#30 スーヴェン
「それで、何の用件だ」
王国軍事科学上級顧問。その仰々しい肩書通りの雰囲気を身にまとったスーヴェン・ゾラは、俺が机の上に置いた灰色の球体を視界の端に収めながら、そう尋ねた。
「いいわね?」
「もちろんだ、だが簡潔に頼む」
俺よりもこういう仕事に慣れているクラリスに、事前に話し合った通り、説明を任せる。役割分担だ。時間はあまりない。
「あなたが、戦時中に行方不明になった人間を使って人体実験をしたという情報があるの」
「人体実験? おお、なんとおぞましい。それを私がした? だと。ありえない」
スーヴェンの表情は、ほんの少し眉の位置が変わっただけだ。嘘とも本気ともつかない表情である。
「関わっていない、と?」
「もちろんだとも」
予想通りの返答だ。当然といえば当然でもある。ことは数百人規模の人体実験と称した殺人事件に発展する恐れもある。そうなれば、彼の足首に繋がれる罪の鎖は、一本二本では済まない。
「なら、話を変えましょう。……サイモン・ガーフリックスは知っているわね?」
「もちろんだ。痛ましい事件だった。まだ犯人は捕まっていないと聞く」
「あなたは確か、彼と――」
「ああ。古い付き合いだよ。それはよく知られているし、隠すことは何もない」
「彼を殺した犯人に心当たりは?」
「あるわけないだろう。たとえあったとして、私がそれを黙っておく必要があるとでも?」
問いかける言葉は丁寧だが、眼光に宿る光は、無色透明。まったく感情が読めない。
「彼が、サイモン・ガーフレックスがその人体実験に関与したという疑いがあるの」
「……ほう? 友の死を愚弄するわけか。まぁ良い、好きなだけ話せ」
「言われなくてもそうさせてもらうわ。実はね、サイモンの殺害、そしてその以前から続いている16人の連続殺人は、すべてその人体実験に関与した疑いがもたれている人物が標的にされているの。そして、グレッグも」
「グレッグ? まさか、グレッグ・オースティンか? 彼も殺された、と?」
「ええ」
「……ああ、なんということだ。確かに、私は彼とも懇意にしていた。若いころのことだがね。そうか……彼まで……」
片手を額にやり、苦悩をこらえるように呟く。しかし、悲嘆に暮れているように見えるスーヴェンだが、その実際の気持ちまでは分からない。
「それで? まさか彼までがその忌まわしい実験に関わっていたというんじゃないだろうな?」
しばらくそうしていたスーヴェンは、顔を上げクラリスをにらみつける。威圧感のある眼光だが、さすがは新聞記者、といったところだ。クラリスはその視線を正面から受け止め、なおも視線を逸らさない。
「そうよ」
「そこまで言うなら、いいだろう。証拠はあるのかね?」
「……証拠はそれよ」
「これかね?」
クラリスはつかつかとヒールを鳴らしてスーヴェンの座る机に歩み寄る。
「これは、あなた達が研究していた
「ほう? これが? ……知らんね。そもそも、
分が悪いのは火を見るよりも明らか。実際、そう言われてしまえば、俺たちに打つ手などない。
「それじゃぁなぜ、私たちを招き入れてくれたのかしら?」
「私はこの国の公僕だ。であれば、君たちハイエナのような新聞屋が話を聞きたいと言ってきたのなら、会わなければなるまい。どれだけ腹立たしい言葉を投げられようと、それが私の務めだ」
「今まで私は何度かここに来たんだけれど、その時は会ってくれなかったのに、よくそんなことを言うわね」
「私も、君たちほどではないが、多忙でね」
机の上の灰色の球体を、スーヴェンは指で弾いてクラリスの前へと転がす。受け取れ、そしてさっさと帰れ、ということだろう。
もう俺たちに用はない。そういうことだ。
と、ここまでの展開は、クラリスと話し合う中で、予想していたものだ。クラリスが俺を振り返る。OKだ。俺は頷き返す。
