さよならスーパーヒーロー

瀬戸安人

さよならスーパーヒーロー

|プロローグ


 その名はアイアンクラッド。

 鋼鉄の肉体に熱い正義の心を燃やすスーパーヒーロー。

 街の平和を脅かす悪を討つため宵闇を駆ける──。

 正義の怒りを拳に乗せた漆黒の暴風。そして、交錯するのは狂気きらめく銀色の凶刃。

 アイアンクラッドの宿敵、殺人鬼シザーハンズ。

 右手に仕込んだ五本の刃を指のように自在に操り、鉄をも斬り裂くスーパーヴィラン。

 幾度となく戦いを繰り広げてきた宿敵を追いつめて、アイアンクラッドは今まさに最後の決着をつけようとしていた。

 建設中のビルの骨組みを駆け上がりながら、二人の超人が激しい戦いが繰り広げる。

 唸る剛拳。

 間一髪で身をかわしたシザーハンズの代わりに、アイアンクラッドの拳を食い込ませた鉄骨が真っ二つにねじ曲がる。

 その隙に襲いかかるシザーハンズの刃をアイアンクラッドの左腕が金属音を響かせて弾き返す。常人ならば腕を切り落とされている所だが、黒光りする生体金属に変じたアイアンクラッドの皮膚が刃を食い止めた。

 しかし、それでもシザーハンズの刃はアイアンクラッドの腕に深い傷をえぐっていた。


 スーパーヒーローとスーパーヴィランの死闘を追って、眼下には大勢の市民が集って、現場に近付かないよう押し止める警官隊と揉み合っており、空にはこの決戦のスクープを追ってテレビ局のヘリコプターが旋回していた。そして、そんな混乱に乗じて一人の少年がビルへと忍び込んでいったのには誰も気付いていなかった。


 拳と刃がぶつかり合い、コンクリートが砕け散り、鉄骨が切り裂かれる。観衆達が固唾を飲んで見守る中、ヒーローとヴィランの激しい戦いはいつ果てるとも知れないまま続く。

「どうしたアイアンクラッド? フリオローザの助けがななければこの程度か?」

 シザーハンズが血を吐きながら嘲笑う。

 アイアンクラッドと共に戦うパートナー、氷結能力クリオキネシスを操る霜華の乙女フリオローザはこの場にはいない。先のシザーハンズとの戦いで重傷を負い、今は集中治療室のベッドから起き上がる事もできない。

「お前を殺したら、墓にあの女の臓物をブチまけてやるぞ、アイアンクラッド!」

「黙れ!」

 怒りに我を忘れ、アイアンクラッドは雄叫びを上げて飛びかかる。

 挑発に乗ったアイアンクラッドの力任せの突撃は、シザーハンズの思うつぼだった。隙だらけの宿敵に右手の刃を突き立てるなどたやすい──はずだった。

 誤算は激戦に傷つき果てたビルそのもの。

 突進の衝撃と共に崩れ落ちた床は、アイアンクラッドとシザーハンズも巻き込んで落下する。

「くそっ!」

 罵声を吐いたシザーハンズの視界に迫るのは、怒りに血走ったアイアンクラッドの爛々と光る双眸。空中でシザーハンズをつかんだアイアンクラッドはそのままもつれ合いながらも押さえ込む。

「貴様っ! 放せ!」

「誰が放すか!」

 アイアンクラッドは必死にもがくシザーハンズをがっちりと抱え込んで逃さず、そのまま落下を続ける。

「これで貴様も終わりだ!」

 アイアンクラッドが勝利を叫ぶ。

 次の瞬間、シザーハンズは背中から地面に叩きつけられ、アイアンクラッドに押し潰され、更に落下してきた瓦礫の下敷きとなった。


 瓦礫の山を自力で押し退けて這い出したアイアンクラッドが引きずり出したシザーハンズは辛うじて息はしていた。が、それだけだった。

 背骨が折れ、下半身もグシャグシャに潰れていた。このまま命が助かったとしても、もう二度と自力で歩く事も立つ事もできないだろう。

「殺せ、アイアンクラッド」

 シザーハンズはそう告げた。

「断る」

 荒い息を吐きながら答えるアイアンクラッド。その目にはもう怒りに狂った炎はない。

「貴様は法が裁く。そんなに死にたければ、判決が死刑になるように祈れ」

 アイアンクラッドの答えに、シザーハンズはにやりと笑って見せた。

「そんなのは嫌だね。死んだ方がマシだ」

 そう言って、シザーハンズはズタズタの右腕を上げた。

 アイアンクラッドもまた満身創痍だった。限界を超える激しい戦いの疲労、シザーハンズに負わされた無数の傷、落下と生き埋めの衝撃、二本の足で立っていられるのが不思議なほどだった。だから、そんな状態のアイアンクラッドが止められなかったとしても、それは無理もない事だった。

 シザーハンズは右手に残った半ば折れた刃を自らの首にあてがって引いた。

 支えを失い、重力に引かれて落下する頭。シザーハンズの頭蓋骨がコンクリート片にぶつかって砕ける音がした。

 頭を失った首の切断面から噴き出す鮮血がアイアンクラッドを真っ赤に染める。

「何て事だ……」

 がっくりと膝を突くアイアンクラッドの手から放れたシザーハンズの体は瓦礫の山の下まで転がり落ちていった。首を失った体はぐにゃぐにゃにねじ曲がって四肢を投げ出し、流れ出す血で辺りを赤く染めていく。

 そして、呆然としたアイアンクラッドの意識を甲高い悲鳴が現実に引き戻した。

 その時になって、アイアンクラッドは惨劇の一部始終を取り囲む観衆が見ていた事に気付いた。

 自ら首を切り落としたヴィランと、血塗れのヒーローの姿を。

「おい、あそこ!」

 別の声がまた別の方向へと意識を向けさせる。

「大変だ!子供が下敷きになってるぞ!」

 そこには瓦礫に半身を埋めた血みどろの少年の姿があった。

「巻き込まれたんだ! おい、早く助けないと!」

「警察は? 救急隊は?早くしろ!」

 加速して広がっていく喧噪の中、アイアンクラッドは何も考えられなくなり、そして、残った力を振り絞ってその場から逃げ出した。


§


 衆目の中、アイアンクラッドとの戦いに敗れ自殺したシザーハンズの衝撃的な死に様、そして、戦いに巻き込まれた少年が重傷を負い右腕を切断する事になったというニュースにより、アイアンクラッドは話題の人となった。

 マスコミはスーパーヒーローのスキャンダルを報じて大衆を煽り、アイアンクラッドの名は罵声とともに語られるようになった。

 そして、シザーハンズとの戦いの夜から姿を消していたアイアンクラッドの消息を聞く事は二度となかった。彼のパートナーとして活動していたヒーローのフリオローザにも追求の声が寄せられたが、アイアンクラッドは相棒にすら一言も告げずに消えてしまっていた。


 やがて、アイアンクラッドの名は誰からも忘れ去られ、二十年の歳月が流れた。


 反吐と小便と腐ったゴミの悪臭がこびりついた裏通り。

 一人の男がふらふらとおぼつかない足取りでさまよい歩いていた。

 浮浪者よりはいくらかましという程度のみすぼらしく汚れた身なり。ぶよぶよしただらしない体つきで、禿げ上がった頭は脂で汚らしく光り、充血した目は虚ろに濁る。紙袋にくるんだ酒瓶から安物のジンを直にあおっては、下品な音のゲップを吐いていた。

 男は自分がクズであると知っていた。

 クズである自分に失望し、一切の希望を失って、何もかも捨ててただ酒に溺れて、いつの日か野垂れ死ぬのを待つばかりなのだと、自分でもよくわかっており、そして、諦めていた。

 だから、目の前に迫る事態にも特に感慨はなかった。

 いかにもギャング気取りといった風体の若者達に取り囲まれて、彼らがにやにや笑いながら手に手に持ったナイフやらチェーンやらブラックジャックやらを見せつけても、別段、慌てもせず、ただ、「ああ、死ぬな」と思った。

