#8 顔
「簡単な仕事だよ」
「内容は」
俺はすぐさま聞き返した。
「それはあんたが受ける、と決めてからじゃなければ言うことはできないね」
だが、プリステスは俺の顔に煙草の煙を思い切り吹きかけ、文字通り俺の疑問を煙に巻いた。
「どうする? 受けるかい? 」
「何をするかも分からないのに、受けることはできない」
怪しすぎる。内容を言うことができない仕事など、碌なものであるはずがない。俺は、何とかプリステスからその内容を得ようと試みる。
「プリステス。明らかにこれは筋が通らない。今までも、あんたの依頼で怪しい仕事はしてきたが、受ける受けない、の前に内容は知らされていた。」
「筋、ねぇ。あんたがそれを言うとはね」
「さっきも言ったが、俺はあんたの元でいい働きをしてきたはずだろう」
しかし、プリステスはそれには頷かず、目を細めて俺を見た。それは、今日初めて彼女が見せる、笑顔ではない表情だった。
「あんた、今、あの蜘蛛野郎から仕事を受けてるんだろう」
文字通り、吐き捨てると言った口調で、プリステスが言った。
一瞬で、俺の背に冷汗が湧いて出た。蛇に睨まれた蛙、など比でもい。息がつまり、言葉が出て来なくなる。とてもじゃないが、言い返すことなどできない。
「それで、よくもいけしゃぁしゃぁと、私の前に顔を出せたね」
「どこで、それを」
言ってから、しかしそれが馬鹿な質問だったと、すぐに気が付く。俺の居場所をシエルに教えたのは、まぎれもなくこの女だ。だとしたら、何故俺がそこにいるのか、誰の依頼で何をしているのか、知らないはずがない。
「私を誰だと思ってるんだい?
そこで、やっと俺は自分の誤りを悟った。最初から、選択肢などなかったのだ。この女の頭の中に、ここまでの地図は、俺がこの店に入った瞬間には出来上がっていたのだ。俺はずっと、ただ掌の上で転がされていたのだ。だが、それを知ったところで、そこから出る方法など存在しない。
「受けてくれるかい? 」
プリステスもまた、俺がそれに気づいたことに、気づいたようだった。だが、そんなことをいちいち告げたりはしない。駆け引きは全てテーブルの下で行われる。気づけるかどうかは、役者次第。俺は差し詰め狂言回しにもなれないただの道化といったところだろう。
そして、そんな端役は物語の流れに身を任せるほかないのだ。
「引き受ける」
× × ×
「と言うわけだ。シエル」
「何が、と言うわけなのか、さっぱりわからないんだけれど」
ドアを開けたシエルは、俺を中に招き入れないまま、俺に説明させた。すぐに部屋に上がらせないというのは賢い判断だ、と俺はそれを評価したいが、俺の体は雨の下を歩いて来た為に、冷え切っていた。
「悪いが、上がらせてくれないか」
「何故? 」
「だから、今言ったようにだな。俺はお前と一緒に住むことになった。プリステスからの依頼で」
そう、それが彼女が出した、もう一つの選択肢だった。
「それが本当だという証拠が? 」
「ああ」
俺はポケットから鍵を取り出す。そして、それをドアノブに差し込んで見せた。本当なら、わざわざシエルを呼び出さなくても、この鍵で勝手に入ることはできた。そうしなかったのは、これからしばらく共に暮らす相手との間に、無用な諍いを起こしたくなかったからだ。
「プリステスからもらったのね。いいわ、入って」
「助かるよ」
部屋の中は、殺風景だった。家具と言えるようなものは、ベッドと小さな書き物机、それに小さな衣服を入れる棚しかない。一応申し訳程度の暖炉もあるが、火はついていなかった。部屋の明かりは、机の上のランプで賄っているようだ。
「寒くないのか」
俺は思わず、そう尋ねていた。
シエルは、黒のネグリジェしか身にまとっていないのだ。
「寒い? そうね……なら火を入れて」
「そうするよ」
暖炉には、薪は組んであった。俺はすぐにライターの火を近づける。薪は幸い乾いていて、炎はすぐに上がった。
「部屋はもう一つある。そっちを使ってくれて構わない」
「やけに物分かりがいいな」
普通なら、自分の部屋に他人が住むとなれば、もっと心理的な抵抗がありそうなものだ。しかも彼女は、まだ10代の少女である。一人で暮らしている、というだけでも十分に異常だ。まぁ、貧民街ならそれほど珍しいことでもないのだろう。
しかし、それにしても、あっさりと状況を受け入れているように見える。
「そうかしら」
言って顎に手をやり、しばらく考え込む。そして、
「まぁ、そうね。普通なら嫌なのかもしれないけれど、私もここに住み始めたばかりなの。まだこの部屋が、自分の部屋だって気がしない。だから、あなたが壁一枚隣で寝起きしたって、そういうもの、と受け入れられる気がする。それに、あなたも、この部屋も、プリステスのお墨付きでしょう、問題ないわ」
「やけにあの女を信頼しているんだな」
「信頼できる人よ、あの人は。取引で嘘はつかないんでしょう? 」
「ああ」
取引だけじゃない、他のどんなことでさえ、彼女は嘘をつかないし、嘘をつくやつを許さない。
「美学、と言うのかしらね。そういうものを持っている人は、好き……だと思う」
最後の言葉を、少し頼りなさそうにシエルは付け加えた。
確信が持てないのだろう。何を好み、何を嫌うのか。それは経験によって形作られる。記憶のない彼女にとって、それを口にすることは難しいことなのかもしれない。
「それじゃあ、私はもう寝るわ。隣の部屋にも、ベッドと暖炉はあるはずだから、あなたはそっちで寝て」
「分かった。何かあったら、遠慮なく起こしてくれ」
俺がそう言うと、シエルは不思議そうに俺を見た。ほとんど無表情な顔の中にあって、目だけが豊かな感情を表していた。
「それも、プリステスからの命令? 」
「命令じゃない。俺は誰の命令も受けたりしない。……取引の条件だ」
「それも美学ね。でも、私があなたを起こすことなんて、きっと無い」
「そうしてくれると助かる。ああ、それと」
俺は、暖炉の火を浴びて、半分だけ照らし出された彼女の顔を見つめた。
「何? 」
白い、透き通るような肌。まるで人形のような、整った造形。そして、灰色の髪と瞳。それはどう見ても、20年前に俺が見たあの顔だ。
妻が死んだ、あの夜に見た顔だ。
「何かついてるかしら? 」
再度尋ねられ、視線を逸らす。
「いや、何でもない」
「そう」
そして、踵を返し、俺は隣の部屋へと向かった。
背中ごしに、ぱちぱち、という薪が爆ぜる音と、
「おやすみなさい」
という、シエルの声が聞こえた。
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