#34 自由

「誰?」

 シエルも、首を上げスーヴェンを見つめる。やはり、表情はない。あれだけの絶望を味わっても、瞳と声以外にその感情は浮かばない。それも今は、彼女が人間でないことの一つの証左だ。

 蜘蛛アレニェが俺に彼が視線を投げてくる。彼がスーヴェンか、と聞きたいのだろう。俺はそれに頷きを返す。

「わたしだよ、シエル。そうか、記憶がないんだな……。手紙を読んだだろう、シエル」

「E・J・M? あなたが?」

「そうだよ、私がエミール・ジャン・モウだ」

 スーヴェンは俺たちがいるのが目に入らないようだった。真っすぐにシエルに近づき、彼女の手を取る。

「ちょうどいいところに来てくれたね、あんた」

 プリステスの顔には、心なしか笑顔が浮かんでいる。シエルは記憶を失ったままだが、E・J・Mを見つけることができたのだ。これで、プリステスが蜘蛛アレニェに対して嘘をついていた、という負い目はきれいになくなった。

蜘蛛アレニェ、これで取引は成立だね。さっさとその金をよこしな」

 対する蜘蛛アレニェは、苦虫をかみつぶしたような顔である。それはそうだ。これで計画はすべて飛んでしまった。

「ですが、シエルはまだこちら側にはありませんよ」

「だったら勝手に連れていきな」

 シエルを捕らえていた半月バンイェの腕が解かれた。一瞬ふらり、と体の重みをこらえるようによろめいたが、シエルはすぐに自分の足で立った。大きな傷などはなかったようだ。

「さぁ、金を渡してくれるかい」

 こうなると、圧倒的に優位にあるのはプリステスである。だが、蜘蛛アレニェはなかなか金を渡さない。いや、渡せないのだ。彼は結局金を集められなかった。だから、プリステスが嘘をつけないという制約を盾にしてシエルを奪うつもりだったのだ。プリステスも、おそらくはそのことに気が付いている。それを分かった上で揺さぶりをかけているのだ。

「どうしたんだい、蜘蛛アレニェ

「……いえ、ちょっと、ですね。困ったことになりましたね」

 しかし言葉とは裏腹に蜘蛛アレニェの表情は崩れなかった。

「なんだい、また私とやろうってのかい? いくらやっても無駄だと思うがね。それとも、もう昨日のことを忘れたわけじゃないだろうね」

 だが、プリステスとてそれは同じだ。彼女は強い。圧倒的だ。一体どういう仕組みなのかはわからないが、蜘蛛アレニェは一手たりともプリステスに当てることができなかった。

「もちろん、忘れていませんよ? あなたはお強い。一体どんな力なのかとても気になります。まぁ、ある程度は想像がつきますがね。嘘をつかないという制約の代わりに、何らかの呪術を身に宿しているんでしょうけれど」

「調べはついたって? でもそれで何ができるっていうんだい? 金が払えないんなら、さっさと失せな」

 言葉の応酬を終わらせたのは、蜘蛛アレニェだった。

「……本当は、円満に解決したかったんですけどね。港湾街を選んでいただいて助かりましたよ。ここなら、我々の船があっても怪しまれませんからね」

 蜘蛛アレニェが腕を一本振り上げ、それをプリステスへと振り下ろした。まるで、突撃を指示する騎士のように。

 ――轟音。轟音、轟音、轟音。その合図に従って、何か巨大な重量物が、蜘蛛アレニェの周囲へと落下した。

 俺はとっさに頭を抱えて地面に伏せる。

 従軍記者だった頃の癖だ。しみついた記憶が、それを砲撃だと判断した。

 だが、落下した後にあるはずの炸裂音は聞こえない。火薬の匂いもない。

「何してるんですか?」

 蜘蛛アレニェが這いつくばる俺を嘲笑う。

「さぁ、これから面白いものが始まりますよ。私たちの技術の粋をお披露目いたします。是非ご覧になってください」

 顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、漆黒の甲冑を身に着けた、4つの人影。先ほどの落下音は、どうやらこれが着地した音だったようだ。

機巧マキナ技術は、何もあなた達だけのモノじゃないんです、E・J・M。確かにまだあなたが作り上げたような、完成体までには至っていません。ですが、見てください。この面構えを。いかがですか?これこそが機巧人形マキナ・ドールの正しい進化の姿。――殺れ」

 ブォン。

 漆黒の甲冑の隙間から、一瞬青い光が漏れた。そして、突如それらは全身をばねのように屈めたかと思うと、プリステスに向かって殺到する。彼らの腕には、人間では持つことのできないような、巨大な剣が握られており、それをプリステスに向かって振り下ろした。四つの剣戟。受け止めるのは、しかしプリステスではなく、半月バンイェ。こちらは長い槍を頭上に構え、それら四本の剣を受け流す。

