#25 雨の下の暴力

「わたしが……殺した?」

 シエルの背中が微かに動く。

 俺はどうか振り返らないでくれ、と願わずにはいられなかった。自分が今どんな顔をしているのかわからない。ただ、まともな顔でないことは分かる。

 だが、その願いは叶わない。

 シエルは灰色の髪を揺らして、俺を振り返った。やはり表情のない顔に、やたらと雄弁な瞳が、彼女が言葉にならない感情を宿していることを伝えてきた。

「わたしが……」

 もう、その先は言葉にならなかった。灰色の瞳が街灯の明かりを反射して、水面のように揺れている。

「違うッ。あり得ないッ。20年前だ。お前はまだ生まれていない。お前が殺せるはずがない」

 そう言い募り、はっとする。自分の口から洩れる言葉は、とても苦しげに響いていた。まるで、神に縋る罪人のような声だ。


「分かっていないようですね。いや、分かっているからこそ、なのでしょうかね。あなたは気付いているんでしょう? その少女の顔が、妻を殺した女の顔と同じだということに。なのに何故、そんなにもその少女を守ろうとするんですか?」


 蜘蛛アレニェが、ゆっくりとシエルの隣に立ち、彼女の頬に手を触れた。金属製の指が、愛おしそうに撫でる。


 陶磁器のように白い肌に、蜘蛛アレニェの義肢の指先が食い込んだ。俺の肩に食い込んだはずの鋭利な刃物のような指先が、シエルの肌に突き立つ。赤い血が、そこからあふれ……ない。

 皮膚についた裂傷は、ただ一本の線として存在するだけで、そこからこぼれるはずの血液は無く、彼女の肌はただどこまでも白い。


「あなたは私に感謝すべきだ。あなたが探し求めていた答えがここにあるんですよ。憎いでしょう? 殺したいでしょう? あなただって考えたことがあるはずです。街の裏こちら側の人間ですからね。どうやって殺しますか? 指を折り、爪を剥がし、肌をやすりでこすりあげ、その絶叫を心行くまで聞きたい、と思ったことがない、なんて言わせませんよ」


 否定できない。確かに、俺は犯人をそうして拷問するつもりだった。後悔させる。俺の人生をぐちゃぐちゃにかき回したことを、謝罪させる。そうしなければ、俺の心は満たされない。その考えは今だって変わっちゃいない。


「好きにすればいい。あなたのしたいようにこの少女を殺せばいい。私がE・J・Mの情報を、この少女から引き出した後なら」

 蜘蛛アレニェが立ち上がり、シエルを引きずっていく。シエルは虚ろな目をして、されるがままだ。


 まただ。また、E・J・M。だが、これではっきりとした。やはり、蜘蛛アレニェも彼を追っていたのだ。今日あの屋敷に火を放ったのは、彼で間違いない。


「蜘蛛男。ちょっとそれは違うんじゃないかね」

 路地裏の影。

 痛みにうずくまったままの俺は、何とか首を動かし、その声の聞こえた方向に目をやった。

 見慣れた赤髪の女がその影から悠然と現れた。炎のように路地裏の影を焼き払いながら歩いてくる。

「まだあんたの天秤は傾いちゃいない。なのに勝手にシエルを連れ去っていかれちゃぁ困るね。こっちも商売でやってんだ」

「プリステス……」

 俺が辛うじてそう絞り出した声に、呼ばれた赤髪の女は、今初めて気づいた、と言う顔で俺に一瞥をくれる。


「ったくだらしないねぇ。やっぱりあんたじゃボディ・ガードにはならなかったみたいだね」

「説明……してくれ。あんたは何を知って、蜘蛛アレニェは……それにシエルが俺の妻を殺した……てのは……」


「ごちゃごちゃとうるさいね。静かにしとくれ。私があんたに答えてやる義理は何にもないんだから」

 そして、腕を軽く挙げた。何かの合図のように。

半月バンイェ商売道具シエルを取り返してくれ」


 雨が止まった。いや、雨だけじゃない。全ての動きが凍結したようだった。

 そんな錯覚さえ起こしそうな、一瞬の出来事だった。

 圧倒的な速さを持ったものが、プリステスの後方から蜘蛛アレニェへと向かって駆け抜けていくのが、凍結された時間の中で、辛うじて目に映り込んだ。


 際立って優れた力量を持つものは、時間の概念を超越する。

 それはその者だけではなく、周囲の者にさえ影響するという。

 