 質の悪い輩が遊びのために浮浪者をなぶり殺しにするという噂は聞いていた。実際に、路地裏で見つかった死体を警察が運び出す現場を見かけた事もある。

 目の前のチンピラ達がその本人なのか、噂を聞いた模倣犯なのかはわからないが、どちらにしても変わりはないだろう。

 ただ、獲物が怯えて慌てふためく姿を期待していた愉快犯達は、男の態度が気に入らなかったのであろう。色めきたって怒鳴り散らすが、男にはそれも単なる雑音にしか聞こえず、ただ、どうせ殺されるならなるべく苦しまないようにさっさと済ませて欲しいものだが、そうもいかないのだろうなあ、などと考えていた。

 男は何もかも諦めきって周りの事など気にせず、怒り狂うチンピラ達は頭に血が上って惨めな浮浪者にしか注意を払っていなかった。

 だから、その場に現れた第三者に不意を突かれた。

 その新たな登場人物は、先の男と大差ない風体だった。幾分かはましな程度の汚いボロ服、だらしなくたるんだ体に不格好に禿げ上がった頭、何かのカスがこびりついた伸び放題の汚らしい髭、酒に酔って濁った目を充血させた赤ら顔。

「邪魔だ」

 髭の男はぼそりと一言そう呟くと、男の胸ぐらをつかんでいたチンピラの手を払いのけ、その間を割って通り抜けて行った。

 一瞬、何事かとぽかんとしてその場の誰もが呆気に取られ、それから、そのまま通り過ぎていこうとする髭の男にチンピラ達が罵声を上げて追いすがった。

 突き飛ばされて濡れたアスファルトに尻餅をついた男は、ズボンに染み込む汚水で尻を濡らしながら、その後の光景を呆然と眺めていた。

 つかみかかるチンピラ達を相手に、髭の男は虫でも追い払うかのように無造作に手を振った。それだけでチンピラ達の何人かは車に衝突されでもしたかのような勢いで弾き飛ばされて、そのままぐったりと動かなくなった。

 辛うじて失神しなかったチンピラが、果敢にもナイフを構えて再び突進したが、髭の男はナイフをあっさりと素手で受け止めて、また軽く払いのけただけでチンピラを吹き飛ばし、二度、地面に叩きつけられた男は今度こそ動かなくなった。

 髭の男はそのまま何事もなかったのように去って行き、取り残された男は恐る恐る地面に落ちたナイフを拾い上げ、飴細工のようにぐにゃぐにゃになったそれを気味悪そうに投げ捨てると、その場を逃げるように去って行ったが、その前に気絶したチンピラ達から財布を失敬するのだけは忘れなかった。


§


 迅速に獲物を追いつめて食らいつくジュディス・ローズウッド刑事は、精悍な顔立ちと引き締まった体躯から受けるイメージも相まって黒豹を思わせる。未だ古臭い慣習を払拭できていないこの街の警察組織において、若いアフリカ系女性というパーソナリティは不利な条件にしかならないが、それでもなお有無を言わせないだけの実績を上げて確固たる立場を築いている強い女だ。

 ジュディスはデスクの上に置かれた事件現場の遺留品に目を向けて、呆れたようにため息を一つ吐いた。

「フリオローザ、本当にあなたの仕業ではないのね?」

 窓際にたたずむ人影はしなやかな体を白いボディスーツで包み、目元をマスクで隠した若い女。

 フリオローザ。

 かつてその名で知られていたスーパーヒーローにしては若すぎる。その女は、引退した初代フリオローザからその名を引き継いだ二代目だ。

「事件があった頃、私はシザーハンズを追いかけてる真っ最中だったわ。それに──」

 フリオローザはラベル付きのビニール袋に入った遺留品を手に取ってしげしげと見つめた。

「私でもこれは無理。こんな真似ができるほどの握力はないわ」

 ぐにゃぐにゃにねじ曲げられたナイフ。刃の部分には握った指の形がはっきりと残っている。何者かが途方もない力で握り潰したようにしか見えない。

「これ、素手でやったの?」

 フリオローザも常人を凌駕する腕力と頑健さを持ってはいるが、素手でナイフを握り潰せるほどではない。真似をすれば指を全部切り落とす羽目になるだろう。

「指の跡からは皮脂と繊維と泥が検出されているわ。ボロボロの汚い軍手くらいはしてたのでしょうね。何か心当たりはない?」

「ないわ。でも──」

 呟きながらフリオローザは苦々しくマスクの下の眉間に皺を寄せた。

「こういう真似ができる奴がいるということね」

 それが何者なのか──ヒーローなのかヴィランなのか、そのどちらでもないのか──わからないが、警戒はしておく必要があるのは間違いない。フリオローザにとっても、ジュディスにとっても、懸案事項が一つ増えた。


§


 余計な事をした。

 と、男は後悔した。

 チンピラに殺されかけていた浮浪者を助けようなどというつもりは微塵もなく、ただ、道をふさいでいる連中が邪魔だから押し退けただけの事だった。

 だが、浅慮だった。異常な痕跡を残してしまった以上、詮索の手は伸びるだろう。あれこれと嗅ぎ回られるのはまっぴらだった。誰にも知られたくないし、構われたくない。

 この街に留まるのはよそう。どうせ長居をするつもりもないのだから。欲を言えば、荷運びなり何なりの日雇いの仕事でも何日かして、いくらか現金を補充しておきたかったが、次の街までなんとかもたせるとしよう。

 そう思って、男は裏路地の奥を歩く。一つの所に留まらず、あてもない放浪生活を何十年も続けてきた。いつかどこかで野垂れ死ぬまでそうして生きていくつもりだった。

 今夜中に街を出よう。

 襲いくる眠気から、路地の隅ででも丸まって一晩明かしてからにしたい、との欲求に逆らって歩みを進める頭に、ピシャリと一滴の液体が落ちた。

 雨ではない。鳥に糞でも引っかけられたか。

 男が脳天を拭った指に目を向けると、ねっとりとした赤黒く鉄臭い液体が指を染めていた。

 ボトリ、と男の目の前に落ちた何かが生温かい液体を跳ね上げる。

 右腕だった。汚れた袖に包まれたままで肘の辺りから切断された人間の腕が地面に落ち、続いて上腕が、左腕が、脛が、大腿部が、バラバラになった人間の四肢が次々と降ってきた。そして、腹を裂かれて腸をあふれさせた胴体と、最後に頭が落ちてきて、地面に頭蓋骨が衝突する音を響かせた。