「やりますねえ」

 蜘蛛アレニェは心底楽しそうに微笑んでいる。

 宙を舞う漆黒の甲冑は、しかし幾度突き飛ばされても、すぐに起き上がりプリステスに向かっていく。半月バンイェがそれをあしらっているが、次第に押されていく。甲冑たちは機巧人形マキナ・ドール、疲労も混乱も存在しない。そしてもちろん、命さえも。バンイェの槍が甲冑の隙間から内部に差し込まれても、死ぬことはない。

「分かりましたか? プリステス。私はもうあなたなど怖くはない。この場所から、いえ、この街から消えるのは私ではなくあなたです」

「くそっ」

 半月バンイェだけでは捌けなかった剣の軌跡を、プリステスも昨日の不思議な力を使って止めた。だが、その間隙に、横殴りの一閃が彼女を襲う。どちらが劣勢かは言うまでもない。

「見ていただけましたか? E・J・M。いかがでしょう」

 傍らに立つE・J・Mに蜘蛛アレニェが尋ねた。そこから少し離れたところに、シエルも心細げに立っている。

「是非、我々の国であなたの知識を生かしてくださいませんか。もちろん、あなた自身の研究も続けてくださって構いません。衣食住、最高級の生活も保障いたします」

 しかし、E・J・Mは即答した。

「断る」

「何故? 一体何が不満なのです? それとも、研究などはもうしたくない、と。そういうことですか。いけませんね、それでは――力づくで連れていくことになってしまいますよ」

 蜘蛛アレニェの腕が大きく広げられる。

 だが、E・J・Mは微動だにしない。動いたのは、

 ――シエルだった。

 そして、俺はあの晩何があったのかを知る。どうやって彼女が、貴族たちを殺していたのか。そして、あの夜。俺と二人、警察に包囲された中から抜け出せた理由を俺は知る。

 シエルが腕を蜘蛛アレニェに向ける。掌の先に穴が開き、そこから長い筒が伸びる。

 その先端を蜘蛛アレニェに向け、放つ。

 大気が揺れる。閃光が炸裂し、直後落雷よりもすさまじい轟音が響き渡る。蜘蛛アレニェの体が宙を舞い、はるか数十メートル後方へと落下する。瞬時に腕でガードしたのだろう、周囲には彼の8本腕の残骸が散乱している。

 すさまじい威力だ。

「……あれ? あれ、私、今……」

 その構えられた腕に、E・J・Mがそっと手を置き、それをそのまま下へと向けた。

「いいんだ、シエル」

 優しい声音。

「もう、いいんだよ、シエル」

「何、何なの、待って、分からない。分からないわ……そんな、今、何が……」

 目の前で起きたことを、シエルは理解できない。自分の腕から砲が伸び、目の前の人間を打ち抜いた。その事実を、彼女は受け入れられない。

「あ……ぁ…いや イヤァ――――――――――――ッ!! ぁ;hぐあy9dfgpほ@いpld8りぃtふぉうyぎh;おjぽ;p」

 その体を、E・J・Mが愛おしそうに抱き寄せた。

「シエル。もう、いいんだ。もう……。私を守る必要なんかない。あいつを殺す必要などないし、貴族たちだって殺さなくてよかったんだ、シエル」

「アァァァァアア――――アァ――ぁ――……」

 声にならないシエルの叫びが、少しずつその腕の中で収まっていく。

「もう、誰もいないんだ。誰も私を殺そうとはしていない。だから、もう、シエル……」

 そして、体の力が抜けていった。シエルのその細い体は、E・J・Mの胸の中で、小さな子供が眠りにつくように、安らかな息を立て始める。

「いい子だ、シエル――。いい子だ……記憶を失っても、覚えてくれていたんだね」

 何が起きたのか。

 目の前の情景に、俺は混乱している。

 エミールを守り、シエルが蜘蛛アレニェを吹き飛ばし……そして。

「うん……」

「でも、もういいんだ。もう、誰もいない。お前のこと、私のこと、知る人間は誰も――」

「……グレッグは? グレッグ・オースティンは? あいつが、一番あなたを嫌ってた」

 幼子のように。父を慕う娘のように、その声は甘やかで、とろけるようで、しかしそれ故に残酷に響く。

「私が殺しておいたから、心配しなくていい」

 答えるエミールもまた狂っている。


 プリステスと、北方の甲冑たちの戦いは、いまだ続いている。吹き飛ばされた蜘蛛アレニェはまだ横たわったまま、いつ起きるともしれない。あいつのことだ、死んだとは思えないが、気でも失っているのだろう。俺と、目の前にいる二人。それだけが、その喧騒から取り残されていた。

