#12 悲鳴
蘇ってくる記憶に、意識が持っていかれそうになる。それほどに、この場所には記憶がしみついている。
それを慌ててはがし、俺は再び前を見た。
霧はまだ晴れない。俺はその中を再び走り出した。両側の家の壁に、足音が反響して俺が何人もいるんじゃないか、と思ってしまうほどだ。
街路樹の間を抜けると、ようやく広い通りに出た。ここをまっすぐに行けば、中心街の、さらにその中心にある貴族街に出る。
そこがシエルの目的地だと俺は判断していた。彼女の目的地がこの街のどこかにあるのだとすれば、という注釈はつくが。
しかし、大通りに出れば、シエルを追いかけるだけと言うわけにはいかない。霧の中が突如明るくなる。前方から二つの光が、こちらに回り込んで来ようとしていた。
警察車両だ。
夜間外出禁止なのは、あくまでも市民だけである。それを取り締まる警察は、こうして夜中の間もパトロールを絶やさないのだ。俺はすぐさま物陰に隠れた。
石畳の街路がタイヤを削る低い音が横を通り過ぎていく。幸いなことに気が付かれなかったようだが、油断はできない。物音を殺して立ち上がり、すぐにその場から移動する。あたりは再び暗くなった。
だが、それからしばらくして異変が起きた。貴族街の、数ブロック手前に差し掛かったあたりだった。
張り裂けるような犬の遠吠えが遥か前方、貴族街の方向から聞こえてきたのだ。誰も出歩かないはずのこの時間に番犬が吠えるのなら、そこにいるのは戒厳令を守らない不届き者だ。
そうでない可能性もある。まったく別の人間かもしれない。
だが俺にはどうしても、それがシエルではないとは思えなかった。
俺は夜の街を疾駆する。
警察車両が、背後で方向転換するのが分かった。この霧だ。車もそれほど速度は出せない。俺はもう足音など気にしなかった。
背後からは2つの光が迫ってくる。遠吠えは一度きりで、もう聞こえない。番犬にはほとんどの場合二度目は無い。一度吠えれば、殺されるからだ。だが、無音になったわけではない。今度は自分の鼓動が鼓膜を何度も何度も叩いていた。
口が乾く。
背後からの白い光は、なかなか近づいては来ない。
胸が痛い。息がもう持たない。だが、それでも俺は走り続けた。
ここでシエルが捕まれば、全てが闇の中に消えてしまう。彼女が何者なのかも、妻が誰に殺されたのかも、わからないままに終わる、そんな予感があった。それが俺の足を必死に駆けさせた。
と、突如前方からも眩い白い光が迸った。警察車両か、それ以外の何物かは分からないが、どうやら俺を挟むように、大通りの正面と、背後から光が照らされている。逃げる方法など一つも思いつかない。背後の車が近づいてくる。俺の立つ場所から前後数メートルが、昼のような明るさに包まれている。万事休すだ。
だが、俺の意識はそこには無かった。
俺と前方の光源の間に人影が見えたからだ。
光が強すぎて、輪郭がぼやけているが、だらり、と垂れた肘を片手で抑えるように抱いているのが見えた。そして、その力の抜けた腕の先からは、何か液体のようなものが滴り、地面を濡らしている。
血液に見えなくもないが、そうとは断言できないのは、光があまりにも明るすぎて、色と言う色を弾き飛ばしているからだ。
俺は目を細め、その顔の輪郭を必死でたどる。期待したのは、それがシエルでないことだ。ここで彼女が捕まってしまうのは何としても避けたい。
細い脚、細い腰、そして薄い胸。そこまではシエルの特徴と一致する。だが首から上が、どうしてもはっきりと見通せない。こちらを向いているのかも、そうでないのかもわからない。
俺は、どうすべきかを迷った。
「動くな! 」
背後で警察車両が止まり、声を挙げながら警官が下りてきた。
俺は振り向かない。
そんなことは、今はどうだっていい。
目の前にいるのがシエルか、そうでないのか、それだけが知りたいことの全てだった。
「現在夜間の外出は禁止されている」
警官が近づいてくる。俺はそれでも、目を細めて目の前の影の輪郭をたどっていた。細い、作り物のような首が見え、形のいい締まった顎が見える。そこから、薄い唇の形が見える。鼻梁がすっと上に伸びている。ようやくそれが、横顔だと分かる。
そして、その目が俺を見た。
片方の、灰色の瞳が俺を見つめていた。
ありえないことだが、俺はこの距離からでも、その瞳の中に自分が映り込んでいるのが見えたような気がした。
「シエル」
俺は思わず声を出していた。
「逃げろ」
そして、俺は背後の警官に肩をぶつけ、その反動を利用して、シエルへと駆け出す。もちろん彼女に近づくことが目的ではない。その先、彼女の背後にいる白い光源に向かってだ。
すこしでも時間を稼ぐことができるかもしれない、と俺は咄嗟に判断したのだ。自分がどうなるかなど、頭に浮かばなかった。なぜそこまでするのか、俺にもうまく説明はできない。だが、俺は真実が知りたいのだ。誰が妻を殺したのか。そして、何故そうなったのか、という理由を。それまでは、俺はシエルを守らなくてはならない。だから、俺は……。
「……だれ? アレ? わたし……? 何、ここ、どこ……誰? シエル?シエル?シエル? あぁ……あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――」
甲高い耳をつんざくような悲鳴が、突如響き渡った。
「ア;jふぉいqhwg@ヴぁmpさうgじぇりgん:@亜hgr「絵rp:亜jg:ぃうhrf」
そして、その後にはもう言葉にならない、音にすらならない怒号のような、哀願のような音の羅列が続いた。
それがどこから発せられたものなのかは、確かめるまでもなかった。俺は立ち止まっていた。俺だけじゃない、誰もが動きを止めた。
シエルは、両腕で肩を抱いていた。まるで、何かに怯えるように。孤独や、絶望や、心を蝕もうとするすべての物を拒絶するように、自分を守るように。
金切り声は、彼女の全身から振り絞るようにして発生されていた。どこにそれだけの声を出せる力があるのだろうか。彼女が膝をつき、体を支える糸が切れたように、崩れ落ちる。俺は、手の触れられそうなところから、それを黙ってみていた。
俺の記憶はそこで一度途切れている。そこで何が起きたのかを俺が知るのは、ずっと後のことになるのだった。
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