 断末魔の形相で強ばったその顔は、男が先に──そのつもりはなくとも──救った浮浪者のものだった。

 しかし、男はその惨劇の光景にも動じることはなかった。見知らぬ男のおぞましい死にも感情を揺さぶられることなく、バラバラの死体が降ってきた方を見上げる。

 路地から見上げる薄汚れたビルの上、月光を背にした黒い人影、その右腕だけが異様な形状で銀色に輝く──。

 その姿を目にした瞬間、男の目に初めて感情の色が浮かんだ。濁って血走った目が驚愕に見開かれる。

「……バカな」

 男は震える声を洩らした。

「そんなはずがない……。死んだ……はずだ……。お前は……、死んだ……はずだ……」

 男の頭の中に過去の記憶がよみがえり、猛烈な勢いで渦を巻く。震える体から力が抜けて膝を突き、そのままバラバラ死体の上に嘔吐した。

 頭上の人影は事もなげに飛び降りてストンと着地すると、嘲笑うように男を見下ろした。

「……違う。そんなはずはない……、死んだはずだ……」

 男は口元の吐寫物を袖で拭いながら、震える声を絞り出した。

「死んだ……、死んだはずだ……! シザーハンズは死んだはずだ……!」

 その言葉に怪人は訝むように、そして、興味をそそられたように、無様な男を見る目の色を変えた。

「おかしな事を言う奴だ。死んだだと? シザーハンズはこの通り生きているぞ。それとも──」

 と、シザーハンズを名乗った怪人は何かに気付いたように言った。

「──初代の事を言っているのか? 二十年前に死んだ初代シザーハンズの事を」

 明らかな動揺を見せる男の態度が正解だと告げていた。

 シザーハンズは右手の鋏を男の胸に突きつける。

「しかし、だからどうした? なぜ初代の事でそんなに怯えている? お前は初代シザーハンズと何か関係が──」

 問いかけながらシザーハンズは違和感を覚えて言葉を切った。

 男に突きつけた鋏の切っ先は、このまま刺し殺すつもりはなかったが、脅す程度にはボロ服を突き抜けてその下の皮膚を裂いてたるんだ肉にめり込むはずだった。

 シザーハンズは鋏を振ってボロ服の胸元を大きく切り裂く。

 露わになった男の肌は金属めいた黒色に変じ、シザーハンズの切っ先を食い止めていた。

「それは……、鋼鉄の肌……だと? お前は……、まさか……」

 男が意識してか無意識に身を守ろうとしてか発現させた能力で、シザーハンズはその正体に気付いた。

「お前、アイアンクラッドなのか?」

 男は黙って頭を垂れる。しかし、その沈黙は肯定と同じだった。

「アイアンクラッド! お前があのアイアンクラッドなのか! 何という哀れな姿だ!」

 シザーハンズの哄笑が響き渡った。

「これはひどい! かつてのスーパーヒーロー、無敵のアイアンクラッドともあろう者が、今や豚のように惨めな浮浪者とはな! ここまで落ちぶれていようとは! これが笑わずにいられるか!」

 その惨めな姿にかつてのスーパーヒーローの面影は残っていない。

 だらしなくたるんだ体、禿げ上がって脂でぎとつく頭、汚らしい無精髭、濁った目、酒の臭いを漂わせて汚物にまみれて膝を突く無様な負け犬。

 ひとしきり笑ったシザーハンズは一つ大きく息を吐くと、

「まったく、無様だな」

 冷たく侮蔑を吐き捨てた。

 次の瞬間、かつてはアイアンクラッドと名乗っていた男の横っ面をシザーハンズが蹴り飛ばした。

 抗いもせずに吹き飛んだ男が血を吐いて呻き声を洩らす。

「どうした? 抵抗もしないのか、ヒーロー?」

 のろのろと顔を上げる負け犬の濁った目。気概の欠片もない卑屈な目に、シザーハンズの胸中には失望が満ちていった。

「つまらなすぎるだろ、お前」

 鋏の先に顎を引っかけて上を向かせる。喉元に切っ先を突きつけられて、それでもなお男の目には何の輝きも宿らない。

 初代シザーハンズの鋏は易々とまではいかずとも鉄板を切り刻むほどであり、だからこそ、鋼鉄の皮膚を持つアイアンクラッドも苦戦した。そして、今のシザーハンズの鋏はそれよりも更に鋭く更に力強い。腕に力を込めれば硬質化した皮膚を突き破るの事もできるはずだ。

「失望したよ、アイアンクラッド。これでもガキの頃はお前のファンだったんだぜ」

 シザーハンズは濁った目を覗き込む。

「この手も半分はお前のおかげみたいなものだしな」

 鋏が鋼鉄の皮膚に食い込んで、血の玉がプツリと浮かぶ。

「あの時、逃げ出すお前よりも、潔く死んだシザーハンズの方が余程格好よかったぞ」

「……?」

 シザーハンズの言葉に、男はようやく反応を見せた。そして、その言葉の意味するところに思い当たり、驚愕に目を見開いて青褪めた。

「思い出したようだな。お前達の戦いに巻き込まれて大怪我をして片手をなくした子供がいたな。今では──」

 そう言って、シザーハンズは愉快そうににやりと笑った。

「──代わりの手がついているがな」

「……あ……、う、あ……」

 男は見開いた目をシザーハンズに向けて、言葉にならない呻きを洩らしながらガクガクと震えていた。

 かつてのスーパーヒーロー。しかし、今ではただの惨めな敗残者。

「お前、もう生きていても仕方ないだろ」

 見るに耐えないその姿に、シザーハンズは侮蔑を吐き捨てた。

「じゃあな、ヒーロー」

 シザーハンズは惨めな男の喉をかき切ろうとしたが、その瞬間、鋭く切り裂かれる風の気配に鋏を振り上げて飛来物を弾いた。

 硬い音を立てて砕けた欠片が宙にきらめき、一瞬で刃を冷たい霜が覆う。

「その人から離れなさい、シザーハンズ」

「フリオローザか」

 舞い降りるように現れた白い女から、シザーハンズは警戒して飛び退き、結果として警告通りの行動を取らされた。

「邪魔が入ったな。じゃあ、またなアイアンクラッド」

「待ち──、え?」

 捨て台詞に気を取られてシザーハンズを追いそびれたフリオローザは、路上にうずくまる男に目を向ける。

 呆けたように顔を上げて、男はぼそりとかすれた声を洩らした。

「……マーサ?」

 その名前を耳にしてフリオローザのマスクの下の顔が強張った。そして、少しの間を置いて落ち着きを取り戻し、足下の男を冷たい目で見据えた。

「そう、私を見てその名前を呼ぶの……。つまり、あなたが、本当にそうなのね」

 言葉ににじむ苛立ちの色も隠せず、フリオローザは憤然と呟いた。

「マーサ・ウィンターズなら死んだわ。私は後を継いだ二代目フリオローザよ。アイアンクラッド、ロブ・グリーンブッシュ、あなたの事はママから聞いてる」

 フリオローザは吐き捨てるように言った。

「マーサは私のママよ」


§


 フリオローザというヒーローはあまり派手な活躍をしていた訳ではない。アイアンクラッドのサイドキックとして知られ、アイアンクラッドの失踪後は自身の負傷もあって一時引退し姿を消していたが、数年後に別の街で復帰し、誰かとチームを組むのではなく、単独で活動をしていた。そして、十数年のヴィジランテ活動の後、再び引退。今度は本人が復帰する事はなく、新たに名前を引き継いだ二代目のフリオローザが現れて今に至る。

 初代フリオローザ、マーサ・ウィンターズは一人娘が危険な活動に手を染める事を危ぶんでいたが、娘のミナ──ウィルヘルミナ・ウィンターズは母に憧れ、膵臓ガンに蝕まれた母がこの世を去った後、その名前を継いだ。

 かつて母が共に戦ったヒーロー、アイアンクラッド。ミナが物心ついた頃には世間から既にその名は忘れ去られていた。母がおとぎ話のように語って聞かせてくれたヒーローの名が、嘲笑と侮蔑を塗り付けられている事は後になって知った。

「ママは一度だってアイアンクラッドを悪く言った事はなかった。強くて善良で立派な正義の味方だって、ずっと、そう言ってた。でも──」

 無惨な現実を映したフリオローザの瞳に宿る色が示すものはただ一つ──失望。

 心のどこかで少しだけ思っていた。本当のアイアンクラッドは母の語ってくれた通りのヒーローで、今もどこかで人知れず正義のために戦っていて、いつの日かそんな彼に出会う事ができるのではないか、と。

「──ママより世間の評判の方が正しかったみたいね」

 フリオローザは言い捨てて背を向けた。過去の残骸のようなこの男を見ている事にはもう耐えられなかった。

「さよなら」

「……待ってくれ!」

 呼び止める声にフリオローザは歩き出しかけた足を止めた。

「その……、マーサは、どう、してる……?」

「死んだわ。二年前にガンでね」

 振り返りもせず簡潔に答えると、背後で呻き声のような息を吐く音が聞こえた。

「早くこの街を出て行って。シザーハンズがまたあなたを襲わないとも限らない。相手は大勢の人を殺している殺人鬼よ。あなたが自力で身を守れるか知れたものじゃない。どうせこの街に用がある訳でもないのでしょ? 今度こそ、さよなら、アイアンクラッド──いいえ」

 最後にフリオローザは言い直した。この男はもうその名前を捨てたのだ。

「──さよなら、ただのロブ。こんな姿のあなたには会いたくなかったわ」

 後にはただ惨めな男が一人残された。


§


 路地裏にうずくまったまま、ロブは一睡もせずに朝を迎えた。

 夜風とコンクリートから這い上がる寒気に芯まで冷えきった体が差し込む朝日の熱で徐々に温められていくのを感じながらも、その場から腰を上げる事もできずにじっとしていると、不意に光と熱を遮る影が差した。

