#33 人間
「どこにいるんだい、蜘蛛男」
最初に声を発したのは、プリステスだった。
「約束の時間だ。金は持ってきたんだろうね」
「もちろんです」
倉庫街と港の間の広い空間に、二人は立っていた。そこから少し離れた位置から、俺とクラリスはその光景を覗き見ている。
「あるだけの金をかき集めてきましたよ」
「最初からそうすりゃいいんだよ。昨日みたいな真似は、私だってしたくないんだ。まぁそれはあんたもだろうけど」
「ええ、昨日は、本当に申し訳ありませんでした」
「……まぁ今回は、この金に免じて許してやるよ、寄こしな」
プリステスが腕を伸ばすのが見える。
しかし、
「どういうつもりだ?」
「急に、惜しくなってしまいまして」
一瞬の沈黙の後に響くのは、プリステスの甲高い笑い声だ。
「冗談はおよし。あんたが他国の倍出すって言ったんじゃないか。だから他国の皆さんにはお帰りいただいたんだ」
「そうしてください、と私がお願いしたように」
「そうさね。だったら、さっさとそれを渡しな」
「……では、先にシエルをこちらに」
瞬間、プリステスの表情が険しくなる。それを見逃す
「金が先だ」
「そういうわけにはいきませんよ。確かめたいことがありますからね」
「確かめたいこと、だと?」
「ええ、確かめたいこと。あるいは、確かめなくてはならないこと。この取引を正しく終えるために、ね。……いえ、もっと別の言い方をしましょうか。あなたが嘘をついていないということを、証明してもらうために、です」
風向きが変わった。プリステスもようやく、
「
それまでどこにもいなかったはずの彼が、プリステスの隣に突然現れる。まるで奇術でも見ているようなその登場に、クラリスが小さく息を飲むのが聞こえた。
だが、俺の目を奪ったのは、それとは別、今も
「う……」
シエルの頭が微かに動く。
「起きな」
「う……うう……」
うめき声をあげながら、ようやくシエルの頭が上がった。ここからではその顔は見えない。
「……
なかなか意識を覚醒させないシエルに、プリステスは業を煮やしているようだ。
「アァァァッ!!」
シエルの口から、耳をふさぎたくなるような悲鳴が上がった。異常な光景だ。3人の男女が、無表情に一人の少女が悲鳴を上げるのを眺めているというのは。
「ひどい……」
クラリスの呟きを聞いても、俺の心は微動だにしない。
「目は覚めたようですね」
「……ったく、手間をかけさせる子だよ。で、この子を起こして何を聞きたいんだい、と言いたいところだが、まぁ大体見当はついてる。これが記憶を取り戻したかどうか、だろう?」
「そうです。あなたは行ったはずですからね。このシエルという少女が、E・J・Mの居場所を知っている、と。ですが、本当はその少女は知らないんじゃないですか? もしもそうだとするならば、あなたは嘘をついたことになる。ですが、あなたは嘘をついてはならない。否、つくことができない……と、
「何、何の話をしているの? それに、ねぇ
「黙ってな!」
シエルの言葉を、プリステスの怒声が遮った。
「本当にお前のせいで、このところ踏んだり蹴ったりだよ。
「そうよ、彼は、彼はどこにいるの?」
気を失う前の情景が蘇ってきたのだろう、シエルの取り乱したような声が聞こえる。それにかぶせられるのは、冷ややかなプリステスの声だ。
「あんたも情が移ったのかい。――自分が殺そうとした相手だって言うのに」
違う――。
いや、違わない。プリステスの言う通りだ。彼女は俺を殺そうとした。そしえ、その前段階として妻を殺した。でも、やっぱり違う。その話は、あんたがしていい話じゃない。俺が、自分の口からシエルへと伝えなくてはならないことだ。
気づけば、俺は倉庫の影から足を踏み出していた。
「シエル――!!」
目の端に、
「……ああ、大丈夫だったのね」
俺を見つけたシエルが、安堵の言葉を漏らす。
