#23 死者
だが、そこまでの事実はつかめたのにもかかわらず、俺には打つ手がなかった。エミール・ジャン・モウ以外の行方不明者は出身地などの詳細が記されていたのだが、彼の身元についての情報は一切なかったのだ。
ひとまず、他の51人の出身地を片っ端から当たることにした。丁度、講和会議も一区切りがつき、俺自身にもある程度の時間的余裕があった。
俺は仕事の合間を縫って彼らの家族を訪ねた。新聞社の同僚記者たちは、そんな俺の行動に疑問を抱いていたようだったが、一度クラリスに進捗を尋ねられた以外は、直接俺にその疑問をぶつけてくることは無かった。周りもそれぞれに忙しくしているようだったし、俺も自分が取り組んでいることを伝えるのはもう少し全体像が明らかになってからの方がいいと考えていた。
季節はあっという間に廻り、真冬になっていた。ハンスからヨハンの事を聞いたのが夏だったから、おおよそ半年の時間が過ぎたことになる。
そして、それだけの時間をかけて俺が手に入れたのは、51人のそれぞれが、ほとんど同じ時期、つまり終戦後すぐの時期に唐突に姿を消していた、と言うことだけだった。だが、彼らが一体どこへ向かったのか、そして今どこで何をしているのか、と言った手がかりと呼べそうなものは、何一拾い上げることはできなかった。
手紙が届いたのは、ちょうどその頃だった。
差出人は、ロジャー・バーミンガム。ヨハンの兄だった。
「厳寒の頃、いががおすごしでしょうか――」
という書き出しから始まるその手紙は、俺にある事実を突きつけた。
「先日、ガーフレックス公よりお手紙をいただきました。ヨハンが戦死した、との報です。北方の捕虜収容所に幾度となく働きかけたにも関わらず、解放に至らなかったとのことだそうです。ヨハンの行方について探っていただいている、と言うことでしたので、取り急ぎお手紙を差し上げました。もしまたこちらにいらっしゃることがあれば、墓に参ってやってください。遺体も何もない墓ですが」
更に、それと同時期に新しい名簿が新聞社に届けられた。帰還兵、戦没者、捕虜、そして
公的に、俺が追いかけていた人間たちは死亡したことになったのだ。だが、エミール・ジャン・モウの名前はそこには無かった。彼は、正体も、そして生死すら不明のままだった。
気付けば、袋小路の中だった。手がかりだと思っていたものを辿った先には、一面の高い壁がそびえているだけだったのだ。情報は無く、ヨハンの死は公的なものとなり、そこに疑惑は欠片もない。
自分一人で乗り越えられる状況ではなくなっていた。
俺は信頼できる上司に、これまでにあったことを伝えることにした。個人では何ともできなくとも、大きな組織である新聞社ならば、何とか事実をつかむことができるかもしれない、とその時の俺は思っていたのだ。
「なるほど」
10歳ほど年上の編集局長、トーマス・キャンプは口髭を撫でながらそう言った。貴族街から少し離れた場所にある、一人で入るには気兼ねするようなバーで、俺はマティーニを、彼はウィスキーを飲んでいた。
「君が何かの調査をしている、というのは薄々気が付いていたが。それで、君はどう考えている」
バーの薄暗い影の下で、俺は自分の考えを彼に話した。トーマスは社内でも飛び切りに優秀な人間だし、信頼するに足る人物だと、その時の俺は考えていた。
「分かりません。ですが、少なくない人間が戦後すぐの時期にいなくなりました。理由も何もわかりません。サイモン公にも会いに行きましたが、あの日以降、彼と話をすることもできませんでした」
「何かを隠している、と、そう君は考えている」
トーマスはグラスを傾けながら、こともなげにそう口にした。
「……そうです。それに、エミール・ジャン・モウという男とも、あれから一度も会っていません。ですが、彼は確かに言いました。戦時法違反になる、と。それが真実なら、我々新聞社は彼を追わなければなりません」
トーマスは難しい顔で、溶けていく氷をにらんでいた。触れることなく、視線だけでその氷を融かそうとでもいうような、真剣な目だった。時々彼はこうして黙って何かを考えているような顔をする。