「まさか、一晩中そうやってたんじゃないわよね?」

 聞き覚えのある声にのろのろと顔を上げれば、座り込むロブと太陽の間に立ちはだかる若い女の姿があった。凛としたブロンド娘の面立ちには、確かに馴染み深い面影があった。

「わかってない? マーサの娘のミナ・ウィンターズって名乗ればわかる?」

「──いや、わかる」

 娘に重なる母の姿からこみ上げる懐かしさが、ロブにはひどく眩しくて、まるで彼女が背にした太陽のようだった。

「マーサによく似ているよ」

「よく言われるわ」

 ミナはぶっきらぼうに言い捨てた。

「本当に早くこの街を出た方がいいわよ。私が目障りだと思ってるのもあるけど、シザーハンズに正体がバレてるなら、先代の仇のあなたを放ってはおかないかも知れないもの。お金がないなら電車代くらいあげるから」

 そう言って、ミナは数枚の紙幣をロブのポケットに押し込んだ。

「ああ……」

 ロブには恵んでもらった金を突き返すだけの気概もプライドも残ってはいなかった。そんなロブをミナは冷ややかに見下ろして小さくため息を吐いた。

「……もう行くわね」

「マーサの──!」

 立ち去ろうと踵を返しかけたミナを、ロブは食い下がるように呼び止めた。

「……マーサの墓を、教えてくれないか」

 絞り出すようにロブは言った。


 街の外れの共同墓地。

 そこにマーサ・ウィンターズが眠っている。

 早朝の墓地に他の人影はなく、ロブとミナの姿だけがあった。

 墓石に刻まれた名を目にして、ロブはひざまずいて両手で顔を覆った。

 捨てたはずの過去は今も足に絡みつき、忘れたいと思っても忘れられない。どこまで逃げても追ってくる、切り離す事のできない自身の影のように。

 二十年前の我が身を振り返れば、そこにあるのはただの愚者の姿だった。

「俺は……、ヒーローなんかじゃなかった……。ただ、人より少しばかり違う所があるからと浮かれているバカだったんだ……」

 ヒーローのマスクをかぶって悪人を退治すれば、『無敵のアイアンクラッド』と皆が褒め讃えた。しかし、マスクの下には正義などなかった。分不相応の力に浮かれ、賞賛に酔い、増長した虚栄心のにじむ顔をマスクで隠し、ただ、ちやほやされたいがためだけに人助けやら悪人退治やらのデモンストレーションを行う下衆。それが、アイアンクラッドの正体だ。

 そんな男がヒーローでいられたのは、フリオローザ──マーサ・ウィンターズがいたからだ。

 アイアンクラッドのサイドキック。サポート係のパートナーとの評価に甘んじていた彼女こそが、アイアンクラッドをヒーローたらしめていたのだ。助言を与え、方向を指示し、目立ちたがるばかりのアイアンクラッドの活動が実のある形になるよう巧みにコントロールしていたのだ。手柄はすべてアイアンクラッドに譲り、自身は裏方に回る事で、より効果的に、より効率的に、ただひたすら正義のために尽力して、何の見返りも求めなかった。

 彼女には慢心も虚栄心もなかった。だから、自分が先頭に立つよりも、より強い力を持つアイアンクラッドをサポートして確実に強敵を打ち倒すよう尽くした。名声も喝采も求めず、ただ、その行動によって人々が救われたという結果だけを何にも代え難い勲章として喜んだ。

 彼女こそが、フリオローザこそが真のヒーローであり、アイアンクラッドなど彼女が慎重に扱わなければ役に立たない危険な爆弾に過ぎなかったのだ。

 だから、フリオローザという道標を失って、アイアンクラッドは爆発した。

 負傷で戦線を離れざるを得なかったフリオローザなしで、アイアンクラッドが怒りのままに暴走した結果が二十年前の惨事だ。もしも、その時、あの場所にフリオローザがいたならば、いつものように好き勝手に暴れるアイアンクラッドの代わりに周囲に気を配って、子供が巻き添えになったりしないように守ってくれただろう。

 あの時──、まるで気にも留めていなかった存在、ただ、自分の活躍に拍手喝采をしてくれる存在としか思っていなかった存在に、気にも留めていなかったがゆえに取り返しのつかない事をしたあの時──、ロブ・グリーンブッシュはすべてを悟り、その心は折れた。

 自分はヒーローなどではない、その資格はない、と。

 ただ自惚れで虚勢を張っていただけの弱い男は悟った現実に耐えられず、何もかもを投げ捨てて逃げた。そして今、相応の惨めな姿をさらしている。

「マーサ、ありがとう、すまなかった」

 墓前で口にしても、その言葉はもう届かない。

 自分をヒーローだと思い上がっていた愚かな男を支えてくれていた事への感謝と、その期待を裏切って何もかも捨てて逃げ出したことへの謝罪と。

「気が済んだ?」

「……ああ」

 ミナの冷たい言葉に、ロブは頷いて静かに立ち上がった。これ以上、ここに留まっても、我が身を危険にさらし、旧友の娘に不快な思いをさせるばかりならば、速やかに去る方がいい。

「一つ、知らせておくことがある。あのシザーハンズの正体はチャールズ・パイクだ」

「チャールズ・パイクって……、二十年前にアイアンクラッドとシザーハンズの戦いに巻き込まれて大怪我をしたあの子供の名前?」

「ああ、そうだ」

「何を言ってるの?」

「本当だ。あの時の子が今のシザーハンズなんだ」

 シザーハンズの正体がわかれば、フリオローザの戦いの役にも立つだろう。ロブはせめてもの助けにと思って告げた。

「そんなはずないわ」

「俺もそう思った。だが、本当にあれは──」

「──そうじゃなくて、そんな事はあり得ないわ」

 受け入れがたい事実ではあるが──と思ってのロブの言葉を遮るミナの意図は根本から異なっていた。

「死んでるのよ、チャールズ・パイクは。何年も前に」

 ミナの言葉にロブの全身が固まった。

「その様子だと知らなかったのね。チャールズ・パイクは事故の五年後に死んだのよ。片腕をなくしたショックから立ち直れずに、段々と常軌を逸するようになっていったらしいわ。それで、十二の時に屋上から飛び降りて自殺したの。だから、それはあり得ない。死人が生き返ったのでもない限りはね」

「……そんな」

 ショックに呆然とするロブを前に、ミナは落ち着いて考えを巡らせる。

「シザーハンズはあなたにそう名乗ったの?」

「ああ……、いや……。名前を名乗ったわけじゃない。だが、自分はあの時の子供だと……」

「そう……。だとすると、チャールズ・パイク本人でなくても、その関係者かも知れないわね」

 そう言って、ミナは下唇を軽く噛む。母親と同じ、考え事をする時の癖だった。

「調べてみる価値はあるわね。ありがとう。それじゃあ、さよなら──、ああ、それとね──」

 立ち去りかけたミナは、その足を止めて付け加えた。

「ママが……、フリオローザがそうなるように仕向けてたんだとしても、ちゃんと悪い奴を倒したり、人を助けたりできてたのなら、その頃のあなたはヒーローだったんだと思うわ。ヒーローとして行動して、ヒーローとして結果を出したんなら、それはヒーローよ、きっとね」

 そう言って、ミナは笑みを残して背を向けた。

 マーサの墓と遠ざかるミナの背の間にたたずんで、じっとうつむくロブの胸にはもやもやとくすぶるものがあり、喉に痰が絡むような息苦しさがこびりついていた。


§


 リチャード・パイクを仮面と凶器を手にしたヴィランにしたのは『怒り』だ。

 子供の頃のリチャードは、聡明で落ち着きがある大人びた少年で、二つ年下の弟チャールズが考えるより直情的に体を動かすタイプなのとは対照的だった。タイプは違えども兄弟の仲は良く、弟が追いかけているヒーローにはあまり興味がなかったが、大好きなヒーローの話をする時に弟が本当に楽しそうにしている姿を見ていると、自分もつられて楽しくなった。