「なあ、あんた」

 俺は問いかけねばならなかった。どうしても、この男に尋ねなければならないことがあった。

「教えてくれ、何故俺の妻は死んだんだ」

「妻?」

「俺の妻だ。……俺のことは覚えてるだろう? 二十年前お前のことを調べていた記者だ」

「……ああ。そういえば、そんなこともあったな」

「そんなこと、そんなこと……だと」

 俺はこの男にとっての「そんなこと」のために、ここまで生きてきたのか。

「シエル……お前はどうなんだ。記憶を取り戻したんだろう。なら……」

 シエルが、灰色の瞳を俺へと向ける。見慣れた瞳。機巧義肢マキナ・ドールの、作られた眼球が俺の顔を映している。

「私は、エミールを守らなくてはならなかった」

「それだけか……! それだけで、俺の妻は……俺の、これまでの人生は……全部ッ!!」

 腕が振るえた。全身に血が上る。もう、何も考えられない。後のことなどどうだっていい。今、分かった。迷路の出口ではっきりした。俺はシエルを殺してやりたい。エミール・ジャン・モウというこの男も殺してやりたい。そうすべきだ。そうするしかない。そうするために、俺は、この世に生まれてきたのだ。


「殺してくれ」


「え?」

 激高する俺の耳に飛び込んできた言葉。

「私を殺してくれ」

 それが、目の前のいる男の口から発せられているのだと理解するのに、数秒。そして、彼が差し出している拳銃に気が付くのに、さらに数秒。

 エミールが、俺に銃把を向けている。

「……なん……で? エミール? なんで……」

 うろたえるシエル。

「シエル。私にとって、君はかけがえのない存在だ。だから、私は死ななくちゃならない。私は君を守りたかった。君こそが私の全てだった。だから、君の記憶を奪って機巧人形マキナ・ドールとしての役目を終わらせてやりたかった。君は美しい。君は素晴らしい。君以上のものなどこの世界に存在しない。私にとって君は唯一無二の存在で、だから、研究を終わらせた。もう君以外の機巧人形マキナ・ドールを作りたいとは思えなかった。そして眠らせた」

 それは狂気の告白だ。

 彼は自分が作り上げた、シエルという存在を愛してしまったのだ。

「だからシエル。もう君を私は汚したくない。君の手を血で染めてしまいたくない。私を守る必要なんてない」

「でも、私はあなたを守る兵士。あなたの敵を排除するようにって――」

「そう、私たちの計画はそうだった。でも、君は違う。君だけは、違う。君に本物の魂が宿ってしまった時に、私は気が付いた――」

「違う。私の存在理由。私の目的はあなたを守ること。あなたに敵対する人たちを殺して――殺して――」

「いいんだ、シエル」

「駄目、じゃないと、私は生きていけない。目的のない機巧人形マキナ・ドールなんて」

「シエル」

「駄目、あなたは殺させない。あなたは死なせない」

「シエル」

「駄目よ」

「シエル」

「駄目……」

「シエル。君はもう機巧人形マキナ・ドールじゃない。君はもう何にも縛られてなんかいない。自由なんだ。何をしたっていい、好きなように生きればいい。だけど、シエル。きっと私がいれば、君はいつまでも自由にはなれないんだ。記憶を失わせたのに、それでもこうして私を見つけ出してしまった。だから、もう、私はいい。私の背負う罪は、私一人が背負うべきだなんだ」

「……」

 俺は、差し出された銃を握る。そして、その銃口を、エミールへと突きつける。シエルはもう何も言わない。何も見ていない。灰色の瞳には何も映っていない。そんな風に思えた。

「感謝するよ」

 乾いた銃声が響いた。それは、俺の手から鳴ったのではなかった。

 エミールがどさり、と倒れた。頭から血が流れている。うつぶせに倒れ、微動だにしない。即死だ。

 そして俺は見つける。シエルの指先から煙が上がっているのを。彼女の指に銃口が開いているのを。

「ねえ」 

「なんだ」

 シエルは自分の指先を見つめている。か細く上がる細い煙。

「私が人間だとしたら」

 そして、彼女はその指先をゆっくりと持ち上げ。

「何をしてもいいのなら」

 その先端が指し示すのは、

「自由に生きられるのだとしたら」

 指先の銃口が至るのは――。

 そして、人を殺したことのないような笑顔で、

「死ぬ自由だってあるのよね」

 二度目の銃声。

 自分のこめかみへと向けられた彼女の指は、そして二度目の煙を上げて。

 ゆらり、と力の抜けた人形は、男の死体のそばへと倒れ伏した。

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