「……分かった。上に掛け合ってみよう。君はそのまま調査を続けてくれ」
トーマスは迷いのない顔でそう言い、俺と彼は店を後にした。もう一軒一人で飲ませてくれ、と彼は言って、夜の街へと消えていった。
不思議と俺は肩の荷が下りたような気がした。何も解決はしていないし、手掛かりがつかめたわけでもない。だが、一人でこの荷物を背負っていたそれまでの時には感じられなかった開放感があった。
ヨハンの死。それを追いかけ初めて、半年、そして一年が過ぎ去ろうとしていた。
久しぶりにゆっくり休めそうだ。家に向かう足取りは軽く、妻の顔が頭の中に浮かんでいた。従軍を終え、それから講和会議の取材があり、そしてヨハンの調査があった。おおよそ5年間、俺は仕事ばかりしていた。だが、これで一段落が付いた。少しは彼女と一緒に過ごす時間もあるだろう。
そろそろ子どもを持ってもいいかもしれない若手の間は地方を転々としなければならなかったが、もうそんな年でもない。このヤマを片付ければ、俺も昇進するだろうし、この街にしっかりと根を張って暮らすことができるようになるはずだ。
見慣れた通りを俺はそんなことを考えながら歩いていた。街路樹が並んだ街の景色は、いつもと何も変わらない。左から四つ目の家が俺の住む家だ。明かりはもう灯っていない。もう眠っている頃だろう。
鍵を出し、ドアノブを回す。
思った通り、玄関では物音ひとつ聞こえない。
ひた、ひた、ひた――。
蛇口から水が零れ落ちる音だけが聞こえていた。そういえば、最近水道の調子が悪い、と妻が言っていたのを思い出す。
俺は無意識に、その音が聞こえる方向、ダイニングへと足を向けていた。
× × ×
気が付けば、時計の針は深夜0時を通り過ぎようとしていた。
シエルは時々相槌を打ちながら俺の話を聞いている。E・J・Mの話にも、特に蘇ってくる記憶は無いようだった。
いよいよ、俺は打ち明ける。何故、シエルの記憶を求めているのかを。
「俺は後悔している。眠れない夜には、いつもそのことを思い出す。眠れた朝にも、瞼の裏に残る夢の残滓は、いつもそれだ。開いた扉、無音の部屋。暗闇の中に差し込む月光。そして、赤い血液と、床に横たわった妻の、うつろな瞳。俺はわが目を疑うしかなかった。最初は夢かと思ったほどだ。だが、そうじゃないのはすぐに分かった。妻の口がわずかに開き、逃げて、と俺に言ったからだ。同時に、背後に視線を感じた。部屋の影に、一人の女がいた。その女の手は、妻の胸から流れているのと同じ赤い血で汚れていた。そして、その女の灰色の瞳が、俺を無表情に見つめていた」
「灰色の瞳」
シエルがそこだけを繰り返した。そして、俺を正面から見据えた。
「そういうことなのね」
彼女が全てを理解したことが、その視線から読み取れた。
「俺は逃げた。全力で走った。耳には妻の最後の言葉が残っていた。逃げて、と彼女は言った。言葉通りに俺は逃げた。夜の街を走った。何が起きているのか、その時には全く分からなかったが、今は大体のことが分かっている。トーマスは、あちら側の人間だった。サイモン側、と言う意味だ。俺は彼に監視されていたんだ。そう考えれば、他の同僚の記者が俺にあまり干渉してこなかったことも納得できる。トーマスが裏から手を回していたんだろう」
俺はもう、シエルに向かって話してはいなかった。彼女の目を見ていながら、その実、何も見えてはいなかった。その場所、その空気、その匂い、そしてその時の全ての景色が、目の前にありありと浮かび上がっていた。
頭の中に、ずっと置いたままだった考えを、こうして口にするのは初めてのことだったから、自分自身でもどうやって言葉に歯止めをかければいいのかわからなくなっていた。
「何日も、何週間も俺は逃げた。幸い金だけはあった。汽車に乗り街を離れた。新聞社には手紙で辞表を送った。それからのことはほとんど記憶が無い。街に戻ったのは、季節が一回りした後だ。俺は一通の手紙を受け取った。クラリスからだった。彼女は、突然消えた俺の荷物を整理してくれていた。その中で、俺が作成した資料を見つけたんだろう」
