#32 港湾街

 貧民街の大通りを、クラリスの運転する車で走り抜ける。中心街とは違い、道路の舗装は荒く、悪路に車は飛び跳ねる。乗り込むのは俺とクラリスの二人。目指すのはもちろん貧民街のさらに奥にある港湾街である。

「今何時?」

「4時だ。もうすぐ日は暮れる」

 窓の外は貧民街の大通りを抜けたようだ。バラック小屋やレンガを適当に並べただけの粗末な家々が並んでいる。ここを抜けた先に海があるとは信じられない光景だ。

 港湾街。

 この街に運び込まれる物資や、この街から外に出ていく物が集積され、数多くの労働者が働くことで街区を形成した地域。ここから上陸した移民たちが、中心街に入れないことで形成された貧民街とは、切っても切れない関係にある。

 シエルの取引がこの場所で行われるのは、取引相手が外国の人間だからだろう。何かあった場合にすぐさま逃亡できる経路が確保されているというのは、大きな取引では基本となる事項だ。


「スーヴェンね」

 クラリスの言葉に俺は頷く。

 この状況を考えれば彼女がその答えにたどり着くことは容易なことだ。新聞社の地下の保管庫で俺はE・J・Mを見つけた、といった。しかし、俺たちはで港湾街に向かっている。ということは、すでにE・J・Mは港湾街へと向かったと考えるほかない。

「でも、なぜ彼だと?」

 耳障りな走行音。吐き気を催す揺れ。それをこらえつつ俺は答える。

「最初に気になったのは、彼の機巧義肢マキナだ」

機巧義肢マキナ?」

「そう。俺が彼の腕をつかんだ時、その感触は人体の硬さじゃなかった。おそらくあれは義肢だ」

 クラリスは知らなかったようだ。

「貴族で義肢を使っている奴はそうはいない。そもそも貴族が身体を欠損することは少ない。……そして、写真だ」

 保管庫で見たスーヴェンの写真。20年前の、まだ若い彼の姿が写されていた。

「あの写真は、二つに分けることができる。ある時期を境にして、彼の姿は変わっていた。その時期というのは、旧貴族街のあの屋敷をサイモンがスーヴェンへと売却した日付の前後だ」

「姿?」

 あれらの写真。確かに、俺自身も、ある着眼点を持っていなければ クラリスと同じように見逃していただろう。しかし逆に言えば、ある意図をもってその写真を眺めれば、ある変化を見つけることができた。

「売却の前の写真、あの年の夏に撮られた彼の写真には、義肢は映っていなかった。半袖の写真は数枚あったが、彼の肩から先は人間のそれだった。しかし、そのあとの写真には、一つも彼の素肌が映っているものがない」

「つまり、その時期を境に彼の体は義肢になった、と言いたいわけね。そしてそれを彼は隠していた、と。そういうことかしら?」

「そうだ」

「……でも、それが何故彼がE・J・Mということになるの?」

 もっともな疑問だ。

機巧マキナ技術はここ20年発達していないという話だった。それが、俺には少しおかしいように思えた。20年だ。それだけの時間があれば、第二、第三のシエルが生み出されていたとしてもおかしくはない。あの人体実験に関わった貴族たちは、この連続殺人事件で殺されるまでは生きていたんだからな……。そう考えると、その技術は失われてしまったと考えるのが妥当じゃないか?」

「話がそれているようだけど」

 窓の外が、赤く染まっている。荒れ果てた荒野の果てにむかって、太陽はゆっくりとしかし確実に高度を下げている。目を細めてそれを眺め、俺は自分が話そうとしていることを再度確認し、そして再び口を開く。


「まぁ、聞いてくれ。……じゃぁ、その技術を持っていたのは誰か、考えられるのはたった一人。そして、皆がその技術を欲しがっている人間、E・J・Mだ。だが彼は書類上死んでいる。何故? 実験は成功したはずだ。シエルという存在がその証拠だろう。なのに、その中核技術を持った彼はいなくなっている。何故そんなことが起きる? それはE・J・Mは彼らを裏切ったからじゃないのか?」

「……根拠はあるのかしら」

「根拠と言えるほどじゃ……ない。ただ、言っただろう? 俺は一度E・J・Mに会ったことがある。その時に感じた、彼の印象。自分の全てを何かに捧げると決めたような、彼の壮絶な表情。それはあの時点で、すでにサイモンたちを裏切ることを心に秘めていたからじゃないだろうか」