 しかし、ある日、事件が起きた。

 街に現れたヴィランとヒーローの戦いを間近で見るために追いかけていった弟は、戦いに巻き込まれて重傷を負ったのだ。瓦礫の山に幼い体を押し潰された弟は、何とか命は取り留めたが右腕を切断しなくてはならなかった。

 腕を失った弟は、以前のような快活さも完全に失って、部屋に閉じこもるばかりになってしまい、その部屋の埋め尽くしていたヒーローのグッズやポスターもすべて捨ててしまった。

 そして、事件から五年後、弟は自殺した。

 既にギクシャクしていた家族の関係は弟の自殺で完全に崩壊した。両親は離婚し、リチャードは母親に引き取られた。

 心に深い傷を負った母に苦労をかけまいと、また、母の慰めになればと、リチャードは努力した。品行方正に努め、学校の勉強にも打ち込んで常に優秀な成績をキープし続けた。リチャードは真面目で優秀な孝行息子と近所でも評判になり、母もリチャードを褒めてくれたが、それでも母の言葉はどこか空々く感じられた。自分がどれだけ優秀な点数を取っても、難しい試験に合格しようとも、その日の夜には母はいつも通り酒に酔って幼い頃の弟の写真を見ながら泣いていた。

 やがて、リチャードは名門大学の医学部を卒業した。ゆくゆくは一流の医師となり、苦労をしてきた母も落ち着かせてやりたいと思っていた。

 しかし、多忙なインターン期間で母へ注意を向ける時間が大幅に削られてしまっている間に、母の酒量は更に増えており、リチャードが気付いた頃には完全にアルコール依存症に陥っていた。

 そして、泥酔した母は階段から落ちて首の骨を折り死んだ。

 苦しむ母を支えたい。その思いはリチャード自身の支えでもあったのだ。その思いがあればこそ、リチャードもまた苦労を厭わず懸命に真っ直ぐ進んでこられたのだ。

 母を失い、リチャードには自らを支えるものが何も残っていなかった。

 すべては弟が事故に遭った時から狂い始めてしまった。

 あの事故さえなければ、リチャードが家族を失う事もなかった。

 何がいけなかったのか。リチャードは改めて自ら問い質した。

 無謀にも危険な現場に飛び込んでいった弟にも非はあるので、巻き込んでしまったヒーローだけを責められるものではない。命がけで戦いながら周囲すべてにまで気を配るのは難しいだろう。それはわかる。

 しかし、なぜそのまま逃げたのか。

 せめて、弟を見舞ってくれれば、謝るなり励ますなりしてくれれば、弟は傷を負いながらも立ち直る可能性があったのではないか。

 弟を絶望に追い込んだのは、右腕を失った事だけではない。憧れていたヒーローが自分を見捨てて一顧だにしなかった事だったのだ。

 ヒーローとは何なのか。

 悪人退治で喝采を浴びる彼らは何を見ているのか。

 ヴィランに傷つけられる犠牲者達は、戦いに巻き込まれて傷つく人々は、所詮、スクリーンに一瞬映されるだけの、役名すらクレジットに乗らない引き立て役なのか。

 マスクで顔を隠して独りよがりの正義を振りかざすエゴイスト。

 そんな彼らに踊らされて拍手と歓声を送る愚かな群衆。

 彼らへの怒りがリチャードの中に沸き上がり、巨大に膨れ上がっていった。

 その怒りがリチャードを完全に飲み込んだ時、彼自身もマスクをかぶった。

 ヒーローという名の災厄と戦う力を得るために、薬を使い、機械を使い、あらゆる手を尽くして自らを作り替えた。

 そして、自らの怒りを表す形として、すべての元凶となった男の宿敵の姿を選び、その名を名乗った。

 ヴィランとして生きる事を決め、その舞台にこの街を選んだのは、アイアンクラッドに縁のある場所から始めたかったからだ。とはいえ、当のアイアンクラッドは既におらず、過去に活動していた場所を選んでも意味は薄い。だから、アイアンクラッドのパートナーだったフリオローザを標的とした。初代のフリオローザも既に引退して姿を消していたが、その名前を引き継いだ二代目がおり、ならば二代目同士で戦うのもいいだろうと思った。

 街の住人は無作為に殺した。

 殺す相手は誰でもいい。ヒーローを褒め讃えるような連中なら皆同じだ。次から次へと殺人を繰り返し、それを止められないヒーロー気取りの偽善者に自らの無力さと屈辱をたっぷりと味わわせてから、じっくりと始末してやるつもりだった。

 ──そこへ、予想外の人物が突然舞台に上がってきた。

 アイアンクラッド──すべての原因となった男。

 捕らえる事は叶うまいと思っていた獲物が、突如、向こうから手の届く所へやって来た。この期を逃す手はない。

 アイアンクラッドの落ちぶれ果てた姿に失望もしたが、同時に傲慢な偽善者がたどり着いた惨めな末路が愉快でもあった。

 しかし、度を超して浮かれすぎてしまった。

 アイアンクラッドの見せた反応は実に痛快だったが、自分の正体を明かすような真似をしてしまったのは致命的な過ちだった。もし、アイアンクラッドがその事を誰かに話せば、すぐにリチャード・パイクの存在は露呈するだろう。

 速やかにアイアンクラッドとフリオローザを殺して決着を着けなくてはならない。それが済んだら、この街を離れ、別の地で別のヒーローを殺そう。そうして、行く先々でヒーロー達を殺していこう。

 人殺し。ヒーロー殺し。それがリチャード──シザーハンズが定めた自らの在り方なのだから。

「お前を殺すぞ、アイアンクラッド。せいぜい惨めにあがいて楽しませろよ」

 そう呟いて、右手に刃を取り付けた。


§


 その夜。

 ロブはまだ街を離れていなかった。

 吹き荒ぶ悪臭混じりの寒風を浴びて、昨夜と同じ汚れた路地をゆっくりと歩く。

 再三の忠告を無視し、自身の当初の予定も変えて、この街に留まったロブは、静かに足を止めて頭上を見上げた。

「シザーハンズ……」

「やあ、アイアンクラッド」

 ビルの上から見下ろしていた怪人は、路上に飛び降りて答えた。

「また会えるとはな。もうこの街から逃げ出したかと思っていたよ」

「……そのつもりだったさ。だが、お前に聞きたい事があってな」

「ほう?」

 興味をそそられたようにシザーハンズは口の端を吊り上げた。

「お前は誰だ?」

「どういう意味だ?」

「お前は自分があの時の子だと言った。だが、チャールズ・パイクは死んだ。お前はあの子じゃない。なら、死人を偏るお前は何者だ?」

 ロブの問いにシザーハンズはほくそ笑む。

「聞いてどうする? 知ったところでお前に何の意味がある?」

「さあな。俺にもわからん。ただ、あの子が死んだのが俺のせいで、お前がいるのもそのせいなのなら、俺は知っとかなきゃならない気がしてな」

「笑わせるな。お前はそういうものを受け入れる根性もないから二十年も消えていて、そんなザマをさらしているんだろうが」

 シザーハンズが嘲笑う。

「二十年も逃げ続けて、もう逃げるのにも疲れたのさ」

 自嘲めいて呟くロブの落ち着き払った態度は自暴自棄の諦念ゆえか。シザーハンズはどこか得体の知れない気味の悪さを感じていた。

「お前なんぞに教えてやる気はない、と言ったら?」

「……腕ずくで聞くさ」

 ロブがそう答えるが早いか、シザーハンズの鋏がロブの喉元を目掛けて走る。

 響く金属音。

 鉄色に変じたロブの拳が鋏の側面を殴りつけて弾いた。

「いい気になるなよ、老いぼれ」

「お前こそな、若僧」

 二人は互いを目掛けて同時に飛びかかった。


§


「ジュディス、どう、何かわかった?」

 秘かにオフィスを訪れたフリオローザに、ジュディス・ローズウッド刑事は眉間に皺を寄せ、冷めたコーヒーを一口呷ってから話し始めた。

「チャールズ・パイクは死んでいる。きちんと自殺に関する資料が残っていて、死体が本人である事も確認されている」

「そう」

「チャールズの死後、家族関係も悪化して両親は離婚。父親は健在だけど、母親は二年前に事故死。それで、この先が本題」

 ジュディは一呼吸置いて、それから先を続けた。

「チャールズ・パイクには二つ年上の兄が一人いる。名前はリチャード。両親の離婚後は母方に引き取られて、医大に進学。優秀な成績で卒業して医者になった。母親が死ぬまでは一緒に暮らしていたけれど、その後は実家を引き払って転居。現住所は──この街よ」