 音が戻った。雨も止んではおらず、途切れることなく降り続いている。しかし、状況は変わった。

 蜘蛛アレニェが引きずるようにしていたシエルの体は今そこにはなく、プリステスの隣に控えるようにして立っている半月型の仮面をつけた男の腕の中にある。


 半月バンイェが奪い返したのだ。彼はただのピアニストではなかった。 


「プゥリィステスゥゥゥゥゥゥゥ――!!」

 蜘蛛アレニェの怒号が、世闇を引き裂いた。同時に、八本腕を覆っていた衣服がはじけ飛ぶ。

 八本の腕が蜘蛛さながらに大きく広がり、プリステスへと威嚇するように向けられた。

「やだね、ったく。北方の人間はそういうところが嫌いなんだよ。無粋で、自分の力を誇示することしか能がない。しかも、自分よりも強いものなどいない、なんて誤認してさえいる。救いようがないね」

 

 プリステスは、蜘蛛アレニェに背を向けた。もう話し合うつもりも、やり合うつもりもないということを、態度だけで示すように。

 神経を逆なでされたのは、蜘蛛アレニェである。一瞬で間を詰め、その背に向けて殴りかかった。


 ――しかし。


 八本の腕と、同数の拳はまるで柔らかな綿を殴るように、勢いを全て吸い込まれ、中途半端に停止した。弾かれるのでも、軌道を逸らされたわけでもない。

 ただ、標的の目前で停止したのだ。

 プリステスとの間には何も見えない。にもかかわらず、蜘蛛アレニェは動くことができない。見えない糸に体を固定されたように、空中にぶら下げられている。

 

「何をしたッ」

「何って? 何もさ。勝手に蜘蛛の糸に自分から絡まってんだろう? 私は何も知らない」

 蜘蛛アレニェは腰をひねったり、足を蹴り上げたりしているが、上半身はかっちりと見えない何かに固定されたまま身じろぎ一つできないようだった。


「上の人間に言うんだね。本当はここでぶち殺してやりたいところだが、今は客だ。でも、次こんなことをしたらこんなもんじゃすまないってね。」

 プリステスはつまらなさそうにそう吐き捨てると、半月バンイェに合図をして来た道へと戻っていく。シエルは、気絶したようにぐったりと半月バンイェの腕に体を預けていた。


 だめだ。行かせるわけにはいかない。

「待ってくれ」

 俺はあらん限りの声で叫んだ。

 プリステスはしかし、止まらない。

「プリステス」

 足を速めることも、止めることもしない。しかし、俺を振り返ることもない。

 どうすれば、どうすればいい。なんと言えば、話をすることができる。

 チャンスはもうない。次の言葉で引き留めることが出来なければ、全てが終わる。全て。真実の、手掛かりが、失われる――。


「シエルを返せ」


 俺は考えぬまま、思いついた言葉を口走った。言って、自分でも唖然とする。

 シエルを返せ? 別に俺の女でもなんでもない。だが、口を突いたのはそれだった。

 しかし、物事はどう転ぶかわからない。

「あぁはっはっはっは――」

 高笑い。これまでに聞いたことのないプリステスの声が路上に響き渡った。


「返せ? いつからあんたのもんになったんだ」

 プリステスが足を止め、俺を見た。

 それどころか、俺に向かって近づいてきた。

「これは、わたしのだ。あんたはボディ・ガード。所有者じゃない。勘違いしちゃだめだよ。しかも、だ。あんたは契約を果たせなかった。見てみろ、傷がついているじゃないか」

 そう言いながら、意識を失ったシエルの顔を持ち上げ、その頬にできた線を指でなぞった。血は一切流れ落ちない。裂かれた皮膚がめくれ上がるだけだ。


「まったく、傷物にしちゃって。治すのも大変だ。いくらかかると思う? あんたに任せたのは失敗だったね。どうやって落とし前をつけてくれるんだい?」

 間違っていた。彼女は愉快だから笑ったんじゃない。あれは怒りの発露だった。プリステスは、鬼のような形相で俺をにらみつけ、靴底を俺の顔面に力任せに振り下ろす。

 血の匂いがする。鼻骨が折れたかもしれない。

 だが、プリステスはたとえ俺の顔がどんなふうに歪められたところで気にしないだろう。振り下ろされる足は止まらない。


「何が野良犬だ。つまらない過去にとらわれて。妻を殺した犯人を見つける? 馬鹿だね。本当に馬鹿だよ。親も兄弟も、親友も、その他何もかも、自分の関わる人間、自分を大切にしてくれた人間、そいつらが例え自分の為に殺されて、自分のせいで死ぬことになったとしても、囚われちゃだめだ。自分の生きる意味を、過去に求めるなんて、愚昧だ。反吐が出るよ」

