#13 BLTサンド
香辛料の匂いで目を覚ます。顔をあげると、そこは殺風景な部屋だった。だが見覚えがないわけではない。貧民街の裏手にあるシエルの部屋だとすぐに気が付く。窓の外からは大した景色は見えないが、明るさで日が昇っていることが分かった。
匂いの出どころは、おそらく隣家だろう。窓から匂いが入ってくる。どうやら異国の料理を作っているようだ。
俺は身を起こそうとして、隣に誰かが同じようにして眠っている事に気が付いた。
「おい」
「……ん」
「おい、何してる」
「……え、ん、んん?」
隣に寝ていた女、シエル、が慌てて身を起こした。薄いブラウスと、簡素な下着姿である。
「あれ、え? 」
彼女は顔を上げ、寝ぼけ眼をこすって見せる。そして再び瞼を上げると、あたりを確認し、最後に俺を、その灰色の瞳で見上げた。
「なんで、あなたがここにいるの? 」
「それは俺が聞きたい。いや、そんなことはどうだっていい」
俺の頭も、シエルに劣らず混乱しているようだ。
昨日の記憶の最後の断片を思い出す。俺は確か、貴族街の近くで警察に囲まれていたはずではなかったか。そして、シエルは怪我をしていたような、そんな記憶がある。
俺は彼女の体を見る。記憶の中の彼女は腕から血を滴らせていたように見えた。だが、そんな様子はどこにもない。それどころか傷一つない。昨夜、この部屋の外で「おやすみなさい」、という言葉を交わした時と何一つ変わっていない。
「何じろじろみているのよ」
シエルが俺の目を睨みつけて言った。
「怪我は無いのか? 」
「怪我? 」
「ああ、お前は怪我をして。そう……夜、深夜になったくらいの時間に、お前は部屋を出て」
「何言ってるの? 」
シエルが、心から心配するような目で俺を見上げている。その灰色の目の底には、偽りなど一つもない。
あれは、夢だったのか?
俺は、このベッドでうなされていただけなのか? だが、だとすれば俺は何故自分の部屋じゃなく、シエルの部屋にいるんだ? 何故彼女の隣で寝ているんだ?
「ねぇ」
シエルが、つ、と目を伏せた。
声色も、先ほどの勢いの良さが消え失せている。そして、彼女は女として至極まっとうなことを口にする。
「何か、したの? 」
だが、俺は彼女が意図したことが咄嗟には分からなかった。
「何か、ってなんだ」
俺がそう答えると、シエルは、白い頬をわずかに朱に染める。そして、
「何でもないわ」
と言うと、おもむろに俺の体を押し、
「いつまでそうしているのよ、出て行ってくれないかしら」
と、布団の外へとはじき出した。
× × ×
「17人目の犠牲者」
俺は、コーヒーを飲みながら、目の前に開いた朝刊の見出しを声に出して読んだ。
「なにそれ」
シエルが、どうでもよさそうに言った。
彼女の前には、砂糖とミルクが大量に入ったカフェオレが置かれている。元々かなり甘い味付けをされているそれに、さらに彼女は角砂糖をいくつも投入していた。
「今この街をにぎわせている事件、てことになるな」
「そうなの? 貧民街じゃ、もっと簡単に人が死ぬって聞いたけど」
言ったやつの顔はすぐに浮かんだ。プリステスだろう。
「貧民街は比較に入れるべきじゃない」
俺は新聞を折りたたむ。
「そういうものなのかしら」
「そういうものさ。だが、命の価値についてお前と討論するつもりはない。そんなのは趣味じゃない」
「私も、多分。趣味じゃない、と思う」
シエルは、どこか頼りなさげにそうつぶやいた。記憶がないから、確信が持てないのだろう。だが、俺に合わせようとしてくれていることは分かった。
「何か、食べるか」
「じゃぁ、おいしい物を食べたい」
「それは難しい注文だ」
俺は手を上げ、ウェイトレスを呼んだ。
喫茶店『
いくらプリステスからの仕事を受けたとはいえ、
「何に致しましょうか」
すぐに、ウェイトレスがやってきた。
「BLTサンドと、それからピクルスを」
メニューを見ずに、それを注文する。
「かしこまりました」
「何、それ」
ウェイトレスが立ち去ると、シエルが俺に尋ねてきた。
「知らないのか? 」
言ってから、愚問だったことに気が付く。
「ええ、きっと知らない」
