#17 侵入
× × ×
時計は、すでに夕刻に差し掛かろうとしていた。窓の外の街路は既に薄暗い。雨は午前中よりは少し強くなっている。石畳の上にあった水溜まりは、全て繋がり一つの小さな池を形作っていた。
赤や黒の傘を差した人々が、その街路を同じ方向へと歩いていく。就業時間が終わったのだ。旧貴族街はそもそも人通りの少ない街だ。
歩く人々の顔はどこかのっぺりとして見える。個性がなく、覇気もない。一様に疲れているのだと、足を引きずるような彼らの歩き方を見て思う。
考えてみれば、20年という年月が過ぎ去っていったのだ。こうして記憶をたどりながら話していると、その時間の重みを確かな質量でもって感じることができる。誰にとってもそれは同じ重さのはずだ。街を歩く人々の背にのしかかっているのも、あるいは同じ年月、という重しなのかもしれない。
そして、それは死ぬまで背中から下ろすことのできない荷物なのだ。
シエルは、今は横顔をこちらに向けている。俺の話に興味が無い、と言うわけではないだろう。時折うなずいたり、相槌を打ったりもしていたし、分からない言葉が出てくれば、質問を差し挟んでいた。
ただ、俺が恐れたような反応は、未だ見えなかった。サイモン・ガーフレックスという名を聞いても、彼女に思うところはなさそうだ。それがいいことなのか悪いことなのかは置いておくとしても、何かしらの反応があれば、状況を整理する手がかりにはなる。だが、それがない。
何故彼女が昨晩、ガーフレックス邸の殺人現場の近くにいたのか、その理由は闇の中だ。そして、シエルと共にいる俺もまた、その捉えどころのない闇の中にいる。
気付けば、シエルのカップの中も、俺のカップの中も空になっていた。手を上げ、ウェイトレスを呼ぶ。
「ブラックと、それから、シエルは同じもので」
俺は目の前の横顔に尋ねる。
「ねぇ、アレ」
だが、その返答の代わりに、窓の外を眺める彼女が、小さく声を上げた。
「誰か、来たわ」
シエルの視線の先。つまりは、俺が見張っていた古びた屋敷。その正面に、黒塗りの車が止まっている。量産車ではない、大きな車だ。
全身に緊張感が走った。
「電話はどこだ! 」
メニューを取りに来ていたウェイトレスに俺は怒鳴っていた。
ビクッと肩を震わせる彼女に、悪いことをした、と言う気はするが、そんなのは後で謝れば済む話だ。今はもっと優先することがある。
「あ、あっちに」
ウェイトレスが指をさした。
店の奥、便所の隣だ。
狭い店内を、早足で移動する。しかし、こんな日に限って店は混んでいた。トイレの前に、数名の客が並んでいる。すぐにそれが電話の順番を待っているのだと分かった。
「どいてくれ、急いで電話がしたいんだ。すぐに終わる」
居並ぶ客たちに、俺はそう叫んでいた。皆振り返るが、俺に言葉を返す者はいない。迷惑そうな顔で、俺を見ている。
「頼む」
そこに並んでいる客全員に聞こえるように、大声で呼びかける。
丁度、電話を使っていた女が、何事が起きたんだ、と背後を振り返った。俺の形相を見て小さく悲鳴を上げる。よくあることだ。気にはならない。
怯えた表情で受話器を俺に手渡す。
ポケットからコインを出し、投入すると、ツーツーという音声が聞こえた。ダイヤルを回す。
――繋がらない。
おかしい。そんなわけがない。
「クソが」
俺は吐き捨て、踵を返す。
店を出る。雨の中を、向かいの屋敷の扉に向かって走った。すぐに頭から水が滴ってくる。コートにも雨が染み込んでくる。
扉の前に停車している車の隣に、しゃがみ込む。道路を横断する際に、中はもう確認済みだ。中には誰も乗っていない。念には念を入れ、そっと中をのぞく。高級葉巻が灰皿に沈んでいるのが見えた。車もそうだが、貧乏人ではない。夜盗というわけではなさそうだ。
「電話は? 」
背後からシエルの声が聞こえた。俺を追いかけてきたようだ。前髪が額にへばりついている。それを拭いながら、彼女の灰色の瞳は俺を捕らえる。
「だめだった。出やがらねぇ。だが、
「どうする気なの」
不安そうなシエルの声を、俺は一言で切り捨てる。
「見りゃわかるだろ」
そして、立ち上がり、屋敷の前に近づく。背をべたり、と壁につける。
戦場で教わった作法だ。こうすれば相手からは絶対に見つからない。
「中に入るのね」
「ああ。依頼人は俺に、誰かが来ればすぐに連絡しろ、と言った。つまり、依頼人が用があるのは屋敷自体じゃない。その誰か、だ。それが分かってて何もしないってのは、信頼に反する」
「野良犬のプライドってわけね」
分かったようなことを言いやがる。だが、取り合っている場合ではない。
「よぉく聞け」
俺は知り合って二日の少女をにらみつけた。
「ついてくるのは勝手だが、俺はお前に死なれちゃ困る。ボディ・ガードっていう仕事も、俺はきちんとこなすつもりだ」
「わかってるわ」
「だが、何故だかは分からないが。ここにお前を連れて行った方がいい、そういう気がしている。お前の記憶の手がかりがあるのかもしれないと、俺は考えている」
「どういうこと? ……意味が分からないわ」
雨の下、シエルの髪が濡れていく。
「俺も自分で言ってて、意味が分からない。だが……あの葉巻に俺は見覚えがある」
「葉巻? 」
俺は、車の中を指さした。灰皿に沈んでいる吸いさしの葉巻。その切り口が、やけに斜めに切られているのだ。
「特徴的な切り方だ。そして、俺はそんな切り方をする人間を、一人しか知らない」
「その人が私に関係があるってこと……なの? 」
「分からない」
だが、俺はその切り方を目撃したことがある。20年前、サイモン・ガーフレックス邸で。
そう、俺の妻殺しに関連する記憶の中に、だ。だとするならば、シエルの記憶の手がかりもあるに違いない。彼女もまた、妻殺しに関わる人間なのだから。
だが、分からないことは他にもある。何故
不明なことだらけだ。
「行くか? 」
「そうしない理由がないわ」
屋敷の軒先にある雨樋から溢れた水が、扉の下をびちゃびちゃに濡らしていた。わずかだが隙間が空いており、そこから屋敷の玄関へと雨水が侵入している。
俺は隙間に手鏡を差し込んで、中の様子をうかがった。真っ暗闇だ。だがそれならそれで好都合である。普通暗闇の中では、人は明かりをつける。その光が無いということは、恐らく玄関ホールにはもう誰もいない。皆、奥へと進んだのだろう
慎重にドアを引き、体を中へと滑り込ませる。暗闇は俺たちの体を瞬く間に吞み込んだ。
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