侶を自ら選んだわけではない。
しかし断る自由を持つことのできる立場だ。
それでも、それなりに周囲を納得させる理由は必要だろう。
だが、男は確実な結果が欲しかったのだろうか。
よりによって、親族らの集まる首長の懇親会の場において、この暴挙に出た。
両者の父は、驚きのあまり目と口をウロのようにあんぐりと開ける。
その様子から、この行動がどちらの家の企みでもないことを知らしめていた。
まるで樹液を帯びたように艶やかな男の指は、己の選択をゆめゆめ忘れるなと戒めるようであった。
その指の先に立つ女、高爵令嬢と呼ばれたコエダ・ショコラティエルは、しばし、いましがた元婚約者となった者の目を見た。
真意を測るように、彼の瞳の奥を覗く。
樹人族の中でも、稀に見る鮮やかな男の赤い瞳は、マグ回復の魔技石のように爽やかな印象だ。
しかし今、その瞳は揺らいでいるのがコエダには見えた。
樹人族の殿方なら誰もが見惚れてしまうコエダの大きな瞳は、やや濃い赤色を、さらに翳らせる。
コエダは聡明で、彼の真意を汲み取ってしまっていた。
周囲の者は理由は知らなくとも、首長の穏やかな子息をこのような行動へと駆り立てた、とんでもないことをコエダがしでかしたと考えるだろう。
ぐんにゃりとコエダの眉尻が下がる。
だから、その悲しげな表情も、罪悪感によるものと捉えたに違いない。
「身にあまるお心遣い……ありがとうございます」
多くの言葉を飲み込み、ただコエダは、深く頭を垂れた。
恐らく、言い訳のような言葉を聞きたくないから、男は首長の館で開かれた懇親会の場で告げたのだろうから。
コエダは顔を上げると、瑞々しい若葉帷子のドレスをつまんで、周囲の親族らへと礼をし広間へ背を向けた。
私は、ショコラティエル高爵の娘。情けない姿をさらすわけにはまいりません。
そう、自身を奮い立たせながら。
コエダは背筋を伸ばし、退場を言い渡されたとは思えない毅然とした態度で、誰よりも気高くミシミシと歩いてみせた。
+++
木々がいたるところに伸び、絡まり合い、天までをも覆っています。それがただでさえ薄暗い大森林を、さらに鬱蒼と暗い場所へと変えていました。
ですが、微かに差し込む糸のような日差しは、樹木の天蓋を美しく幻想的なものに見せるのです。
朝露を帯びた清廉な空気には、樹木よりマグも降り注いでいます。私たち樹人族は、人類の中でも特にマグを取り込む体質だと聞きます。それらを胸いっぱいに吸い込むと穏やかな一日を迎えられることは、なにものにも代えがたい喜びでした。
他の人種の方々が、この感覚を知りようもないなんてと思うと不思議です。その代わりに、もっと素早く動けるなどの長所があるとのことですが、私はこの自然の中に同化するような心地よさが気に入っています。
「ですから、私はこの国が大好きですよ、お父様」
「そうか。コエダは、この国の在り方をよく知っているのだな」
幼い頃、そう褒められたことが、とても嬉しかった。
「もっと、多くの方に、知っていただければ良いですわね」
「それが私の仕事なんだ。森葉族の領土を通らねば、外へ向かうこともままならない現状だが、コエダの言葉に勇気づけられたよ」
そう褒めていただいたことが、嬉しすぎたのかもしれません。
気が付けば、それは私自身の夢と重なっていたのです。
大森林のほとんどは、森葉族の治めるディプフ王国の領土です。
はるか遠い昔には、多少のいざこざはあったようですが、現在はその怨恨などございません。今では、当たり前に交易のなされる間柄。
私がお会いした森葉族の方々は、少々荒っぽいところもありますが、根は気の良い方ばかりです。
そんな特使や行商人と交流する内に、耳にする外の様相が、頭から離れなくなってしまいました。
けれど旅に出たいのかと自身の心に問えば、そうではないと首を振ります。
では、架け橋になりたいの?
