#15 ガーフレックス邸
× × ×
「それっていつの話なの? 」
シエルが、前髪を指の先で弄びながら言う。そういえばこの灰色の髪は、どこの国、あるいは民族の血が作り出したものだろう。
細い毛髪だ。明るいところでは白くも見えるし、こうして薄暗い店内にいれば、黒くも見える。だが、最も美しく見えるのは、月光の下だろう。昨夜見た、屋根を渡っていく彼女の髪の色は、鮮明に記憶に焼き付いている。
妻殺しの女と同じだった、と――。
「聞いてる? 」
「確か、今から20年ほど前のことだ」
「なら私はまだ生まれてないってことね」
「そういうことになる」
そう、生まれていない。
シエルが妻殺しの犯人であるはずがない。
「どこまで話した? 俺は」
「ヨハンが行方不明だ、と伝えたところまで」
× × ×
ヨハンの父と兄は、二人とも無言で俺を見つめていた。困惑しているというのが、その表情からありありと伝わってくる。
「
俺はその二人に、自分が知っている限りの情報を開示することを決めていた。彼らは一刻も早くヨハンに会いたいはずだ。そして、それは俺も、ハンスもパトリックもチャールズも変わらない。隠すべきことなど何もない。
「ですが、大抵の場合それは敵前逃亡が原因です。その場合、捕虜にもならず、戦死者としてもカウントはされませんから。ですが、ヨハンがそうであるとは考えられない」
「当たり前だ。あの子はそんな腰抜けじゃない」
「親父」
敵前逃亡、と言う言葉に反応して、ポートが初めて語気を荒げた。それをロジャーがたしなめた。
「もちろん、ヨハンは勇敢な男でした。それは、同じ部隊にいた私が保証します」
「そうだろう」
「親父は気にせず、続けてください」
ロジャーが苦笑いを浮かべ、続きを促した。話の内容はとても笑えるものではないのだが、少し空気が和らいだ。
しかし、続きなどは無かった。
「これが、今分かっている全てです」
空気が凍り付く。しばらくの間、誰も何も言葉を発しなかった。
「どういうことだ! 」
その沈黙を破ったのはポートだった。
俺も、そう言いたかった。どういうことだ、と。何が起き、彼がいなくなってしまったのか、と問い質したかった。だが、一体誰に問えばいいというのだ。
「親父、この人が悪いんじゃない」
ロジャーが、今にも俺の胸倉を掴もうとしているポートの肩を抑え込んだ。だが、彼の心中にも簡単ではない感情が渦巻いているのだという事は、彼の額ににじむ汗を一目見れば明らかだった。
「お怒りになるのも、無理はありません。私だってそうするに違いない。ですが、信じてください。私も、もう一度ヨハンに会いたいということを。彼には何度も命を救ってもらいました。彼がいなければ、私は今ここにはいない」
返しきれない程の恩を、俺はヨハンに対して感じていた。塹壕で、銃弾の飛び交う戦場で、あるいは夜襲に怯える野営地で、俺はどれだけ彼に支えられただろう。彼の的確な判断が無ければ、俺は死んでいた。
「どうするつもりなのですか? 」
ロジャーが、感情を抑えた声で尋ねた。
「一つ、今の話の中で辻褄が合わないことがあります」
俺は、先ほどから机の上に広げられたままの、手紙を見た。ポートとロジャーも、同じように俺の視線の先を見つめる。
「ガーフレックス公からの手紙には、何故、捕虜になったという偽りの情報が書かれていたのでしょうか。これを確かめないわけにはいきません」
× × ×
「やっとこれで、ガーなんちゃらに会いに行くわけね」
「待ちくたびれたか? 」
「ううん。全然。手に汗握る冒険って感じ」
確かに、彼女は身を乗り出して俺の話に耳を傾けていた。
だがその一方で俺はここから先の話をどういった形で続けていけばよいのか迷っていた。
シエルが彼を殺害したのなら、ここから先の話をすることが、どういった事態を引き起こすのか皆目見当がつかない。もしも昨日の深夜のように彼女が叫び出すようなことになれば、この店には二度と来ることができなくなる。
――いや、そんなことはどうだっていい。
俺が気にしなければならないのは、その後だ。シエルが叫んだあとで何が起きたのかを、俺は知らない。気が付けば俺はベッドの中にいた。
予測できないことは避けるべきだ。
だが、逆も考えられる。もし仮にシエルが錯乱したとして、そこから何か情報を得ることができるかもしれない。現状では、シエルの記憶の手がかりは何もない。
それは一種の賭けだ。
そして、俺は賭けをしない。
だが、それは昨日までの話だ。
× × ×
「ガーフレックス殿下は、今どちらにいらっしゃいますか」
門前の衛兵は、俺の顔を胡乱げな目で見つめていた。それは貴族の目だった。この男自体は、なんの地位もないのに、自分が貴族になった気でいる。
「事前にご約束などは」
「ありませんが、」
「では、こちらをお通しするわけには参りません」
定型句で俺を追い返すつもりなのだろう。
「私は新聞社の者です。実は、所領で反乱の動きがあるというお話を伺いまして、是非殿下からお話を伺いたいと」
戦争が終わり、疲弊した国民の間から貴族に対する反発が生まれ始めていたのは本当だった。ガーフレックス領でそう言った話があるのかは知らない。だが、衛兵程度は欺けるはずだ。衛兵は一度扉を閉め、邸内へと入り、再び戻ってくると、俺を中へ招き入れた。
入り口こそ大理石の床だったが、邸内の装飾は華美とは正反対の代物だった。これほど簡素な貴族の屋敷も珍しい。
固定観念に従えば、貴族は派手を好み、華美なものに囲まれている、と思われがちではあるが、ガーフレックス邸はそういった考えとは正反対である。
執事らしき男に案内され、廊下の最奥の部屋の前に立つ。分厚い木の扉に、真鍮製のドアノブが取り付けられている。鷲の家紋が彫られているそれを執事は握り、逆の手でドアを軽く叩いた。
「どうぞ」
深みのある男の声が聞こえた。
「失礼します」
執事の横を通り過ぎ、中へ入る。それほど大きな部屋ではない。壁には一面書棚が設けられており、多くの本が所狭しと並べられている。それ以外にも、多くの書籍や書類の束が、床や執務机の上にも重なっていた。余程忙しいのだろう。
俺が室内を見回していると、書類の山の影から、一人の男が立ち上がり近づいてきた。
この部屋、そしてこの土地の主である男は、そうして俺に向かって手を出し、握手を求めた。
「サイモン・ガーフレックスです。散らかっていて申し訳ない。小さな屋敷で、ここが応接室兼、書斎、ということになっている。くつろぐ、と言うのは難しいだろうが、まぁ適当に座ってください」
言われるがまま、俺は半ば埋もれかけのソファに腰を落とす。対面に、サイモンが座った。仕事のできそうな男、というのが第一印象だった。短い髪の下には、溌溂とした表情があり、全身からは力強いオーラが放たれている。まだ30代と聞いていた。俺よりは少し年上だが、貴族家の当主としては相当に若い。
「ヨハン・バーミンガムという兵士について、お尋ねしたいことがあって参りました」
俺は単刀直入に質問を切り出した。
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