#21 いなかったこと
遠くで
その音を窓越しに聞きながら、俺とシエルは机を挟んで座っていた。どこか遠雷を思わせるその響きに、シエルはうっとりと聞き入っていた。
「いい音ね」
「そういう意見もあるな」
「嫌いなの?」
「特にどちらとも思ったことはない」
俺は正直にそう答え、煙草を取り出した。
シエルは何も言わない。だから、俺も吸っていいかとは聞かずに火をつけた。灰皿などは無いから、窓の外に煙草の先端を出して灰を落とす。褒められた振る舞いではないが、ここは貧民街だ。
地下室から脱出した俺に、シエルはE・J・Mが誰なのかを問い質そうとした。それに対して俺は、少し時間をくれと答え、こうして部屋まで戻ってきた。
俺には考える時間が必要だった。
今、俺の目の前には二つの選択肢がある。全てをシエルに打ち明けるか、それとも隠し通すか。つまり、妻を殺したのがお前と同じ顔をした何者かだった、ということを話すかどうか、ということだ。
俺がこれまでそうしてこなかったのは、シエルが事実を知った時、俺の下を去ってしまうという最悪の可能性があったからだ。そうなれば、俺はまた振出しに戻ってしまう。シエルという、最大の手がかりを失う。
しかし、彼女が妻殺しの犯人かどうかについては、俺は答えを保留したままだ。顔も、その灰色の髪も、全てが彼女こそがあの夜に見た女だということを物語っているのだが、たった一つの事実がその全てを覆す。
そう。20年という月日だ。
それが、犯人像と彼女を結ぶ線をほどいていく。時間は誰の上にも等しく流れるはずだ。だが、シエルの外見は一切変わっていない。記憶の中にあるそのままなのだ。
シエルは犯人ではない。なぜこれほど似ているのかは不明だ。彼女については、他にも多くの謎がある。深夜、貴族街で何をしていたのか。サイモン・ガーフレックスを殺したのは彼女なのか。
すべての謎は、やはり彼女の記憶を取り戻す以外に明らかにする方法がないように思える。
そう。
その為には、やはりこちらが知っていることを明かすしかない。俺の話のどこでもいい、何かにさえ反応してくれれば、そこを糸口にすることができる。
E・J・Mの手紙のこともある。やはり、俺の過去の中に、手がかりはあるのだ。
腹は決まっている。最初から分かっていたことだ。彼女の記憶を見つけ出すことと、過去の亡霊と向き合うことは不可分なのだということなど。
煙草の灰が雨の中に落ち、消えていく。こんな風に、俺の過去も消えてしまえばどれほど楽だっただろう。そうすれば、俺は街の
「どうしたの?」
灰色の視線が俺を正面から見据える。
そう。失えば、また手に入れようとするだろう。この少女のように。
「E・J・M。いや、エミール・ジャン・モウ。俺と彼が出会ったのは、今から20年前。ガーフレックス領でのことだ」
「それ、どこかで聞いたわ」
「昼間話したことの続きだ。殺害されたサイモン・ガーフレックスに、俺が会ったことがある、と言う話の」
俺がそう言うと、シエルが思い出したような顔で、小さく頷いた。
「そして、俺の記憶が間違っていなければ――」
「間違っていなければ? 」
だが、それを俺は否定する。
俺は呼ばれたから語り始めるのではない。
違う。
自ら語るのだ。
「間違っていなければ、――彼は死んでいる」
× × ×
「つまり、国民を戦わせなければいい……そういうことだ」
サイモン・ガーフレックスは、自身の書斎で、どこかネジのゆるんだような狂った笑みを口元に浮かべ、そう言った。
「そうすれば、再び貴族である私たちは、この国で必要とされる存在になる。民に慕われ、庇護を求められ、まるで父のように仰がれる、そんな十数年前までは当たり前だった光景が、戻ってくる」
サイモンは、そうしてふっと糸の切れたマリオネットのように頭を垂れて沈黙した。