「なら、最後にもう一つだけ聞かせてくれないかしら」
「聞くだけなら君たちの自由だ。だが、私はたぶん何も知らない。聞いたらすぐに帰ってくれ」
「E・J・Mという男を知っているかしら」
かすかな、瞬き一つで見逃してしまいそうな、わずかな反応が、スーヴェンから見て取れた。分からない。ここからの話次第だ。
「知らないな、誰だ? それは」
「とぼけないで。あなた達が行っていた人体実験の、おそらくは最重要人物よ。知らないわけがないでしょう? 私たちは彼を捜しているの。本当はあなたのことを告発したいわ。私は……それに、多くの人達、人生を狂わされてしまった人達のためにもね。でも、それは、今はいいの。私たちは、E・J・Mという男を今すぐにでも見つけたい。それだけよ」
「……」
スーヴェンは何も言葉を返さなかった。不自然な沈黙が部屋に降りた。
「……何故だ? 何故……その男に会いたいんだ?」
「それは――」
クラリスの背に、俺は手を置き彼女の言葉を遮る。
その先は、俺が言わねばならない。
「機巧人形の少女を助けるためだ」
「……」
再びの沈黙。だが、それは今にも語りだしそうなほどに雄弁な沈黙だった。
俺たちの作戦通りに進めば、これによってスーヴェンの協力を取り付けることができるはずだ。E・J・Mは、北方連合が欲しがるような機巧技術を持っている。それに、シエルはその技術の粋を集めたものだ。となれば、スーヴェンが欲しがらないはずがない。この街で、巨大な権力を持つスーヴェンの協力は、E・J・Mを見つける大きな助けになる、と俺たちは考えていた。
――しかし。
クラリスと目が合う。その目に浮かんでいる表情と、同じ目を俺はしているはずだ。
予想外。
想定外。
一体なんだ?
この沈黙は、何なんだ?
「その少女は、灰色の髪に、灰色の瞳……か?」
ようやく聞こえた声は、先ほどまでのスーヴェンの声とは全く異なっていた。振り絞るような、地の底から湧き出してきたような声だ。
「そうだ」
俺はすぐさま答える。
「名は?」
「分からない。本人は、シエルと自分のことを名乗っていたが、多分それは本物の名前じゃない。記憶を失っている。――ただ、手紙を持っていた」
「手紙……」
「そう、手紙だ。E・J・Mからの、手紙」
スーヴェンは、顔を下に向ける。その肩が微かに震えているように見え、そこでやっと俺は気が付いた。泣いているのだ。しかし、机の上には滴など落ちていない。俺の見間違いなのだろうか。
「それで、その少女はどこにいる?」
声も、変わらない。背は震えているが、泣いている人間の声ではない。
「知りたければ、E・J・Mを捜すのに協力――」
クラリスの言葉を遮り、スーヴェンは叫ぶ。
「言えッ!!!」
怒気。いや、そんな軽いものではない。激情あるいは、憤怒。彼の声からは、張り裂けんばかりの感情が迸っていた。
「どこだ! どこにいるんだッ!」
「夕刻、港湾街に……来るはずだ」
「……そうか」
俺の答えに、ようやくスーヴェンは落ち着きを取り戻す。
事態が呑み込めないままの俺たち二人の前で、一瞬前の感情の高ぶりはウソだったように、スーヴェンは無表情、無色透明な眼光を向け、
「帰ってくれ」
とのたまう。
「おい、それはないだろ。あんたはそれで満足かもしれないが、俺たちの質問には答えないつもりか?」
興味を失った、という風に、机から立ち上がるスーヴェン。その横顔には、俺の言葉は届かない。そのまま俺たちの前を横切っていく。
「おい!」
「ちょっと、やめなさい」
これじゃぁただ時間を無駄にしただけじゃないか。俺は、今日の夕刻までにE・J・Mを見つけなければならない。もう時刻は午後を回っている。ここから港湾街までは、2時間はかかる。このままスーヴェンを行かせるわけにはいかない。