それには、反対も肯定もできませんでした。
私が聞くことの多かったのは、ジェッテブルク山の麓にある、その一帯でも唯一の街についてです。
冒険者街ガーズと呼ばれる特殊な街。
行商の方の多くは、その街を経由して大森林へといらっしゃるとのことでした。
話を聞く内に、気が付けばレリアス王国の王都マイセロへ留学する決意を固めていました。
父は、その知識は補佐として役立つと、喜んで送り出してくださったため、私も真剣に取り組みました。
他のどの種族も、樹人族に比べて動きが機敏です。書くことや語彙を覚えても、流暢に話すことだけは骨が折れるものでした。
しかし言葉だけでなく、人々の暮らしや街の姿の違い、仕組みなども、どうにか学んで国へ戻りました。
それらの中には、さらに私の夢を補強するものが多かった。冒険者組合という組織の存在もですが、その意味にも、深く考えさせられてしまいました。
そして、その中に無いものが、私の夢を明確な形へと変えました。
ほんの一年ほどのことですが、マイセロに滞在中にも、行き帰りの旅の途中でさえ、樹人族の姿を見ることはなかった。
そのことが、もっとも重要な点に思えたのです。
+
戻った私を労うため、婚約者は茶会を開き、誇らしいといった笑顔で出迎えて下さいました。
穏やかな暗い庭園のあちこちで、友人方がお気に入りの切り株に座って談笑する声が、葉擦れのように響きます。
これが私の知る日常です。
ですが、この穏やかな時は、この一国だけで守ってきたものではないのだと、私は知ってしまいました。
大森林に入り込んだ魔物を、森葉族が排除しているのです。私たちは、知らず彼らに守られています。
だというのに、ただよく知っていただきたいと思うだけで良いのでしょうか?
シラカバのテーブルのそばには、私と婚約者の二人だけが座っています。周囲は気を遣ってくださったのでしょう。
葉の飾りがついたティースプーンで、小さな壺からカエデの蜜を掬い、木のカップへ落とすと、長いことゆっくりとかき混ぜます。
婚約者には失礼なことですが、つい考え事に浸っていました。
「私は、森の外へ出たい」
そして、そう呟いてしまったのです。
今思えば、それは無意識ではなく、伝えたかったのかもしれません。
彼は弾かれたように立ち上がり、彼のカップが倒れて、紅茶が赤い染みを広げました。
「……君は、大丈夫だと思っていた。この国よりも、他の国に魅入られてしまったというのか? ボクの信頼を、君は……!」
彼は、物腰の柔らかな、とても優しい方です。
子供の頃からのお付き合いですが、声を荒げるところを見たのは、後にも先にも、この時だけでした。
私は驚いて声が出ず、彼が口を押えて、気まずげに言葉を止めるのを見上げていました。
「本気では、ないよね?」
彼は、静かに問い直します。
それでも、私は、自分の気持ちが変わらないことに気付きました。
「誰かが行うべきことなら、私がそのお役目に関わりたい。その技術も身に着けてまいりました」
道筋をつけるだけでも、何年かかるのでしょうか。
その道を選ぶということは、彼との未来もあるとは、とても言い切れません。
「君は頑固だからね。きっと考えを変えないんだろう……子供の頃から、ずっと見ていた。知りすぎるというのも、つらいものだね」
彼は、そう言うと、私と目を合わせることなく、自らが主催の茶会を去っていきました。
何があったのか詰め寄る友人方の声も、私の耳には届かず、ただ、彼が去った後を見つめていました。
+++
国を去る馬車の窓から、国境を示す、木々の入り組んだ樹門を振り返りました。
婚約は破棄する――あの時の、彼の声と姿が景色に重なります。
彼は自らの名誉を傷つけてまで、私が国を出やすくなるように、尽力してくださったのです。
私が周囲の説得に手間取ることのないよう、背を押してくださった。去り際に眇められた彼の眼差しは優しく、無言の頷きには応援しているとの気持ちがこめられていました。
ほろりと涙が頬を伝います。
零れた涙を風がさらい、暗い木々の葉露となって消えていくままに、私は窓の外を見続けていました。
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