どうやって、その時の俺の居場所を見つけたのかは分からない。だが、彼女は腕のいい記者だ。おおよそ、プリステスに金を積んだのだろう。俺はその時既に彼女と知り合っており、貧民街に居を構えていた。
「手紙には、簡単な近況と、エミール・ジャン・モウが死亡したことが記されていた。彼女なりに、俺が残した資料から何かを感じ取り、様々に調べてくれていたらしい。エミールの正体は分からなかったが、政府から再び戦死者の資料が届き、そこに彼の名前があったとのことだった」
そして月日が流れ、今俺はここにいる。
シエルと共に、貧民街の一角にあるアパートで長い夜を過ごしている。
「エミールは死んだはずだ、とあなたは言ったわ」
「ああ。俺はそう思っていた。だから、E・J・Mが彼であるという可能性には思い至らなかった。」
「でも、やっとあなたが私の記憶を欲しいがっている理由は分かったわ。あなたは、私が妻殺しの女と何か関りがあるとそう思っているのね」
シエルはこともなげにそう言った。
俺は、何とも複雑な気持ちになった。シエルは俺の話を聞いても、何も思い出したようには見えない。俺の過去を知ることで、何かを思い出すかもしれない、と言う一縷の希望は潰えた。
「……ああ。そういうことだ。だからお前が記憶を取り戻したら、その内容を教えて欲しいんだ」
だが、よかったこともある。シエルが俺の前から逃げ出さなかったということだ。手がかりは増えもしなかったが、失われたわけでもない。
「でも、だとしたら、E・J・Mは何故私にあんな手紙を」
「心当たりは……無いんだな」
「記憶がないもの。心当たりなんてあるわけないわ」
シエルは小さく呟いた。
「とにかく、エミールが生きているのなら、会って話をしなくちゃいけないと思う。そうすれば、私が誰なのかわかると思うし、あなたの、その」
「妻を殺した女」
言いにくそうにするシエルの言葉尻を拾う。
「そう、その女の手がかりもつかめるかもしれないわ」
「俺もそう考えている。だから、明日クラリスに会いに行こうと思う。俺たちが侵入したあの家のことも調べたい」
もう何年も会っていない、クラリスの顔が脳裏に浮かぶ。今頃はどうしているのだろうか。新聞の記事に彼女の署名があるのは、最近でもたまに目にすることがある。まだ新聞社にいることは確実だろう。
「でも、その、大丈夫なの?」
「何がだ」
「トーマスっていう、男。あなたを監視していた」
「彼はもういない。死んだと聞いた。クラリスの手紙にそう書かれていた。俺が逃亡してからしばらくして、彼が野盗に殺害された、と」
「沢山死んだのね」
シエルがそんな感想を漏らす。
「そうだな」
「……ねぇ、人は死んだらどうなるの」
「記憶をなくして、生まれ変わると言う人もいれば、どこか別の世界に連れていかれるという人もいる。色々さ。ただ一つだけ言えるのは、皆肉体と心を別の物だと考えている、ということだ」
「肉体と心を別の物だと考える……」
「そうだ。だから、そうして心だけが連れていかれたり、心が記憶を失って、別の物に生まれ変わったりする、と考えることができるんだろう」
シエルは、分かったような分からないような顔で、俺の話を聞いていた。だが、俺の話に納得されても困る。俺は通り一遍の知識しか持たないし、そんなモノは、死の淵に立たされてしまえば、クソの役にも立たないことは重々承知していたからだ。
だが、記憶を持たない彼女にとっては、そんな考えでも何かしら興味を惹かれるものはあったようだった。
「誰か来たわ」
と、不意にシエルが行った
「え? 」
物思いに沈んでいると思われていたシエルが、唐突に口を開いた。
「こんな夜遅くに」
俺の言葉を遮るように、ドアがノックされた。
コン、コン――。
軽い音が室内に響いた。緊張が俺とシエルの間を走り抜ける。
扉の外に、誰かが立っている。俺は静かに扉の前に移動した。シエルは奥に隠れる。
「誰だ」
俺は、扉越しにそう問いかけた。
「あれ、なんで
それは
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