 そこまで一気に話して、ジュディスはコーヒーカップを空にした。

「偶然にしては出来すぎね」

「そのリチャード・パイクの──」

 と、言いかけたフリオローザの言葉を遮るようにジュディスの携帯電話が鳴った。

「──はい。──何! そう、それで場所は? そう、わかった」

 緊張に顔を引き締めたジュディスは電話を切ると、フリオローザに告げた。

「シザーハンズが街中で暴れて、浮浪者が戦っているそうよ」


§


 吹き飛ばされたロブは路地から表通りへ弾き出され、路上駐車の車に激突した。車はペシャンコに潰れ、セキュリティブザーをけたたましく鳴らすクズ鉄の固まりと化し、ロブがめり込んだ体を引きはがすと同時に、振り下ろされた鋏が車体を断ち割った。

「離れろ!」

 シザーハンズの腰にタックルして抱え込みながら押し返し、同時に周りに向けて大声で叫ぶ。

「爆発するぞ!」

 集まりかけた野次馬が悲鳴を上げて逃げ出すと、その後を追うようにガソリンに引火して車が爆発した。

 爆風にあおられ、もつれ合うロブとシザーハンズも引きはがされて吹き飛ばされた。

 辺りは一瞬にして阿鼻叫喚の有様となった。

「おい! あれ、シザーハンズだ!」

「人殺し!」

「逃げろ!」

「警察を呼べ!」

 パニックを起こした人々が泣き叫び、我先にと逃げまどう中、沿道の店の重く大きな看板が爆発の煽りを受けて傾ぎ、そのまま落下する。その先には逃げ遅れてへたり込んだ少年の姿。恐怖に身をすくませた少年を数十キロはあろうかという看板が押し潰す直前、その間に割り込む者の姿があった。

 ボロボロの格好で、全身の肌を鉄色に鈍く輝かせる男は、落下する看板を殴りつけて遙か遠くへ吹き飛ばした。

「大丈夫か? 早く逃げろ」

 少年はとっさに言葉も出ず、ぱくぱくと口だけ動かしながら頷いて、這うようにしながら何とか起き上がった。


「あ、ありがとう……。おじさんは……」

 少年は鉄色の男から目を離せないまま、震える声で言った。

「……いったい……何?」

 鉄色の男は身につけている服の端を破り取り、目に当たる箇所に破れ目を入れて顔に結わえつけた。

「俺か? 俺はな──」

 即席のみすぼらしい覆面をつけた男は、ひどい身なりには不似合いなほど堂々と胸を張ってその名を言った。

「俺の名は、アイアンクラッドだ」

 二十年ぶりにその名を名乗った男は、惨事の中心へと駆け出して行った。


 無為に過ごした二十年の歳月はロブの肉体を見る影もなく衰えさせていた。

 鍛え上げられた筋肉は今や贅肉となり、たるんだ腹に抱えた脂肪がひどく重い。少し走っただけで滝のような汗を流し、息があがってぜえぜえと喘ぐ有様だ。二十年前、自信に満ちあふれていた全盛期のアイアンクラッドと今のロブでは比べものにならない。

 そして、対するシザーハンズは強い。恐らくは初代のシザーハンズをも凌ぐだろう。右手の鋏が恐ろしい武器であるだけではなく、生来のものか後天的に強化したものか不明だが、マシラのごとき身の軽さと熊のような怪力を備えている事は対峙してすぐに思い知らされた。殴った感触からすると、恐らく強固な装甲も身に着けている。

 シザーハンズが鋏で両断した街灯の柱を槍のように投げつける。ロブは両腕を交差させて足を踏ん張り、真っ向から受け止めた。

「すっかり鈍りきっているかと思ったが、なかなかタフじゃないか」

「子供が投げたオモチャでダウンするほど弱っちゃいないさ」

 虚勢を張ってにやりと笑いうそぶいた。

 悲鳴と怒号が飛び交い、ガラスが割れて飛び散り、コンクリートが砕け、壊れた電飾が火花を散らし、ひっくり返った車から炎が上がる。

 若いヴィランとかつてヒーローだった老いた男は何度も何度もぶつかり合うが、次第に戦いの様相は変化していった。

 シザーハンズの鋏を持ってしても、ロブの硬質化した皮膚を貫くのは不可能ではないが容易でもないため、より単純で有効な攻撃方法を主体に切り替えた。

 シザーハンズは打撃を持ってロブを攻める。車、街灯の柱、店の看板、重量のある物体を片っ端から切り裂いて投げつけた。刃は防げても衝撃までは防げない。投げつけられる鉄柱やら車やらを受け止めるたび、殺しきれない衝撃が全身を貫いて震わせ、着実に大きなダメージを蓄積させていった。

 受け止めずに避ければいい。そうすれば、むざむざダメージを受ける事もないし、決して避けきれないほどのものでもない。

 しかし、そうはできなかった。

 その先には逃げまどう人々がいた。ロブが避ければ投げつけられた凶器はその先の人々を押し潰すだろう。だから、避けられない。

 かつてのアイアンクラッドならそんな事は気にしなかった。敵だけに目を向けて戦っていた。そうやって戦っている最中、周りの事にはフリオローザが気を配ってくれていたから。だから、アイアンクラッドは何も気にせず敵との戦いだけに集中していられたのだ。

 ──マーサ、君は本当にすごかったんだな。

 ロブは胸中でそっと感嘆の声を洩らした。

 ──周りを守りながら戦うってのは、こんなに難しいことだったんだな。

 壁面に突き刺さった道路標識の鉄柱が崩れたコンクリートの塊ごと落下した。ロブはその真下に駆け込んで、路上に転んでいた老女を庇い、鉄柱とコンクリートを背中で受け止める。

「……あ、ありがとう……」

「いいから早く逃げろ!」

 振り向き様につかんだ鉄柱でシザーハンズに殴りかかる。しかし、容易にを受け止めたシザーハンズは鉄柱ごとロブを高々と持ち上げて叩きつけた。

 路面を砕いてめり込んだ全身を襲う衝撃に、体中がバラバラになって破裂したかと思うほどだった。

 朦朧とする意識をはっきりさせようと頭を振って、どうにか起き上がろうとするが、体が言う事を聞かなかった。息が詰まり、心臓は破裂しそうなほど激しく脈打ち、手足には力が入らない。震える指をコンクリートの割れ目に引っかけて体を引き起こそうともがき、どうにか立てた膝も崩れ落ちないようにこらえるだけで精一杯。

 意識が保てず、視界が霞む。瞼さえも持ち上げていられなくなりそうなほど──。

「がんばれ! アイアンクラッド!」

 不意に絶叫が響き渡った。

「立って! がんばれ! 負けるな! アイアンクラッド!」

 声を張り上げて叫ぶのは、先に落下する看板からロブが庇った少年だった。

「アイアンクラッド?」

「あの、シザーハンズと戦ってる奴か?」

「ヒーローなの?」

「聞いた事があるような……」

「知ってるぞ! 初代シザーハンズと戦ったヒーローだよ!」

 少年の絶叫から周囲にざわめきが広がっていく。

「昔のヒーロー? 何で?」

「そんなのどうでもいい! あいつ、今、戦ってんだろ!」

「そうだ! 行け! やっちまえ!」

「イカれたハサミ野郎なんかぶっ飛ばしてくれ!」

「負けるな!」

「頑張れ!」

「立って!」

「行けえ! アイアンクラッド!」

 一人の少年の叫びから広がった波は、大きなうねりとなって広がっていった。辺り一帯の人々が皆、口々にアイアンクラッドの名を叫び声援を送る。

「立って! がんばれ! そんな奴やっつけちゃえ! アイアンクラッド!」

 震える腕で、震える足で、全身の力を振り絞って歯を食いしばり、必死に体を押し上げる。上体を起こすだけでどれだけ時間がかかっただろう。数秒か、数分か、数時間か、それすらもわからない。片膝を上げ、もう一方を上げ、足の裏で地面を踏んで、背中を伸ばし、顔を上げる。