 俺の上半身が、一瞬宙に浮かび上がり、そして、泥水の中に再び落下した。

 プリステスが俺の顔面を思い切り蹴り上げたのだと気が付く。


「挙句の果てが、シエルを返せだって? 救いようがない。頭が湧いているんじゃないのか? 自分の妻を殺した女に、情でも移ったのか? え、何とか言ったらどうだい」


 プリステスの蹴りが止む。再び、雨音だけの世界になる。そこに、少し離れたところから蜘蛛アレニェの勝ち誇ったような笑いと、嘲りが聞こえる。

「やはりそうだったでしょう? その少女が殺したんですよ」

「黙りなッ」

 プリステスが一喝した。

 そうすると言葉通り、蜘蛛アレニェは黙り込んだ。いや、違う。頭を垂れているところを見ると、意識を失っているようだ。

 見えない糸で吊り下げられたマリオネットのように、不自然な姿勢のまま蜘蛛アレニェは気絶していた。


「ったく。どうしようもない男だね、あれは。あんたよりも救いようがない。学習しない人間はきらいだよ」

「はぁ……はぁ……」

 俺は泥水のなかから顔を上げ、気道を確保して新鮮な空気を灰に送り込んだ。

「なんだい、死にかけの魚みたいだね。まぁ、あんたみたいなのには、それがお似合いだ」

 最後に一発、とばかりに、プリステスが足を振り上げた。

 再び蹴りが来る。靴先が容赦ない速度で迫ってくる。

 避けるすべなどない。

 ――だが、止めることはできる。 

「あんたは嘘をついた」


 靴底が、俺の鼻先数センチのところで停止した。


「あ?」

「あんたは言った。俺の妻を殺した犯人については、シエルが関わっているということしかわからなかった、と」

「ああ、言ったね。それがどうした?」

 賭けだ。だが、プリステスは何よりも嘘を嫌う。それはもちろん、自分が嘘をつくことも、つかれることも。その両方を含んでいる。

 その流儀を利用する。

「だが、あんたは、シエルが俺の妻を殺した犯人だと知っていた。これは嘘じゃないのか?」


「私を脅そうってのかい?」

 シエルは靴を地面に下ろし、俺の顔をにらみつけた。視線は針のようだ。細く、長く、そして抉るように俺を突き刺す。実体などないはずなのに、俺の眼球を通して、心臓に突き刺さるような実感があった。

 だが、それで確信する。

 彼女は嘘をつかないんじゃない。つけないのだ。自分で作り上げた流儀が彼女を縛っているのか、それとももっと別の理由があるのかは分からないが。

 分からない、が、賭けには勝った。


「よぅく考えて喋りな? もう一度聞こう。私を脅そうって、そう考えているのかい?」

「脅すつもりはない」

「じゃぁどういうつもりだ」

「取引したい」

 心臓にさえ届きそうだったプリステスの視線が、するすると引いていく。

「いいだろう。取引なら」

 あっさりと、プリステスは頷いた。拍子抜けするほどに。

「要求を言いな」


「……あんたのついた嘘を忘れる代わりに」

「代わりに、なんだい」

 考えろ。

 俺はギリギリのところ、彼女が許せる妥協点を探らねばならない。プリステスが怒りに任せて俺を八つ裂きにしない、その境界を。

「聞きたいことがある」

「シエルを返してくれ、とは言わないのかい? もう情は醒めたのか」

 

「そうじゃない。そんなことを言えば、あんたは俺を殺すだろう。……聞きたいのは、一つだ」

「いいだろう。情報を対価にするんだね、言ってみな」

 ポケットの中に入っている灰色の眼球。地下室で見た、金属製の頭蓋骨。刃物で裂いても血の流れない肌。そして、20


「シエルはなんだ」

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