#22 名簿
ヨハンの死。
それはまだ俺の仮説の域にある。だから、彼の家族やハンス達には黙っておくことにした。自分一人で背負い続けるには重い事実だということは分かっていたが、伝えれば彼らを巻き込んでしまうことは間違いない。
エミールは明確に俺を脅した。危険にさらされるのは俺だけでいい。
街に戻った俺は、エミール・ジャン・モウの正体を探ることにした。貴族の名前や所領などの情報は、新聞社でも資料として保管している。
その埃まみれの資料庫で俺は三日三晩、エミールと言う男についての情報を探った。
しかし端的に言うと、彼の情報はゼロだった。彼の正体は一切記されていない。つまり彼は、貴族ではない。サイモン・ガーフレックスに対する振る舞いから、彼を貴族だと考えていた俺は、その時点で手がかりの一切を失った。
俺はすぐさま、別の手を打つことにした。
「ガーフレックス領だけじゃなく、全部の資料が欲しいだと? 」
社会部の女性記者である、クラリス・モーガンは目の下に作った大きなクマをもみほぐしながら、あきれ顔で言った。
社屋の三階、60台以上のデスクが並んだ社で一番大きな部屋で、彼女は夜遅くまで机に向かっていた。見たところ、原稿に赤を入れているようだ。
「調べたいことがあるんだ」
「何をだよ?」
「まだ言えない。だが、いずれはお前にも手伝ってもらうさ」
俺が考えた別の手、それは、他にもヨハンのように行方不明になった人間がいないかを探すことだった。ヨハンの消息を辿る線は、既にエミールに断ち切られてしまっている。俺は別の糸口を見つけたかった。
「悪いが、ただでさえ人手が足りてないんだ。ったく、若いやつらが全然使えないから、こっちが全部の記事に目を通してチェックしなくちゃいけない」
クラリスは疲れの滲んだ声でそう言うと、俺の背中越しに、壁際に積まれた紙束を指さした。
「悪いが、ガーフリックス領の資料はまとまってる方でな、整理できてない方が多いんだ」
紙束は、俺の膝くらいの高さまである。
「情報が更新できていないまま、2版と3版が混ざってたり、多分ダブっているのもある。それでもいいなら」
「助かるよ」
俺は紙束の下に指を差し込み持ち上げる。分厚い辞書で、10冊分ほどの重さだろうか。全てに目を通すとなると、何日かかるか見当もつかない。だが、後に引くつもりは無かった。乗り掛かった舟だ、というのももちろんあるが、その時の俺を突き動かしていたのは、使命感だった。記者として、真実を白日の下にさらさなければならない、傲慢と紙一重のプライドである。
それからさらに2日間。ほとんど眠ることなく、俺は資料を読み漁った。出兵記録から、帰還兵、捕虜と戦死者、
だが厄介だったのは、仕事内容そのものじゃない。
一つ一つの名前の裏側に、一人一人の人間を感じなければならない、ということが最も俺を消耗させた。戦死者の名前を確認するたびに、その誰かがもうこの世にいないのだ、ということが俺の手を重石のように重たくさせるのだった。
2日間で処理できたのは、たったの1割。その頃には、手はインクで真黒に汚れ、目は充血して血走り、髪も皮脂でギトギトになっていた。だが、それだけのことをした意味はあった。
俺は一度家に帰り、半日ほどの時間を使って体と、それから精神を休ませた。冷静になる必要があった。
妻は、そんな俺に何も言わず、温かな食事を用意していてくれた。
午後、再び自分のデスクに戻り、改めてそこに導き出された答えと向き合った。
たったの1割だ。それだけしか俺は照合作業をしていない。しかし、出兵記録の名簿には、未だ横線の引かれていない名前、つまりは行方不明者名簿にすら載っていない行方不明者の名前は、膨大な数残っていた。
52人。ヨハンを含めれば53人の人間が、戦場から忽然と失われていたのだ。
アラン・バルデン、アレキサンダー・ヴォ―ド、ビル・オッグ、デイビス・ジェンキンス、ダグラス・アーミー、ダニエル・オーリンズ…………。
生きているのかも死んでいるのかもわからない。もちろんその全てが、ヨハンと同じように失われたのかどうかも分からない。だが、もう終戦して1年が経つ。捕虜以外の兵士の帰還は既に終わっており、記録の精度は低くは無い。
正直に言って、予想以上だ。
これだけの人間が失われているとは思わなかった。
一体、サイモン・ガーフリックスとエミール・ジャン・モウは何をしているというのだ。何の目的があって、こんなことを。
しかし、それ以上の思わぬ収穫を俺は手にしていた。
その名前の羅列の中に、俺は考えもしなかったものを見つけた。
そもそも俺が名簿を精査したきっかけは、エミールの出自が一切不明だったからだ。だから、別の角度から調べれば、何か手がかりが見つけられると踏んでいた。だとすれば不思議なことに、俺は当初の目的を果たしたことになる。
エミール・ジャン・モウ。
彼の名前が、名簿の中に横線の引かれぬまま見つかったのだ。そう、彼自身もまた、行方不明者名簿にすら載っていない行方不明者だったのである。
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