♭2 アレニェとプリステス
電話が鳴っている。古い木造の居室。その奥の小さな机に置かれた黒い電話だ。
ジリリリ。ジリリリ。ジリリリ――。
弓を引き絞るような緊張感が、部屋に満ちていく。だが、その電話を取る人間は一人もいない。
ジリリリ。ジリリリ。ジリ――。
唐突に音は止む。その空隙に、降りやまぬ雨の音が再び顔を出した。
ざぁ――――――――。
電話の隣には、ベッドが置いてある。だが、人が寝ていたような痕跡は無い。その代わりと言っては何だが、そばにあるアームチェアの座面の皮が擦り切れていた。この部屋の主はベッドでは眠らないようだ。
そこからさらに視線を左へ動かすと、小さな棚が目に入る。木製の衣装棚のようだが、普通のそれとは少し異なった作りになっている。スーツを掛ける部分が大きくとられているのだ。何故そうなっているのかは、すぐに分かる。スーツよりも場所を取るものが吊り下げられている為だ。
一見すると、それは籠手に見える。騎士の甲冑の、腕部装甲。
だが実際は少し違う。それは金属で形作られた腕そのものなのだ。上腕部は主に二枚の金属板を曲げて作られ、前腕部は三枚で構成されている。肩、肘、手首の部分は
それが、左右一対。
赤銅色に鈍く輝く、
それが、スーツの代わりにそこにぶら下げられていた。
だが、そこでふと疑問が浮かぶ。
では、この部屋の主は
つまり、この部屋の主は、何らかの事情があって
正解は後者だ。
この部屋の主、
× × ×
貧民街の門をくぐると、
だが、違法な薬物の売人や、面倒な商人連中、街娼は彼の見た目を恐れて近寄ってこないという利点もあるにはあった。
――ですが、それが私の見た目によるものだけなのかはわかりませんね。何しろ、私は
プリステスとの一件以来、
いや、よく思われていない、どころではない。いつ殺されたところで文句は言えない状況だ。
そもそも、
――まぁ、あの頃は私も駆け出しでしたからね。今更言っても仕方がないでしょう。ただ、こんな風に
そう、彼がこうして貧民街へと足を踏み入れているのにはわけがあった。自分が今関わっている任務に関する大きな情報を、プリステスが握っているというのだ。その為、こうして
本来であれば、部屋で仮眠を取りながら、
雨脚が強くなってきた。屋台から漂っていた香辛料の香りがかき消され、あたりはヘドロのような腐った匂いに包まれる。アレニェはこの匂いがあまり好きではない。化膿した傷口を思い起こさせるからだ。医者だった頃の記憶が、化膿に対する恐怖心を、彼の潜在意識に刷り込んでいるのである。
さらに言えば、彼が両腕を失ったのも化膿が原因だった。
だが、彼は記憶に囚われない。
確かに彼の存在は同じ一続きの時間の中にあり、肉体を共有しているかもしれない。しかし、ある時を境に、過去と今を完全に切り離していた。過去の記憶の中にある自分と、
目的の建物には、案外あっさりと到着した。
階段を上り、ドアの前に立つ。
彼は久しぶりに、自分が緊張していることに気が付いた。
この扉の先にいるのは、隙あらば自分を殺そうと考えている相手なのだ。飛んで火にいる夏の虫どころではない。全身油まみれで火の中に入るようなものである。だが、彼に立ち止まることは許されない。任務を遂行することが最優先事項なのだ。
真鍮製のドアノブを少しだけ引く。小さくドアベルが鳴る。
「いらっしゃい」
ハスキーで艶やかな女の声が、扉の隙間から耳に飛び込んできた。
「そんなに腕をたくさんぶら下げて、どうしたんだい
扉の隙間は数センチもない。こちらが見えるはずがないのにもかかわらず、彼女はそう言って見せた。
「そんなところに突っ立ってないで、入んな。冷えるからね」
促され、中に入る。依然来た時と、何も変わっていない店内に、少し
背中越しの会話が始まる。
「お久しぶりです、プリステス」