 わかっている。自分で言っていても、それが俺の希望的観測でしかないということは。ここから先の俺の論理が、憶測という生ぬるいものではなく、願望へと腐り果てているということも。

「ただ、そう考えると納得がいく点がある。E・J・Mが今もこの街にいることは確かだ。屋敷の前に止まっていた車。その中で見た煙草の吸い口。あんな切り方をする人間で、しかもあの屋敷を燃やさなければならないやつは、E・J・Mしか考えられない。……しかし、この街にいるにもかかわらず、彼はまだ見つかってもいない。それは、彼自身が別の人間に成り代わっているということじゃないか? だとすればいったい誰に……。もちろんただの一市民になっているかもしれない。その可能性はもちろんある。ただ、俺にはそうとは思えない」

「それも、彼を見た時の印象が、あなたにそう思わせているのかしら」

「そうなのかもしれない。ただ、もしも彼がスーヴェンに成り代わったのだとしたら、彼の体が機巧義肢マキナになっていたのにも説明がつく。それに、機巧マキナ技術の発展が止まっているのも、彼が王国軍事科学顧問として、人体実験を行わないようにしているから、とは考えられないだろうか」

 最後の部分。スーヴェンが人体実験を止めているという部分はあまりにも都合がいい考えかもしれない。あのスーヴェンの傲慢な振舞を考えれば、彼がただの市民の命を踏みにじることに躊躇などしないだろう。

 俺の説明にクラリスも納得半分、疑問半分、という表情で前方の風景をにらんでいた。

 俺だって半信半疑。自分の考えが正しいなどと思いあがっているわけではない。ただ、そう考えることができ、そしてそう考えることで辻褄が合う点は数多あるのだ。


「あなたは、それでいいのね」

 しかし、クラリスは俺の論理の矛盾を突こうとはしない。それが彼女の優しさだと分かっている俺も、頷きを返す以上の返事はしなかった。

 いよいよ、夕刻は迫りつつある。日はもう下端を地平線へと付け、忌々しい今日という日を終わらせにかかっていた。約束の時間だ。

 ちょうど、倉庫区画が遠くに見え始めた。そのさらに果てには海が見える。窓を開くと潮風の匂いがした。その少し手前に人影が見える。肩が大きく膨れ上がっている。


蜘蛛アレニェだ」

「あれが?」

「近くに止めてくれ。彼と話がしたい」

 車が近付くと、蜘蛛アレニェがこちらを振り返るのが分かった。8本の腕の一本を軽くこちらに合図するように振っている。

「来ないかと思いましたよ」

「俺がか?」

「ええ。……嘘ですよ、冗談です」

 軽口を交わし、俺たちは倉庫区画の片隅に立つ蜘蛛アレニェの隣に立った。

「クラリス、こいつが蜘蛛アレニェだ」

「はじめまして」

「こちらこそ。あなたは」

「新聞記者のクラリスです」

「俺の昔の同僚だ」

 簡単に紹介を交わす。時間がないのにもかかわらず、蜘蛛アレニェからは余裕が見て取れる。だが、こいつの場合はただ単にいつも通りに振舞っているだけかもしれない。

「どうぞ、よろしくお願いしますね。……それで、見たところE・J・Mはいないようですが」


 さっと、彼の眼光が鋭くなった。前言撤回だ。彼にだって余裕などない。俺たちは瀬戸際にいる。

「ここにはいない」

「ここに?」

「ああ……だがおそらく彼もこの場所にいるはずだ」

「つまり、あなたは見つけた、と」

「そうだ」


 俺はこの半日で掴んだ手がかり、そして俺の考えを蜘蛛アレニェに伝える。


「……つまり、王国軍事科学顧問であるスーヴェンこそが、E・J・Mである、と。あなたはそう考えるわけですね。そして、結果的ではあるものの、スーヴェンはこの場所にきているはずだ、と」

「間違いなく、スーヴェンはここにきている。どこかでシエルの取引が始まるのを待っているはずだ」

「分かりました。まぁいいでしょう。スーヴェンがここにきていようと、来ていなかろうと。もう間もなく取引は始まります。あなたとの約束は、E・J・Mをここに連れてこられた場合に、シエルを引き渡すということでした。……いいでしょう。スーヴェンがE・J・Mだったのなら、あなたにシエルはお渡しします。それでいいですね?」

「無論だ」

 風が吹き抜ける。赤い日差しは、もう間もなく消えるだろう。

 最後の取引が始まる。


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