「どう思う。君は」
そして、俺に問いを投げた。
「あり得ないことではないでしょう」
正直に、そんな感想を述べる。
「ですが、平和な世界が訪れない間は、国民が戦うしかありません。そして、サイモン閣下もご存知のように、この世界は平和とは程遠いところにあります」
貴族の言葉に真っ向から対立した言葉を投げるのは、あまり好ましいものではない。だが、俺は自分の立場を最大限利用することに決めていた。新聞記者、というのは、たとえそれが貴族であろうと、国王であろうと、真実を追う存在であるべきなのだ。そんな腐りそうなほどに甘い信念を、当時の俺はなんの疑問もなく抱いていた。
だが、サイモンの返答は意外なものだった。
「その通りだよ。この世界から戦争の災禍がなくなることはきっとない」
そう言って、満足げな吐息を漏らした。
分からない男だ。貴族の権威に固執したかと思えば、掌を返したように現実を受け入れる。
俺はもう、この話を切り上げたかった。
「であれば、サイモン様が最初に仰ったように、貴族はその地位を手放すことになります。国民を守る為の貴族は、もうその役目を終えた、ということです」
問い質したいことは別にある。ヨハンの家に届けられたという、彼が捕虜になっているという
「お話を戻してもよろしいでしょうか」
サイモンは何も答えない。
だが、せっかく訪れたタイミングだ。見逃すつもりはない。
「ヨハン・バーミンガムという男についてです。先ほど彼のご家族にお会いしてきました。そこで、いささか不可解な事を伺いました。ヨハンと言う男は、どうやら捕虜として北方連合に捕らえられている、と」
俺は本題を切り出した。ヨハンがどこにいて何をしているのか、それを探るためにわざわざこんなところまで来たのだ。これ以上貴族の与太話に付き合っている暇などない。
しかし、間の悪いことに、背後のドアがノックされる、コン、コン、という音が部屋に響いた。来客だ。
すかさず、執事の声が聞こえる。
「エミール・ジャン・モウ様が見えられました」
「通せ」
サイモンが、どこか喜色のにじんだ声で告げる。
「はっ」
すぐに扉は開かれた。執事の隣に、一人の男が立っているのが見えた。身長はあまり高くない。だが、みるからに上品そうな雰囲気を漂わせている。貴族か、それに準ずる地位、あるいは学者か研究者だろう、と俺は見当をつける。
サイモンとは対照的だ。彼がそうではないとは言わないが、かなり理知的な印象である。眼鏡の奥の細い目が、俺を見てさらに細められる。
「そちらは」
部屋に入ってきた男が、俺を一瞥する。
少し高い声だ。女っぽいわけではないが、艶がある。
「ああ、彼は新聞記者だ。各地で起きている反乱を取材しているらしい」
「なるほど。ガーフレックス領でも、いよいよそういう動きがある、ということか」
エミールの言葉に、サイモンが苦笑いを浮かべた。こんな冗談を言い合えるのは、彼らの地位が同じくらいだからだろう。見立ては間違っていなかった。エミールもおそらくは貴族だ。
「そうだ、エミール。彼にも見せてやってくれないか」
「見せる? 何を見せるんだ? 」
「分かっているだろう。君が今取り組んでいることだ。あれはいい記事になるはずだよ。それに、彼はとても物分かりがいい。私の考えにも同意してくれた。国民を戦わせずに、戦争をすることについて、ね」
「サイモン」
瞬時に、エミールの表情が変わった。ひどく冷めた顔になった。何かを語らせまいとしているようだ、とすぐに分かる。
「だから、彼にも――」
だが、サイモンはそれに気付かず言葉を続けた。
「サイモン!」
エミールが半ば叫ぶようにして、それを遮った。
「その話はやめよう」
「何故だ? エミール。あれが実現すれば、この世界は大きく変わるぞ。賛同者は多いに越したことはないだろう」