「仕事はできないくせに、余計なことばかりしやがって、よくそれでここに顔を出せたもんだね。殺してやろうか?」
それとは対照的な、プリステスの言葉が俺に突き刺さる。
「嘘をついたのはお前だろう、プリステス。悪いのは俺じゃない」
「ねえ、私があなたを殺そうとしていたって、本当なの」
シエルの灰色の瞳がすがるように俺を見つめている。
「――本当だ、シエル。お前は、俺を殺そうとした。だが、お前は失敗したんだ。そして、俺の妻を殺した」
「……そん……な……」
「分かったかい? シエル。あんたがしたことが何だったのか。思い出したかい?」
「なんで、なんで……!! 20年前でしょう? そんなのありえないわ。だって私はまだ20歳になってない。不可能だ、ってあなたが言ったんじゃない」
「……ああ、そうだ。俺はそう言った。だが、状況が変わったんだ。シエル、お前は」
灰色の髪と、灰色の瞳を持つ少女。自分を殻だと言った少女。何もない、と。だから、過去を取り戻して、と言った少女。俺は今その過去を手にしている。彼女に伝えることができる。伝えなくてはならない。それが、俺の望みだ。……そのはずなのに。
――何故、それがこんなにも辛い。
「私は、何なの?」
「人間じゃない。シエル。お前は機械だ。
プリステスが笑う。
なのに、この場所にいるのはシエルと俺の二人だけのように思えた。
「……なに、それ」
ようやく絞り出した声が紡ぐのは、あきらめとも絶望にも、あるいは否定してほしいという願望にも聞こえる、ひどくちっぽけな呟きだった。
「分かるように説明して! 人間じゃないなんて言われたって、分からない。私は私よ、人間よ。ねえ、
シエルの言葉は、夜のとばりの降りつつある世界に、ひどく虚しく響き渡った。その前で、俺は何も言うことができずにいた。否定することは簡単だ。だが、それをして何になるというのだろう。
俺の沈黙を見て、口を開いたのはプリステスだった。
「諦めな、あんたは人間じゃない。それに、殺したのもこいつの女だけじゃない。ここしばらく、あんたは夜の間に帝都中の貴族を殺して回ってた。17人……いや、18人か」
「なんのこと……?」
「ああ……やっぱりそうだったんですねぇ。そうじゃないか、とは思っていたんですよ。現場の様子や、そのあとの報道などを見ると、どうも怪しいなぁ、と。まぁ我々北方連合からしてみれば、どうだっていいことなんですがねぇ」
受けて答えるのは
「殺した……? そんな、覚えてない……知らない……私は……だって、夜は眠って、ねぇ」
瞳は俺を向いている。だが、俺は首を縦に振ることも、横に振ることもできない。
「なんなの……何なのよ……なんで、私が知らないことを、あなたたちは知っているの? 誰か、ちゃんと教えてよ。そんな、もっと、全部。きちんとわかるように。ねぇ、私が人間じゃないとしたら、誰が私を作ったの? 何のために私はここにいるの? なんでそんなにたくさんの人を殺したの? 理由を教えてよ。説明してよ……納得させてよ…………っ」
シエルの絶叫は、遠くから聞こえるさざ波の音とともに消えていく。だが、彼女の苦悩など誰が理解できるというのだろう。彼女の思いを、どうやって理解すればいいというのだろう。俺は人間だ。プリステスも
――いや、あるいは。一人だけいるのかもしれない。彼女を理解はできずとも、彼女の疑問に答えることができる者。彼女を作り上げた男。E・J・Mその人ならば。
「シエル」
その声は、この場に似合わない、ひどく優しいものだった。
「シエル。ああ、私が分かるかい、シエル」
全員の視線が、その声の主へと向けられる。
長い軍服をまとった、老齢の男。闇の中から、闇の中へと消えていったはずの男。別の人間になりすまし、その正体を隠したまま生きながらえてきた男。スーヴェン・ゾラ、否、E・J・Mがそこにいた。
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