#34 自由
「誰?」
シエルも、首を上げスーヴェンを見つめる。やはり、表情はない。あれだけの絶望を味わっても、瞳と声以外にその感情は浮かばない。それも今は、彼女が人間でないことの一つの証左だ。
「わたしだよ、シエル。そうか、記憶がないんだな……。手紙を読んだだろう、シエル」
「E・J・M? あなたが?」
「そうだよ、私がエミール・ジャン・モウだ」
スーヴェンは俺たちがいるのが目に入らないようだった。真っすぐにシエルに近づき、彼女の手を取る。
「ちょうどいいところに来てくれたね、あんた」
プリステスの顔には、心なしか笑顔が浮かんでいる。シエルは記憶を失ったままだが、E・J・Mを見つけることができたのだ。これで、プリステスが
「
対する
「ですが、シエルはまだこちら側にはありませんよ」
「だったら勝手に連れていきな」
シエルを捕らえていた
「さぁ、金を渡してくれるかい」
こうなると、圧倒的に優位にあるのはプリステスである。だが、
「どうしたんだい、
「……いえ、ちょっと、ですね。困ったことになりましたね」
しかし言葉とは裏腹に
「なんだい、また私とやろうってのかい? いくらやっても無駄だと思うがね。それとも、もう昨日のことを忘れたわけじゃないだろうね」
だが、プリステスとてそれは同じだ。彼女は強い。圧倒的だ。一体どういう仕組みなのかはわからないが、
「もちろん、忘れていませんよ? あなたはお強い。一体どんな力なのかとても気になります。まぁ、ある程度は想像がつきますがね。嘘をつかないという制約の代わりに、何らかの呪術を身に宿しているんでしょうけれど」
「調べはついたって? でもそれで何ができるっていうんだい? 金が払えないんなら、さっさと失せな」
言葉の応酬を終わらせたのは、
「……本当は、円満に解決したかったんですけどね。港湾街を選んでいただいて助かりましたよ。ここなら、我々の船があっても怪しまれませんからね」
――轟音。轟音、轟音、轟音。その合図に従って、何か巨大な重量物が、
俺はとっさに頭を抱えて地面に伏せる。
従軍記者だった頃の癖だ。しみついた記憶が、それを砲撃だと判断した。
だが、落下した後にあるはずの炸裂音は聞こえない。火薬の匂いもない。
「何してるんですか?」
「さぁ、これから面白いものが始まりますよ。私たちの技術の粋をお披露目いたします。是非ご覧になってください」
顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、漆黒の甲冑を身に着けた、4つの人影。先ほどの落下音は、どうやらこれが着地した音だったようだ。
「
ブォン。
漆黒の甲冑の隙間から、一瞬青い光が漏れた。そして、突如それらは全身をばねのように屈めたかと思うと、プリステスに向かって殺到する。彼らの腕には、人間では持つことのできないような、巨大な剣が握られており、それをプリステスに向かって振り下ろした。四つの剣戟。受け止めるのは、しかしプリステスではなく、
「やりますねえ」
宙を舞う漆黒の甲冑は、しかし幾度突き飛ばされても、すぐに起き上がりプリステスに向かっていく。
「分かりましたか? プリステス。私はもうあなたなど怖くはない。この場所から、いえ、この街から消えるのは私ではなくあなたです」
「くそっ」
「見ていただけましたか? E・J・M。いかがでしょう」
傍らに立つE・J・Mに
「是非、我々の国であなたの知識を生かしてくださいませんか。もちろん、あなた自身の研究も続けてくださって構いません。衣食住、最高級の生活も保障いたします」
しかし、E・J・Mは即答した。
「断る」
「何故? 一体何が不満なのです? それとも、研究などはもうしたくない、と。そういうことですか。いけませんね、それでは――力づくで連れていくことになってしまいますよ」
だが、E・J・Mは微動だにしない。動いたのは、
――シエルだった。
そして、俺はあの晩何があったのかを知る。どうやって彼女が、貴族たちを殺していたのか。そして、あの夜。俺と二人、警察に包囲された中から抜け出せた理由を俺は知る。
シエルが腕を
その先端を
大気が揺れる。閃光が炸裂し、直後落雷よりもすさまじい轟音が響き渡る。
すさまじい威力だ。
「……あれ? あれ、私、今……」
その構えられた腕に、E・J・Mがそっと手を置き、それをそのまま下へと向けた。
「いいんだ、シエル」
優しい声音。
「もう、いいんだよ、シエル」
「何、何なの、待って、分からない。分からないわ……そんな、今、何が……」
目の前で起きたことを、シエルは理解できない。自分の腕から砲が伸び、目の前の人間を打ち抜いた。その事実を、彼女は受け入れられない。
「あ……ぁ…いや イヤァ――――――――――――ッ!! ぁ;hぐあy9dfgpほ@いpld8りぃtふぉうyぎh;おjぽ;p」
その体を、E・J・Mが愛おしそうに抱き寄せた。