クラリスの言葉を無視し、俺は彼の腕を服越しに掴んだ。
その感触に、違和感を覚える。
硬い。まるで、金属のような。脳裏によぎるのは、
「私は行くところができた」
「まさか、あんたもシエルを」
「離せ!」
強い力で、俺の腕は払われる。スーヴェンのどこにそんな力があったのかは分からないが、それも義肢の力なのだろうか。
「誰か、こいつらを外へ連れていけ」
扉が開き、衛兵が数人入ってくる。俺は羽交い絞めにされ、そのまま部屋の外へと連れ出された。クラリスも、俺に続いて扉の外へと締め出された。
「くそっ。あいつもシエルを手に入れるつもりだ。……俺はバカだ。その可能性に気が付かなった。そうだ、スーヴェンにとっても、シエルは価値がある」
「そうね。でも、彼が関わっていることは確実。それが分かっただけでも大きな成果」
「……そんなことはどうだっていいんだ」
もしも、シエルが北方連合や、スーヴェンに捕らえられてしまえば、何が起きるのかは容易に想像がつく。実験、そして解体。
「とにかく、もう一度会って」
俺の背後には、閉められた扉。その向こうにはまだスーヴェンはいるはずだ。
「頼む、もう一度」
俺を羽交い絞めにする衛兵は、しかし、俺のそんな言葉など一切受け付けようとはしない。
「駄目よ。いくらやったって、きっと……ダメ」
「クラリス、お前は分かってない。ここで追い出されてしまえば、もう……」
「まだ時間はある。とにかく、できることをやるの。まだ、燃やされた家のことだって、何も調べてない」
そうだった。グレッグの死の報せを聞いて、俺たちはスーヴェンに会いに行くことを優先したが、俺の当初の目的である、あの家の持ち主のことはまだ何も調べがついていない」
だが、それが何だという。
今更、あの家が誰のもので、あの家で何が起きたのかが分かったところで、一体何が変わる。それでE・J・Mが見つかるのか? そんなバカなことがあるわけがない。
……もう、いいか。
脳の奥の冷えた部分から声がする。妻の死から目を背け、ただ逃げることしかできなかったあの日から、その声はずっと頭の奥で鳴り響いていた。俺はそれにずっと蓋をしていた。聞こえないふりをしてきた。だが、本当はそうじゃない。ずっと聞こえていたのだ。いつやむとも知れず、かと言って激しく降ることもない十一月の雨のように、それはずっと俺の隣にあったのだ。
――それで、いいのか?
――――本当に、それで。
「逃げて」と、妻は言った。あの血みどろの家の風景の中で、彼女はそう口にした。言葉通りに、俺は逃げた。だが、ダメだったんだ。俺はあそこで逃げるべきじゃなかった。
立ち向かうべきだった。
たとえそこであの灰色の少女に殺されたとしても、背を向けるべきじゃなかったのだ。
まだ、時間はある。
やれることは、まだある。そうだ、何がどう転ぶかなんてわからない。クラリスの言う通り、まだあの家の惨劇の真相はつかめていない。あの家がE・J・Mに繋がっていることは確かなのだ。だとすれば、その極僅かな可能性を俺は辿っていくしかない。
「離してくれ」
左右にいる衛兵は、俺の言葉に一瞬互いに顔を見合わせたが、俺から抵抗する気配を感じ取れなかったからか、すぐに腕を解いた。
「クラリス」
「何?」
「さっきの俺はどうかしていた」
俺は、歩き出す。もうこの屋敷に用はない。スーヴェンの協力など期待しない。
クラリスが俺の背後でくすり、と笑う気配がした。
「さっきだけじゃないわ。20年ずっと、あなたはどうかしていた」
「そうかもしれない」
いや、きっとそうだったのだ。
逃げ続け、自分が生き残ることだけを考えた
俺は、俺だ。
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