 ──歓声が沸き起こった。

 拍手喝采と歓喜の声が、激励の声がロブを包む込む。

 あちこちで瓦礫が崩れ、ガラスが割れ、火の手が上がり、爆発が起きる。その上、元凶である怪人の殺人鬼がまだ暴れ回る危険この上ないこの場所に留まって、拳を振り上げ、口笛を鳴らし、ロブを称えて激励する人、人、人──。

 少年もいる。杖を振りかざす老人もいる。髪を振り乱す若い女もいる。スーツを煤だらけにした中年の男もいる。

 笑う顔。泣く顔。怒鳴るように叫ぶ顔。

 喝采の声なら二十年前にいくらでも聞いた。しかし、その時、喝采を上げる人々の顔を見ていただろうか。──否、見てなどいなかった。見ていたのはただ賞賛に酔う自身の姿だけ。

 今、初めて見る人々の顔はあまりにも眩しくて目がくらむ。

 きっと、自分以外のヒーロー達が見ていたのは、こういう光景だったのだろう。

「大人気じゃないか、アイアンクラッド!」

 歓声を引き裂くように走るシザーハンズの声と共に、投げつけられる車を受け止め、ロブは膝を突いてどうにか衝撃をこらえる。しかし、続けてもう一台、投げ飛ばされた車がロブの頭上を飛び越えていく。その先で大勢の人々のの顔が恐怖に歪み悲鳴を上げる光景がスローモーションのように見えた。

 必死に追い縋ろうと振り向きながら地を蹴って飛び出すが、伸ばす手よりも遙か先の車には届かず、人々の群の中に巨大な鉄塊が飛び込んでいく──。

 その直前、すべてが止まった。否、凍りついた。

 宙を舞う車は瞬時に氷に包まれたオブジェと化していた。

「間一髪、間に合ったわね」

「フリオ……ローザ……」

 新たなヒーローの登場に観衆が沸いた。

そして、そこに続くようにサイレンを鳴らしながら警察の車両が集結し、武装した警官達が展開していく。

「そこまでだ! 周囲は包囲した。逃げられないし、逃げても帰る家はもう押さえたぞ、シザーハンズ、いや、リチャード・パイク!」

 銃をい構える警官達の列から一歩前に出て拡声器で叫ぶジュディスの声が鳴り響く。

 ジュディス達が現場に急行する一方で、リチャード・パイクの自宅に向かわせた別動隊からは、リチャードがシザーハンズである事を示す証拠が見つかったとの報告が既に上がっていた。

 しかし、対するシザーハンズの返答は言葉の代わりに投げつけられた炎上する車だった。

 警官達の中央へ飛び込んでいく車体を、またもフリオローザが凍りづけにして食い止める。

「昔のあなたがどんなだったか、自分の目で見た訳じゃないから本当の所はわからない。でも、少なくとも、今のあなたは立派なヒーローぶりだわ。ありがとう、街のみんなを守ってくれて、──アイアンクラッド」

 フリオローザは傍らに膝を突くロブにそう声をかけた。

「後は私が引き受ける。あなたは充分戦った。だから、もう休んで」

「──いいや」

 ロブは前に出ようとするフリオローザを押し留めて立ち上がった。

「俺がやる。最後まで、きっちりと決着をつける。君は皆が巻き添えにならないように守ってくれ」

「無茶言わないで。そんなボロボロで勝てるの?」

「勝つさ」

 ロブはそう呟いて両の拳を打ち合わせた。

「俺は、無敵のアイアンクラッドだ!」

 高らかに雄叫びを上げ、ロブは再び駆け出した。


 走る、跳ぶ、打ち合い、組み合い、離れてはまた駆け寄ってぶつかり合う。

 一瞬たりとも止まらない激しい戦いの中には到底割って入る事など叶わない。警官隊も誤射を恐れて手出しできないまま、市民の保護と避難誘導に追われ、フリオローザも周囲への被害を防ぐために駆け回るので精一杯だった。

 ロブは既に満身創痍だった。瓦礫や車を叩きつけられたダメージだけでなく、全身のあちこちを切り裂かれ血みどろとなっている。硬質化した皮膚も刃を完全に防げる訳ではないし、ましてやその能力も全盛期に比べれば遙かに衰えている。

 しかし、シザーハンズの方も無傷ではない。インファイトで打ち込まれるロブの拳や、地面や壁に叩きつけられるダメージは確実に積み重なっている。

 ロブの右拳がシザーハンズの顔面に食い込む。常人なら首の骨が折れかねないほどの一撃を受けて、シザーハンズは血を吐きながらも至近距離から右手の鋏をロブの膨らんだ腹に叩きつけた。鉄の肌を貫いて腹に食い込む刃を更に押し込もうと力を込めるシザーハンズの腕と、とっさにそれを押し留めようとつかんだロブの腕とが押し合って硬直する。

「嬉しいよ、アイアンクラッド! 昨夜みたいなザマじゃあ殺すにも張り合いがなかったからなあ! ああ、そうやってヒーロー気取りで粋がるお前を殺せるなら俺も本懐を遂げられるというものだ!」

「やはり……、俺のせいか……!」

「そうとも! お前のせいだ、アイアンクラッド! 弟はお前のせいで腕をなくして死ぬまで恨んでいたぞ! 母も弟が死んだせいで精神を病んで死んだ! すべてお前が奪ったんだ!」

「だから、復讐か」

「そうとも! お前のようなヒーロー面をした偽善者どもこそが災いの元凶のクソだ! お前らにすり寄ってケツを差し出すような連中はクソにたかるハエだ! だから俺がクソもクソバエも片づけて清潔にしてやろうというんだよ!」

 シザーハンズの刃がロブの腹の脂肪を裂いてめり込んでいく。

「そうか……」

 ロブの口元に血の泡が浮かぶ。

「お前の弟の事は、間違いなく俺の罪だ。償いようもない罪だ。俺はその報いがどんなものであろうとを受けなきゃならない。だがな──」

 刃は更に食い込む。脂肪の層を貫き通し、筋肉に達する。

「咎められべきなのは俺一人だ」

 ロブの腕の力がゆるみ、シザーハンズの刃が一気にロブの腹を貫き通した。

「なら、地獄で弟に詫びてこい」

 シザーハンズの口元に勝ち誇った嘲笑が浮かんだ。

「そうだな。だが──」

 次の瞬間、シザーハンズの笑みが凍りつく。ロブの腹を貫いた鋏の右腕は、ロブの左腕でガッチリと抱え込まれてぴくりとも動かない。

「──お前も殺した人達に詫びろ」

 渾身の力を込めたロブの右拳が固定されたシザーハンズの右腕に降り下ろされた。筋肉を叩き潰し、骨を粉砕する一撃だった。

 ロブの腹に鋏を残したまま、シザーハンズは砕けた右腕を抱えて崩れ落ち絶叫する。その右腕からロブの腹に抱え込まれたままの鋏が外れた。弟のように右腕を失っていた訳ではないシザーハンズの鋏は義手ではなく籠手のような形状になっていた。