予想通り、彼女はそういった。そうだ、彼女はほとんど何も知らないのだ。どういった記憶の選別がなされているのかは分からないが、基本的な知識、例えば赤色がどんな色をしているのか、や、砂糖が何か、ということは分かっているようだが、固有名詞になると、途端に分からないものが増えてくる。
「そうか。まぁ知らないことは悪いことじゃない。それに、そういうところは少し、俺にはうらやましい」
「うらやましい? 何故? 」
「BLTサンドもピクルスも、俺は小さなころからよく食べてきた。旨いと思うし、注文を決められない時は、いつもそれを頼むことにしている」
「好きなのね」
「ああ。だが、こう言っちゃなんだが、それがどんな味なのか、俺にははっきりと分からない。旨いとは思うが、何度も食べ過ぎたんだ。もしかしたら、そう思う気持ちの半分以上は、習慣が俺に見せる幻なんじゃないか、と思ってしまうほどだ。その点、お前は違う。初めてそれを食べる。旨いも、不味いも、今感じることができる。俺にはそれが少しうらやましい」
「おかしなことを言うのね。私にはそうは思えないわ。私は記憶を取り戻したい。何もかも、自分が知らないことだらけ、初めて目にするものだらけ、っていうのは気分が悪いわ。自分がまるで子供になったみたいな気がする。ううん、子供なのかもしれない」
「十代は十分子供さ」
「そういう意味じゃないの。それに、あなたも私の記憶を取り戻したいんでしょう? 何故なのか私には分からないし、教えてくれる気もなさそうだけど」
シエルが付け加えた。
そうだ、確かに俺は彼女の記憶に用がある。だが、昨夜見た光景を思い出し、俺は自分の気持ちが確かに揺らぐのを感じていた。
BLTサンドとピクルスが運ばれてくる。
俺の見ている前で、彼女はおずおずとそれに手を伸ばし、口をつける。
一口、かじる。
そして、目を大きく見開く。
「おいしい」
「なら、よかった」
俺はその顔に、しかし昨日の、あの逆光の中で見た顔を無意識に重ねている。絶叫する彼女の双眸を、俺はそこに見てしまう。俺はどうしても、そのまま彼女を見ていられなくなって、新聞を持ち上げ、顔の前に広げ彼女の顔を視界から隠した。
記事の内容は、簡潔だった。
連続殺人事件の概要、そして17人目の被害者、サイモン・ガーフレックス公の簡単な紹介を挟み、殺人事件に未だ有効な手を打てていない政府や警察への批判が記されている。その記事に記された場所、また現場の写真を見て、俺は昨夜の出来事が本当に起きた事なのだと確信した。
写真は、俺が深夜に走った大通りを写したものだった。最終的に俺とシエルが追い詰められた場所と、サイモン・ガーフレックス邸は現在でも立ち入り禁止となっているそうだが、その写真だけで十分だった。
一体、俺はどうやってあそこから脱出出来たのだろう。それに、なぜシエルがあそこにいたのかも分からない。
いや――。
わからない、と言うのはあまりにも都合が良過ぎる考えだ。状況から考えても、彼女がこの事件に無関係とは考えられない。
シエルがサイモン・ガーフレックスを殺害した可能性は低くない。たった一人で警備の多い貴族の屋敷にどうやって忍び込んだのかは分からないが、そう考えなければ彼女があの場にいたことの説明がつかない。
だが、不可解なことに、彼女は全くその記憶を持っていないようだ。昨日の夜、俺の訪れを受け入れ、少し話をして眠りについてから、今朝までの記憶が何一つ無いと言う。
それに、この連続殺人事件についても全く知らないようだ。プリステスの下で働いているのであれば、そういった情報は嫌でも入ってくるはずだというのに。
一体、この灰色の少女は誰なのだ。
シエル。苗字でもなく、名前でもない。自分で自分をそう名付けたこの少女は、一体どんな過去を持っているのだろう。
俺は、新聞をわずかに下ろし、彼女の顔を盗み見た。
シエルはピクルスをつまみ上げ、その匂いを嗅いでいる。ああ、そういえば、俺も小さなころはピクルスの匂いが嫌いだった。シエルも、ピクルスを鼻から遠ざけて、眉を寄せている。
そんなところは、ただの少女にしか見えないというのに。
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