「ああ。もう何年ぶりだろうね。でも、あんたのことはよぉく覚えてるよ。忘れたくとも、忘れさせてくれないんだ。罪な男だねぇ、あんたは」
「あの節は、大変ご迷惑をおかけいたしました」
「いやいや、そんなことは無いんだ。あんたはあんたの
「ごもっともです」
ようやくプリステスが振り向く。
「そんなに警戒しなくていい。今日のあんたは客だ。しかもとびっきりの上客だ。何しろ私が呼んだんだから」
上客、と言う言葉に疑問を感じながらも、
などと考えていると、カウンターの上にグラスが置かれた。丸い氷が琥珀色の液体の中に浮かんでいる。
「50年モノだ。おそらく、100本も出回ってない。まぁそのうちの30本はうちにあるんだがね。私のおごりだよ」
そう言って、彼女は妖艶な笑みを浮かべる。これだけの美貌を備えていながら、彼女と浮名を流した男を、
「いいんですか?」
グラスに機械の手を添える。金属の指先は、熱も感触も教えてはくれない。
「もちろんだとも。大丈夫。毒なんざ入っちゃいない。こんないい酒に失礼だからね」
そういうのならば、そうなのだろう。
口をつける。どちらかと言えば甘い風味が口中に広がる。少し遅れて、意外なほどの苦みが襲ってくる。だが、それが不思議と不快ではない。うまみ、というのとも少し違ったその味と共に、樹液と花の蜜が混ざり合ったような芳しい香りが、鼻孔を通り抜けていく。
「どうだい」
「おいしい、とは違いますね。ですが、悪くない」
「正直な感想だ」
「嘘はつきませんよ」
その返答は、プリステスにとって満足いくものだったようだ。その証拠に、彼女の口元に僅かであるが笑みが浮かんでいる。
しかし、思いの外の厚遇である。下手をすれば命のやり取りにさえなりかねない、と
「それで、だ。アレニェ。あんたはこう聞いてきたんだろう、私が、あんたの仕事に関する情報を握っている、と」
「げほっ、ごほっ」
「やっと気づいたかい。馬鹿な子だね」
「あの情報は、あなたが自分で……」
「見くびられたもんだよ、私も。まぁいいさね。今はそんなことはどうだっていい話だ。あんたは私の招待に応じてくれたんだ。話の続きをしようじゃないか」
プリステスが、前髪を掻き上げた。普段はその下に隠れている、額の中心に刻まれた奴隷であったことを示す刻印が、まざまざと明かりの下に現れた。だがそれは一瞬のことで、すぐに彼女は髪を下ろし、刻印は再び見えなくなった。
「私が知っている情報。それはあんた達北方連合が喉から手が出るほど欲しい、ある男に関する情報だ」
「ええ。私もそう上から聞かされました。あなたがその男の正体、もしくはそれに近い情報を握っている、と」
「それで間違いない。だが、残念ながら正体までは分からない。私が知っているのは、その男の正体を知っている可能性のある人間の情報だ」
「正体を知っている可能性のある人間……? おかしいですね、プリステス。あなたがそんなあやふやな情報を取引するなんて」
彼女らしくない。それほどプリステスのことを知らない彼でさえ、そう感じるほどだ。だが、当の本人は余裕の表情を崩さない。
「もちろん私もそう思う」
あまつさえ、そう言い切る。
「普通なら、こんな曖昧な情報の取引はしない。だがね、それでもいい、という買い手が既にいくつもついているんだ」
「いくつもついている……?」
「知らないのかい? その男を追いかけているのはあんただけじゃない。考えてみれば当たり前のことだがね。その男の持っている
「つまり、あなたは天秤にかけている、と」
「天秤、ねぇ。まぁそう言っても間違いじゃないね。そういう判断で構わないよ。さて、それじゃぁ聞こうか、あんたたちはいくら出すんだい。
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