「シエル。もう、いいんだ。もう……。私を守る必要なんかない。あいつを殺す必要などないし、貴族たちだって殺さなくてよかったんだ、シエル」
「アァァァァアア――――アァ――ぁ――……」
声にならないシエルの叫びが、少しずつその腕の中で収まっていく。
「もう、誰もいないんだ。誰も私を殺そうとはしていない。だから、もう、シエル……」
そして、体の力が抜けていった。シエルのその細い体は、E・J・Mの胸の中で、小さな子供が眠りにつくように、安らかな息を立て始める。
「いい子だ、シエル――。いい子だ……記憶を失っても、覚えてくれていたんだね」
何が起きたのか。
目の前の情景に、俺は混乱している。
エミールを守り、シエルが
「うん……」
「でも、もういいんだ。もう、誰もいない。お前のこと、私のこと、知る人間は誰も――」
「……グレッグは? グレッグ・オースティンは? あいつが、一番あなたを嫌ってた」
幼子のように。父を慕う娘のように、その声は甘やかで、とろけるようで、しかしそれ故に残酷に響く。
「私が殺しておいたから、心配しなくていい」
答えるエミールもまた狂っている。
プリステスと、北方の甲冑たちの戦いは、いまだ続いている。吹き飛ばされた
「なあ、あんた」
俺は問いかけねばならなかった。どうしても、この男に尋ねなければならないことがあった。
「教えてくれ、何故俺の妻は死んだんだ」
「妻?」
「俺の妻だ。……俺のことは覚えてるだろう? 二十年前お前のことを調べていた記者だ」
「……ああ。そういえば、そんなこともあったな」
「そんなこと、そんなこと……だと」
俺はこの男にとっての「そんなこと」のために、ここまで生きてきたのか。
「シエル……お前はどうなんだ。記憶を取り戻したんだろう。なら……」
シエルが、灰色の瞳を俺へと向ける。見慣れた瞳。
「私は、エミールを守らなくてはならなかった」
「それだけか……! それだけで、俺の妻は……俺の、これまでの人生は……全部ッ!!」
腕が振るえた。全身に血が上る。もう、何も考えられない。後のことなどどうだっていい。今、分かった。迷路の出口ではっきりした。俺はシエルを殺してやりたい。エミール・ジャン・モウというこの男も殺してやりたい。そうすべきだ。そうするしかない。そうするために、俺は、この世に生まれてきたのだ。
「殺してくれ」
「え?」
激高する俺の耳に飛び込んできた言葉。
「私を殺してくれ」
それが、目の前のいる男の口から発せられているのだと理解するのに、数秒。そして、彼が差し出している拳銃に気が付くのに、さらに数秒。
エミールが、俺に銃把を向けている。
「……なん……で? エミール? なんで……」
うろたえるシエル。
「シエル。私にとって、君はかけがえのない存在だ。だから、私は死ななくちゃならない。私は君を守りたかった。君こそが私の全てだった。だから、君の記憶を奪って
それは狂気の告白だ。
彼は自分が作り上げた、シエルという存在を愛してしまったのだ。
「だからシエル。もう君を私は汚したくない。君の手を血で染めてしまいたくない。私を守る必要なんてない」
「でも、私はあなたを守る兵士。あなたの敵を排除するようにって――」
「そう、私たちの計画はそうだった。でも、君は違う。君だけは、違う。君に本物の魂が宿ってしまった時に、私は気が付いた――」
「違う。私の存在理由。私の目的はあなたを守ること。あなたに敵対する人たちを殺して――殺して――」
「いいんだ、シエル」
「駄目、じゃないと、私は生きていけない。目的のない
「シエル」
「駄目、あなたは殺させない。あなたは死なせない」
「シエル」
「駄目よ」
「シエル」
「駄目……」
「シエル。君はもう
「……」
俺は、差し出された銃を握る。そして、その銃口を、エミールへと突きつける。シエルはもう何も言わない。何も見ていない。灰色の瞳には何も映っていない。そんな風に思えた。
「感謝するよ」
乾いた銃声が響いた。それは、俺の手から鳴ったのではなかった。
エミールがどさり、と倒れた。頭から血が流れている。うつぶせに倒れ、微動だにしない。即死だ。
そして俺は見つける。シエルの指先から煙が上がっているのを。彼女の指に銃口が開いているのを。
「ねえ」
「なんだ」
シエルは自分の指先を見つめている。か細く上がる細い煙。
「私が人間だとしたら」
そして、彼女はその指先をゆっくりと持ち上げ。
「何をしてもいいのなら」
その先端が指し示すのは、
「自由に生きられるのだとしたら」
指先の銃口が至るのは――。
そして、人を殺したことのないような笑顔で、
「死ぬ自由だってあるのよね」
二度目の銃声。
自分のこめかみへと向けられた彼女の指は、そして二度目の煙を上げて。
ゆらり、と力の抜けた人形は、男の死体のそばへと倒れ伏した。
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