サイモンの熱っぽい弁舌に、エミールはあきれたような顔で小さくため息をつく。
事件、もしくはそれに近い何か。その匂いに、俺はたまらず声を上げた。
「差し支えない範囲で教えていただけませんか。新聞に記事を掲載すれば、賛同者を集めることはできるでしょう。どのような内容かは分かりませんが」
「素晴らしいじゃな――」
サイモンが、俺の言葉に反応して声を上げるが、エミールが腕を彼の前に掲げ、それを制した。
「サイモン、灰皿をくれ、それとナイフも」
そう言うと、エミールはサイモンの執務机に積み上げれた書類を手で払いのけてスペースを作り、そこに腰かけた。そして足を組む。
領主である貴族に対して、あまりにも傍若無人な振る舞いだが、サイモンは何も言わずに言われた通りの物を彼の傍らに置いた。もしかすると、エミールの方が立場は上なのかもしれない。公爵よりも地位のある貴族となると、王族か、その血縁者か。
エミールは呆れた表情のまま、煙草の先端をナイフで削ぎ、吸い口を作っている。独特な切り方だ。驚くほど斜めにナイフを入れている。
「記者君」
そして火をつけ、紫煙を目いっぱいくゆらせた後で、彼は口を開いた。
「はい」
「今ここで聞いたことは、全て忘れて欲しい。私たちは何も言わなかったし、君はここにはいなかった。どういうことかわかるだろう?」
眼鏡の奥の細い目が、俺を睥睨した。
その威圧感は、以前の俺なら委縮してもおかしくない程だった。だが、従軍記者を終えた俺には、ほとんど効果が無かった。砲弾の着弾音に比べれば、何ということはない。
「それは、どういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味さ。君はここにはいなかった。もう一度言おうか? 君はここにはいなかった」
「エミール。そんな言い方は」
「君は馬鹿か? 私はもう少し利口なやつだと思っていたんだがな。これが表沙汰になれば、大変なことになる」
エミールは足を床に下ろして振り返り、執務机越しにサイモンをにらみつけた。
「よりにもよって、新聞なんかに載ってみろ、俺たちは戦時法違反で逮捕されるぞ」
エミールが怒鳴りつけ、サイモンは黙り込んだ。
だが俺には、それを聞き逃すことなど不可能だった。
「戦時法違反!? それは」
「あー、君。それ以上は何も考えない方がいいし、何も聞くな。最悪、君を殺さなければならなくなる」
こちらに背を向けたままエミールが言った。
「もちろん、私が今こうして君に言っていることも、忘れた方がいい。確かに貴族の力は失墜しつつあるが、人一人を、いなかったことにするのはそんなに難しいことじゃない」
その言葉に、俺は引っ掛かりを覚え、言葉が口を突いて出た。
「ヨハン・バーミンガムについてもですか? 捕虜になっているという事実などないのに、何故かそうだということになっている。まさか、彼もいなかったことに」
サイモンが両手の掌を上に向け、エミールに向かって、取り繕うようにもこもごと口を開く。
「エミール。私は知らない。なんのことだか、さっぱり」
俺はそれを無視して、尋ねる。
「答えてください」
やりすぎだ。頭の底から声が聞こえる。だが俺はそれを封殺する。
本当は、俺も気が付いていた。怒らせてはいけない相手を怒らせてしまっているのだ、と。だが止まることはできない。
「ヨハンは今、どこに? いえ、生きているんですか?」
勢いに任せて言葉を吐く。
そして、言ってから気づく。
考えまいとしてきた、その事実に。
ヨハンの家族からあの手紙を見せられた時にはもう、心のどこかで気づいていた。いや、もしかしたら、酒場でハンスにヨハンが失踪したという話を聞かされた時から、そう思っていたのかもしれない。