 そして、ロブはこの機に容赦なく追撃を加え、倒れたシザーハンズに思い切り足を降り下ろし、その脛骨を踏み砕いた。

 ロブは足を砕かれて逃げる事もできなくなったシザーハンズの胸ぐらをつかんで引きずり起こすと、右拳を引いてその顔面に狙いをつける。

「ヒーローなら、どんな悪党でも殺したりはしない。だが、俺はヒーローじゃない。そんな資格はない男だ」

 岩をも砕く怪力の鉄拳ならば、頭蓋骨を丸ごと叩き潰す凶器にもなる。ロブが全力で拳を振り抜けば、シザーハンズの頭は粉々になるだろう。

「アイアンクラッド!」

 フリオローザが駆け寄りながら制止を叫ぶ。

 しかし、止めるより先にロブが振るった拳はシザーハンズの顔面を打ち抜いた。

 吹き飛んだ体は地面に叩きつけられて何度かバウンドし、しばらく路面を滑ってから障害物にぶつかってようやく止まった。

「……そんな」

 フリオローザだけでなく、周囲の人々も警官達も言葉を失い、重苦しい沈黙が辺りを包み込む中、シザーハンズが弱々しく呻き声を洩らした。

「殺しちゃいない。歯は全部折っちまったけどな」

 ロブは引き戻した拳にめり込んだシザーハンズの前歯の欠片を払い落としながら言った。

 わあっと歓声が上がり、それが合図のように警官達がシザーハンズを拘束するために慌てて駆け寄って行った。

「くっ……、よっ……と」

 ロブは唸るような声を洩らしながら、腹に刺さったシザーハンズの鋏を引き抜いて投げ捨てた。

「ちょっと……、傷は……」

 べっとりと血で塗られて真っ赤に染まった刃に、フリオローザはどきりとしてマスクの下の顔を青褪めさせた。

「……あとは頼む」

「え?」

 小さく呟いたロブは、そのまま駆け出して地を蹴って跳び、壁を蹴って更に跳び、建物の屋上へ駆け上がると、そのままいくつもの屋根を飛び越えて宵闇の中へ消えて行った。

「やったぞ!」

「アイアンクラッド!」

「すげえ!」

「イカしてたぜ!」

「ありがとう! アイアンクラッド!」

 人々の歓喜と賞賛の叫びが沸き上がり、興奮の熱も冷めやらぬ中、フリオローザはロブを追って駆け出した。


§


 街の中心部を離れた寂れた地区の一角。打ち捨てられたようにたたずむ古びたビルの屋上で、錆びた鉄柵に背中を預けて座り込む男が一人。

 浮浪者と見紛うような薄汚れたみすぼらしい身なり。禿げ上がって脂でぎとつく頭。濁った目。だらしなくたるんだ体。見るからに落伍者といった惨めな姿の中年男。

 座り込んだ尻はびっしょりと濡れているが、それもそのはず。男は大きな水たまりの中に座り込んでいるのだから。

 そして、その水たまりは真っ赤で、男の腹から流れ出したものでできていた。

 ぴしゃりと飛沫を跳ね上げる音。

 うつむいた男の視界に血で赤く汚れた白いブーツが映った。

「アイアンクラッド……」

「ロブだ」

 そう言って、ロブは顔に巻いたぼろ布をむしり取った。

「その名前はマスクをしてる時だけだ。今は、ロブ・グリーンブッシュだ」

「……そうね、ロブ」

 頷くフリオローザの声は震えていた。

 辺りを覆い尽くすような赤い水たまり。この出血量は致命的だ。

「死ぬつもりだったの?」

「死ぬかどうかも考えなかったよ。そんな事はどうでもよかった」

 うつむいたまま、ロブは静かに言った。

「あいつは、シザーハンズは俺のせいでああなった」

「あなただけのせいじゃない」

「だが、俺のせいでもある」

「……ええ」

「あいつは大勢を殺したんだろ。あいつがシザーハンズにならなければ死ななかった人達だ」

「ええ」

「俺があいつをシザーハンズにした。そして、シザーハンズのせいで大勢が死んだ。つまり、俺のせいで大勢が死んだ」

「そう言ってあなたを責める人もいるでしょうね」

「それが怖かった……」

 ロブは咳込んで血を吐きながら続けた。

「ヒーローなんて偉そうにしたって、一人でできる事なんてちっぽけなもんだ……。力が足りなくて、手が届かなくて、何もかも守りきる事なんてできやしない。そうして、守りきれずに傷つけたものに向き合う事が怖かったんだ……」

「……もういいから、喋らないで」

「あの時、俺が逃げずにいたら、ちゃんとあの子に向かい合う勇気があれば、こんな風にはならなかったのかもな……」

「……お願いだから、もう喋らないで、傷が……」

「なあ、フリオローザ……」

「ミナよ」

 そう言って、フリオローザはマスクを外した。

「マスクを外したから、今はミナ・ウィンターズよ」

「そうか。なあ、ミナ……」

 その名を呟くと、ロブの口元には自然と優しい笑みが浮かんだ。

「頼みがある。俺の事を全部、世の中に明かしてくれ。アイアンクラッドが何者なのか、何をしていたのか、シザーハンズの事も、俺のせいで死んだ人達のことも、何もかも……。俺はその結果に逃げずに向かい合いたいんだ。どんな裁きも報いも、きちんと受け止めたいんだ……。それくらいしか、俺にできる償いはないんだ……」

「ロブ……」

「頼まれてくれるか……?」

「……ええ、わかった……。あなたのすべてをきちんとみんなに伝えるわ」

「そうか。ありがとうな……、ミナ……」

 それだけ言い終えると、ロブは大きく息を一つ吐いて目を閉じた。

「ロブ?」

 答える声はない。

「……ちょっと、起きて、しっかりして、ねえ、ロブ」

 フリオローザがロブの肩にふれた途端、その体はぐらりと傾いて血たまりの中に倒れた。

「──パパっ!」

 最後の叫びはもうロブの耳には届いていなかったが、その顔は穏やかに安らいでいた。


エピローグ


 アイアンクラッドことロブ・グリーンブッシュの遺言はフリオローザの口から世間へ公表された。

 彼を英雄と讃える者もいた。

 彼を悪漢と罵る者もいた。

 アイアンクラッドによって救われた命があり、助けられた者は感謝を叫んだ。

 シザーハンズによって奪われた命があり、家族や友人を失った者は怨嗟を叫んだ。

 彼が多くのヴィランを倒し、多くの人々を救ったのも事実。

 彼のせいで新たなヴィランが生まれ、多くの人々が傷ついたのも事実。

 彼の功罪をどう評価すればよいのか。救った人々の数と、救えなかった人々の数を差し引きしてプラスになればいいというものでもないだろうし、きっと万人が納得する答えなどありはしない。

 そして、それはアイアンクラッドだけに言える事ではない。

 すべてのヒーロー達は、ヒーローとなる事を選んだ時から、際限のない期待と責任を背負い続けていく事になる。例え十人を救っても、救えなかった十一人目からは恨まれるだろう。なぜ助けてくれなかったのか、と。

 決して華やかに脚光と喝采を浴びるだけではない。謂われのない非難を受ける事もあれば、落ち度を責められ罵声を投げつけられる事にもなる。その重圧に押し潰され、挫折して消えていく者も少なくはない。

 時に地べたに這いつくばって泥を啜るような屈辱を味わい、傷ついて血を流しながらも認められず、救った人々からすら石打たれる。それでも挫けず立ち上がれる強い意志を持てるだろうか。恨みをぶつける人々を憎まずにいられる高潔さを持てるだろうか──。

 フリオローザは自らにそう問うが、答えは出ない。あまりにも若く、まだ挫折を知らない彼女には、そうした事態に直面した時の自分がどうなるかわからない。

 しかし、彼女は知っている。重圧に押し潰されたヒーローを。そして、二十年かかってようやく再び立ち上がる事ができたヒーローを。

 街角の壁には、誰がどこから見つけてきたのだろうか、二十年も前のヒーローのポスターが何枚も貼られていた。

『INVINCIBLE IRONCLAD』

 古臭いコスチュームでポーズをつける忘れ去られていたヒーロー。

 色褪せたポスターは、上から感謝のメッセージを記したメモを何重にも貼り付けられているものもあれば、汚い罵声や落書きで塗り潰されたものもある。

「──でも、あの時のあなたは、確かにヒーローだったわ。ママが言ってた通りの、最高のスーパーヒーロー」

 フリオローザはそんなポスターの一枚にそっとふれて、マスクをつけた顔の所を指でなぞった。

「──さよなら、スーパーヒーロー」

 そう呟いて、フリオローザはポスターに背を向け、人々を守り悪を討つヒーローの役目を果たすべく、今日もまた街に潜む闇の中へと飛び込んで行った。

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さよならスーパーヒーロー 瀬戸安人 @deichtine

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