#19 密室
廊下の奥、扉の隙間から漏れてくる光は、暖炉の火のように揺らいでいる。
俺とシエルは、その光に向かって真っすぐに進んでいた。
靴の底が、何かを踏む。固い感触がする。俺はそれを踏みつぶさないようにつま先で横に避ける。いちいち下を見るまでもない。それは疑うまでもなく骨だ。ここで何が起きたのか、それを確かめたい気もするが、そんなことをしていれば、この廊下の奥にいる人間を取り逃がすかもしれない。
だが、そもそも取り逃がす、とはどういうことなのだろう。死んだ人間を今更どうやって捕まえるのだ。幽霊の触り方など、
頭にめぐる思考を、俺は目を強く瞑ることで遮る。
そんなはずがない。
幽霊は車を運転しないし、幽霊は煙草を吸わない。
そう考えるならば、彼は死んでいないし、この先にいるのは幽霊ではないのだ。
気付けば、俺の息遣いは浅くなっていた。
感じているのは恐怖か、それとも興奮か。
興奮? なぜ俺は興奮しなければならない。人を殺すことにもはや戸惑いなどない。両手で足りない数の人間を、俺はこの手で殺してきたはずだ。なら、この胸の高鳴りは一体何だ。
そして、ようやく俺は気が付く。この先にいる男は、俺の妻を殺した犯人を知っているかもしれないのだ。20年前、行方不明になったヨハンを探す中で俺が知り合った人間は、サイモンとこの男しかいないのだから。そうなれば、もうシエルの記憶を取り戻すなどと言う煩わしいこともしなくて済む。
20年かかった。
だが、これでようやく妻の死に報いることができる。
扉はもう数m先だ。走ればすぐにその扉に触れることができる。いや、落ち着け。俺は自分に言い聞かせる。落ち着いて事に当たるべきだ。
たとえ探し求めるモノが目の前にあるのだとしても、焦って食いつけば、それが罠だということもある。これまでと同じように、冷静に、野良犬のように、自分が生き延びることを第一に考えろ。プリステスのように、ルールを徹底しろ。
――だが、それは間違った選択だった。俺は走るべきだったのだ。そのことを、シエルの言葉が知らせてくれた。
「何か、燃えているわ」
シエルの言葉と同時に、目の前の扉の隙間から炎の舌先がはみ出したのは同じタイミングだった。
目の前が真っ赤に染まった。俺の怒りがそうさせたのか、炎が眼球をその色に染め上げたのかは分からない。
俺は思い切り肩で扉を突き破った。痛みは無い。扉は既に灰と化していたからだ。
中に入り、視線を巡らす。
壁一面が、もう赤熱の炎に飲まれている。床も同じ状況だ。火の手は既に部屋をその手中に収め、外側へと灼熱の腕を伸ばそうとしているところだった。
だが、いるはずの人間が、いない。
上を仰いでも天井があるだけだし、窓もない。他に扉があるわけでもない。完全な密室であるこの部屋に、しかし、火をかけた人間の姿はない
「どこに行きやがった」
唸り声が口をついて出た。走り込んでいれば、あるいはとらえることができたかもしれない。なのに、俺は躊躇ってしまった。
その時、
「下よ!」
という、シエルの叫び声が聞こえた。
「下! この部屋には地下室があるの」
「地下室だと? 」
「奥に暖炉があるでしょう。その下の方にあるレンガを外せば、地下に下りられる」
「こっちに来て、教えてくれ、シエル!」
だが、それは最早不可能だった。扉の上辺を支えていた柱が落ち、まだ部屋の外にいたシエルの姿は、その向こうに掻き消えた。
「シエル――!」
俺の叫びも、燃え盛る炎にかき消される。プリステスから彼女を守れ、と俺は言われている。この状況はまずいとしか言いようがない。だが、不思議なことに、彼女がここで死ぬと、俺には思えなかった。
何があったのかは分からないが、昨夜のあの警察に包囲された状況からでも彼女は脱出したのだ。むしろ、考えるべきは俺自身のことだ。
入口は既に炎によって断たれた。この部屋に窓はなく、他に扉などもない。完全な密室に閉じ込められたのだ。
シエルの言葉を信じるしかない。
何故彼女がそんなことを知っているのかは気がかりだが、生きて帰らなければそれを問い質すこともできない。
俺は唯一まだ火の手が伸びていない暖炉に向かう。灰塵が巻き上がり、息が苦しくなる。かつて自分が記者だった頃、聞いた覚えがある。火事に巻き込まれた人間は、火に焼かれるより先に、窒息して死ぬのだと。
暖炉の中に潜り込む。幸いなことに石は燃えないが、その分熱を持っていた。
「クソッ どこだッ、どこにあるッ」
奥の下の方、とシエルは言った。俺はそのあたりのレンガをしらみつぶしに押す。触れる指が、レンガの熱で焼かれていく。
「下の方ッ クソがッ クソッ」
口からはもう、単純な罵声しか出ない。
指の先の皮は、もうめくれ上がりそうだ。
「動け、うごけ、うごけうごけ、うごいてくれ」
もう、何も考えられない。真っ黒な死が背後に迫っているのを感じたその時、
ゴトッ
という音と共にレンガが動いた。それに呼応するように、暖炉の左側面が扉のように開く。
「はぁ、はぁ、はぁ、助かった」
人ひとりが通り抜けられるかどうか、という小さな穴だ。だが、何とかそこに俺は体をねじ込むことができた
新鮮な空気が肺に行きわたり、全身がようやく苛烈な火の熱から解放された。顔や手についた煤を払い落とし、コートがもう使い物にはならないだろうということに気がついた。あちこちに焼けた黒い穴が開いていたからだ。
俺はそれを脱ぎ、背後の自分が通り抜けた穴に投げ入れた。気が付けば拳銃もなくなっている。どこか火の中に置いてきてしまったのだろう。プロとして致命的な判断ミスだが、どうすることもできない。今更火の中に戻ることなど不可能だ。
ひとしきり空気を吸い込んだ後、俺は顔を上げ、自分が入り込んだ暗がりに目をやった。
地下室、とシエルが言ったとおり、目の前には地下へと降りる階段が口を開いていた。
俺はポケットからライターを取り出し、その階段を照らす。それほど長くはない。地下室の扉がすぐに見えた。そのまま階段を下りる。なんの変哲もない、文字も飾りもないドアだ。
中から物音も聞こえない。
俺は息を殺し、扉を押し開いた。
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