「ヨハンは、もう死んでいる?」
背筋に嫌な汗がにじむ。皮膚が粟立つ。だが、口にしてそれは確信へと変わる。
「愚かだ」
エミールが背中越しに言った。
「愚か? 真実を求めることの何が愚かだと――」
彼は振り返り、俺の言葉を視線だけで制止する。
「この世界は、言うなればよくできた機巧細工だ。歯車と
そこで、彼は言葉を一度区切った。
恐怖には独特の匂いがある、と言ったのは誰だったか。もしもそれが本当ならば、この部屋にはそれが充満しているだろう、と思った。
発生源はもちろん俺だ。さっきまでの興奮はもう失われていた。それほどの凄味が彼の目にはあった。
彼の言葉には、冷徹な意志が感じられた。
しかし、その力は不意にすっと弱まった。
「だが、さすがに君をここで殺すのは、後を考えると面倒だ。君がここに来た、と言うことを知っている人間は多いんだろう? それに記者である、というのも面倒くさい。組織というものは、構成員の死に敏感だ。新聞社を敵に回すのは賢い選択じゃない。だから、今日のことは全て忘れて、どうか帰ってくれ」
エミールはそう言って、軽く頭を下げた。公爵すら軽くあしらうほどの地位を持つ人間、あるいは王族に連なる位置にいる人間が、ただの一市民にそんなことをするのは、ありえないと言っていいことだった。
俺は言葉を失い、呆然とその場に立ち尽くしていた。
思えば、そこまでが彼の策略だったのだろう。飴と鞭。あるいは太陽と北風。だが、実際にそれを目の当たりにしてしまうと、そんなところまで頭は回らない。
「サイモン」
エミールが呼びかけ、
「お帰りだ」
と、俺の頭越しに、サイモンが扉の向こうへと呼びかけた。
背後で扉が開く。
「どうぞ、こちらへ」
執事が俺の横に立ち、手袋のはめた手で、部屋を出るように促した。
そして、気が付けば俺は馬車に揺られ、帰りの汽車に乗り込んでいた。
ぼんやりとした頭が次第にはっきりとしてきたのは、とっぷりと日が暮れた後だった。
すると、多くのことが頭の中をめぐり始めた。今日の出来事についてだ。だが、いくら反芻しても、自分が今迷宮の入り口に立たされており、そこに入るか否かを問われているのだ、という予感が確固なものとなるだけだった。
先の見えない、真っ暗な迷宮。いなかったことにされる以外の出口は無いのかもしれない、そんな地獄のような迷宮だ。もちろん同伴者はいない。
暗澹とした気分は、夜の鉄路に残されていく、汽車の黒煙によく似ている。拾い集めることも、止めることもできぬまま、ただ垂れ流すことしかできない。
そして、頭の中をよぎるのは、あの眼鏡をかけた男の顔だった。
何故、俺はあれほどまでにエミールに圧倒されてしまったのだろう。何が、俺からエネルギーを奪ったのだろう。
彼の姿を思い出す。背の低い、理知的な外見の男。研究者のような雰囲気を纏った男。眼鏡と、細い目――。
ああ、そうだ。表情だ。
彼の表情。いや、表情が無いという、表情。
自身の全てを、既に何かに捧げてしまったような、その目的の為ならば、何を犠牲にしても構わないというような、殺気さえ漂う覚悟。それが、彼の表情から滲みだしていたのだ。
それは、戦場でさえなかなか見ることの叶わないものだ。
いや、たった一度だけ、見たことがある。
あれは確か、占領した敵陣に取り残された兵士が、手りゅう弾を抱えて特攻してきた時。どこまでも歪んだ覚悟は、人からああも表情を奪うのか、とその顔を見て俺は思った。
一体何を彼は心に秘めているのだろう。恐怖が遠のいた俺に残ったのは、エミールという男への興味だった。それはすなわち、迷宮の中へと足を踏み入れるということを意味していた。
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